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2007-10-28 (Sun.)  言葉の揺れ幅

私は基本的に「議論に勝つ」などということに関心はない人間です。こう考えます、
「〈私〉や〈あなた〉が議論の中で勝つことには関心がありません。勝たなければならないのは真理です。この地上でただ真理が勝つこと。それだけが目的です。」

それで、私は再び、或るブログでの或る人のコメントをここに引用して、それに若干の検証じみた1 ことを加えますが、これを私が議論に勝ちたいためだとか、自分と違った見解をもっている人を "やり込めたい" からだというふうにはチッとも受け取らないで頂きたいと思います。ただ私は「正確なところ」を知りたいだけに過ぎません。

1.「じみた」と私が入れたくなるのは、これがそんなに立派なものではないからです。

繰り返します。私は本当にいい加減 "しつっこい" ですが(それは本当に自分でもそう思います... )、すべては「真実のところを "正確に" 知りたい」という性癖のなせる業なのです。(病気)


さて...
ブログ『頬白親父の一筆啓上』さんの10月2日コメント欄 において(うわぁ、オレ、まだそこに貼り付いてるのかぁ?... 一人で... ^^;; )、"在欧日本人" さんという方は次のように言いました。

「must not be permitted 認めてはならない」は「手続をし認められる」と可能性がある場合に使う表現。must be permittedの否定文。絶対禁止にこの表現は使いません。絶対禁止はforbid.肯定動詞にもかかわらず「禁ずる」。この使い分けは欧米人には常識で、感覚でこの動詞の違いを明確にわかってます。(15)

私が今疑問とするのは、ただ最後の一文です。
「この使い分けは欧米人には常識で、感覚でこの動詞の違いを明確にわかってます。」

在欧日本人さんは「欧米人には」と書いていて、「欧米の法律家には」とも、「欧米の言葉を生業とする専門家には」とも書いていません。それは欧米の民間人、ごく普通の人達にとっても「常識」であり「感覚で理解していること」であると言っているようです。
-----これは本当なのでしょうか?

このへんのことを私なりに確かめるべく、幾つかの海外のページを見てみました。今日はその第一弾。(第二弾はないかも知れませんが。クッ(> <) )

アメリカはロサンゼルスの聖ペトロ教会のサイトで "self-intinction" について書いてあるものが目にとまりました。

まず、英語では「ホスティアを御血に浸すこと」は intinction(インティンクション)と言うそうです。
そして信者が自分の手でホスティアを御血に浸すことは self-intinction と言うそうです。日本での従来式がこれです。

そこには聖職者のものと思われる次のような文章があります。
それは『ローマ・ミサ典礼書の総則』(2002年のアメリカ版) の第285〜287項を引用した上で、次のように言います。

There seems to be a misunderstanding by some about the practice of intinction. As seen from the quote intinction is allowed as a valid form of distributing the Eucharistic species. What is not allowed is "self-intinction." Self-intinction is the practice whereby one of the communicants attempts to dip the Sacred Host into the Precious Blood on their own. This is strictly forbidden by the United States Conference of Catholic Bishops in their 2001 Norms for the Distribution and Reception of Holy Communion Under Both Kinds in the Dioceses of the United States of America:

What is "intinction?" http://www.sprcc.org/2007/07/08/what-is-intinction/

訳すとこうなりますでしょうか。

ホスティアを御血に浸すこと (intinction) については、幾らかの人においては誤解があるようです。引用からもわかるように、ホスティアを御血に浸すことは聖体授与の有効な形式として許されて (be allowed) います。許されていない (not be allowed) のは "self-intinction" です。self-intinction とは、信者各自が御聖体を聖なる御血に自ら浸そうとする方法のことです。これはアメリカ合衆国カトリック司教協議会の2001年の アメリカ合衆国における両形態拝領での聖体の授受のための規定 において、同司教協議会によって厳しく禁じられて (be strictly forbidden) います。

私がここで問題にしたいのは self-intinction そのもののことではありません。『指針 あがないの秘跡』第104項そのもののことでもありません。ただ言葉のことだけです。

つまり、もうお気づきだと思いますが、私はここで、同じ一つの事柄に向けて "allow" という単語と "forbid" という単語が混在していることに驚くのです。私は "在欧日本人" さんの見解をほぼそのまま、基本的なところでは受け入れていたものですから、このようなことがあり得るとは思わなかったのです。つまり、"allow" という動詞はその否定形において「神が禁止する厳禁」からは遠く離れた言葉でしょうから、同じ一つの事柄に対して "allow" と "forbid" の両方が同時に使われるということはあり得ないと思っていたのです。でも、ここには事実、その "混在" がありました。しかも、おそらく聖職者の言葉の中で... !

私は、欧米のネイティブの感覚において "allow" という動詞がどのようなニュアンスを持つものなのか、正確なところは知りません。でも、"allow" はどちらかというと「消極的に、また個人的な見解で許可を与える」というニュアンスを持つものであり、それに比較して "permit" は「積極的に、公的に許可を与える」という意味合いのものだと聞いています。では、上の一文では、"permit" よりも規制度?が弱い "allow" という動詞が、「神が禁止する厳禁」を表わす "forbid" と同じ一つの対象に向けて "同居" しているのでしょうか???

また、"在欧日本人" さんは「forbid の否定形ですが『絶対許されない』の絶対は神のみが解除できるのであって普通 forbid に否定は用いないです」(19) と言っていますが、まずここに否定形で使われた "forbid" の例があります。

これらのことを見ていくと、もし "在欧日本人" さんのおっしゃることが本当なのだとすれば、この記事の筆者は「普通じゃない」、「言葉の感覚がかなり 〈ゆるい〉〈ルーズな〉 人だ」ということになりそうですが、どうなのでしょう...?

ここで、私が私の誇らしげな "第六感" において「ありそうだな」と思うのは....
「欧米のネイティブの人達においてだって、permit、forbid、allow などの使い方、使い分けにおいて、実際はかなりの "揺れ幅" があるのではないか?」ということです。それは丁度私達が、あんまり厳密な意味合いの違いを意識しないまま、「許可」-「認可」-「承認」などの言葉を使うように、丁度それと同じようにです。どうも私には、「そのようなことがありそうだな」という気がします。そうでなければどうして、上の筆者は同じ一つの事柄に対して "allow" という動詞と "forbid" という動詞を同時に使うのでしょうか? この筆者は余程「変わっている」のでしょうか? それともネイティブの人では〈ない〉のでしょうか。確かにそれらの可能性もないとは言えませんが... どうなのでしょう...?

しかもこの筆者は言うのです、「それは、アメリカ司教協議会の定めた規定によって be strictly forbidden である」と! "strictly" さえ加わっています!
"在欧日本人" さんの見解をそれ自体としては基本的に受け入れていた私は、ここで思いっきり「のけぞる」ことになりました。これはどういうことでしょうか? この筆者は〈一地域の〉〈人間の〉司牧機関の定めた〈規定〉に "forbid" を使っているのです。"在欧日本人" さんから見れば、「この文章作者の言語感覚はまったく馬鹿げている」ということになるのでしょうか?


今日はただ一つの例だけあげました。でも、私がこの self-intinction をめぐって、あるいは permit という動詞をめぐって、海外の聖職者や一般信徒達の "語り口" をざっと眺めたところによると、そう厳密には-----"在欧日本人" さんがおっしゃったように厳密には-----言葉の使い分けはしていないように見えます。それどころか、私達日本人が日本人として「それは許可されていません」「それは許可されてはなりません」という自国語での表現から受ける印象とほぼ同様の感覚のもとに、彼らはそれらの言葉を受け、また使っているような気がします。

「しかし教会文書においてはそうではないのだ。教会文書においては "permit" と "forbid" の使い分けは厳密なのだ」とおっしゃるかも知れません。確かにそうかも知れません。ただその時、たとえそうだとしても、「この使い分けは欧米人には常識で感覚でこの動詞の違いを明確にわかってます」(15)、この言い方だけは、あるいは少し過度な、行き過ぎた言い方であったとしてお認めになり、修正なさる必要があるかも知れません。

そしてまた私達は、もう一度この「許可制」「許可される可能性を含むもの」というものについて考えてみましょう。
"在欧日本人" さんは "permit" という語が否定形において使われていてもそれは基本的にまた明確に「許可される可能性を含むもの」であることを示そうとして、「ピオ五世のミサも permission の対象であったし、私達が手にする運転免許証のような免許もそうである」ということを言いました。
しかしよく考えてみましょう。確かに例えば私達の手に取っている自動車運転免許証は「許可」されたものです。天主によって許可されたものではなくて単に或る国の交通に関わる法規の中で許可されたものです。そして私達は人間の法律は変わるものであることを知っています。でも、よく考えてみましょう(失礼な言い方ですが、単なる呼びかけです... )。私達は普通、例えば「自動車普通免許は満十八歳に満たない者にはその交付は許可されない」というような言葉を目にした場合、そこで咄嗟に「許可される可能性」を想起するものでしょうか? 思わないでしょう。少なくとも簡単には「正当な改正の手続き」などを思い起こしはしないでしょう。それなりに重んじるのは確かなことです。普通、余程 "重大な必要" がなければ、「許可されていない」事柄を曲げて許して頂くようには求めないのではないでしょうか。まして「許可申請すればいいだけの話だ」などという実に「軽い」受け止め方はしないのではないでしょうか。聖座は私達にとって何ですか。
"在欧日本人" さんが海外の単に一つではない教会で事実その形式の両形態拝領が行なわれていたのを見たとか、あるいは複数の司祭が「司教からの Authorization をもらっているからできるのです」と言うのを聞いたとかいう話は、またちょっと別のことです。別の機会でその情景にフォーカスを当てなければなりません。ただ、私がここで確認し、言いたいのは... (くどいけど!)

言葉の問題として、どうも "在欧日本人" さんのおっしゃるようには、西欧のネイティブの人達においても、"permit"、"forbid" の使い分けはそれほど厳密ではないようだぞ。それどころか、彼らが "be permitted" という表現を目の前に置いた場合、まして "must not be permitted" という表現を目の前に置いた場合、私達日本人が日本語で「許可されない」「許可されてはならない」という言葉を目の前に置いた時とほとんど変わらないものを感じるようだぞ。

ということです。私はWeb上の他の海外ページでも、そのようなことを感じます。


本当に小さなことを、ここで指摘させて頂きました。


「不公平だ」と言われるのは不本意なので、いちおう "在欧日本人" さんのために発言の場所を用意しました(『護教の盾』別館)。"在欧日本人" さんは海外在住で、システムの関係上ここの私の掲示板には書き込めないのだそうです。頬白親父さんと同じ livedoor のブログにしてみたのだけれど、書き込めるかな?(まあ、「彼はヨゼフ・ジェンマのしつっこさにドンびきしている」という、かなり有力な説もあるのだけれど!!!)

それから、ついでですから引用した聖ペトロ教会の記事を全文訳してみました(「全文」と言うほど長くはないけど)。ココです。


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