重大なことがら (Grave Matters)
173. ことがらの重大さ (the gravity of a matter) は、教会の共通の教えと教会によって定められた規則に従って判断されるべきことであるが、重大なことがら (grave matters) の中で 客観的に(objectively)考えるべき ことは、至聖なる聖体の有効性と尊厳とを危険に陥れることである。すなわち(namely)、上記の 48−52、56、76−77、79、91−92、94、96、101−102、104、106、109、111、115、117、126、131−133、138、153、168 に明示されたことに抵触することがらはすべて重大である。
103. (…) ホスティアを御血に浸す授与の方法の選択はつねに保たれる。しかし、この方法を採用する場合には、使われるホスティアは薄すぎたり小さすぎたりしないようにすべきであり、拝領者は司祭から口でのみ聖体を受けるべきである。
この表現は "インティンクション(intinction)" とは何か? のアメリカの司祭(おそらく)の言葉に見受けられた "ものの見方" を思い起こさせます。「拝領者が自らの手でホスティアを御血に浸すこと (self-intinction) を許されない理由は、拝領者はキリストの御体と御血を、キリスト御自身から来るものとして、聖体授与の務めを任じられた者によって、受けなければ ならないからです。」
そして第104項が来ます。
104. 拝領者は自分でホスティアを御血に浸すことや、御血に浸されたホスティアを手で拝領することを許されてはならない(must be permitted)。
さて、以下は、《欧米人の実際の言語感覚はどのようなものか?》ということに関する検証-----のようなもの-----の第二弾です。
この記事は2004年の11月にオーストラリアはメルボルンに住む John Young という人によって書かれました。彼は「神学と哲学に関して書くカトリック・ライター」だということです。単なる自称でしょうか、わかりません。しかしとにかく彼が「欧米人」の一人であることは確かでしょう。
彼は Falsehood (うそ; 誤り; 虚偽) という見出しのもとに、
Self-intinction is another abuse.
(信者が自分の手でホスティアを御血に浸すことはもう一つの濫用です。)
と書いています。
この記事の筆者は『指針』を紹介して、
この文書は現在の規定と基準の有用なコレクションを含んでいます。幾つかのポイントは特にオーストラリアとニュージーランドに関連しています。
と言っています。私達もこれと同じように「幾つかのポイントは特に日本に関連しています」と言わなければならないのではないでしょうか?
またこの筆者は『指針』の内容を受けて "事柄" を列挙する中でこう言っています。
The practice of "self-intinction" (communicants dipping the Host in the chalice) is forbidden.
ここではローマの司祭である Fr. John Zuhlsdorf が書いています。
東方教会の信者達は両形態拝領の時小さなスプーンから舌の上に受けることを心に留めておいて下さい。また、「舌での」intinction による拝領も心に留めて下さい。何故ならそれが唯一の合法なやり方だからです。そしてもしあなたが self-intinction をしているなら (そしてあなたがミサを司式している司祭ではないなら) 、それは禁じられている (be forbidden) のでやめて(knock it off) ください。
また be forbidden です。私は皆さんに、『指針』第104項第一文について検索すると、また self-intiction について検索すると、しばしばこの be forbidden に出会う、と報告することができます。
ついでですから書きますが、この司祭はこんなことも言っています。
舌による聖体拝領はカトリック教会の規準のまま(remains the norm) です。しかしながら聖座は司教協議会(複数)にこの規準に例外を設けることを許可し、特定の環境のもとでの手による聖体拝領を許しました。
これは昔の記事じゃないです。今年の、2007年の記事です。
ここのフォーラムの人 (Our Lady's slave) はこう言っています。
No - no how no way .(ダメ。何がどうあろうとダメです。)
This is self intinction and is very definitely not permitted.
(それは self-intinction であって、許されていないことはとてもハッキリしています。)
ここのフォーラムの人 (Kayla) はこう言っています。
Self-intinction is a big no-no.
こう言っています。
カトリック教会の中で self-intinction は許されて (be allowed) いるか?
私は聖体拝領の場でしばしば、司祭がチボリウムとカリスを持っているところに信者が来て、チボリウムからホスティアを取り、それをカリスの中に浸すのを見ました。しかし、もしあなたがそうと知らなかったとしても、これは許されていることではありません。
答えは実際全く単純です。2004年の『指針 あながいの秘跡』第104項によれば、拝領者はホスティアを自分自身でカリスの中に浸すことも、浸されたホスティアを自分の手に受けることも許されていません(be not permitted)。
アメリカはメンフィス市の David Ancell という人の個人サイト。
2004年6月20日に『指針』のコピーを手に入れた彼は次のように書いています。
遂に、近くのカトリック書店で『あがないの秘跡』のコピーを手に入れた。まだ全部は読んでいないが、この文書からの重要な引用をいくつか見つけた。
1. 第107項は主の御血を聖水盤に注ぐ人達が聖座に保留された破門措置の対象であることを示唆している。
2. 第104項は私を長いことを悩ませてきた事柄について書かれている。そこにはハッキリと、self-intinction は禁止されている(is prohibited)(かつてある司祭が私に語ったことに反して)、手によって intinction を受けるのと同様に禁止されている、と書かれている。私はある近くの小教区教会で幾人かの人達が定期的にそれを行なっているのを知っている。第173項はこの実践を「重大な事柄 (grave matter)」とみなしている。
物事が進むまでもう少し時間がかかるだろう、この文書を「インプリメントする」ために「アメリカの司教達が集まる」までかかるだろう、という噂も聞いた。
聖座は言う:本指針は、教皇ヨハネ・パウロ二世の命により、教理省の協力を得て、典礼秘跡省によって準備され、2004年3月19日、聖ヨセフの祭日に同教皇により認可された。教皇は出版を 命じ、直ちに すべての関係者によって遵守されるよう 命じた。(強調は私)
以前にも言ったように、この指針が出たことは大きい。でも、私はこの指針の施行に関しては楽観的ではない。もし私達の司教達やバチカンが彼らが以前に書いたものを実行しさえしていれば、このようなものは全く必要ではなかっただろう。
考えなければならないことは二つあるのかな?
一つは、「彼らはこのようなことを『総則』や『指針』からだけ言っているのではなくて、あくまで彼らが所属している教区の規定に基づいて言っているのかも知れない。彼らが制限を受けているのは実際は地元教区の規則、地元の司教様によってだけかも知れない」ということ?
そしてもう一つは、「彼らの "ものの見方" は偏っているかも知れない」ということ?
どうなんでしょうか。
しかし私はここではそのようなところには踏み込まないことにします。「欧米人の通常の言葉の感覚とは?」-----この最初の目的に戻ります。
私としての一応の結論めいたものは・・・「彼らは欧米人として be permitted という言い方を目の前にしてもなお、私達日本人が日本語の『許されてはならない』という表現から普通に受け取るところの印象とほとんど同様の印象を、その言葉から受け取っているらしい」ということです。
結局、「彼らは欧米人として be permitted という言い方を目の前にしてもなお」、この言い方はとても「奇妙」と言われなければならないのではないかな。
聖座はこのように、私達の前でひとつひとつ番号をあげて示してくれました。この表記の仕方は何でしょうか? 私達は小学生ではありません。一冊の書物から重要だと思われる箇所を自分で見出すことができると自負している者達です。そんな者達を相手に聖座はやけに親切ではありませんか?
そしてもちろんこのリストの中に第104項があります。
「客観的に(objectively)考えるべきこと」と言っています。たとえばカリスが倒れて御血が床か祭壇の上に流れるということは、もしそのようなことが起これば誰の目にも客観的に観察されます。また、そういうことが起こり得る「潜在的危険」というものも、私達は人からの証言や報告を聞いたり、またそこからある程度私達の現実感覚(経験)と結びついた想像力や推察力を働かせたりすることができるので、ある程度は「客観的に予見」することができると言えるのではないでしょうか。