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     _/    _/_/      _/_/_/     地球史探訪:オランダ盛衰小史
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       _/  _/    _/  _/  _/_/                           17,204部 H11.11.27
 _/   _/   _/   _/  _/    _/  Japan On the Globe(115)  国際派日本人養成講座
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■1.大英帝国になり損ねたオランダ■

     地球史の上で、オランダは偉大な足跡を残しているのだが、
    それらのほとんどは大英帝国によって「上書き」され、消され
    てしまった。
    
     たとえば、オーストラリアはイギリスよりも1世紀前にオラ
    ンダが発見し、ニューホラントと命名している。ホラントはオ
    ランダの中心的な州で、日本語の「オランダ」の語源である。
  
     ニュージーランドの方は、もう一つの大州ゼーラント(英語
    では Seeland、海の土地)からとられたオランダ名がそのまま
    残ったものである。
  
     ニューアムステルダムと言われた都市もあった。今のニュー
    ヨークである。ハドソン湾として名を残しているイギリス人探
    検家ハドソンは、実はオランダの東インド会社の社員として、
    航海に出たのである。オランダは、現在のニューヨーク付近と
    デラウェア州以北の北米東北部を領有していた。[1,p155]
  
     その他、オランダは、アフリカ最南端の喜望峰から、セイロ
    ン、ジャカルタ、広東に植民地や通称拠点を置き、17世紀の
    世界貿易の中心を担っていた。長崎の出島はその終点なのであ
    る。
  
     これだけの勢力圏を築いたオランダが、その勢いを続けてい
    たら、英国などの出る幕はなく、南アフリカから、インド、イ
    ンドネシア、アメリカ、カナダ、オーストラリアなどを支配す
    る大蘭帝国が成立し、英語ではなくオランダ語が国際語となっ
    ていたであろう。
  
     なぜ、オランダはイギリスよりも先頭を走りながら、大英帝
    国になり損ねたのか? 世界貿易の中心を占めた経済大国が、
    なぜ急速に衰退したのか? オランダの盛衰の歴史は、現代の
    日本にとって他人事ではない。

■2.住むに値しない土地■

     オランダといえば、運河と風車の国というのが、大方の日本
    人のイメージであろう。しかしこの二つはのどかさどころか、
    苛烈な風土に対してオランダ人が続けてきた苦闘の象徴である。
    大著「オランダの興亡」の著者バーカーはオランダは「自然条
    件からいって人間が住むに値いしない土地」だと言う。
    
         紀元70年に、プリニウスはオランダの風土について書
        いている。それによると、オランダには大洋が日に二度進
        入してくる。いったいここは海の一部なのか陸の一部なの
        かわからないという感じがする。満潮の時は住民は砂丘の
        上の小屋に避難し、まるで潟に浮かんだ船の上にいるよう
        であり、引き潮となると難破船から脱出した水夫のように、
        そこから出てくる。[1,p40]
        
     オランダ人は長大な堤防を作ることによって、土地を確保し
    てきた。堤防が決壊すれば壊滅的な被害を受ける。13世紀の
    百年間だけで、35回の大洪水があり、数十万の生命が失われ
    たという。まさにその名の通りのNetherland(低地国)である。
    
     この海と河口の近くの低湿地帯という不利な条件を、オラン
    ダ人は運河をはりめぐらして、海運の発展の原動力とした。

     気候も苛烈である。北海からの身を切るような寒風が絶えず
    吹きつけている。オランダ人は何千という風車を作って、この
    寒風をエネルギー源に変え、排水用のみならず、製材、製粉、
    製紙の動力として活用した。

■3.勇気と自立精神■

         オランダの住民達はこの激しい環境を生き抜くために、
        質実剛健で意志が強く、勇気と自立精神に富み、そして神
        を畏れる人々となった。カエサルがガリア征服の時にかち
        えた大勝利のいくつかは、主としてオランダ人部隊の勇気
        と献身の賜だったのも驚くに値しない。[1,p43]
        
     オランダ人の勇気と自立精神は、その後の経済発展、スペイ
    ンからの独立戦争、そして海上帝国建設で、いかんなく発揮さ
    れることになる。
    
     オランダ人はやがて船を作って沖で漁獲を行い、それをライ
    ン川沿いに城を構える貴族などに売る交易を覚えた。14世紀に
    はにしんを樽につめて塩漬けにするという保存方法を発明し、
    大規模な引き網、大型船を考案して、北海の無尽蔵のにしんを
    捕獲・加工して、ヨーロッパ中に売るようになる。
    
     バルト海に進出したオランダ船に対して、ハンブルグなどが
    主導するハンザ同盟は、東欧、中欧、北欧の海上貿易の独占を
    武力で守ろうと、しばしば略奪を繰返した。抗議しても無駄だ
    と知るや、オランダ諸都市は艦隊を編成して戦いを挑み、1437
    年に、数々の海戦を行って、ハンザ同盟を打ち破った。
    
     この経験から、オランダ人は武力を持たない限り、自由な通
    商もできない事を学んだ。
    
■4.オレンジ公ウイリアム起つ■

     1555年、神聖ローマ帝国皇帝カール5世は老齢を理由に、そ
    の領土の内、スペインとオランダの統治権を子のフィリップ2
    世に譲ることを宣言した。当時のスペインは新大陸からの膨大
    な銀の流入で国力は絶頂期にあり、軍事力も世界最強を誇って
    いた。
    
     スペイン貴族とカソリック僧の間で、典型的な専制君主とし
    て育ったフィリップにとって、父祖の例にしたがって、オラン
    ダの諸都市と同格の立場で、権利や義務を交渉することは、我
    慢のならない屈辱であった。フィリップは、これらの新教徒た
    ちを法王の敵として根絶しようと考えるに至った。
      
     1568年、フィリップが派遣したアルバ公はオランダの全住民
    を異端として死刑にすると布告した。事ここに至って立ちあが
    ったのが、オレンジ公ウィリアムであった。カール5世時代か
    らの重臣ウィリアムは、ドイツの出身であったが、その妻がオ
    ランダ出身だった縁から、この地の人々に対して同情と理解を
    抱いていた。
    
     ウィリアムは先祖伝来の財産を売り払い、土地を抵当に入れ
    て得た資金で兵を集めた。これがオランダの80年にわたる独
    立戦争の始まりであった。

■5.世界最初の自由民権宣言■

     ウィリアムの志は、次のような言葉から窺える。

         もしわれわれがオランダで一つの町でも占領することが
        出来るとすれば、そこにローマン・カソリックの住民が尊
        敬され、保護される地区を作りたいと思う。暴力によって
        ではなく、優しい心と公正な扱いによって彼らの心をかち
        取りたいと思う。[1,p80]
        
     フィリップの新教徒弾圧に対して、ウィリアムは宗教的寛容
    に基づいた国つくりを目指したのである。さらに1581年、フィ
    リップへの忠誠廃棄宣言では、こう述べている。
    
         君主は、人民なしでは君主というものは存在しないので
        あるから、父が子にするように、牧人が羊にするように、
        正義と公正をもって人民を養い、保護し、統治するために
        あるものである。
        
         この原則に反して、その人民をあたかも奴隷のように統
        治しようとする者があれば、その者は専制者と見なされ、
        ・・・その者を拒否し、または廃位させることができる。
        [1,p123]
        
     これはアメリカの独立宣言やフランスの人権宣言より200
    年も早い、世界最初の自由民権宣言である。

■6.自由への戦い■

     こうして始まったウィリアムとオランダ人民による自由への
    戦いであったが、勇猛なスペイン軍に対してしばしば苦戦を強
    いられた。ナールデンという城塞都市は、スペイン軍に包囲さ
    れ、降伏を申し入れた。スペイン軍は街に入るや虐殺と略奪を
    行い、アルバ公はフィリップに対して、「すべての市民は喉を
    かき切られ、人の母から生まれた息子で生き残っている者はい
    ない」と報告した。
    
     こうした経験から、オランダの諸都市は決死の抵抗を行った。
    ハーレムの町の城壁はホラント州でも最も弱いと言われていた
    が、市民の一致団結した抗戦により、スペイン軍はこの町を陥
    とすのに、7ヶ月の時間と1万2千の兵を失った。
    
     ここから、さしものスペイン帝国もオランダの全都市を陥落
    させるだけの力はないのではないか、という希望がオランダ人
    に生まれ、抵抗の意思をますます堅くした。
    
     海上のオランダ船もスペイン艦隊の攻撃を受けたが、どのよ
    うな大敵でも応戦して、負ければ自沈した。「戦史は降伏する
    よりも自沈したオランダ船の記録に満ち」ている、とバーカー
    は記している。

     このような勇戦ぶりを見た英国は、オランダの要請に応えて、
    援軍を送る。スペインは英国征服を決意し、無敵艦隊を編成し
    て、オランダを攻撃している軍の精鋭6千を載せようとした。
    
     ところが、オランダ船150隻があらゆる水路を封鎖して、
    スペイン軍の移動を許さなかった。無敵艦隊がむなしく待って
    いる間に、英国艦隊が奇襲攻撃をしかけ、大損害を与えたので
    ある。バーカーは次のように述べる。
    
         オランダ人の決意と、これを実行する能力がなかったな
        らば、パルマ公(JOG注:当時のスペイン軍司令官)は英
        国を征服し、ローマ・カソリックは世界を征服していたか
        もしれない。かくしてオランダは英国、ひいては全世界の
        自由のために戦ったのである。[1,p138]

■7.卑怯な商人ども■

     こうして両国は運命共同体として、スペインとの80年戦争
    の大半をともに戦ってきたのだが、1648年にスペインとの講和
    が成立するや、わずか4年後には英蘭戦争が始まっている。
    なぜか?
    
     1584年、ウィリアムがスペインの刺客に暗殺されると、その
    子マウリッツ公が軍事指導者となる。マウリッツは父の志を受
    け継いだ名将であったが、まだ若く、政治的な実権はホラント
    州のブルジョワ政治家たちが握った。オランダ商人の利益を代
    表するこれらの政治家たちは、スペインとの戦争よりもオラン
    ダの商圏拡大に重きを置いた。
    
     スペインとの戦争中に、オランダは経済的躍進を遂げ、世界
    一の海上帝国を建設したのだが、それはオランダが金はかかる
    が利潤のない地上戦闘は同盟国の援助に頼り、もっぱら海上勢
    力を充実したからである。当時の重商主義者トーマス・マンは
    言う。
    
         オランダ人が東西両インドを征服し、その交易の果実を
        われわれからむしり取っている間、われわれはオランダの
        防衛のために血を流しているのである。[1,p219]
        
     自由貿易を信奉するオランダ商人のなかには、敵国スペイン
    に大量の武器弾薬を売って大儲けするものもいた。その一人ペ
    イラントは、逮捕されても「貿易は万人にとって自由でなけれ
    ばならず、戦争によって妨げられてはならない」と主張して、
    裁判で無罪を勝ち取った。この主張を「ペイラントの自由」と
    呼ぶ。[2,p337]
    
     当時のイギリス人は、何の良心の呵責もなく敵に武器弾薬を
    供給するオランダ商人に呆れはてたという。バーカーも次のよ
    うに述べる。
    
         英国人は繰り返し同じ疑問を持った。われわれのように
        強く勇敢な国民が貧乏していて、自分達のための戦いも金
        を払って他国民に戦ってもらっているような卑怯な商人ど
        もが世界の富を集めているのは、果たして正しいことなの
        であろうか?[1,p219]
    
■8.「ペイラントの自由」の信奉者たち■

     1651年、英国は、アジア、アフリカ、アメリカの産品は外国
    船(当時はほとんどオランダ船)で輸入されてはならない、な
    どと、オランダを狙い撃ちした航海条例を制定した。これをき
    っかけとして、翌年、第一次英蘭戦争が勃発する。

     ブルジョワ政治家たちは、戦争の危機を叫ぶと、軍事指導者
    モウリッツ公を利するという判断から、事態をわざと甘く見て、
    英国との戦争にはならないと主張した。英国を圧倒する造船能
    力を持ちながら、海軍増強には金を使おうとはしなかった。こ
    れら政治家も、私利私欲のためには国家全体の危機も省みない
    という、「ペイラントの自由」の信奉者であった。
    
     1665年の第二次英蘭戦争の前には、すでにオランダ船200
    隻が拿捕されていたにも関わらず、オランダ商人は英国に大量
    の軍艦用資材を売りつけて、倉庫を空にしていたという。これ
    また「ペイラントの自由」である。
        
     政敵を利すまいと国家の危機にも目をそむける政治家と、儲
    けのためには、敵国にも資材を売る商人たちと、国中に「ペイ
    ラントの自由」の信奉者がはびこっては、さしもの経済大国オ
    ランダにも勝ち目はなかった。
    
     英国は西アフリカや北アメリカのオランダ植民地を次々と奪
    取していった。ニュー・アムステルダムが、ニューヨークとな
    ったのも、この時である。これを契機にオランダの海上覇権も
    失われ、世界貿易の中心はアムステルダムからロンドンに移っ
    ていく。

■9.二つの自由■

        なぜ、オランダは繁栄したか、それは自由があったからだ。
    
     17世紀の最盛期に生きたスピノザの言葉である[2,p101]。
    オランダは、オレンジ公ウィリアムの私心なき自由への志を中
    心に結束して独立と自由を勝ち取り、繁栄を実現した。
    
     しかし、その後は「ペイラントの自由」を振りまわす商人や
    ブルジョワ政治家が、同盟国イギリスを怒らせ、国内の分裂抗
    争から、急速な衰退を招いた。

     「オレンジ公の自由」がオランダの独立と興隆を築き、「ペ
    イラントの自由」が分裂と衰退をもたらした。自由にもこの二
    つの種類があること、そして国家の命運はそれらに大きく左右
    されることをオランダの盛衰史は教えている。

     オランダは、その後、共和制から君主制に移行する。現在の
    王室はオレンジ公ウィリアムの子孫である。オレンジ家は代々
    ウィリアムの私心なき自由独立への志を継承し、国家に奉仕し
    てきた。その精神はまさに国民統合の象徴にふさわしい。

■参考■
1. 「繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える」、岡崎久彦、
   文春文庫、H11.1 
2. 「街道をゆく35 オランダ紀行」、司馬遼太郎、朝日新聞社
   H3.3

■リンク■
     本稿は、編集者伊勢雅臣がアムステルダム滞在中に書きまし
    た。旅行中の随想は、JOG Wingに掲示しました。
★No.0099 H11.11.29 阿蘭陀通信(1)利発な巨漢たちNo.0100 H11.12.01 同(2)美しい風景No.0101 H11.12.03 同(3)ヴェネツィアとオランダ
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
       「オランダ盛衰小史」について ZEROさんより

   「ペイラントの自由」という言葉、よく覚えておこうと思いま
  す。

   しかし、問題の根本は、国を危うくしたペイラントの行為に無
  罪判決を出した当時の裁判制度にあると思います。法的規制が無
  くなれば、商人たちが生き残るために国を売ってでも利潤追求に
  しのぎを削るのは当然といえるでしょう。

   今の日本の諸問題の根本のひとつにも、個人の人権最優先で、
  時間のやたらかかる裁判制度に問題があるように思えます。

   レンブラントの「夜警」を見ると、当時のオランダ市民の国を
  守ろうという気概が伝わってきます。しかし、そんな気概も、国
  を売る人間が無罪になるような制度のもとでは、だんだん萎えて
  きたかも知れませんね。

■ 編集長より
   なるほど、言われるとおり、「ペイラントの自由」を助長する
  ような法や裁判、さらには教育や報道など、社会システム全体の
  課題として捉えるべきですね。

© 1999 [伊勢雅臣]. All rights reserved.