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2007-11-03 (Sat.) Boniface修道院長の証言

「新しいミサ」の立案者アンニバーレ・ブニーニ大司教に関する一つの記事を訳してみました。ブニーニは結局「濡れ衣」を着せられたのか?
ただし全部ではなくて、第二バチカン公会議中ブニーニ大司教と共に仕事をし「今は北カリフォルニアの修道院の院長を務めている」という Boniface Luykx という人の証言(インタビュー)部分だけです。そこが何だか一番心に触れたので。

しかし訳さなかった前半部分も私にとっては有益でした。それを読んで私は「ブニーニ大司教がフリーメイソンであったというのは単なる噂であったか...」と思うようになりました。いや、本当のところは Boniface修道院長も「彼がその一員であったという可能性もあるかも知れません」と言っているように、わからない、おそらく永遠の謎なのですが... 。しかしそんなことはどうでもよい。マイケル・デイヴィースという人が「もし仮に、大司教がメーソンからはほど遠く、今世紀で最も真面目で、献身的人物の一人であると証明されたとしても、新ミサ典書に対するわたしの反対は少しも弱められるものではありません」(http://hvri.catholic.ac/24.htm) と言っているように、問題なのは新ミサ自体 "それそのもの" ですから。

しかしもし彼がそうでなかったなら...(仮定)、最後までしつっこい嫌疑をかけられ、人々から白い目を向けられ続けたまま亡くなったこのブニーニ大司教という人が、人間的な観点からは、ちょっと可哀想なような気がします。もし彼がそうでなかったなら、彼には確かに主観的には悪意はなかったでしょうから。

しかしまた Boniface修道院長という人がブニーニ大司教に感じていたことも充分恐ろしいことです。ブニーニ大司教がフリーメイソンであったかどうかなど問題ではありません。

Boniface修道院長はブニーニ大司教について「彼は現代的な哲学の視点を固守しました」と言っていますが、日本の神父様方はどうなのでしょう? 日本の神父様方の中にも、おそらくあまりに人間の理性を重んじるが故に聖書の史実性を疑ったり、聖変化をまともには信じていなかったりする方がいらっしゃると仄聞します。ブニーニ大司教と似ていますか?
しかし人間の理性だの知性だのというものにそのように高い位を与えることが、そもそも「信仰」という世界においてはあまり適切なことではないのではないでしょうか。
だってね、聖変化はもちろん最高の奇跡ですが、しかし奇跡は他にも聖書の中に万とあります。マリア様の無原罪、マリア様の処女懐胎、主が「水をぶどう酒に変えた」こと、「死んでから四日経って腐臭を放っている死体」に主が命を戻したこと、それぞれ数個ずつの魚とパンから主が5000人以上の人達の胃の腑を満たしたこと、主が「復活」されたこと、主が「昇天」されたこと、そして旧約では、モーセが天主の御力を借りて海を二つに割ったこと... これらを、どないしますの。

「理性で信じられないから信じない」というのでは、信仰のない者とどこが違いますか。

だからあなた方の一部の人は心情的に社会主義・共産主義に近づく。確かに新約の福音から超自然的な要素を除けば、社会主義的なメンタリティーみたいなものが残るのだから。しかし私が考えるところでは、主は第一にあなた方を社会奉仕家にしたわけではない。第一に「秘跡の執行者」として お立てになったのだ。主によってあなた方が扱わせて頂いている「秘跡」とは何だとお考えだろう。それもまた「理性」で、あるいは「五感」で捉えようとするのだろうか。そもそもそんなもので捉え得るとお考えだろうか。教会が古来から教えていることをまともに「信じ」たらどうでしょう。それで何か問題がありますか。そして教会が古来から教えていることをまともに「信じ」たら、「ご聖体拝領の時に跪こうが立っていようが違いはない。そんなことは 〈非本質的〉なことである」とはならない筈なのです。〈本質的〉〈非本質的〉という言葉について言えば、あなた方の一部の人にとっては福音にある主の「愛」こそがこの信仰の〈本質〉であり、主の「奇跡」はそれを証しするための一種の〈手段〉であり、神の〈表現〉であって、それ故ある意味有り体に言えば〈非本質的〉なものである、ということになるようです。しかし信仰においてはそんな定位の仕方はあくまで間違っています。何故なら主の私達に指し示す「愛」-「愛する」は主の恩恵(聖寵)なしには到達できないものだからです。天主の御力、御助力がなければ、私達は「愛」にも「痛悔」にも至れるものではないからです。ですから主の私達に指し示す「愛」と「奇跡」は事柄として全く不離一体です。どちらも天主の御力に頼っており(これは私達の努力の必要を否定しません)、どちらも超自然的なところに根を張っているからです。ですから、主の最大の奇跡である御聖体の聖変化さえ信じられないなら、従ってその人は「主の愛」をも私達に伝えることができないだろうと思います。もし伝えることができたように見えても、それはただの虚しい言葉だろうと思います。これが正にこの信仰の真実の〈本質的〉な描写です。素人の、且つ教養のない牧童の言うことですが、私は自分で言うのも何ですが、間違っていないと思います。(私の「実態」は別として...)



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