そこは、安くておいしいコーヒーを出す、チェーン店のコーヒー屋だ。セルフサービスだから、店員が席まで来てくれない。でもコーヒーはそこそこうまいし、値段も安いから、私もよく使わせてもらっている。 ある日の昼下がり、私はいつものブレンドを飲みに、そのコーヒー屋に行った。すると、そこにはいつもと違った光景があった。ときどきその店で見るおじさんが「おい、ここの店はサービスが悪いぞ!なんとかしろ!」と大声で叫んでいるのだ。 見れば、周りの人たちもそのおじさんに引きずられて、「そうだそうだ!」「おまけにコーヒーだってまずい!なんとかしろ!」などと、あることないこと、口々に叫んでいる。叫んでいる内容を聞けば、明らかに最初におじさんが言っていた内容が、人の間に広がるうち、あることないこと拡張されている。 見ているとその輪がしだいに広がり、店内だけではなく、その外側まで人だかりができている。その外の人まで「もっとサービスをよくしろ!」「なんて高くてまずいコーヒーなんだ!」「店員の顔も気に食わない!」などと口々に言い始めた。きっと、かれらのうちかなりの数の人間が、このお店にも入ったことのない人たちだろう、ということは見ていてすぐにわかった。 さらにそこに野次馬が加わってきた。ほとんどの野次馬は見ているだけだが、この面白い騒ぎをエンターティンメントとして楽しんでいる。 お店の店員さんは、頭を抱えていた。こんな人だかりができてしまっては、お客どころではない。ぼくは店内でコーヒーを飲みながら、いろいろ考えていた。 ここは「安い」コーヒー屋だ。そこそこコーヒーはうまい。でも、昔の喫茶店のように高い人件費がかけられないから、セルフサービスだし、チェーン店方式だ。サービスなんて期待するものじゃない。カップに入ってきたコーヒーがいつもより少ない、と言うことだって、ときどきあるが、ぼくは「そんなものかな」と期待したことがないし、怒ったこともない。そんなことは大きなことじゃない、と、気にしたことはなかったのだが、どうもそういうことが気になる人もいるらしい。 本当においしい、そしてサービスも万全で好立地なところにあるコーヒー屋では、もちろんおいしいコーヒーが飲める。店員の教育にも時間をかけているから、サービスはすごくいい。だから、値段もすごく高い。そのぶん、服装だってジーンズで入るのはためらわれる、っていう場面もないではない。敷居が高い。 しかし、この騒ぎが広がっているコーヒー屋は、一杯200円にも満たない値段で、そこそこのコーヒーを出してくれる。ジーンズで入るのも、もちろんかまわない。その気軽さが、ぼくは気に入っている。だから、毎日、ここに来るし、コーヒーの量が少し少なくてもあまり気にしない。明日も来るのだから、そんなことだってあるだろう、という気持ちだ。 以上の話しはもちろんフィクションだ。今のオーマイニュースを取り巻く「批判」は、ぼくにはどうしてもこのような光景のように思えてならない。簡単に言えば「オレタチは、安いコーヒーを飲んでいるけど、客は客だ。ちゃんと客らしく扱え!」と、大きな声を上げている人がとても目立つのではないか。 言っていることは一見正しいのだが、でも、なんか違う。そんな感じだ。やがて「彼ら」は、「店員を増やせ」「客一人に、ウェイトレスを一人つけろ」とさえ要求してくるだろう。そんなことはどだい無理な話なのに。 ◇ インターネット上で行われるサービスはとどまるところを知らない。すごい勢いでたくさんのサービスができては消える。無料のサービスも多い。もともと、毎月数百万円を払わなければできなかった高速でワールドワイドのデータ通信が、個人で毎月数千円の値段でできる、という状況になったのは、ついこの前の話だ。加えて、その上でさまざまなサービスが始まったのも、ついこの前の話だ。 アッという間に、ぼくらは「無料のもの」に慣れ切っていたのではないか?安いものに、慣れ切っていて、安いけど、その価格に似合わない過剰なサービスをされることに慣れ切っていて、ちょっとでもサービスが悪いと、相手の内部の事情などは一切考えず、サービスを提供する業者に、あれこれ文句を言う。文句を言うのは勝手だが、相手はぎりぎりの状態でそれをしているのであれば、そんなにすぐに答えは出せない、ということもまるで眼中にない。それでも文句を言う。 今、既存のジャーナリズムで仕事の場を与えられる、ということは、そこに至るまでにけっこうな道のりを必要とする。個人的にも非常にコストがかかる。能力も気力も体力も必要で、通常は、片手間でその仕事に携われる、というものではない。そう言う人たちが集まってジャーナリズムを作るわけだから、それなりのコストがかかるだけではなく、それなりの稼ぎもなければ成り立たない。その世界に入り、その世界のしきたりを守り、そのうえで、やっとその世界での自分の生きる場所が見つかる。そういうものだろう。 しかし「市民記者」は、そういう学習とか努力とかを一切抜きで「ジャーナリストになれる」と、ついつい勘違いをしてしまう。「市民記者」は「記者」と同じで、通常のジャーナリスムと同じ力を持てる、と、ついつい勘違いをしてしまう。本物のジャーナリズムはもっと強大で、もっと複雑で、もっと人間一人ひとりの能力や努力を必要とする組織なのだが、そんなことは通常門外漢にはまるでわからないし、見えないことだろう。 インターネットだって空から降ってきたわけではない。多くの技術者や研究者、そして企業家などの努力が作ったネットワークなのだ。 これらの多大なこれまでかかった「コスト」や、現在かかっているコスト、それに見合った、その組織が持っている能力には一切目を向けず、ひたすら自分の利益の追求のみをする、というのは、本当は許されないことである。オーマイニュースもまた、原価計算をしつつ今日を生きている「企業」である以上、その出費をなるべく抑えて、歳入をなるべく多くすることを考えなければならない。かけられるコストには限界があるのだ。 もっとも、これはそのような要求をする側だけに問題がある、ということではもちろんない。「市民記者」という名前で、いかにも「安易に自己実現ができるかのような幻想をふりまき、客を集める」というやり方も、問題だと、私は思う。なにせそういう「隠れたもの」に思いを馳せることができるほどの人間はそうそう多くはないからだ。 わがままな人間は、自分がわがままである、ということに気がつかない。だから、わがままを通そうとする。思い通りにならない自分を取り囲む世界に文句を言う。自分が努力し、学習して、自分が変っていく、ということさえ知らない人も多い。面白そうであれば行くが、面白くなさそうであれば、それが必要なことであっても、そこには行かない。自分の怠惰を指摘されると怒るくせに、他人の至らない部分は声高に言う。 全部とは言わない。しかし、けっこう多くの人が、そういう「勘違い」をしているのではないだろうか?そして、ネットとは、そんな子供のような「いいたい放題」の声が大きな人間が跋扈する、成長とか変化とか、そういうこととは無縁の世界になったのだろうか? そうしたくはないが、どうやら、そういう人たちも確実に増えていることは認めざるを得ない。 他人のできないことを責めるなんてことは、簡単なことだ。 ニーチェはこう言っている。 「やがて、自分自身をさえ軽蔑できないような、そんな最も軽蔑すべき人間しかいない社会が、やがてやってくることだろう」 今がそのときか? 今のネットがその場所か? 怠惰は罪である。
総合35点(計52人)
※評価結果は定期的に反映されます。
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