2007-11-11

マグロ

両親の独特の言語センスによって私はマグロと名付けられた。例えば磯野家やフグ田家であればそれも特に不自然ではなかったのかもしれない。しかしながらこの世界は、長谷川町子ワールドとは一線を画する現実社会であり、マグロなどという名前の女性は皆無だった。

当然ながらこの名前に関する苦労は絶えない。あだ名は大体「魚」だとか「寿司」だとか「赤身」だとか「トロ」だとか「ビンチョウ」だとか「メバチ」だとか、はたまた「ツナ」だとか「シーチキン」だとか無駄バリエーションに富んでいた。

そして中学に入ると、私の名前は別の意味を持ち始めた。

「おい、マグロ。お前あっちの方もマグロなのかよ」

「あっちってどっちよ」

「こっちだよ」 そう言って男子生徒は腰を振る仕草をするのだった。

「じゃあ、試してみる」なんて返せる余裕が出たのは高校に入ってからだ。

初めての彼氏ができたのもその頃だった。しかし彼と初めてひとつになるとき「マグロはやっぱりマグロだった」と言わたくないあまり、私は経験がなかったにも関わらず無茶な動きをしまくったのである。そしてドン引きされた私は振られた挙句「マグロのくせにAV女優顔負けの腰使いだった」と吹聴されたのだった。

しかしそもそもマグロは泳ぎ続けていないと、酸素欠乏により死んでしまう魚である。動くことはむしろマグロの本能ではないか。私はことあるごとにマグロの生態を解説し、マグロという言葉に含まれる淫猥な誤解を解こうと腐心していた。

宮沢に出会ったのはその頃だった。宮沢の魚に関する知識は素人の私には及びもつかないほどだった。彼は初めて私の名前を聞いたとき満面の笑みでこう応えた。

「とても良い名前ですね。マグロ日本人が大好きな魚のひとつで、僕もマグロは大好きです」

屈託なく邪気の無い笑顔を浮かべる彼に私は惹かれ始めていた。彼はマグロに限らずすべての魚類を愛していた。魚の話を始めると彼は何時間でも話し続けた。そこまで愛されている魚に私は嫉妬さえ覚えていた。魚に対する積極性を人間女性にまったく見せない彼に業を煮やした私は自ら行動に出ることにした。

「宮沢さん、週末予定空いてますか。もし良ければ私とどこかに遊びに行きませんか」

「それでは水族館はどうでしょうか。実は品川に新しいすいぞ…」

「あの、私行きたいところがあるんです」

特に行きたい場所があるわけではなかったが、とにかく魚とは関係の無い場所に彼と出かけたかったのだ。

そして週末。私は自らの立てた中学生のようなデートコースを彼と歩いていった。映画館に行って食事をして買い物をして。しかし分かってはいたものの彼は魚以外の話題に関して驚くほど無知で、会話はぎこちなくあまり弾まなかった。

「あの、僕魚以外のことは全然分からなくて、実は女性の方とこうやってふたりで出かけるというのも初めてで、だから何を喋ってどうすればいいのか……」

魚のことを話す彼はいつも生き生きとして自信に満ちていた。そんな彼にこんな思いをさせてしまったことを私は後悔した。私は彼に言った。

「ねえ宮沢さん、マグロのこと好き?」

マグロは大好物ですよ。特にクロマグロの」

「じゃなくて、こっちのマグロ」 そう言って私は自分の顔を指差す。

「えっあっ、マグロさんのことですか、えっ」

戸惑う彼に私はさらに尋ねる。

「嫌いですか」

「えっいやっ、嫌いなんてとんでもない、好きですよ、あっ、いや、好きって言うのはあの、そういう好きではなくて、あれ、あの好きと言うか、良いなあと言うか、あれ、僕何言ってるんだろ」

それは30過ぎの男性が見せるにはあまりにも幼過ぎる反応だった。しかし私はそれで幻滅するどころか、よりいっそう彼が愛しくなった。

「宮沢さん」

「は、はひ」

「私は宮沢さんのことが好きです」

「えっ、あ、はい」

「私は魚に嫉妬します。魚ばかり見ている宮沢さんを見ていると胸が苦しくなります」

私は息をひとつ継いで続ける。

「いつもとは言いません。でも少しだけでいいから私のことも、人間マグロのことも見て下さい」

多分これくらいはっきり言わないと彼は分からない人なのだ。すべてを吐き出した私はじっと彼を見つめる。すると彼は決然とした表情でまっすぐ私を見つめ返してきた。

「僕もマグロさんのことをもっと知りたい」

予想外の力強い言葉に今度は私が気圧された。

「僕は」 私は彼の言葉を待った。

マグロさんの」 早く聞かせて。

「かっ、か、か…」 早く。

「貝類を観察したい!」

それはもちろん性的な意味も含んでいたが、宮沢にとって初めての愛の告白であった。それから1年あまり、今私の体には新しい命が宿っている。膨らみ始めたお腹に手を当て、私はこう心に誓うのだった。もしも娘が生まれたらアワビと名付けようと。

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