2006年03月26日(日)
平成18年3月24日沖縄集団自決冤罪訴訟第3回口頭弁論 原告準備書面(2)要旨
平成18年3月24日 沖縄集団自決冤罪訴訟 第3回口頭弁論 原告準備書面(2)要旨

これは実際に 法廷で、 大村昌史弁護士、木地晴子弁護士 が読み上げ、朗読したものです。


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原告準備書面(2)要旨  
                                          
     弁護士徳永信一   弁護士 大村昌史   弁護士 木地晴子
                             
1 今回の準備書面では、本件訴訟の最大の争点である本件各書籍、すなわち家永三郎著「太平洋戦争」、岩波新書「沖縄問題二十年」、同じく岩波新書で被告大江健三郎が著した「沖縄ノート」に記述され、引用されている沖縄県慶良間列島で生じた集団自決が「軍命令で強制された」という神話、すなわち、座間味島の集団自決は梅澤隊長の命令によるものであり、渡嘉敷島の集団自決は赤松大尉の命令によるものであるという《隊長命令説》が果たして真実か否かという問題を扱っています。       
2 座間味島の守備隊長だった梅澤元少佐は、集団自決はなかったと明言しています。梅澤さんによれば、アメリカ軍の上陸を目前に控えた3月25日、軍の陣地を訪れた宮平盛秀助役ら5人が「いよいよ最後のときが来ました。老幼婦女子は、予ての決心のとおり、軍の足手纏にならぬ様、又食糧をのこすため自決します。」といい自決のための爆裂または手榴弾、実弾を求めたのに対し、「決して自決するでない。共に頑張りましょう」といい、毅然として断ったといいます。            
  にもかかわらず、沖縄タイムス社の『鉄の暴風』や座間味村が厚生省に提出した『座間味戦記』に梅澤隊長の命令が記載されたことから、長らくこれが歴史の通説となりました。しかし、やがて、真実が世に表れるときがきました。       
3 最初に真実を報じたのは、昭和60年7月30日付神戸新聞でした。「絶望の島民悲劇の決断」「日本軍の命令はなかった。」という大見出しの下、軍命令はなかったとする島民の証言を掲載し、座間味島の集団自決は「米軍上陸後、絶望のふちにたたされた島民
たちが、追い詰められて集団自決の道を選んだものとわかった」と報道しました。そこには軍陣地を訪ねた5人のうちの唯一の生き残りである宮城初枝の「梅澤少佐らは『最後まで生き残って軍とともに戦おう』と武器提供を断った」という証言が掲載されています。こうした動きのもと、「沖縄県史」の解説文で《梅澤命令説》を記述した沖縄史料編集所の大城将保主任専門員は、「紀要」に梅澤隊長の手記を掲載したうえ、梅澤命令説の根拠となった手記「血塗られた座間味島」を書いた宮城初枝が、「真相は梅澤氏の手記のとおりであると言明している」と記述し、実質的に県史を修正している。その後、昭和61年6月6日付神戸新聞は、「『沖縄県史』訂正へ」「部隊長の命令なかった」との見出しを掲げ、大城主任専門員の「宮城初枝さんからも何度か、話を聞いているが、『隊長命令説』はなかったというのが真相のようだ」というコメントを掲載しています。
 4 続く、昭和62年には、座間味村役場の宮村幸延元援護係が真実を証言した。遺族会の会長でもあった宮村幸延は、「集団自決は梅澤部隊長の命令ではなく、当時兵事主任兼村役場助役の宮里盛秀の命令で行われた。」とし、命令を発した宮里元助役の「弟である宮村幸延が遺族補償のためやむをえず隊長命令として申請した」ことを証した親書を梅澤さんに手渡したのです。昭和62年4月18日付神戸新聞は、「命令者は助役だった」「遺族補償得るため『隊長命』に」の見出しを上げ、宮村幸延の「米軍上陸時に、住民で組織する民間防衛隊の若者たちが避難壕を回り、自決を呼びかけた事実はあるが、軍からの命令はなかった。戦後も窮状をきわめた村を救いたい一心で、歴史を拡大解釈することにした。戦後初めて口を開いたが、これまで私自身の中で大きな葛藤があった」と苦しい胸のうちを吐露するコメントを掲載しました。   
 5 そして平成12年には、軍陣地を訪ねた5人の島民の唯一の生き残りであり、集団自決の語り部をつとめていた宮城初枝から手渡された手記をもとに、その長女宮城晴美が著述した『母が遺したもの』が発行されました。そこには、心ならずも梅澤命令説を認める発言をしてしまったこと、その虚偽を書いた手記を月刊誌『家の光』の懸賞論文に投稿し入賞したこと、梅澤命令説が独り歩きをはじめ、長く良心の呵責に苦しんでいたこと、最後に梅澤少佐に会って謝罪した経緯等が詳細に記載されていました。昭和32年4月、座間味村で実施された厚生省の調査で、「役場の職員や島の長老らとともに国の役人の前に座った母は、自らかたることはせず、投げかけられる質問の一つひとつに、『はい、いいえ』で答えた。そして厚生省の役人からの『住民は隊長命令で自決したと言っているが、そうか』という内容の問いに宮城初枝は『はい』と答えたという。」宮城晴美は、このときの証言などをもとに、厚生省に提出された『座間味戦記』がまとめられ、これを引用して作成した手記『血塗られた座間味島』が月刊誌『家の光』に掲載された経過を記述しています。そして、ついに昭和52年3月26日宮城初枝は、著者に対し、「悲劇の座間味島」で書いた集団自決命令は、梅澤隊長ではなかった。でもどうしても隊長の命令だとかかなければならなかった」と語ったのでした。その後、昭和65年12月、宮城初枝は梅澤さんとホテルのロビーで再開します。宮城初枝は、梅澤氏に「どうしてもはなしたいことがあります」といって役場職員ら5人で隊長の元に伺ったときの話をはじめ、「住民を玉砕させるようお願いに行きましたが、梅澤隊長にそのまま帰されました。命令したのは梅澤さんではありません」といい、「ほんとうですか」と大きく目を見開いた梅澤さんに「そうで」とはっきり答えると、梅澤さんは、その両手で宮城初枝の両手を強く握りしめ、周りの客の目もはばからずに「ありがとう」「ありがとう」と涙声で言い続け、やがて嗚咽し、「男泣き」に泣いたということでした。その後、宮城初枝から「援護法」の適用のためにやむをえず梅澤さんを悪者にしたことの経緯を告白された梅澤さんは「島の人を助けるためでしたら、私が悪者になるのはかまいません。私の家族に真実が伝われば十分です」といったといいます。梅澤さんは、「沖縄ノート」をはじめとする無責任な書物で描かれたような自らの生き残りのために村民に集団自決を命じた極悪非道の卑劣漢などではなく、戦後も島民のため、自ら犠牲を引き受ける「武士道精神」を発揮した「大和魂」の持ち主であり続けたのでした。 
 6 渡嘉敷島における集団自決が軍命令による強制であったとする《赤松大尉命令説》も『鉄の暴風』や『沖縄県史』に記述されたことで長らく通説とされてきましたが、座間味島の《梅澤命令説》と同じく虚偽であったことが明らかになっています。 
   赤松大尉を悪の権化のように書いた戦後ジャーナリズムの先鋒の一人であった大江健三郎の『沖縄ノート』は、赤松命令説を前提として「あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう」などと記述して赤松大尉を口を極めて誹謗していますが、これを読んで集団自決事件に興味をもった作家・曽野綾子が徹底した取材と史料分析をもとに昭和48年に著した『ある神話の背景』は、赤松命令説が全く証拠に基づかない虚構であることを白日の下にしました。  
 7 『ある神話の背景』のなかで、曽野綾子は、渡嘉敷島の自決命令について、その発令、伝達、受領の過程を追い、そのいずれも証拠を欠いた幻であることを見事に論証しています。発令者とされた赤松大尉はこれを明確に否定していますし、赤松大尉の傍らにあった副官の知念元少尉は『鉄の暴風』では、将校会議で集団自決が決定されたのをきいたとき「悲憤のあまり、慟哭した」と記述されているが、県史の手記でも「赤松隊長は、村民に自決者が生じたという報告を受けてはやまったことをしてくれた、と大変悲しんでいました。私は赤松の側近の一人ですから赤松隊長から私を素通りしていかなる下命も行われないはずです。集団自決の命令なんて私はきいたこともみたこともありません。」とこれを明白に否定しています。そして伝達者とされた安里喜順もこれを否定し、むしろ赤松大尉が「あんたらは非戦闘員だから、いきられる限り生きてくれ」といわれたことを証言しているのです。そして、赤松命令説を主張していた古波蔵村長は、自決命令をいつ誰から受け取ったかどうかについては曖昧な供述を繰り返すばかりで、軍命令の存在を明らかにすることがありませんでした。
   そしてまた、『ある神話の背景』は、赤松部隊からは、自決に失敗した渡嘉敷島民を救護するため、衛生兵が派遣されているという事実を明らかにしています。赤松大尉が自決命令を出したとすれば、衛生兵の派遣は全く説明のつかないことです。
渡嘉敷村資料館には今でも赤松大尉の恩賜の時計と浮田堅太郎軍医の聴診器が記念品として飾られています。この事実は、多くの島民が赤松命令説が虚偽だということを知っていることをあらわしているのだと思われます。
 8 『ある神話の背景』が発行された後、渡嘉敷島での赤松大尉の自決命令はなかったとの評価が定着しています。沖縄県史を編纂した沖縄史料編集所の大城将保主任専門員は、『沖縄戦を考える』のなかで、「赤松隊長以下元隊員たちの証言を付き合わせて自決命令はなかったこと、集団自決の実態がかなり誇大化されている点などを立証した。この事実関係については、今のところ曽野説をくつがえすだけの反証はできていない」としました。
9 そして座間味島の集団自決における《梅澤命令説》を事実として記載しているためこの訴訟の対象とした家永三郎著『太平洋戦争』は、初版本で渡嘉敷島での集団自決について赤松大尉命令説を記述していたのを、昭和61年の第2版の発行にあたり、赤松隊長の自決命令を含む渡嘉敷島の記載を完全に削除しました。このことは、著者家永三郎と岩波書店が赤松隊長の自決命令を虚偽であると認識していた何よりの証拠であります。
10 最後に集団自決に及んだ島民たちの心情について、島民たちの供述から拾った事実に触れておきたいと思います。
   沖縄県史第10巻には沢山の島民たちの手記ないし供述が収められています。
   座間味村慶良間の大城昌子は『自決から捕虜へ』のなかで、次のように述べています。
    「前々から、阿嘉島駐屯の野田隊長から、いざとなった時には玉砕するよう命令があったと聞いていましたが、その頃の部落民にそのような事は関係ありません。ただ、家族が顔を見合わせて早く死ななければ、とあせりの色を見せるだけで、考えることといえば、天皇陛下の事と死ぬ手段だけでした。命令なんてものは問題ではなかったわけです。
米軍の上陸後二時間程経った午後十時頃、追いつめられ一か所に集まった部落民は、家族単位で玉砕が決行されました。数時間前までだれ一人として想像もできなかった事が、 わずかの時間でやってのけられたのです。
私は父と一緒にお互いの首をしめあっている時に米軍に見つかり、捕虜となってしまいました。これまではどんなつらい事があっても、自分のすべてが天皇陛下のものであるという心の支えが、自決未遂のため、さらには捕虜になったため一度にくずれてしまい、天皇陛下への申し分けなさでどうすればいいのか全くわからず、最後の「忠誠」である「死」までうばわれてしまった米軍がにくらしくて、力があるなら、そして武器があるのならその場で殺してやりたい気持ちでいっぱいでした。
米軍にひきいられながら、道々、木にぶらさがって死んでいる人を見ると非常にうらやましく、英雄以上の神々しさを覚えました。それに対して、敵につれていかれる我が身を考えると情けなくて、りっぱに死んでいった人々の姿を見る度に自責にかられるため、しまいには、死人にしっとすら感じるようになり、見るのもいやになってしまいました。」
11 座間味村字座間味の宮里美恵子は『座間味の集団自決』のなかで集団自決の心理を次のように述べています。
「阿佐道の方に出てみると、艦砲射撃が激しいので、私達は伏せながら歩き続け、やっと忠魂碑前にたどりつきました。しかし、そこには私の家族の他に、校長先生とその奥さん、それに別の一家族いるだけで他にだれも見当たりません。死ににきたつもりのものが、人が少ないのと、まっ赤な火が近くを飛んで行くのとで不安を覚え、死ぬのがこわくなってきました。
ほんとに不思議なものです。『死』そのものは何もこわくないのです。けれども、自分たちだけ弾にあたって『死ぬ』という事と、みんな一緒に自ら手を下して『死ぬ』という事とは、言葉の上では同じ『死』を意味しても、気持ちの上では全く別のものでした。その気持ちはうまく言えません。
 ‥‥
私は校長先生に一緒に玉砕させてくれるようお願いしました。すると校長先生は快く引きうけてくれ、身支度を整えるよういいつけました。「天皇陛下バンザイ」をみんなで唱え、「死ぬ気持ちを惜しまないでりっぱに死んでいきましょう。」と言ってから、一人の年輩の女の先生が、だれかに当たるだろうとめくらめっぽうに手りゅう弾を投げつけました。その中の二コが一人の若い女の先生と女の子にあたり、先生は即死で、女の子は重傷を負いました。
12  渡嘉敷島での集団自決の当事者であり、目撃者であった渡嘉敷村阿波連の金城ナヘは、その供述録『集団自決とそのあと』の中で、敵米軍の侵攻という特殊状況下における人間の心理と集団自決の実際を如実に物語っています。
   大粒の雨が、私たちの行く手をさえぎっていましたが、今、目の前に浮いている山のような黒い軍艦から鬼畜の如き米兵が、とび出して来て、男は殺し、女は辱めると思うと、私は気も狂わんばかりに、渡嘉敷山へ、かけ登っていきました。 
   私たちが着いた時は、すでに渡嘉敷の人もいて、雑木林の中は、人いきれで、異様な雰囲気でした。上空には飛行機が飛び交い、こんな大勢の人なので、それと察知したのか、迫撃砲が、次第次第に、こちらに近づいてくるように、こだまする爆発音が、大きくなってきていました。
   村長の音どで天皇陛下万才を唱和し、最後に別れの歌だといって「君が代」をみんなで歌いました。自決はこの時始まったのです。 
   防衛隊の配った手榴弾を、私は、見様見まねで、発火させました。しかし、いくら、うったりたたいたりしてもいっこうに発火しない。渡嘉敷のグループでは、盛んにどかんどかんやっていました。
   とうとう、この若者は手榴弾を分解して粉をとり出し、皆に分けてパクパク食べてしまいました。私も火薬は大勢の人を殺すから、猛毒に違いないと思って食べたのですが、それもだめでした。私のそばで、若い娘が「渡嘉敷の人はみな死んだし、阿波連だけ生き残るのかー、殺してー」とわめいていました。 
   その時、私には「殺してー」という声には何か、そうだ、そうだと、早く私も殺してくれと呼びたくなるような共感の気持ちでした。
    意地のある男のいる世帯は早く死んだようでした。私はこの時になって、はじめて出征していった夫の顔を思い出しました。夫が居たら、ひと思いに死ねたのにと、誰か殺してくれる人は居ないものかと左右に目をやった‥‥。
13 集団自決命令の神話を流布し定着させたのは、なんだったのでしょうか。人間は、たとえば軍の命令など外部的な要因がなければ自決などするわけがないという平和な時代の安直な思い込みが原因ではないかと思っています。そして、この「軍命令による強制」という安直な図式は、かえって沖縄戦における集団自決の真実から目をそらせることになったのではないでしょうか。大江健三郎の「沖縄ノート」は、まさしく、「軍命令による強制」「残虐な日本軍」という安直な図式に安座し、いささかもこれを反省しようとしなかった戦後のありかたを象徴しているように思われます。    
  日本人が戦後の図式による呪縛から解かれ、真実と日本人の本来の姿に目覚めるためにも、この裁判を通じて沖縄戦の真実が明らかにされることを心から望んでいます。そして、日本人として、今一度、当時の誇り高き日本人の心について考えてみてほしいと思います。 
 

2006年3月26日 04時04分 | 記事へ |
ニックネーム:会長 南木隆治