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愛の旅人

近藤喜文監督「耳をすませば」
»〈ふたり〉へ月島雫と天沢聖司―東京・多摩

 駅へと連なるマンション群や家々が見渡せる丘の上。初めて訪れた場所だが、アニメ映画「耳をすませば」の既視感から、主人公の中学生・月島雫(しずく)と天沢聖司がいるのでは、という錯覚に陥る。丘はふたりが将来を約束する印象的なシーンの舞台だ。実際に自転車をこぐ若者に遭遇すると、聖司か、と目を凝らしてしまった。

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聖蹟桜ケ丘駅を望む高台からの眺め。映画では月島雫と天沢聖司が、このような風景を見ている=東京都多摩市で

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桜ケ丘地区の夏祭りでみこしをかつぐ子どもたち=東京都多摩市で

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映画にも登場するロータリー(後方)の上に、夏雲がわく=東京都多摩市で

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 東京・新宿駅から西へ延びる京王線の特急電車に24分乗ると、聖蹟(せいせき)桜ケ丘駅(東京都多摩市)に到着する。駅前で、若い女性2人が映画のモデル地を示す看板を写真に収めていた。「耳をすませば」のファンのサイトに「聖蹟桜ケ丘に行った」という書き込みが、公開から11年たっても見受けられる。

 「中学生のラブストーリーだからと、映画関係者の期待は薄かった」とプロデューサー鈴木敏夫さん(58)は明かす。夏休み公開が危ぶまれ、交渉を重ねて7月にした。ふたを開けると、95年の邦画収入1位になった。

 この映画が初にして最後の監督作品となった近藤喜文(1950〜98)が四半世紀前、脚本と絵コンテを担当した宮崎駿(はやお)さん(65)に「少年と少女のさわやかな出会いの作品を作りたい」と語ったことがきっかけだった。約10年後、宮崎さんが「こういうの好きだろう」と原作を近藤に手渡し、映画作りが始まった。

 時代はバブル経済が崩壊し、リストラが進み、先を見通せなくなっていた。宮崎さんは雑誌の取材に「生きることに肯定的じゃないと大問題に立ち向かえない。簡単にニヒリズムの餌食になる」と語った。近藤は長男が1年前に高校受験をした経験から、受験生一人ひとりにドラマがあることに気づいていた。「世の中が悪いとか学校が悪いとか大人のせいにして反発するのではなく、自分の問題として考える子どもを描きたい」と考えていた。

 物語は、バイオリン職人になると決めた聖司に、どのように生きるのかについて悩む雫を対比させた。不治の病や親の反対によって燃え上がるのではなく、自らが障壁という恋愛ドラマだ。舞台は、宮崎さんや近藤がかつて働いたアニメプロダクションがある聖蹟桜ケ丘駅周辺。冒頭の丘は、宮崎さんが仕事を終え、夜が明けたなか車で帰る時に新宿副都心を見た所だ。実際の町並みを配してリアルさを出した。

 原作者の柊(ひいらぎ)あおいさん(43)は、人のつながりとしての異性関係を描く物語を目指した。だが、恋愛が中心ではなかったためか、月刊誌の連載は4回で打ち切りに。「未消化だったことが、映画で形になった」

 等身大の中学生が生き方を懸命に考え、ふたりで未来に歩み出す映画は、それぞれ子どもを持つ宮崎さん、鈴木さん、近藤の視点から生まれた。聖司や雫を温かく見守る老人・西司朗と重なる。そして、思春期の子どもたちへの父親たちからのエールでもある。

アニメに献身 命むしばむ

 「耳をすませば」の主題歌「カントリー・ロード」は、鈴木敏夫さんの娘麻実子さんが訳詞した。当時19歳と年齢が月島雫に近いことから頼まれ、宮崎駿さんが補作した。歌詞は「ひとりぼっち/おそれずに/生きようと/夢見ていた」だが、麻実子さんの詞は「ひとりで生きると/何も持たずに/まちを飛びだした」だった。

 これを巡って、近藤喜文と宮崎さんが対立。近藤は麻実子さん訳を支持したが、宮崎さんの変更案が通った。

 映画の宣伝のため出演したラジオ番組で、近藤は麻実子さんの歌詞について触れ、「漫画家になろうと、家出するように東京に出てきた。本当に何も持っていなかった」と涙を流して語った。口数が少なく、いつも心の中を見せなかったが、鈴木さんは「内にある熱いものが噴き出した」とみる。

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 近藤は1950年、今の新潟県五泉市で生まれた。高校2年の時には、漫画かアニメーションにかかわる仕事に就こうと考えていた。妻浩子さん(67)によると、新聞紙をハサミで切る切り絵に夢中になり、児童書などを読み、アニメーションへの夢を膨らませた。

 高校卒業後、半年ほどアニメーションの専門学校に通い、アニメのプロダクションに入った。原画作りに没頭。やせた長身の長い足を折り曲げ、前かがみで机に向かった。労働条件の改善などを求めて日本映画放送産業労働組合の活動に参加し、そこで同じプロダクションの彩色担当だった浩子さんと知り合い、74年に結婚した。その後、いくつかのアニメプロダクションを経て87年にスタジオジブリに移籍した。

 「耳をすませば」の成功は、近藤のアニメーション技量によるところが大きい。

 「巨人の星」「ルパン三世」「ど根性ガエル」「未来少年コナン」「赤毛のアン」、スタジオジブリでは「火垂(ほた)るの墓」「魔女の宅急便」「おもひでぽろぽろ」「紅の豚」……。近藤がかかわった作品のいくつかは、リアルな描写によって登場人物の性格付けに影響を与えるほど研ぎ澄まされていた。

 雫が猫に話しかけようと座るシーンがある。鈴木さんは、近藤と宮崎さんの違いが表れた場面だという。雫はスカートを押さえて座ったが、宮崎さんだったら風が舞い下着が見えていたという。「人の目を意識する、知的で品のいい雫となった」

 映像研究家の叶精二さん(41)は、群衆の描き方に近藤のこまやかさを見てとる。エンディングで、朝から夕方まで道行く人をとらえた。犬を散歩させる女性、登下校する中学生……と、どこかで出会った光景が流れる。「市井に生きる一人ひとりのドラマを大事にした表れ」と話す。そんな近藤を「アニメ映画監督の高畑勲さん、宮崎さんが最も信頼を寄せ、ふたりの後継者だった」と評価する。

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 自宅のある団地にバスを走らせたり、ふるさとと呼べる団地にしようと夏祭りを住民と一緒に催したり。近藤は地域活動にも熱心だった。仕事の合間に子どもたちを絵にするために出かけた。「本当に描きたいものを見つけ、意味ある一瞬を切り取り、時間を閉じこめた絵」(叶さん)にして、画文集「ふとふり返ると」(徳間書店)に結実させた。

 激務が重なり、肺に穴が開いて縮む自然気胸などで入退院を繰り返した。「耳をすませば」を作っていたころ、「笑い話は勘弁して」と話した。笑うと、せきが止まらなくなるからだ。膨らんだ内なる世界を表現するために働くほど、体はむしばまれる。そんな近藤を支えたのは「絵にする市井の人たちだった」と、最初のプロダクション以来の友人で自宅近くに住むアニメ監督の有原誠治さん(58)は語る。

 97年12月16日、出勤前に突然、苦しみだして解離性大動脈瘤(りゅう)で入院。「もっと描きたい」と語っていたが、手術後は話ができなくなった。浩子さんが「楽しいこと考えようね」と語りかけると、うなずいていた。翌98年1月21日の早朝、死亡。47歳だった。

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 浩子さんにとっては、11歳若く、いつも退院して帰ってきたので、「死ぬとは考えていなかった」。「机に向かっている」ような気がして、死はひとごとだった。カントリー・ロードが流れるなか出棺。浩子さんの記憶は以降、途切れ、この8年間、時は止まったままの状態だ。近藤の死は今も、納得できないでいる。

 「耳をすませば」は今も若者たちをひきつけ、心を動かす。浩子さんには、子どもたちへ、宮崎さんや鈴木さん、近藤の語りかけが続いているような気がしてならない。

 「耳をすまして、心の声を聞き、人生を輝かせて」と。

文・平出義明 写真・会田法行
〈ふたり〉

 読書が好きな中学3年の少女、月島雫は、学校の図書室や市立図書館からよく本を借りるが、貸し出しカードにいつも「天沢聖司」の名前があるのに気づき、何かと気になる。夏休み、図書館へ行く途中に見つけた変な猫を追いかけると、猫はアンティークショップ「地球屋」へ入ってゆき、雫は店を経営する老人・西司朗と出会う。西は雫と同じ中学に通う天沢聖司の祖父で、聖司は地球屋の工房でバイオリンを作っていた。

 彼は中学を卒業したら、バイオリン職人になるためにイタリアで修業する決意をしていた。実際に見込みがあるか見習いに2カ月間イタリアに行く。そんな将来の道を切り開こうとする聖司に触発され、雫も自分の夢を求め、物語を書く。書き上げた翌朝、何げなく窓を開けると、帰国した聖司が待っていて、ふたりで朝日が昇るのを見たあと、将来結婚することを約束する。



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