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2007.11.10









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(b1面)フロントランナー
時代ゆすぶる前衛派の旗手
ファッションデザイナー
山本耀司さん(64)

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至福の時。パリ・コレクション08年春夏の新作ショーは満場の拍手で終わった=10月1日、パリで

 ショーが終わった。はにかんだような笑顔で観客に会釈すると、拍手から逃れるように小走りでバックステージに戻った。

 「ヨウジ、素晴らしかった」

 待ちかまえていた高級ファッション誌の編集長や著名なジャーナリストが、興奮さめやらぬ表情で賛辞を贈った。

 10月初旬、パリ。発表したのは08年春夏の新作だ。

 今回も観客の意表をついた。イブニングドレスを思わせるシルクのロングドレスに、武骨な作業着のような銀色のブルゾンを合わせたのだ。イブニングドレスは女性の優美さを際だたせるものという常識に、「異形のエレガンス」を突きつけた。

■    ■

 パリ・コレクションに参加して27年。ジャーナリストやバイヤーらの人気投票では近年、常に上位に入るが、それまでの道のりは平坦(へいたん)ではなかった。

 初参加した81年。穴が開いていたり、体のラインに関係なく動きによって形が変わったりする、無彩色の服を発表した。

 「それまで(体のフォルムに合わせる)構築的な服を作っていたので、壊したくなった」というその作品は、同じく初参加だった川久保玲氏のコムデギャルソンとともにパリのモード界を揺さぶった。ジャーナリズムは「原爆ルック」「ぼろ服」と書きたて、日本人デザイナー進出を「黄禍」にたとえる論調まで現れたほどだった。

 80年代後半、こうした「アンチ(反)モード」もまた、前衛的表現としてパリコレに受け入れられる。そうすると反骨精神が再び首をもたげた。「現状に異議申し立てをするのが表現者の役割。昨日やった仕事を否定し続ける」。今度は、自らの内なるタブーを壊し始めた。

 例えば、95年春夏は絞りや友禅の着物から着想したロングドレスを発表。「安易な日本回帰」と誤解されかねない企てにあえて挑んだ。97年春夏はシャネルやディオールなどオートクチュール(高級注文服)の名作のスタイルを採り入れつつ、デフォルメしたショーで観客を沸かせた。プレタポルテ(既製服)より上位とされるオートクチュールへの確執を作品に昇華させることに成功した瞬間だった。

 その軌跡を哲学者の鷲田清一氏は「ほつれ、ほころびを基調にしたエレガンスの表現という綱渡り。時代への反逆は、人生において大切なことを手放さない志の表れ」と読み解く。

■    ■

 日本に押し寄せる海外ブランドの波にあらがうように、ここ数年、ファッションビジネスでも日本のデザイナーブランドとして先駆的な試みを続ける。

 02年、アディダスとのブランド「Y―3」でエレガントなスポーツウエアという新しい領域を切り開いた。今年後半は新事業の発表が相次いだ。7月、宝飾品のミキモトと協力した高級ジュエリー「ストーミーウェザー」をパリで披露した。9月にはイタリアの衣料品会社にライセンスを供与したカジュアルウエアのブランド「カミングスーン」の立ち上げを発表。ともに全世界で販売される予定だ。

 欧米とは異なる、独自のブランドビジネスを確立できるか。新たな挑戦が始まった。

文・西岡一正
写真・大原広和




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パリのリュクサンブール公園で。服飾専門学校を卒業してパリに滞在したころから、ひとりになれる場所として好んで散策してきた

■反骨精神で現状を打破し続ける

 ――ジュエリーとライセンスブランドの新事業を発表。ビジネスでも疾走し始めましたね。

 山本 日本は欧米ブランドの攻勢にやられっぱなし。あまりに情けない状況なので、反撃を開始したところです。事業規模の拡大そのものには関心がないのですが、プレゼンス(存在感)は必要です。そこで、10月のアントワープ(ベルギー)に続いて、来年、ニューヨークとパリにも「ヨウジヤマモト」の旗艦店をオープンします。

 ――新ブランド名(ストーミーウェザー、カミングスーン)からは山本耀司というデザイナーとの関連が感じられません。

 山本 新しい試みです。アイデンティティーは名前じゃなく、ブランドそのものにあると考えるからです。服を見ればあのデザイナーの服とわかる。創業時からそれが理想でした。

■不完全な服

 ――怒りや反発、反骨精神が常に仕事の背景にあるようです。生来の気質ですか。

 山本 世の中がいかに不平等か、子どものころから感じていました。父は戦争末期、もう負けるとわかっていたはずの時期に応召して戦死した。残された母は、洋裁店を開いて女手一つで子どもを育てた。僕は5歳のころに「人生、大変だ」と気づいていた。

 ――そうした怒りや反発を、ショーではアイロニカルに、ユーモアを交えて表現している。

 山本 それは作家・坂口安吾から学んだ。悲劇より喜劇が数倍難しい。だから、笑ってもらえるショーを目指しています。

 ――ファッションデザイナーとしての出発点は「女性に男性的な服を着せたい」という思いでした。今も変わりませんか。

 山本 基本的には変わりませんが、女性が男性的な服を着るのは常識になってしまった。その分だけテーマが難解になってきた。次にどのように表現したいのか。僕のなかにイメージはあるけれど、言葉で説明するのが難しくなってきた。

 ――作品は非対称だったり、体を包み込んだりするもので、しばしば「不完全な服」と評されました。

 山本 僕の服づくりの基本は、服と体の間に空気が入ることです。間(ま)があることで、シルエットが変化し、布地の美しい動きができる。それが好きでこの仕事を続けている。黒い服が多いのも、黒が一番光を吸収するので、布地の動きを表現しやすいからです。

 ――洋装店の時代には注文服を作っていた。パリのオートクチュールに関心はありますか。

 山本 オートクチュールを支える優れたお針子さんたちを僕に貸してくれればな、と思うことはあります。ただ、僕はプレタポルテのほうが格段に難しいと思っています。オートクチュールは注文を受けて、寸法を測って何カ月もかけて仕上げる。プレタポルテは頼まれもしないのに服を作って、しかも売れるかどうかわからない。

■装いは文化

 ――「ファッションは文化」が持論ですね。

 山本 芸術で一番近いのは文学だと思う。僕はファッションを手段にして文学をやっているつもりです。言葉では表現できないことをやってきた自負があります。

 ――「文学的」なショーはパリコレでも少なくなっている。

 山本 現状を打破する実験を続けるデザイナーが減り、マーケティング的なショーが増えている。日本でもそうです。市場が口を開けて待っているような服づくりなんて、つまらない。

 ――日本ではさらにファッションに対する理解が低いと。

 山本 ファッションが、こういう文化だと言語化するのが難しい。日本語でやろうとすると漢語とか古文のボキャブラリーでないと表現できないニュアンスがありますから。

 ――一般消費者にはさらに難しい。

 山本 ある程度専門的に勉強した人でないと、市場に出回っている服のレベルがわからない。だから、消費者の選択基準はカワイイかどうか、好きか嫌いかだけになってしまう。ファッションは本来、いかに個性的であるか、自分自身であるかという、いわば精神活動に利用してもらうものなのに、みんなが同じものを持つことになってしまう。日本のファッションが抱えている不幸です。

 ――意外ですが、引退を考えたこともあるそうですね。

 山本 毎年2回、メンズも加えれば4回、時差と戦いながらパリコレで発表していくのは過酷な仕事です。50歳を過ぎたころから、まだ続けるのかという重圧感を感じ始めた。ここ数年は体調も崩し気味で一種のメランコリー状態でした。

 ――どうやって乗り越えたのですか。

 山本 一種の逆療法で、今回の新事業など仕事を一気に増やしたんです。幸い体調も回復し、数年中断していた空手の練習を再開しました。今はどこからでも来い、という感じです。



◆ 転機 ◆

■「女に男の服」常識破りで新境地開く

 文化服装学院デザイン科を優秀な成績で卒業した69年、パリに渡った。

 前年、若い世代の反乱が「5月革命」を引き起こした。熱気はファッション界にも及んだ。

 流行のスタイルを打ち出す既成の有名デザイナーに対して、若手は独自の手法で服を作り、デザインのアイデンティティーを競い合う。まるで「階級闘争」のような状況だった。

 混乱の中でデザイナーを志した青年は「自分が学んできたことは役に立たない」という絶望感を抱えて帰国する。

 展望もなく、母が経営する洋裁店を手伝った。注文されたイメージを顧客の体形に添わせて服に仕立てることで、カッティング技術などの訓練を積んだ。

 店は東京・新宿の歌舞伎町にあった。顧客には夜の歓楽街で働く女性も交じった。経営は順調だったが、やがて仕事が苦痛になった。「ほとんどが、男から見て可愛らしく、誘惑的に映る服を望んでいた」からだ。

 服とは何か。ふたたび絶望感にさいなまれながら模索した。

 「女が男っぽい服を着ればかっこういいのに」

 当時としては常識破りの発想で72年、プレタポルテの会社「ワイズ」を設立。「洋装店での恨みを晴らす」かのように、テーラードジャケットやトレンチコートといったマニッシュ(男性的)な女性服を作り始めた。

 当初はジャーナリズムの反応も冷淡だったという。だが、雑誌「アンアン」の創刊(70年)に象徴されるように、時代は新しいファッションを求めた。ワイズの服を扱う店は徐々に増え、会社設立から10年たらずで全国主要都市に広がった。

 「あの時期は僕にとって『失われた10年』。当時、どんな歌がはやっていたかも記憶にないほど、仕事に没頭していた」

 既存の価値への反発や、絶望感から反転するエネルギーを創造に結実させていった。後に「アンチモード」と呼ばれる「ヨウジヤマモト」の表現をとぎすました10年でもあった。



43年 東京都生まれ

69年 文化服装学院デザイン科卒業

72年 株式会社ワイズ設立

81年 パリ・コレクション初参加

84年 株式会社ヨウジヤマモト設立

05年 仏国家功労勲章「オフィシエ」受章

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93年、ドイツのバイロイト祝祭劇場でオペラの衣装を手がけた(ヨウジヤマモト提供)

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★音楽 ブルースなど黒人音楽を愛好。自らもギターを演奏し、CDも発表した。

★空手 十数年前から体力づくりのために始め、一時は自宅を道場にするほど熱中。現在2段。

★家族 娘の里美さん(33)もファッションデザイナー。10月、パリコレにデビューした。

★交友 ビム・ベンダースの映画製作に協力。坂本龍一のオペラ作品で衣装を担当。





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