浅田 明 様
浅田様のご指摘は、その通りだと思います。
「農地改革」についての考え方は、数多くあり、それぞれ視点、立場などの違いによって、見解は異なっています。ひとつ言えることは、モノには両面があり、農地改革にも、地主と小作人という対立構造を止揚し、農村の貧困と戦後の食糧難を解消する推進力となったことで果たした役割については、浅田様がご指摘される通りです。
ただこの改革が、日本農業にとって真の意味で「改革」と言うべきものだったかというと、それは難しいものがあると思うのです。また今回は「日本農業の大規模化」ということをキーワードとして論を進めていて、『GHQによる「農地解放」は、今日まで日本農業を呪縛し続けているという点で、明らかな失政と言えるのではあるまいか。』などと書いたこともあり、浅田さんのような批判があることは、ある程度覚悟しておりました。
ご返答になるかどうかは、わかりませんが、少し視点を変えて、農地改革の裏話をしてみたいと思います。GHQの対日占領政策の基礎となった考え方は、日本の敗戦が決定的となりつつあった1943年半ば頃から、アメリカの国務省内部で極秘で進められたとのことです。そこで省内では、日本宥和派と厳罰派のふたつに分かれていました。そこで、戦後の日本をどのように設計し直すか、という再建策は、次の三つの政策があったようです。
1 日本国内の近代的工場施設を廃棄し、外国貿易も制限し、農業国にする。
2 重工業を撤廃し、軽工業の存続を許可、貿易は一定期間をおいて再開する。
3 残存軍需物資の没収と破壊及び航空機工場、造船業の撤去あるいは他目的施設への転換を計り、それ以上の政策の強制は日本経済の復興を困難にし、かえって日本人の好戦的精神を助長する。
というものでした。この観点から、結論的に出てきたのが、農地改革と財閥解体の二大方針だったということです。つまり、第一の日本を農業国にするという厳罰派的な意図が「農地改革」の奥には潜められていたということになります。
もっと言えば、戦地から復員した日本人兵士を農村に「自作農」化するという希望を与えることによって、日本そのものを、元のアジア的農業国にすることで、武装解除し、軍事力を無力化するということでしょうか。
しかし第一の農業国という厳罰的意図は、日本を民主化し、日本経済を復興しなければと考える宥和派のグループから否定されました。事実、1932年から1941年までの9年間駐日大使を務めたジョセフ・クラーク・グルー(1880−1965)は、当時国務省極東局長・国務次官の要職にありましたが、農地改革の実施に明確に反対しました。その理由は、
第一に食糧生産に悪影響を与え、都市への食糧医供給を減少させる。
第二に農家の経済的地位に永久的かつ本質的な影響を及ぼさない。
第三に農地改革にかかわる事務作業のために多くの占領軍の要員を必要とする。
というものでした。実に説得力のある理由だと私は思います。グルーは、ポツダム宣言起草にも関わり、トルーマンに天皇制の存続を進言した人物です。彼には、日本人の精神性や日本社会の諸問題を深く理解していた優れた外交官でした。特に私は、第二の「(農地改革は)農家の経済的地位に本質的な影響を与えない」という指摘に、日本農業に対する根源的な問いかけであると思います。
ところが、このグルーの考え方が、日本が降伏した1945年8月15日の国務省内部の機構改革によって、大きく退けられ、厳罰派の政策が急浮上し、「財閥解体・労働改革・農地改革」の三つ基本占領政策が決まってしまったのです。
考えて見ますと、国務省の厳罰派は、「農地改革」を通して、豊臣秀吉の「刀狩り」や「検地」と同様、敵であった日本を武装解除し、兵士を農地に縛り付けて、二度と戦争など考えないようにすることを志向したということも言えるのではないでしょうか。
以上の話しは、歴史学研究会日本史研究会編集「講座 日本史 11現代1」所収の岩本純明氏論文「日本経済の改革と復興」( 東京大学出版会 1985年刊)並びに渡辺尚志・五味文彦編「新大系日本史 3 土地所有史」(山川出版 2002年刊)所収岩本純明氏論文「戦後の土地所有と土地規範」を参考にまとめてみました。
浅田 様、今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
<思考実験>
最後に、簡単な思考実験をしてみます。もしも仮にGHQが「農地改革」をしなかったとします。農村と農業はどのようになったでしょうか。農地改革は、小作農と地主の関係はどのようになったでしょうか。まず考えられるのは、戦後の食糧難により食糧増産の必要から、農業生産は急速に上昇したと思います。同時にGHQの民主化政策と世界的な社会主義運動の高まりの風圧により、小作農に対する地主の労働分配率は、当然大幅に改善したと思います。さらに、農業生産に、将来性を感じた地主の一部は、自己の農地の小作農を組織して、農協とは一線を画す、農村経営を志向する可能性が出ると思われます。
次に朝鮮戦争の勃発を契機とした特需から、小作農が農村から徐々に都市に移行し、都市労働者化する流れが加速したかと思います。もちろん農村も人手不足が考えられますが、「結い」などの協同作業にも限界があり、機械化の流れは現実以上に進むことがあったのではないでしょうか。
|
[返信する] |