2007-11-07 ある出来事
英語でムカデはcentipedeというが、これは「百の足」という意味だ。日本語でも百足。
さて、2002年秋のことだったが、四谷ラウンドという出版社が雑誌を出して、その二号のために野坂昭如氏と対談してくれないかと、同社社長から言ってきた。それで承諾したら、その三日ほど前に、野坂さんが『文壇』で泉鏡花賞を受賞したというニュースがあった。当日、山の上ホテルまで出かけて、指定の部屋へ入ったら、女性の社員が入ってきたから、「野坂さんが鏡花賞を…」と言ったら、知らなかった。あとから社長のT氏も入ってきたが、これも知らなかった。その後野坂氏が入ってきて、私が祝辞を述べると、社長と社員も揃って述べた。さっきまで知らなかったのだが。
対談は無事済んで、ゲラが来た。ところが数日後、四谷ラウンドが倒産した。それでこの対談はお蔵入りになっているが、来年あたり公開できるはずである。
その後、T氏は下請けの編集の仕事などをしていたが、最近新しい出版社を創設した。しかし恐らく多量の借金があるのだろう。私にも、債権者として裁判所から何度か書類が届いたが、裁判所からの書類には慣れている私である(笑)。
さて先日、そのT氏が、東京商工会議所のPRパンフの編集をしていて、「私の秘なる東京」という、表紙からの連載でインタビューを受けてくれないかと言ってきた。秘なる場所でということだ。で私は、ムリかなと思ったが、離婚後、何度か行った大久保の某風俗店を紹介しようと思い、T氏に言ってみた。商工会議所だからまずいでしょうか、と言うと、ああ大丈夫です、と言う。
それで十月初めに当該場所で写真撮影をして、話をしたが、ちょうどその日新聞に『日本売春史』の広告が出ていたので、T氏はそれを持ってきてくれた。しかし話すうち、T氏は私が小説を出したことを知らないことが分かった。まあいつものことなので、相変わらずだなあと思った。
それから一週間ほどで、文案が届いた。例によって私が自分のことを「僕」と言っているからそこは訂正した。少し、『日本売春史』を読んでの記述に傾きすぎていて、売春は合法化すべきだとまで書いてあるから、これはちとずれているのじゃないかと思ったが、まあいいでしょうと言っておいた。
それが、三日ほど前である。T氏から電話があって、商工会議所で、あれじゃダメだと言っている、まことに済みませんがもう一度どこかで取材を、と言うから、そんなこと急に言われても困る、書き直せばいいではないかと言ったら、ああそうですね、と言う。それで、私の小説は読んだんですか、と言うと、読んでいないというから、じゃあ読んでくださいよ、などと言った。
ところが、翌日ファックスが届いて、それが出張先かららしく、手書きで、しかもひどい文章で、私が茨城から東京の高校へ通っていたとか、小説家になりたかったとか、全然取材場所と関係ないことが書いてある。これは、私の通っていた高校が新大久保にあったことから、無理やり結び付けようとしたもので、しかも「路地には何となく心惹かれるものがありました」などとあるのだが、そういう事実はないし、だいたい、高校生当時は、大久保のその当該場所へ行ったことなどないのである。
それでさらに今日ファックスが届いて、事実誤認は直っているのだが、T氏から電話があったので、これじゃあ全然、写真を撮った場所と関係ないし、それにT氏は、大久保の風俗店前での取材だと商工会議所に最初に伝えた、と言うから、それでなぜ今になってダメなのかと問うと、私がビートたけしのようにそういうところでアルバイトをして苦労をした話ででもあるのかと、商工会議所の担当は思っていたというから、私も腹が立ってきて、そんなことあるわけないだろうと、結句、直接その、商工会議所広報部の宮本というやつに電話して、その辺を問いただした。結論から言うと、何も考えていなかったようだ。そこで私は、じゃあ、合法化せよとかいう意見は別として、あそこへ何度か行ったという話だけではどうですかと訊くと、じゃあ、所内でちょっと相談します、と言って電話を切った。
すると今度はT氏から電話が掛かって、何やら泣き言を言い出し「私が、風俗店はタブーだというのを知らなかったのがいけないんです」と言う。いや、そういうのは知っているとか知らないとかの問題じゃなくて、普通、それはまずいんじゃないかと思うだろう。それに私は宮本からの電話を待っているのだ。しかしT氏はごちゃごちゃと詫びを入れるばかりなので、電話を切ると、宮本のほうに電話した。すると女が出てきて、今別の電話に出ております、と言う。居留守じゃないかと思ったが、しばらくしてもう一度掛けたら同じことだ。
もう、勝手にせいと思って仕事をしていたら、T氏から電話があり、いまお宅の近くまで来ています、喫茶店で会ってお話を、という。まるでストーカーだ。やめてほしい。それで私は再度、宮本に電話を入れると、また例の女が出てきて同じことを言い、「こちらから掛け直します」と言うから、「ダメだ、出て欲しい」と強く言ったら、しばらくして、出た。やっぱり居留守だったのである。それで私は、さっきの返事を聞かせて欲しい、と言ったのだが、どうも口を濁して答えない。風俗店といっても合法のものである、と言ってもダメだ。私としても、そういう隠蔽体質を問題にしているのと、居留守を使うような卑怯なまねをされると引き下がりにくい。それで宮本なる者に、高校時代にあそこへ行ったことはない、と伝えると、では、「何度か足を運んだ」でどうでしょう、と言うから、ああ、それでいいでしょうと言って電話を切った。
すると二時間ほどしてファックスが入り、これはT氏からで、冒頭部分が書き直されているのだが、「四、五年前でしょうか。大久保のこの辺りには何度か足を運んだことがあります。大阪から帰ってきてすぐの頃のことです。」とある。大阪から帰ったのは八年前である。私はすぐT氏の携帯に電話したが、留守電になっていたから、メールしておいた。
さて、これからどうなるのか知らないが、どうせマイナーなパンフレットだが、もし「わが秘なる東京」とはとても言えないような不思議な記事が載ったら、それはこういう東京商工会議所の隠蔽体質が原因である。ただし、T氏が最初に場所を伝えたのに何も言わなかったことと、居留守を使ったこととは断然許しがたい。
それからT氏だが、申し訳ないが、もう編集のような知的な職業はやめるべきだと思う。これでは、今の出版社もいずれ潰れるだろうし、周囲に迷惑をかけるだけである。もしどうしても続けたいなら、いったいどれほど借金があるのか知らないが、参謀格の有能な人物を雇うべきである。博士号をとって就職先のない若者でも雇ったらどうであろう。
マンションの荷物入れボックスには、T氏が買ってきたお菓子が入っていて、妻が喜んでいた。