精神療法、その最もアカデミックな形態である精神分析では「癒しhealing」などの語を用いることが少ない。精神分析は、ジグムント・フロイト(Freud,)が除反応の限界を克服したと信じたところから始まっている。除反応つまりカタルシス(通利)療法はヒステリーの治療法として登場したものであるが、それは素人くさい「お話し」による感情移入(悲惨な体験を人に話して泣く)と催眠術との混淆したものであった。そしてヒステリーを治療するという発想は、19世紀の半ばまで何とか政治的力を維持し続けてきた宗教的権威が内包してきた宗教的癒しや悪魔憑きなどの神秘体験を科学的に解明して、宗教の世俗的権威を叩き潰すという意図から始まっていた。つまり精神分析は素人的「お話し」と、いかがわしい「催眠術」と、中世的な「宗教的癒し」を放棄した「科学」を標榜して始まったものである。
精神分折(ないし力動的精神療法)は第2次大戦直後のアメリカで全盛期を迎えるが、その時期には一方で、この治療法の限界も明確になってきた。精神分析が頼りにした患者の「内的現実」(過去の人間関係、特に親との関係にまつわる心象)の「解釈」に代わって、クライアント(依頼人:患者は依頼人と呼ばれるようになった)と家族との会話という現実をそのまま観察の対象とし、そこに現れる歪みや短絡を、その場の「指示」によって修正する治療法(家族療法)が人気を集めるようになった。この頃、かつて精神分析が捨てた催眠術を拾って治療技法に組み込んだミルトン・エリクソン(Erickson,MH)が、精神分析に限界を感じた治療者たちの注目を集めた。エリクソンは、症状の持つ肯定的な意味(症状もまたその人の生に関して、一定の貢献をしているという事実)を見抜いて、症状という行動に代わる別の行動を指示することに長けており、それはあたかも戦闘指揮官が奇策を用いて敵を攻略するのに似ていたので、彼に強い影響を受けた治療者は戦略派と呼ばれた。家族療法は、これを簡略化したブリーフ(短期)療法を生み、これが現在最先端の治療法であるが、ここでは人間間相互作用から生じる人々の「ナラティブ(ストーリー、物語)」が大切にされる。彼らはまた、催眠を用いたイメージ誘導も多用する。第2次大戦後暫くしてからは、精神分析にとっての異端者であり、宗敦的なもの、神秘的なものの治療的効用を説いたカール・ユング(Jung,CG)が(彼のナチス擁護という過ちにもかかわらず)もてはやされるようにもなった。
今では精神分析によっていったん捨てられた「催眠術」と「お話し治療」が、洗練された形で精神療法の中に位置付けられている。しかし「宗教的癒し」は、相変わらず大方の精神療法家からは締め出されたままである。現代の多くの精神療法家は、自分たちの技法を「科学」と呼ぶことにためらいを感じているが、それでも彼らは自分たちの治療を「アート(技芸)」とか「テクニック(技法)」と呼び、自分たちを技術専門家と考えている。
一方、世間の悩む人々は、相変わらず超常的な能力や神秘的な体験や宗教的な力による救済を求めている。精神療法の―部は、これらに道を開いていて、その中には学としての体系を目指すもの(トランスパースナル療法やホリスティック心理学など)もあるが、中には前世療法や水晶療法など、神秘そのものに足を踏み入れたものもある。元来、この辺りは人々の迷妄と恐怖と宗教的悟りの蠢く、反科学の領域であり、今もそのパンドラの箱を開けると様々なエネルギーが噴き出てくる。
例えば、癒しと超常を求める心が営利の欲望と結びつくと、様々な組織の(といっても方法論はほぼ一定の)自己啓発セミナーが生まれる。同種の根から、これまた様々な宗教運動が生まれ、その多くはカルトとして悩める人たちに空想上の超常能力を付与し続けている。「癒し」という言葉の危うさは、このような状況から発するものである。それは「超常」という観念と結びつくと危険なものになる。それを避けてなお、癒しを求める世人に応えるための道はあるのだろうか。この点で、注目されるのはアディクション・アプローチである。アディクション(嗜癖)とはアルコールや薬物への耽溺、強迫的な摂食や窃盗癖など衝動コントロールの不全と呼ばれるものを指し、アディクション・アプローチとは、これのリカバリィ(回復)に関する様々な試みや概念の総称である。アプローチ(接近法)と呼んでテクニック(技法)と呼ばないのは、この中にセルフへルプ(自助)グループという方法論やスピリチュアル・グロウス(霊的成長)の概念が含まれるからである。共依存やアダルト・チルドレン(AC)などという用語・概念もここから生まれた。断酒を目的としたAA(アルコホリックス・アノニマス)に始まる自助・回復グループには「先生」も「グールー(導師)」も「専門家」もいない。営利活動でもない。そして回復グループのメンバーたちは、かつて人々が宗教に求めていた「霊的なもの」グループの中に求めている。
近代の市民たちは老若男女を問わず自らの価値に懐疑的になっていて、他者の承認や拍手ばかり求めている。拍手をもらうためなら、かなり危険で無理なことまでやってのける気になっている人がありふれているという点をさして、現代は「ナルシシスト(自己愛者)の時代」とも呼ばれる。
矛盾することだが、自己愛者は自己を愛していない。他者の評価ばかり気にしているから、自らの中に自己を承認し、愛する部分が育たない。それどころか、思いどおりに動かない自己に対して、「意志の力」という鞭を当て続け、その痛みが「耐え難い寂しさ」として感じられる。この痛切な感情は、感情鈍麻という心的防衛を経て、退屈感へと移行する。寂しくて退屈な人は、愛されたい対象の安全な代替物として食物やアルコールなどの嗜癖対象を選ぶ。真に愛されたい人からは拒絶されるかもしれないが、嗜癖対象なら安全だ。「冷蔵庫はしゃベらない」「酒瓶はあざけらない」。
要するに「意志の力」を信じ過ぎて、自己を思うままにしようと闘うと嗜癖する。その闘争の負けを認めて、限界ある自己を受け入れることが、嗜癖から離れるコツである。その辺のところを、断酒という素朴そのものの行為を通して示したのが、アルコホリックス・アノニマス(AA)のメンバーたちであった。
12ステップと呼ばれるAAの回復プログラムでは、最初の3ステップで、酒瓶(に託された「悪い自己」)との闘いに負けたことを認め(第1ステップ)、個人の(意志の)力を超えた力(ハイヤー・パワー)の存在を信じ(第2ステップ)、その配慮に身を委ねる決心をする(第3ステップ)ことになっている。これは要するに、自己との闘いの悪循環から降りることの勧めと、自己の力の有限性についての示唆と、無力であっても何とかなるさという励ましのことである。ハイヤー・パワーという言葉は、私たち東洋人にはわかり難く、カルト的な臭いさえするのだが、要するに「あるがまま」のあなたが、あなたを救うということである。
この素朴な呼びかけをする人(先を行く仲間)と、呼びかけられてやって来た人(新参者)との間に、上と下、強者と劣者の関係ではない関係が生まれるとき、新参者は今までとは違った人間関係の中に抱擁され、愛され、楽になる感覚を持つ。
先達と新参者との間には当然上下があるだろう、というのは誤解である。AAのような自助グループでは、先に来ていた者は、後から来る者によって助けられるのである。先達は自らの「回復物語」を聞き、共感する者たちを必要としているからである。
このAAというグループは実に面白い規範を備えていて、メンバーたちはそれを12トラディション(伝統)と呼んでいる。l2ステップとl2伝統を併せて、12&12という言い方もする。
12伝統ではAAは組織であってはならないとされている。リーダーや治療者がいてもいけないし、会費も取ってはならない。寄付を受けてもいけないし、まして金儲けに利用してはならないと定めている。そして何よりも肝要なのは、AAでは個人の名を出すことが禁じられている(anonimity<匿名>のルール)のである。AAメンバーの一人が挙げた功績は、すべてAAグループに帰せられる。AAメンバーたち(つまり自己愛者たち)は、個人の名誉と拍手を求めて正気を失ったのだから、個人の名の吃立は危険なのである。
これら12伝統の規範は、有能な個人のリーダーシップの下に、資金を集めて有効に運用し、金儲けをはかるという近代市民社会の論理の、「鏡像」であり「陰画」である。資本主義社会と呼ばれるこの社会の論理が、最も早く、徹底した形で世に浸透したアメリカだからこそ、その「毒消し」としてのAAも必要となったのであろう。AAは今や世界的に広がっているが、それは世界中がアメリカ的な社会になってしまったからである。今の世を覆う論理の毒消しであるとすれば、AAは20世紀のアメリカが後世に伝える遺産のうちの最大のものである。AAは宗教ではないが、かつて宗教が担っていた役割の一端を担いでいる。実際、アメリカのAAは、教会の地下室で開かれることが多い。全人的な自己、魂の部分を含む自己というものの認識は、役割人格の中に閉じ込められがちな近代市民たちに不足しがちな「心の栄養素」を与えているのである。ここで霊性というのは、その人が自己の生き方や命をどのように見ているかという考え方なり、自己を囲む世界の認識の仕方なりを指している。何を大切に生きるかという価値意識の問題もここに含まれる。例えばアルコール依存症に陥っている人々のほとんどは、精神的には正常範囲に収まるはずの人間たちなのであって、彼らを危地に追い込んだのは霊的な側面での歪みや未成長なのである。一杯のアルコール飲料を目の前にした男が、それを飲み干すか、断念するかを決定するのは、彼の精神状態ではない。彼の世界観であり、価値意識である。
霊的成長を目指す自助グループはカルトヘと移行する危険を常に抱えている。これに歯止めをかけているのは上に述べた12伝統である。グループにリーダーを持たないこと、グループの功績を個人のものとしないこと、個人の名の非顕在化(アノニミティの厳守)などは、これらがなければ神格化されたはずのビルを救った。そしてそれがAAに真の成長を与えた。12伝統がAAを救ったことについては証拠がある。薬物依存者を主な対象にしたシナノン(Synanon)グループでは、神格化した個人が族生し、数々の銅像や肖像面が崇められ、一部は明瞭にカルト化し、一時は犯罪の温床とさえ見られた。その流れの一部は有効な中間施設として生き残っているが、世間から危険視されることを恐れて発生源としてのシナノンを名乗らなくなっている。そのため薬物依存者たちは厳密に AAの伝統を守るNA(ナルコティクス・アノニマス)を必要とすることになったのである。
今日、AAの提案したところに従ってリカバリィ(回復)に努めているグループには多種多様なものがある。その対象は狭義の嗜癖の領域を越えて、ギャンブル癖、過食・拒食、嗜癖的セックスや人間関係(共依存)、そして機能しない家族の中で育った人々(アダルト・チルドレン)を襲う絶望感にまで及んでいる。ここでいうリカバリィとはディスカバリィ(自己発見)に引き続く霊的成長のことであり、その過程を称して「ヒーリング(癒し)」という。カルトにまつわる大事件の後で、この言葉のいかがわしさをあげつらうのはたやすいが、それが私たち現代人にとって持つ意味を過小に評価し、それをあざわらう人がいるとすれば、その人は、もう一人の自己愛人格者(自らを神としつつ、より上位の神を求め続ける人)に過ぎない。
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