広島県文化財協会が発行する「広島県文化財ニュース」(第百九十四号)に、府中市にある老舗旅館が紹介されている。屋号を「恋しき」と言う。
一度聞いたら忘れられなくなるつやのある名前だ。由来ははっきりしないらしいが、一八七二(明治五)年の創業以来、作家の井伏鱒二や吉川英治ら多くの著名人に愛された。敷地は約二千七百平方メートルで、掲載写真を見ると木造二階一部三階建ての堂々とした造りだ。
紹介文には「庭の周囲には五棟の離れが樹々の間に見え隠れするように配され」とある。日本庭園と建物が調和した風雅を感じさせる。戦後、吉川英治は離れに長期間滞在して「新平家物語」の一部を執筆したとも書かれている。
旅館は一九九〇年に廃業した。その後の経過を読むとドラマがある。国の登録有形文化財になったが、老朽化で傷みが激しかった。見かねた地元財界有志が立ち上がり、二〇〇五年末に株式会社恋しきを設立して旅館を買い取った。
賛同者も募り、改修工事を行った。小料理店やイベント空間などを備えた市民の社交場として再生を目指す夢を描いた。昔を懐かしむ「恋しき」でなく、使い続けることで魅力を高める「今は恋しき」でありたいとの思いが込められている。
新生「恋しき」は十八日にオープンする。地域の熱意でよみがえった文化財の保存と活用を応援したい。