2002年9月17日の日朝平壌会談において金正日総書記が日本人拉致事件を認め日本側に正式に謝罪して以来,朝鮮半島問題がこれほどまでに日本人にとって緊要の課題となったことは,戦後初めてのことと言ってよいでしょう. ところで,戦後日本の韓国・朝鮮論のうち,「良心的」とされる出版物には2つの傾向がありました.それは,(1)日本人のナショナリズムには厳しいが,韓国・朝鮮のナショナリズムが持つ問題性は取り上げない,(2)韓国の独裁政権批判には熱心だが,北朝鮮の独裁の問題は取り上げない.もっとも(1)は中国問題に関しても言えることで,韓国・朝鮮問題に限りません.(2)については,90年代後半以降は北の独裁批判を眼目とする出版物が多くなってきていますが,「良心的」知識人はそこまで踏み込めないでいるようです.中には贖罪意識からか,「日本人は,朝鮮人の悪口や批判を言う資格はないんだ」といった意見すらありますが,こういった態度そのものが日本国内の韓国・朝鮮認識に一種のタブーの領域を作り,結果的に韓国・朝鮮イメージを歪めたと言えるのではないでしょうか. 本書が提唱するのは「率直な相互批判の場」の創造という精神です.上記のような意見とは百八十度その立場を異にする考え方です. 著者は1926年愛知県に生まれ,少年時代を京城(現ソウル)で過ごし,「植民者(コロン)の息子」と自称します.70年代に新聞社勤務のかたわら韓国に留学,その後大学に籍を得て,朝鮮の歴史と伝統意識を念頭に置いて朝鮮研究に従事して来ました.著者は自戒をこめて「いい日本人に化けたくない」と記します.「日帝36年に対する反省」と贖罪の言葉を連ねることは「良心的怠惰」に安住することであり,日韓・日朝の関係をオープンな相互批判の場に引き出すことこそが相互理解の王道であると考えて,隣国人の有り様に直言を投げかけます.
本書ではまず,日韓・日朝間に互いに相手を外国と見ないようなもたれあいの関係が存在することが指摘されます.かつて保守政権間の「日韓癒着」構造が批判されたことがありましたが,本書では,日本の労働団体の幹部が北朝鮮系の新聞に「私たち日本人にとっても朝鮮の平和と統一の問題は80年代の重要な課題だと思う」と語ったり,ある「通信」が「海外にいる友人たちの大胆な闘争に期待する.それが朴政権を弱め,国内の戦いを再び高める唯一の道である」と述べていることなどが厳しく批判されます.
さらに,韓国のナショナリズムが批判的に取り上げられます.それは韓国ナショナリズムに対抗するに日本のそれを以てするかの如き,単なる「反韓国論」ではありません.韓国の日本に対する文化的優越意識および日本糾弾のナショナリズムと,経済問題や歴史認識問題などにおける韓国の日本への過剰な期待とが表裏一体をなしていることが指摘され,これらを正すべきことが主張されます.そして,個人的・党派的見解から距離をおいて日韓がお互いを見つめるべきことが求められます. 本書が扱うのは教科書問題など80年代初頭までの事例ですが,二十数年を経た現在でも,問題の根は残っています.特に北朝鮮に対して融和的となり,サッカーW杯の勝利以降ナショナリズムが肥大化しつつある現在の韓国の状況を考える時,本書が展開する議論は今日なお多くの面で有効です.ぜひご一読をお勧めします.
(T・H) |