証言37

 渡嘉敷村長の証言 
                                                       米田(?歳・村長)
 集団自決

    私たちは、米軍が上陸すると恩納川原に向っていた。恩納川原には恰好な陰れ場所があった。また一つ山越せば頼みとする日本軍が陣どっていた。恩納川の下流は細く二手に分れていて、左右は絶壁である。
 ここからは、米軍は上っては来れまい。この谷間は全体が完全に死角になっていて、そこには十 ・十空襲後、村では、唯一の隠れ場所として小屋も二、三棟建ててあった。

 安里喜順巡査が恩納川原に来て、今着いたばかりの人たちに、赤松の命令で、村民は全員、直ちに、陣地の裏側の盆地に集合するようにと、いうことであった。盆地はかん木に覆われてはいたが、身を隠す所ではないはずだと思ったが、命令とあらばと、私は村民をせかせて、盆地へ行った。
  まさに、米軍は、西山陣地千メートルまで追っていた。赤松の命令は、村民を救う何か得策かも知らないと、私は心の底ではそう思っていた。

 上流へのぼって行くと、私たちは、そこで陣地から飛び出して来た防衛隊員と合流した。その時米軍はA高地を占領し、そこから機関銃を乱射して、私たちの行く手を拒んでいるようであった。

 上流へのぼると、渡嘉敷は全体が火の海となって見えた。ぞれでも艦砲や迫撃砲は執拗に撃ち込まれていた。盆地へ着くと、村民はわいわい騒いでいた。
 集団自決はその時始まった。防衛隊員の持って来た手榴弾があちこちで爆発していた。

  安里喜順巡査は私たちから離れて、三〇メールくらいの所のくぼみから、私たちをじ−っと見ていた。「貴方も一緒に…この際、生きられる見込みはなくなった」と私は誘った。「いや、私はこの状況を赤松隊長に報告しなければならないので自決は出来ません」といっていた。私の意識は、はっきりしていた。

  私は防衛隊員から貰った手榴弾を持って、妻子、親戚を集め信管を抜いた。私の手榴弾はいっこうに発火しなかった。村長という立場の手まえ、立派に死んでみせようと、パカッと叩いては、ふところに入れるのですが、無駄にそれをくり返すだけで死にきれない。
  周囲では、発火して、そり返っている者や、わんわん泣いている者やら、ひょいと頭を上げて見ると、村民一人びとりがいたずらでもしているように、死を急いでいた。そして私は第三者のように、ヒステリックに、パカバカ手榴弾を発火させるために、叩いていた。

  その時、迫撃砲は私たちを狙っていた。私は死にきれない。親戚の者が盛んに私をせかしていた。私は全身に血と涙をあびていた。すぐうしろには、数個の死体がころがっていた。

  私は起き上って、一応このことを赤松に報告しようと陣地に向った。私について、死にきれない村民が、陣地になだれ込んでいた。それを、抜刀した将校が阻止していた。着剣した小銃の先っぼは騒いでいる村民に向けられ、発砲の音も聞こえた。白刃の将校は、作戦のじゃまだから陣地に来るな、と刀を振り上げていた。

  陣地を追っぱらわれた私たちは、恩納川原にひきかえした。一部は儀志保島に対面する、この島の北の瑞に移動していたようだった。その時自決用の手榴弾の爆発音と、生き残って途方を失った村民の阿鼻叫喚に、迫撃砲が誘われたように撃ちこまれていた。

  私は恩納川原への道すがら、盆地にひきかえしていた。救助に来ていた防衛隊員が、あなたの妹さんは死んでいました、といっていた。しかし私が着いた時、妹は虫の息で、まだ生きていた。
  妹は私と一緒なので自決ではないはず、米軍の撃ち込んだ迫撃砲なのか、あるいは誰かに殴られたのか、とにかく土の中から、這い上って来た、といっていた。しかしこの妹はそこで二人の子供を失った。

  私自身、自殺出来ないことが大変苦痛であった。死ぬことが唯一の希望でもあったが、私は村長の職責をやっぱり意識していた。今に、日本軍が救いに来るから、それまで、頑張ろうと生き残った人たちを前に演説していた。

 生き残った中から看護婦の心得のある者を探し出し、防衛隊が救い出して、陣地に運んだという十数名の村民の看病に当てられた。たしか、今、糸満市で教師をしている仲村茂子さんと、小禄に住んでいる北村春子さんではなかったか……。

  私には、問題が残る。二、三〇名の防衛隊員がどうして一度に持ち場を離れて、盆地に村民と合流したか。集団脱走なのか。防衛隊員の持って来た手榴弾が、直接自決にむすびついているだけに、問題が残る。私自身手榴弾を、防衛隊員の手から渡されていた。

  この問題を残したから、死に場を失って、赤松隊と自決しそこなった村民とがこの島で、苦しい永い生活を続けることになった。

 赤松と私

 集団自決以後、赤松が私に対する態度はいよいよ露骨に、ヒステリー症状を表わしていた。私を呼びつけ、命令ということを云い、おもむろに腰から軍刀をはずし、テーブルの上に、右手で差し出すように立って、「我が国の軍隊は…」と軍人勅諭をひとくさり唱えて、今日只今から村民は牛馬豚の屠殺を禁止する、もし違反する者は、処刑すると云い放っていた。

                                                 (「沖縄県史10巻」から)

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