▲空母《ホーネット》を離陸する《ドーリットル爆撃隊》のB25中型爆撃機《ミッチェル》。
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東京の戦争 その1
●東京初空襲(1)
東京が初めて空襲を受けたのは、昭和17(1942)年4月18日のこと。
日本本土から約600〜620海里(約1,100〜1,150キロメートル)沖合の太平洋上を航行する航空母艦《ホーネット》を発進した、B25中型爆撃機《ミッチェル》の攻撃によるものだった。真珠湾攻撃から4か月後の真昼の不意打ちだった(16機が発進、このうち、空襲部隊長のジェイムズ・ドーリットル中佐機を含む13機が東京を襲った)。
日暮里に暮していた吉村昭少年は、
「開戦の翌年である昭和十七年四月十八日の正午すぎに、土曜日で早目に帰宅して凧をあげていた私は、超低空で頭上をすぎた東京初空襲のアメリカの飛行機」(吉村昭『昭和歳時記』)
を目撃した。
「迷彩をほどこした機は、少し右に機体をかたむけて桜の花が霞のようにひろがる谷中墓地の方へさっていった。」(吉村『同上』)
どうやら、コースから考えると、その機はドーリットル中佐機だったようだ。
「四月十八日 土
いま空襲あり。正十二時少し過ぎ。(中略)聞き慣れぬ花火のような音が空中に五六発続けて聞える。午前十時頃警戒警報が発令されていたので、おやと思い、梅沢氏とすぐ二階の屋根に出てみる。すると足引込の中型の飛行機が一台二百米とも思われる低空を、すぐ頭上東方を、東南から西北に向かって飛んで行くのが見える。その後方に黒い小さな雲のかたまりのように高射砲弾が破裂している。空襲警報の音はしないが、空襲にちがいない」(伊藤整『太平洋戦争日記(一)』)。
当時、杉並区和田本町(現杉並区和田2丁目)に住んでいた伊藤整は、このように記している。
一方、航空工学の専門家の目撃したB25は、
「この日私は研究室の窓から、特長のある双垂直尾翼の機影を眺めていたが、追いすがる日本の戦闘機や高射砲をかわして低空を飛び去る様子が、相手のタックルを払いのけてゴールに突進する名ラガーのようで、手ごわい奴という印象を受けた」(木村秀政『世界の軍用機(第二次世界大戦編)』)。
東京帝国大学航空研究所(現目黒区駒場3丁目)の窓からは、このように見えていた。
米大使館内(現港区赤坂1丁目)に軟禁状態であった駐日大使のジョゼフ・グルーは、
「スイス公使が再訪され、昼食で帰るという時になって、かなりな飛行機が頭上を飛ぶ音が聞こえ、数カ所で大変な煙が出て火災が発生しているのが認められた。最初、これは訓練かと思われたが、まもなくアメリカ軍爆撃機による初めての大がかりな日本空襲であることに気づいた。(中略)これは見ていると胸がわくわくするような光景であったが、当時は日本軍機による実践まがいの訓練に違いないという気がしたものである。日本の新聞は九機撃墜と書きたてたが、実際のところは撃墜されたのは一機もなかったのではないかと思われる」(ジョゼフ・グルー『滞日十年』)
と回想している。
銀座では、外務省嘱託の英国人ジョン・モリスが目撃している。
「その時私は東京の目抜き通りである銀座にいたが、警報が鳴りだしたのが一九四二年四月一八日の正午を五分ほど回ったころであった。(中略)その直後にアメリカの爆撃機が東京上空に現れたが、あまりに低空であったために翼のマークがはっきりと認められたほどである」(ジョン・モリス『東京からの旅人』)。
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▲B25中型爆撃機《ミッチェル》。
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東京の戦争 その2
●東京初空襲(2)
この東京初空襲を行なったB25中型爆撃機《ミッチェル》の一般的な諸元は以下のとおり。
エンジン:ライトR-2600-92サイクロン14気筒エンジン(1700馬力)2基
翼幅:約19.8メートル
全長:約16.1メートル
高さ:約4.8メートル
総重量:約11.8トン
最高速度:時速約455キロメートル
最高上昇限度:約7,400メートル
航続距離:約2,400キロメートル
ただ、東京空襲機は、燃料を増やし航続距離を伸ばすため、機体底部の銃座が外され、機体には燃料タンクが取り付けられ、その他の重量軽減とによって、航続距離は約3,700キロメートルに伸ばされていた。
これは太平洋上の航空母艦を離陸、中国奥地に着陸しようとするためである。
航空母艦から陸軍の中型爆撃機を離陸させようというのは、冒険的な試みで、真珠湾攻撃以来、ウェイク島、グアム島を奪われ、香港、シンガポールを陥落させられ、フィリピンも風前の灯火といった状態の連合軍にとって、志気を高めるためのほぼ唯一の方策であった。
一方、日本本土東方約1,000キロメートルの太平洋上に哨戒線を敷き、監視艇が《ホーネット》以下の艦隊を発見していたにもかかわらず、大本営などは4月19日の空襲であろうと予想していたために、この奇襲を受けたのである(艦載機の攻撃なら、もっと本土に近寄ってからの発進と踏んでいた)。
東京初空襲は、冒険的な試みにもかかわらず、東京を目標としていた13機全機によって行なわれた(他の3機は名古屋、神戸を爆撃)。その空襲の様子の一端は前回に述べた。
東京の防衛に当たる東部軍司令部は、4月18日午後2時付で次のように発表した。
「一.午後零時三十分ごろ敵機北西向より京浜地区に来襲せるも、我が空、地両部隊の反撃を受け、逐次退散中なり。現在までに判明せる敵機撃墜数は九機にして吾が方の損害軽微なる模様。皇室は安泰に亘らせらる」
しかし、多くの市民の目の前で空襲が行なわれたにもかかわらず、敵機の撃墜を目撃した者はだれもいない(実際に日本上空で撃ち落とされた機体は、1機もない)。
そこで誰言うともなく、
「撃ち落としたのは《九機》ではなく《空気》だ」
となり、公式発表への信頼感が薄らぐきっかけにもなった。
この空襲では、荒川、王子、葛飾、牛込、小石川、品川などが爆撃され、東京市民に死者39人、重傷者73人、軽傷者234人を出した(警視庁発表)。
全国での被害は、公式な記録がないが、最も多い数(死者:363人、家屋の損害:350戸程度)を挙げているのが、海軍中将の宇垣纏である(『戦藻録』)。
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▲東京初空襲を伝える「東京日日新聞」(昭和十七年四月十九日付夕刊)。
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東京の戦争 その3
●東京初空襲(3)
永井荷風は日記『断腸亭日乗』に、この空襲のことを、
「哺下芝口の金兵衛に至り初めてこの日午後敵国の飛行機来り弾丸を投下せし事を知りぬ。火災の起りしところ、早稲田下目黒三河島浅草田中町辺なりと云」
と書いている。
もっとも荷風の場合、既に昭和8(1933)年8月10日の《関東防空大演習》の時、
「防空演習を見むとて銀座通の表裏いずこも人出おびただしく、在郷軍人青年団其他弥次馬いずれもお祭騒ぎの景気なり」
と皮肉っているくらいだから、この空襲への軍の対応も「役立たず」と思っていたことだろう。
「信濃毎日新聞」主筆の桐生悠々が、同年8月11日付で、「私たちは、将来かかる実戦のあり得ないこと、従ってかかる架空的な演習を行なっても、実際には、さほど役立たないだろうことを想像するものである」
と「関東防空大演習を嗤(わら)う」という記事で述べている。
彼等の冷静な目には、東京上空に敵機が来襲するということは、日本軍の大敗北を意味することが見えていた。
軍部は、この空襲にはショックを受け、4月15日に最終決定していた《ミッドウェイ作戦》(米空母を釣り出し、これを撃滅することを主目的とする作戦)を急ぐこととなったのである。陸軍は、当初海軍中心のこの作戦には反対していたのだが、空襲のショックによって、陸軍兵力を作戦に参加させることに同意した(陸軍は、今回の空襲に深く関係していると思われたミッドウェイ島を攻略・占領することを目的とした)。
一方、当初のねらいどおり、アメリカ軍を中心とした連合軍の士気は上がった。
「アメリカがいつ反撃すること首を長くして待った、つらい日々のあとだけに、信じられないくらい素晴らしいニュースであった。マッカーサーの幕僚たちも歓声をあげたが、なにはともあれ東京に打撃を与えればそれだけ戦争が早く片づくというものであった」(クラーク・リー『これが太平洋だ』)
と、オーストラリアのメルボルンにいたAP通信記者クラーク・リーは書いている。
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▲日本上空のボーイングB29《超・空の要塞 Superfortress》。
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東京の戦争 その4
●本格的な日本本土爆撃始まる。
昭和17(1942)年4月18日に、日本本土の初空襲があってからしばらくは、連合軍の空からの攻撃はなかったが、空襲を諦めていたわけではなく、主な戦場が太平洋上とそこに浮かぶ島々、および中国、東南アジア地域だったのである。
その間も連合軍は、着々と日本本土の空襲による、戦争の早期終結を狙っていた。
第一の目標とされたのは、東京でも、大阪でも名古屋でもなく、北九州だった。というのは、まず最初にB29の基地が造られたのが、中国奥地、四川省の成都だったからである(四川省の重慶までは、日本軍の空襲にさらされていた)。
昭和19(1944)年6月16日、成都の飛行場を米陸軍第20爆撃機兵団所属のB29が飛び立った。
爆撃目標は、2,600キロメートル離れた北九州八幡製鉄所。日本の鉄鋼生産の5分の1を占める大工場である。
「空襲は敵(日本軍)にとって全く予想外の出来事だった。第一波の侵入時に迎撃機もなく、高射砲の発射もなかった。私の乗った第三波の上空到達時、ようやく高射砲と探照灯が作動し始めた。(中略)敵の探照灯は昼のように飛行機を照らし、夜間戦闘機も立ち向かってきた。しかし、探照灯も戦闘機も高射砲も、アメリカの計画的爆撃を阻止することはできなかった。爆弾は目標に命中した」(従軍記者による中国向け放送)。
昭和19年7月7日、サイパン島の日本軍守備隊は全滅した。これに引き続き、テニアン島、グアム島も奪還された。これらの島々には飛行場が拡張建設され、B29による日本本土空襲のベースとなっていった。
昭和19年11月1日、東京上空からの写真偵察のため、B29が初めて姿を見せた。サイパン島に建設された基地から発進した機体である。
「立川の航空機工場で午すぎに、同所の高空にきらきら光って、しきりに旋回している飛行機あり、はてなと思って見ると四発で味方のものとは違う型なので、敵機だな、と思った途端に、附近の高射砲がうち出したという。立川辺の偵察に来たものらしく、写真をとったのだろうという」(伊藤整『太平洋日記(三)』)。
有楽町では徳川夢声も、この偵察飛行を見ていた。
「ガードとガードとの間から晴れわたった空が見え、銀色の飛行機が高く高く飛んでいた」(『夢声戦争日記』昭和十九年十一月一日)。
11月24日からは、この情報を元にした東京への空襲が始まった。
東京は、とうとう本格的な戦場となったのである。
「砲声爆音轟然として窓の硝子をゆする。窓より外を見るに東北の空紅色に染りたり。其方角より考ふるに丸の内辺爆撃せられしなるべし」(『断腸亭日乗』昭和十九年十一月二十九日)
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▲富士山上空で東に進路を変え、東京に向かうB29。
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東京の戦争 その5
●高高度よりの空襲
昭和19(1944)年11月24日、各機約2.5トンの爆弾を抱えた111機のB29が、サイパン島の飛行場を飛び立った(17機が故障でサイパンに戻り、計94機が空襲を行なった)。
B29は、伊豆諸島西方を進み、富士山を目標に伊豆半島を北上、富士山上空で東へ進路を変えて東京に向かった。高度8,200〜10,000メートルの高高度である。
迎撃に上昇した陸軍戦闘機は、敵より高度を高く取ることができず、また、強い偏西風に流されため、まともな攻撃をくわえることができなかった。また、高射砲も東京防衛のために560門を配置していたが、高度10,000メートルまで届く12センチメートル高射砲は30門しかなく、これも戦果を挙げることができなかった。
B29の爆撃目標は、中島飛行機武蔵製作所(現武蔵野市。航空機用エンジン製造工場)であったが、偏西風に流され速度が上がり過ぎたため、目標を爆撃できたのは24機のみ、64機は周辺の市街地や横須賀軍港に投弾。鹿島灘から海上へ出て、帰途についた。
武蔵製作所には48発が命中、130人以上の死傷者を出した。
「十一月二十四日(金)東京へ敵空襲七十機あり
(中略)六機編隊で西北吉祥寺辺から、東南品川方面に向かって敵機が飛び、我方の高射砲弾の音がし、上空で炸裂していた。(中略)薄く雲が出ている中を、敵機も、我方の飛行機も幾台か見えたが、敵機のいるあたりで戦っているのが見えない。敵機は大きい故、かなりはっきりと形が見えるが、よほどの高空を飛んでいるので、その高さまで我方の飛行機は達しないようにも見えた」(伊藤整『太平洋戦争日記(三)』)
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▲「震天制空隊」の二式複座戦闘機《屠龍》。
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東京の戦争 その6
●東京に初めての夜間空襲
昭和19(1944)年11月24日、27日と昼間の空襲でさしたる戦果を挙げることのできなかった第21爆撃機兵団は、29機のB29による初めての夜間空襲を行なった。連合軍は、ヨーロッパ大陸でのドイツ空襲を通じて、既にレーダーを使った夜間爆撃を可能にしていたのである。
11月29日から30日にかけて、東京上空は高度7,000メートル付近の厚い雲の層に覆われていた。したがって、防衛する側にとっては、探照灯が役に立たないばかりではなく、戦闘機も雲の層を突破できず、最悪の状況だった。
この空襲によって、市街地に火災が発生、約9,000戸に被害が出た。
「帝都には敵は一機も入れない。鉄壁の陣だと誇ってゐた軍は、何をしてゐるのだ。ラヂオは『帝都上空』といふのに馴れてしまったではないか。此の惨害を、何うして呉れる。(中略)ラヂオは、今暁B29二十機位の編隊、波状攻撃で、帝都上空高高度より盲爆、数ケ所に火災と伝へたのみ。一機も落とせないのか。かくて東京は何うなる?」(『古川ロッパ昭和日記』十一月三十日)
しかし、日本軍も米軍による空襲を手をこまねいて見ていたわけではない。これより先、11月7日に、東部軍第十飛行師団長から隷下の飛行戦隊に対し、以下のような命令が下されていた。
「一.敵B29は昨今しばしば単機高高度をもって、帝都上空に来襲す。
二.師団は特別攻撃隊を編成し、これを邀撃(ようげき)せんとす。
三.各戦隊は四機をもって特別攻撃隊を編成し、高高度で来襲する敵機に対し体当たりを敢行し、これを撃墜すべし」
この命令によって、東部軍には「震天制空隊」が生まれた(12月5日に命名)。
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▲調布基地の陸軍第十飛行師団第二四四戦隊所属の三式戦闘機《飛燕》。
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東京の戦争 その7
●東京上空の空中戦
当時の日本の航空工業技術は、分野により進展の違いが大きく、エンジン周りでは過給器(チャージャー)の開発が遅れていた。これは、高空の薄い空気の中でもエンジンの性能を発揮させるため、空気を圧縮してエンジンに送り込む装置である。
米軍機にはその装置が取り付けられていたため、B29は高度10,000メートルの高空でも、590キロメートルの最大速度を出すことができたのに対し、日本の戦闘機は高度6,000メートル以上になると極端に能力が低下し、高度を上げて行くのも難しくなり、高度10,000メートルにもなると操縦性能も悪化した。
そのため、「震天制空隊」の戦闘機は武装、酸素ボンベ、防弾板、無線装置などを外して軽量化を図らざるをえなくなり、戦法としては「体当たり」を採るしかなかったのである(《屠龍》で全備重量5,500キログラムの内、200キログラム減らすことができた)。
このような「体当たり攻撃」により、昭和19(1944)年12月3日の空襲では、6機のB29を撃墜、6機に被弾を与えた(86機がサイパン島を発進)。
調布基地の陸軍第十飛行師団第二四四戦隊からは、「震天制空隊」の三式戦闘機《飛燕》4機が邀撃に飛び立つ。
「向うの高度は九千で、私は九千五百メートル。それからずっと接敵して、頭をねらうんです。(中略)結局燃料が切れたので、よしB29のしっぽと胴体の付け根をやったろうと思ったんです。機首を上げ逃げる、その瞬間にB29の左側の尾翼を私のプロペラでガリッとやったんです。(中略)そのうちに、B29はしっぽをやられているから、ずうっと落ちて行ったんです」(「震天制空隊」員中野松美伍長の証言。『歴史への招待21』)。
「爆撃航程始点で旋回しているとき、一二回前方攻撃を受けた。敵機は各三ないし四機編隊で攻撃してきた。同高度四〇〇ヤード(三六五メートル)以内になると撃ってきては、急横転背面急降下で離脱していくのだ。(中略)この爆撃任務飛行でB-29六機を喪失した。このなかには、第五〇〇爆撃連隊長リチャード・キング大佐、第七三飛行団司令部次席参謀バイロン・ブラッグ大佐、および機長ロバート・ゴールズワージー少佐搭乗の一機がふくまれており、目標上空で撃墜されたのである」(チェスター・マーシャル『B-29日本爆撃30回の実録』)
60機のB29は爆弾を目標である中島飛行機武蔵製作所に投下した。
「中島工場と西荻窪の駅やその附近が爆撃され、中央線は不通になった、との話。(中略)今日は敵七十機のうち、十五機を墜したという。これぐらいはいつも撃墜してやりたいものだ。今日は工場のみを狙ったらしく、市内方面には火の手見えず」(伊藤整『太平洋戦争日記(三)』十二月三日)
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▲6ポンドの油脂(ナパーム)焼夷弾(M69)を48発まとめた《E46集束焼夷弾》(レプリカ。埼玉県平和資料館蔵)
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東京の戦争 その8
●夜間無差別爆撃の開始
東京上空で必死の空中戦が行なわれている頃、ワシントンでは航空総軍司令官アーノルド大将が、対日戦の早期終結のため(統合参謀本部は、1945年末までの日本本土上陸作戦を計画していた)、第21爆撃機兵団の司令官をハンセル准将からカーティス・ルメイ少将に代えた。
「アーノルド大将は、かねて焼夷弾をもってする地域爆撃を実施するようハンセル准将に指示していたが、ハンセル准将は精密爆撃を忠実に実行しようとしたのである」(『米陸軍航空軍公刊戦史』)。
これに対しルメイは、ドイツや中国での焼夷弾無差別爆撃の経験があった。
ハンセルは言う。
「われわれの任務は、目視とレーダーによる精密爆撃によって主要な軍事・工業目標に対し継続的かつ断固とした攻撃をくわえることにある」
これに対し、ルメイは言った。
「私は日本の民間人を殺していたのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の家屋はすべてこれ軍需工場だった。(中略)東京や名古屋の木と紙でできた一軒一軒が、すべてわれわれを攻撃する武器の製造工場になっていたのである。これをやっつけてなにが悪いことがあろう」(雑誌「丸」1971年6月1日号)
「爆弾はナパームにかぎる。日本の都市構造物は九〇パーセントが木造で、ナパームにもっとも弱い」
昭和20(1945)年1月20日、ルメイは第21爆撃機兵団司令官に就任した。
これによって、日本に対する空襲が、焼夷弾による夜間無差別地域爆撃の段階に入っていき、《3月10日の東京大空襲》を迎えるのである。
******* 焼夷弾の開発 ********
これより2年前、昭和18(1943)年の春頃、ユタ州の砂漠に奇妙な街並が完成していた。北米スプール材の柱などの構造材、インディアン住居に使われる「アドビ」(日干し煉瓦)の壁でできた木造住宅である。
この建築の指導に当たったのが、帝国ホテルの細部設計に携わったアントニン・レイモンド。今でも日本各地に、彼の設計した建築、東京女子大学講堂や軽井沢の聖パウロカトリック教会などが残されている。
住宅の中には、ハワイから輸入された畳、ちゃぶ台から座布団まで再現されていた。
木造日本家屋の街並再現の発注主は、スタンダード石油開発会社で、米陸軍の大型爆撃機B17がこの町に飛来して爆弾や焼夷弾を投下した。実験は何度も繰り返され,効果的な爆撃方法が研究され,スタンダード石油の技術陣は密集家屋を焼き払うために油脂焼夷弾の改良を重ねた。
この研究により開発されたのが《集束焼夷弾》(IC : Incendiary Cluster)。
E48という、10ポンド黄燐焼夷弾を38発まとめたもの、E46という、6ポンドの油脂(ナパーム)焼夷弾(M69)を48発まとめたもの(前述の実験により、日本の木造家屋には最も効果的との評価が下された)の他に、M17A1という、4ポンドのテルミット・マグネシウム焼夷弾を110発まとめたものなどがあった。
これらは、高度2,000〜5,000フィート(約600〜1,500メートル)で集束が解かれ、広範囲を火の海と化すものだった(1発のE46集束焼夷弾で、幅500フィート×長さ1,500〜2,000フィートに飛散)。また、黄燐焼夷弾や油脂焼夷弾、テルミット・マグネシウム焼夷弾は、爆発と同時に黄燐や油脂などが飛び散り、水を掛けただけでは容易には消火できなかった。
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▲サイパン島のイスレイ飛行場。1944年10月からB29が配備され始め、180〜200機が東京空襲に飛び立って行った。
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東京の戦争 その9
●3月10日の大空襲(1)
昭和20(1945)年2月25日午前7時35分。関東地区に《警戒警報》が発令された。これは麹町区代官町(現千代田区)にある東部軍司令部地下1階にある放送室から放送されるもので、この間、放送会館内の日本放送協会(現NHK)からの放送は中断されることになっていた。
「関東地区、関東地区、警戒警報発令。
東部軍管区情報。
マリアナ基地を発進せると思われる敵B29大型数梯団は、その後、駿河湾上空を北上し京浜地区に向かうもののごとし。
関東地区、警戒を要す」
東部軍司令部から、そう遠くない土手三番町(現千代田区五番町)では、日本郵船嘱託の内田栄造が、自宅で今にも振り出しそうな雪空を見上げていた。
警戒警報は、5分後の午前7時40分には《空襲警報》に変る。
しかし、これはB29の襲来ではなく、米機動部隊を発進した艦上機600機の侵入で、午前10時30分ごろには去って行った。
「朝から雪もよいの空にて、こんな日の空襲はいよいよ物騒なりと思う。午過ぎから雪降り始む。二十二(日)の大雪がまだ残っている上にどんどん積もった。二時二十分再めて空襲警報鳴る」(内田百間『東京焼盡』)。
「東部軍管区情報、空襲警報発令。
敵B29大型梯団は東京上空を旋回中なり」
B29約130機が、雲上からの爆撃を試みたのである。
「午後マリアナのB29呼応して大挙殺到。雪雲暗き東京のはるか上空より無差別盲爆、投弾の音しきりなり」(山田風太郎『戦中派不戦日記』昭和二十年二月二十五日)。
麻布区麻布市兵衛町(現港区)では、永井壮吉が隣家のラジオから流れる《空襲警報》と、その後に起った砲声に耳をそばだてていた。
折からの雪のため、陸海軍の戦闘機は邀撃に出動できず、反撃したのは高射砲だけだったのである。
「砲声起り硝子戸をゆすりしが、雪ふる中に戸外の穴に入るべくもあらず。夜具棚の下に入りてさきざきの事思うともなく思いつづくるうち門巷漸く静になりやがて警戒解除と呼ぶ人の声す。時計を見るに午後四時にて屋内既に暗し。窓外も雲低く空を蔽い音もなく雪のふるさま常に見るものとは異なり物凄さ限りなし」(永井荷風『断腸亭日乗』昭和二十年二月二十五日)。
この日、都内全戸数の10%以上にも及ぶ19万戸に被害が出た。
実は、この爆撃は、ルメイによる大規模焼夷弾攻撃のテストで、450トンの焼夷弾が投下された。この結果、ルメイは、1,700トンの焼夷弾で一都市を破壊できる、というアメリカでの実験結果を実際の爆撃により確かめたのである。
そして、マリアナ諸島の米航空基地では、約400機のB29が、東京空襲のために準備を整えつつあった。
「三月一日、またルメイ将軍の演習任務飛行に参加した。将軍が、われわれ隊員が目標を確実に爆撃する技術を身につけるまで演習をやると言っているところを見ると、どうも本気のようだ。今日、将軍は飛行団の全機を出動させた。私たちは赤道から二度以内の南に飛び、帰途ロタ島に演習用爆弾五発を投下した」(チェスター・マーシャル『B-29日本爆撃30回の実録』)。
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▲上空から見た炎上する東京の街並。
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東京の戦争 その10
●3月10日の大空襲(2)
昭和20(1945)年3月9日午前8時、第21爆撃機兵団司令官ルメイ少将から、隷下の第73爆撃航空団(サイパン島)、第313爆撃航空団(テニアン島)、第314爆撃航空団の各将兵に出撃指令が下された。
「今夜東京を空襲する。目標は、東京北東部市街地の指定された区域だ。ルメイが命令したこの任務飛行の作戦は過去の空襲とは根本的に違うため、ブリーフィングが進行しているあいだ、たいていの者が信じ難い思いで座ったまま呆然としていた」
(チェスター・マーシャル『B-29日本爆撃30回の実録』)。
午後4時35分、グアム島の北飛行場を1機のB29が離陸した。東京の空襲に向かう1番機である。この1番機を含めた12機は《先導機》で、指定された4カ所の《照準点》に焼夷弾を落とし、後続する本体に目標を与える役目だ。
その後も、続々と離陸は続き、グアム、サイパン、テニアンの3カ所の飛行場からは計325(一説には334)機のB29が飛び立った。
《先導機》以外の各B29には、500ポンド(227キログラム)E46集束焼夷弾が24発搭載されている。1発のE46集束焼夷弾は、48発のM69(重量6ポンド)焼夷弾からなっていて、投下すると時限装置によって集束が解かれ、広範囲にM69がばらまかれる。1機が搭載する焼夷弾で、横0.5マイル(0.8キロメートル)×縦1.5マイル(2.4キロメートル)が火の海と化す計算だ。
この空襲では、飛行機を軽くするため、中央射手、右舷射手、左舷射手を乗せず、尾部射手だけを搭乗させていく。これは、今までの東京空襲によって、日本の戦闘機の反撃はさしたるものではない、との判断を司令部が下したことにもよる。
その夜、東京は「烈風北から吹き、硝子戸ががたがた鳴る」気象条件だった(伊藤整『太平洋戦争日記(三)』昭和二十年三月十日)。
3月10日午前0時8分、千葉県の東京湾沿岸、小櫃川河口と養老川河口を目印に侵入してきた《先導機》のB29が、4カ所の《照準点》の空爆を始めた。
第1の《照準点》は、台東区西浅草3丁目(現在の地名。以下同)。
第2の《照準点》は、墨田区本所3〜4丁目。
第3の《照準点》は、江東区白河3〜4丁目。
第4の《照準点》は、中央区日本橋小網町。
《先導機》の落とした焼夷弾は、《照準点》にオレンジ色の巨大な炎を上げ、後続機に目印を与えた。
高度5,000〜7,000フィート(1,525〜2,135メートル)の低空を、炎を目指して、巨大なB29が続々と東京湾から侵入してくる。
下町地区の爆撃を終えたB29は、方角を変えて銚子方面に抜けて行く。
隅田川両岸は、北からの強風に煽られ、たちまち火の海と化していった。
同日午前0時15分、やっと空襲警報が発令された。
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▲夜間空襲の時の焼夷弾の光跡。投下された親爆弾から子爆弾が空中で放出され、燃えながら花火のように落下する。
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東京の戦争 その11
●3月10日の大空襲(3)
空爆開始から7分、空襲警報が発令された時には、もう既に隅田川の両岸はいたるところから紅蓮の炎が上がっていた。
「飛行機が投弾区域に入ると、一帯は真っ昼間のように明るかった。火の海に近づくにつれ、指定区域全体が陰鬱なオレンジ色の輝きに変った。私は、前方の飛行機から投下された焼夷弾が地を打つ光景を見て息を呑んだ。
焼夷弾は、地面に当たった瞬間、沢山のマッチを一度に擦ったように見え、何秒もしないうちに、その小さな焔の群れが集まって、単一の大きな火焔の塊となるのだった。私たちは、なめずる火の先端あたりに荷を一どきに投下して、湧き起こる煙の雲の中に突っ込んで行った」(チェスター・マーシャル『B-29日本爆撃30回の実録』)。
大火災によって、関東大震災の時のような、地域的なつむじ風も発生する。
「無我夢中でひたすら走ったが、突然宙に浮かされた。大火災特有のつむじ風が発生していたのである。ブリキの看板、防火用水のドラム缶、瓦、ごみ箱、あらゆる物が木の葉の様に吹き飛んでくる」(「東京大空襲罹災体験記」)
北からの烈風(一説に風速25メートル/秒)と、この地域的なつむじ風によって、火災は見る見る内に地上を舐め尽くして行く。投弾指定区域の東方は横十間川であったが、この方向では亀戸地区に、南方は仙台堀川を越えて木場地区にまで火は燃え広がった。
「東方の空血の如く燃え、凄惨言語に絶す。
爆撃は下町なるに、目黒にて新聞の読めるほどなり」(山田風太郎『戦中派不戦日記』昭和二十年三月十日)。
煙は23,000フィート(約7,000メートル)もの高さに達し、東京上空のB29の機内でも「焼ける人肉やがらくたの異臭」がしたという。
「東京中を血のように染めて燃えつづけた炎の中を、真っ黒な蛇のようにのたくっていたぶきみな煙」は、翌朝も消えることなく、東京の空にそびえ立っていた(山田風太郎『戦中派不戦日記』昭和二十年三月十日)。
また、上空では乱気流が発生し,投弾指定区域外に爆撃したB29もあった。
その爆撃で麻布にも火災が発生し、永井荷風の偏奇館も焼亡した。
「火は初(はじめ)長垂坂中ほどより起り西北の風にあふられ忽(たちまち)市兵衛町二丁目表通りに延焼す。(中略)谷町辺にも火の手の上るを見る。また遠く北方の空にも火光の反映するあり。火星(ひのこ)は烈風に舞ひ紛々として庭上に落つ。(中略)洋人の家の樫の木と余が庭の椎の大木炎々として燃上り黒煙風に渦巻き吹つけ来るに辟易し、近づきて家屋の焼け倒るるを見定むること能はず。唯火焔の更に一段烈しく空に上るを見たるのみ。これ偏奇館楼上少からぬ蔵書の一時に燃るがためと知られたり」(永井荷風『断腸亭日乗』昭和二十年三月九日)。
午前2時37分、爆撃は終了した。2時間半にわたる三百数十機の大空襲であった。
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▲東京大空襲の後、川から死骸を引き上げる人びと。
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東京の戦争 その12
●3月10日の大空襲(4)
米軍の記録によれば、昭和20(1945)年3月10日、東京に投下された爆弾は、
M47大型焼夷弾 3,683発 126.9トン
E46集束焼夷弾 3,548発 709.6トン
E28集束焼夷弾 4,971発 828.5トン
計1,665トンにも及ぶ焼夷弾が、降り注いだのである。
警視庁資料によれば、この空襲での被害は、
焼失家屋 26万7,171戸
罹災者 100万8,005人
負傷者 4万0918人
死者 8万3,793人(8万8,793人の数字もある)
であった。
しかし、死体のほとんどが原型を留めていないため、鉄かぶとやボタン、がま口の金属部分などから、死者数を割り出したりもしている。このため、行方不明や未確認の死者を含めて、およそ10万人の犠牲者が出たものと推定されている(「東京空襲を記録する会」推定)。
「隅田川にかかる言問橋では、およそ五〇〇〜一〇〇〇近い人々が、猛火に巻きこまれて無念の死をとげ、また日本橋浜町の明治座に避難した人たちは、そのほとんどが屋内で焼死した。被害の中心地では、裸足で焼けたコンクリートの上を走った人たちの足跡が、橋のふちまでつづき、完全不燃の橋上にも、焼死人の血と脂がしみこんで人体状の模様がいつまでも残された。また累々と横たわる死者のなかには、小さな赤子をかばって焼かれた母親の姿が数おおくみられた」(『江戸東京学事典』「三月一〇日東京大空襲」)。
3月10日の朝、千葉県市川市の自宅から、勤め先である日本銀行へ出勤する途中、吉野俊彦は次のような光景を見た。
「亀戸から錦糸町に出るまでには死体の山、隅田川と中川との間の河川には死体が浮かんでいるという惨状で、火は至るところに残り、白木屋はまだ屋上から火をふいている状態であった」(吉野俊彦『「断腸亭」の経済学』)。
東京医専の学生、まだ23歳の山田誠也は、本郷で焼け跡を見た。
「焼けた石、舗道、柱、材木、扉、その他あらゆる人間の生活の背景をなす《物》の姿が、ことごとく灰となり、煙となり、なおまだチロチロと燃えつつ、横たわり、投げ出され、ひっくり返って、眼路の限りつづいている。色といえば大部分灰の色、ところどころ黒い煙、また赤い余炎となって、(中略)この広芒たる廃墟の凄惨さを浮き上がらせている。電柱はなお赤い炎となり、樹々は黒い杭となり、崩れ落ちた黒い柱のあいだからガス管がポッポッと青い火を飛ばし、水道は水を吹きあげ、(中略)縦に、横に、斜めに、上に、下に、曲がりくねり、うねり去り、ぶら下がり、乱れ伏している黒い電線の曲線」(山田風太郎『戦中派不戦日記』昭和二十年三月十日)。
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▲ポツダム宣言の受諾を決断した鈴木貫太郎(1867 - 1948)。
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東京の戦争 その13
●東京への第二次大規模爆撃
3月10日の大空襲によって、本所区はその面積の96%が焼失、深川区、城東区、浅草区も壊滅に近い状態となった。
3月18日、昭和天皇は空襲の罹災地を見て回った(ルートは、皇居→永代橋→深川→業平橋→湯島→皇居)。
「車列は電車通りをさらに東へ進み、小名木川橋の上で停った。ここで、天皇は車を降りて、橋の上から焼け跡を二、三分見た。(中略)車列は被爆地を停らずに、来た時と同じように時速三十六キロで走り抜けて、皇居に戻った」(加瀬英明『天皇家の戦い』)。
しかし、政府および軍部の継戦の意志は変らず、米軍の沖縄上陸を前にした3月21日、小磯国昭首相はラジオで「国難打開の途」と題する放送を行なった。
「硫黄島の喪失(註・3月17日《玉砕》)によって戦場は一層本土に近接、空襲の被害も亦激増するに至る事は争ふべからざる現実であり、今後戦局は内地外地を問はず刻々酷烈の度を加へ来るであらう。(中略)今や帝国の総力を挙げて戦争目的完遂の一点に結集し、敵の物量に体当たりを敢行すべき秋である。」
その小磯内閣も4月5日には総辞職し、7日に鈴木貫太郎内閣が成立した。
4月12日、ルーズベルト大統領が死去し、翌13日には日本でも、そのことが発表された。
「ルーズヴェルトの死は、日本人に相当の衝撃を与えて然るべきである。しかし日本人は、いかなる大ニュースにももはや決して感動も昂奮もしないほどに鍛えられた。(――疲れてしまったのかも知れない)」(山田風太郎『戦中派不戦日記』昭和二十年四月十三日)。
その夜から翌14日にかけて、東京は再度大空襲に襲われた。
「◯昨夜十一時より今晩三時にかけ、B29約百七十機夜間爆撃。
一機ないしは少数機にて波状的に来襲し、まず爆弾を以て都民を壕中に金縛りになし、ついで焼夷弾を散布す。ために北方の空東西にわたり、ほとんど三月十日に匹敵するの惨景を呈し、目黒また夕焼けのごとく染まる」(山田風太郎『戦中派不戦日記』昭和二十年四月十三日)。
「十一時忽ち空襲警報となり、すぐに東の方に火の手上がる。焼夷弾の攻撃にて、続いて方方に火の手上がり、初めの内は真暗だった四谷の側の空にも、つい間近に焼夷弾が落ちるのが見えたと思ったら忽ち烈しい火の手が上がり、天を焦がす大火事となった」(内田百間『東京焼盡』第三十一章)。
「主として山の手を狙ったこの夜の空襲は、省線電車の大部分を不通にし、これまでほとんど無疵であった山の手の町々を大きく焼き払った。四谷の半分は失われたという。麻布の霞町、牛込の神楽坂から江戸川べりにかけて、新宿の駅前、高円寺と阿佐谷の間、中野と東中野の間、それから板橋、滝ノ川等は最もひどい損害だったという」(伊藤整『太平洋戦争日記(三)』昭和二十年四月十八日)。
「裏の家に焼夷弾が落ち、はじけるようなすさまじい音がして炎が吹き出しはじめたので、用意のリュックサックをかついて大通りに出ると、すでに両側の家並に炎が逆巻いていた。
日暮里駅の長い跨線橋を渡り、谷中墓地に入った。避難した人が多くいて、参詣道や大小さまざまな墓碑のかたわらに立ったり坐ったりしている。
(中略)
町が火の海になり、夜空が朱の色に染まった。きらびやかな朱色だった。
私は、不思議なものを見た。満開の桜の花が空の朱の色を反映してピンク色に染まっている。つらなる桜樹の花がすべてピンク色で、それは妖しいほどの美しさだった。
その上をアメリカの四発爆撃機B29が通りすぎた。なぜあのように超低空で飛んだのか、空を圧するような巨大な機体が爆音をとどろかせて通過してゆく。その機体が町の炎の色と光を反射して玉虫色に光り、これもみはるような美しさだった」(吉村昭『昭和歳時記』)。
この大空襲は、計330機(352機説もあり)が二日に分れており、13日は東京西部の赤羽(赤羽兵器廠があった)、豊島、王子、小石川、荒川、四谷、牛込など、15日は大森、蒲田から京浜工業地帯を爆撃した。
この東京への第二次大規模爆撃で、約22万戸の家屋が焼失した。
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▲米軍が空中から散布した「空襲予告ビラ」。『戦中派不戦日記』5月21日の項に「正午B29一機来りて、神田方面へビラを撒けり」とある。この記事によれば、ビラには「日本人を幸福にするは降伏あるのみ」「B29は無敵なり」など何種類もあったようだ。
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東京の戦争 その14
●東京山手大空襲(1)
昭和20(1945)年5月になると、東京下町地域への大空襲が3月10日の《陸軍記念日》(日露戦争での「奉天大会戦」の勝利を記念して明治39年に制定された)だったことから、市民の間には、次は5月27日の《海軍記念日》(「日本海海戦」の勝利を記念して制定)が危ないとの噂が立っていた。
しかも4月13、15日の大空襲以来、「沖縄戦たけなわの間、東京への大きな空襲は無く、敵のB29は専ら九州、四国、中国方面の我基地を襲っていた」のだが、5月14日には名古屋が空襲にあい、「いよいよB二十九の大都市爆撃が一ケ月振りで再開されたのである」(伊藤整『太平洋戦争日記(三)』昭和二十年五月十七日)。
「名古屋をやれば東京へと続いて来るにきまっている」(同上)。
山手地域を目標とした大空襲は、《海軍記念日》の3日前の5月24日に行なわれた。
525(一説には562)機のB29による、従来以上の大空襲であった(3月10日が約300機、4月13日が330機)。
目黒に下宿していた山田誠也は、次のように書く。
「遠く近く、ザアーアッと凄じい豪雨のような焼夷弾散布の音、パチパチと物の焼ける響。からだじゅう、もう汗と泥にまみれていたが、恐怖はみじんも感じなかった。空は真っ赤になって、壁には自分たちや樹の影が映っていた。(中略)
突然、土砂のふってくるような物凄い音が虚空でして、すぐ近いところでカンカンと屋根に何かあたる音が聞えた。防空壕の口に立っていた自分は、間一髪土煙をあげてその底へすべり込んだ。仰むけになった空を、真っ赤な炎に包まれたB29の巨体が通り過ぎていった。(中略)
ときどき仰ぐ空には、西にも東にもB29が赤い巨大な鰹節みたいに飛んでいる」(山田風太郎『戦中派不戦日記』昭和二十年五月二十四日)。
この空襲で、渋谷、目黒、大森、蒲田、荏原、芝区の大部分、赤坂、杉並、世田谷区の一部、本郷区などの焼け残りの市街が焼かれた。
しかし、空襲を免れた地区も、翌25日夜から26日にかけての空襲で、追い討ちをかけられるようにして大被害を受ける。
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▲東京の空襲のありさまを記録した、内田百間『東京焼盡』(中公文庫版カバー表紙)。
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東京の戦争 その15
●東京山手大空襲(2)
昭和20(1945)年5月24日、昨夜の空襲を免れた内田百間は、夫人に、
「敵の飛行機が如何に残虐であってもこの小さい家をねらうと云う事はあるまい」
と話しかけた。それに応えて、
「そう云えばお隣の立ち樹一本ですものね」
という返事が戻ってきた。隣が軍需大臣の邸で、樹々が長い列になって内田家までつらなっている。その一本にしか相当しない程の小さな家である、という意味なのだ。
月齢十二日の月が、麹町区五番町の小さな家を照らしていた(内田百間『東京焼盡』第三十七章より)。
5月25日、この日の東京は朝からの上天気で、警戒警報や空襲警報が何度か出たものの、夜までB29の姿を見ることはなかった。
前夜、目黒で罹災した山田誠也は、防空壕を掘り返して貴重品を取り出そうとしていた。
「しかし、結局出て来たものは、焼けた靴、中の服やシャツや着物も焼けこげたトランク、行李、半分灰になった医学書など、モノらしいモノは何も出て来なかった。奥の方に毛布や蚊帳があるはずなのだが、まだ熱く、煙がひど」い(山田風太郎『戦中派不戦日記』昭和二十年五月二十五日)。
夜になって、午後10時5分に警戒警報が発令された。
「今晩の様な気分の時にはぐっすり眠りたいと思ったが仕方が無い。後続目標ありと云うのですぐに起きた」(内田百間『東京焼盡』第三十七章)。
10時23分、空襲警報になった。
「すぐに向うの西南の方角の空は薄赤くなったが、それよりも今夜は段段に頭の上を通る敵機の数が多くなる様であった」(同上)。
「敵はまず照明弾を投下して攻撃を開始した。
三十分ほど後には、東西南北、猛火が夜空を焦がし出した。とくに東方――芝、新橋のあたりは言語に絶する大火だった。中目黒のあたりも燃えているらしい。
ザァーアッという例の夕立のような音が絶え間なく怒濤のように響く。東からB29は、一機、また二機、業火に赤く、また探照灯に青くその翼を染めながら入って来る。悠々と旋回している奴もある」(山田風太郎『戦中派不戦日記』昭和二十年五月二十五日)。
この夜来襲したB29は、502機。中野、四谷、牛込、麹町、赤坂、本郷、渋谷、世田谷、目黒、杉並の、まだ空襲を受けていない地域で、焼夷弾3,000トンが一気に投下された。
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▲東京山手大空襲で被害を受け、横浜方面へ避難する人々。
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東京の戦争 その16
●東京山手大空襲(3)
昭和20(1945)年5月25日夜。
玄関に置いてある非常持ち出し用の荷物を、いつものように外に持ち出した内田百間は、このような光景を目にした。
「焼夷弾が身近に落ち出した。B29の大きな姿が土手の向う、四谷牛込の方からこちらへ今迄嘗つて見た事もない低空で飛んで来る。機体や翼の裏側が下で燃えている町の◯の色をうつし赤く染まって、いもりの腹の様である。もういけないと思いながら見守っているこちらの真上にかぶさって来て頭の上を飛び過ぎる。どかんどかんと云う投弾の響が続け様に聞える」(内田百間『東京焼盡』第三十七章)。
百間夫妻は、表の防空壕に避難する。しかし、焼夷弾は次々と落下してくる。
「大谷の家が見通しになって、その裏に白い色の◯が横流しに動いているのが見えた。もう逃げなければいけないと考えた。ひどい風で起っていられない位である。土手の方へ行こうと思ったが家内が水島の裏へ抜けた方がよくはないかと云うのでそれもそうだと思い、裏の土手の途へ出た。二人共背中と両手に荷物が一ぱいなので、ただでさえ歩くのが困難である。その上風がひどく埃と灰と火の粉で思う様に歩けない(中略)
一息休んでいる内に、一寸家の様子を裏から見て来ると云って家内を一人置いて、水島の裏へ行って見た。大きな火柱が立っている。多分私の家だろうと思ったけれどはっきり見定める事はできなかった」(同上)。
午前1時、空襲警報が解除になった。
しかし、大火災が収まったわけではない。
「空襲警報解除になった後、火勢は愈猛烈になった。私の家が焼けたのは十二時前後、多分十二時より少し前ではないかと思う。未だ立ち退かぬ少し前に新坂上の朝日自動車と青木堂の四ツ角に焼夷弾のかたまりが落ちたらしく、こちらから見るその辺りの往来一面が火の海になった」(同上)。
午前五時頃、太陽が東から顔を出した。
「双葉(学園)の前の土手の腹で夜が明けた。薄雲だか大火事の煙だか灰塵だかわからぬものが空を流れている。(中略)九時近くなって雨が降り出した」(同上)。
煙や灰塵が上空の大気を刺激するのか、空襲の後には雨が降ることが多い。
百間は、この後、丸の内まで歩いて勤めに出る(この時代、日本郵船の顧問に就いていた)。
一方、3月10日の大空襲で偏奇館を焼け出され、東中野の作曲家・菅原明朗(夫人は歌手の永井智子。その間に生まれた娘が小説家の永井路子)の住むアパートに一室を借りた永井荷風は、またもこの夜の空襲で住いを失うことになる。
「爆音砲声刻々激烈となり空中の怪光壕中に閃き入ること再三、一種の奇臭を帯びたる煙風に従つて鼻をつくに至れリ。最早や壕中にあるべきにあらず。人々先を争ひ路上に這ひ出でむとする時、爆弾一発余らの頭上に破裂せしかと思はるる大音響あり。無数の火塊路上到るところに燃え出で、人家の垣牆を焼き始めたり。(中略)遠く四方の空を焦がす火焔も黎明に及び次第に鎮まり、風勢もまた衰へたれば、おそるおそる煙の中を歩みわがアパートに至り見るに、既にその跡もなく、唯瓦礫土塊の累々たるのみ」(永井荷風『断腸亭日乗』昭和二十年五月廿五日)。
以後、荷風は東京を離れ、明石、岡山と移り住むことになる。
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▲空中から見た東京の状況。画面上が隅田川。左の橋が両国橋、右の橋が新大橋。
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東京の戦争 その17
●大空襲の後
この後、5月29日(横浜を襲った編隊が、東京南部に投弾したもの)を最後として、大規模な空襲は東京に加えられることはなかった。というのも、
(東京は全市街の50.8%を焼失し)「名古屋とともに焼夷弾攻撃リストからはずされた」(『米軍戦略爆撃調査団報告書』)
からである。
警視庁の発表によれば、昭和19(1944)年11月24日から、昭和20(1945)年8月15日までの空襲の規模は、以下のとおり。
◯来襲敵機:延べ4,347機
◯投下された通常爆弾:1万1,642発
◯投下された焼夷弾:38万8,741発
◯死者:9万5,996人
◯負傷者:7万791人
◯被害家屋:760万6,615戸
◯罹災者:286万1,882人
しかし、資料(『東京都調査資料』)によれば、死者行方不明者合計は25万670人(内死者9万2,778人)で、9万人近い差がある。
かように実態は確実になってはいないが、『東京都調査資料』の数字以下であることは、まずないであろう(「東京空襲を記録する会」推計によれば、死者11万5,000人以上、負傷者15万人)。
中野で罹災した永井荷風は、東京を去って行った。
五番町の家を焼失した内田百間は、隣家の「塀の隅」にある「三畳敷きの小屋」に仮住いすることになる。
「一畳は低い棚の下になっているから坐ったり寝たり出来るのは二畳である。天上も壁もないがトタンの屋根の裏側には葦簾が張ってあり、壁の代りに四方みんな蓙を打ちつけてある。二枚ある硝子窓のカーテンも蓙であ」(内田百間『東京焼盡』第三十八章)った。
目黒の下宿を焼け出された山田誠也は、知り合いを頼って山形県へ。
「京橋から地下鉄で上野にゆく。上野駅の地下道は依然凄じい人間の波にひしめいていた。
汽車にのってから気分が悪くなり、窓から嘔吐した。越後に入るまで、断続的に吐きつづけた。水上温泉のあたり、深山幽谷が蒼い空に浮かんで、月明は清澄を極めていたが、苦しくて眠られず、起きていられず、悶々とした車中の一夜を過ごした」山田風太郎『戦中派不戦日記』昭和二十年五月二十六日)。
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▲昭和20(1945)年8月15日の皇居前広場。
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東京の戦争 その18
●それぞれの8月15日(1)
昭和20(1945)年8月15日。
ラジオが正午の時報を告げた。
「これより畏くも天皇陛下の御放送があります。謹んで拝しまするよう。
起立!」
アナウンサーの号令に引き続いて「君が代」が流れる。
曲が終わり、昭和天皇の放送が始まった。
「朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セント欲シ……」
内田百間は、上着を羽織り、隣家のラジオの前に坐っていた。
「天皇陛下の御声は録音であったが戦争終結の詔書なり。熱涙滂沱として止まず。どう云う涙かと云う事を自分で考える事が出来ない。今日の新聞は右の放送後に配達せられる事になり時間が遅かったので今暁の空襲の記事あり。来襲のB29は二百五十機にて福島新潟関東及び東北の各地に焼夷弾攻撃を加え又昨日は大阪広島へも二百五十機が来襲している」(内田百間『東京焼盡』第五十六章)。
この日も、東京に空襲はなかったものの、全国各地への空襲は続いていたのである 。
千葉県の叔父の元にいた安岡章太郎は、山梨県の身延まで買出しに行くべく駅まで出た。
「市川駅までくると、また空襲警報が出て、しばらく駅の構内で足止めをくったが、十二時少し前に解除になった。僕は、最初の上り電車に乗ったが、亀戸までくると、車掌が臨時停車するから乗客は全員下車するようにと言いに来た。焼け落ちて屋根もないプラットフォームの電柱にスピーカーが着けてあり、乗客はそのまわりに集った。
初めて聞く天皇の声は、雑音だらけで聴き取り難かった。それが終戦を告げていることだけはわかったが、まわりの連中はイラ立っていた。突然、僕の背中の方で赤ん坊の泣き声が聞こえ、頭の真上から照りつける真夏の太陽が堪らなく暑くなってきた。重大放送はまだ続いていたが、母親は赤ん坊を抱えて電車に乗った。僕も、それにならった」(安岡章太郎『僕の昭和史 I 』)。
鎌倉在住の高見順は、黒い灰を目撃する。
「黒い灰が空に舞っている。紙を焼いているにちがいない。――東京から帰って来た永井君(永井龍男)の話では、東京でも各所で盛んに紙を焼いていて、空が黒い灰だらけだという。鉄道でも書類を焼いている。戦闘隊組織に関する書類らしいという」(高見順『敗戦日記』八月十六日)。
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▲玉音放送を聴く人びと。
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東京の戦争 その19
●それぞれの8月15日(2)
成蹊学園の高校生(旧制)だった宮脇俊三は、米坂線の今泉駅前で、玉音放送を聴いた。放送が終わると、女子の改札係が列車の到着を告げた。
坂町行きの列車がホームに入ってくる。
彼は、
「こんなときでも、汽車が走るのか」
と信じられない思いだった(宮脇俊三『時刻表昭和史』『私の途中下車人生』)。
国鉄内部でも8月15日に、混乱はなかった。
「上野駅前の焼け残りの街はいつもと同じで静かだった。人通りも車もほとんどなく、走っているのは都電だけだった。夕方、私は広小路まで新聞を買いに行った。舗道に折りたたみの台を置いた売り子から新聞を買った私は、読みながらゆっくり帰った。西郷さんの銅像の下は高い石垣だったが、その前の舗道を歩きながら私は朝日新聞一面の、『戦争終結の大詔煥発さる』『畏し、万世の為太平を開く』『国体護持に邁進』『新政厳たり随順し奉る』『大方針決した刹那の尊きその光景を拝察する時』『われわれは皇国に生を享けた感激に鳴かざるを得ない』という字を読んだ」(向坂唯雄『機関車に憑かれた四十年』)。
しかし、翌16日になると一転して、
「十五日すぎの乗務員交番はもうめちゃめちゃだという。運休するダイヤもあるし、出てこない乗務員もいるし、発車時間になったらそのへんにいる者をつかまえて乗せる感じで、誰がどのダイヤに乗ったか、分っちゃいない」(同上)。
すでに、《戦後》の混乱が始まっていた。
16日の新宿は、
「きのうは自粛していた尾津組の露店が、きょうは表の電車通りに沿って立ち並び、そのまわりに盛り場の活気めいたものが、何とはなしに漂っていた。(中略)
もう一度、表通りにもどって、焼ける前のおもかげの残っていそうな店を探しながら歩いていると、伊勢丹が店をあけているのが眼についた。べつに買い物をする気はなかったが、通りを横切ってなかに入った。勿論、ロクな商品らしいものは何もなかった。昔、呉服ものや洋服生地が並べてあったショーウインドウには、水に濡れるとすぐ紙のように溶ける代用繊維の作業衣やカッポウ着が、陰気に所在なげにブラ下がっているだけだった」(安岡章太郎『私の昭和史 II 』)。
世田谷の陸軍病院では、陸軍軍曹中井英夫が、腸チフスの疑いで入院していた。彼は、8月15日に起ったことも知らぬまま、高熱による昏睡状態で9月まで過ごすことになる(中井英夫『彼方より〈戦中日記〉』)。
彼が目を覚ましたとき、見知らぬ《戦後》はとうに始まっていたのである。
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