2005-04-10 Sun
■この国で「リベラル」であること。
最近の風潮なのか、こちらがそう思わされることが多くなったのかはともかく、いわゆる「リベラル」「左翼」とされる人々のほうが狭量だったり、考え方が硬直していたり、敵・味方をはっきりさせたがるように見えることが多いのはなぜなんだろう。なんだかとても不寛容だな、と思うことが多いのだ。
ネットでの「ウヨ」「サヨ」だのの話題について考えるときには、まずここからはじめないといけないように思う。
「フィギュア萌え族」の大谷昭宏もそうだったし、事例はほかにも事欠かない。
大谷氏は一般には「弱者の味方」であり、「リベラル」と見られていたと思うんですが、違うんですか。
あと攻撃的な嫌味とか、誰ソレは誰ソレとつきあってる/つながっているからダメ、とする態度もあるか。これはどういう政治的な態度を取るかとは別の特性かもしれないけれど、でもこの国でいう意味の「リベラル」な態度を貫こうというのであれば、それだって変だ。いずれにせよ、狭量にすぎるし、人と人がいかに関係性を紡いでいくかということがお留守になっている感じがする。
まあ、あえて具体的な事例は例示せずにおくけれど、身に憶えのあるひとはあるだろうし、あるいは「自分のこと」とは思わずとも、無意識的には気づいていて、伊藤は何をいいだすんだと、ぼくに対して攻撃的に出るひともいるかもしれない。
そんな行動こそ、そのまんま「語るに落ちる」というヤツだけれども。
「リベラル」ってのは「ひとの話をよくきき、自分の意見はきちんと相手に伝わるようにいう」という態度を取るもんじゃないんですか。
あと、「異議申し立て」「権利の主張」「体制や権力への懐疑」の重要さはたいへんよく承知しているんだが、これらと「ただの混ぜっ返し」「通らないと自分でも分っている主張への固執」「とにかく成功したもの、力を持ったものへの僻み・妬み・嫉み」とはどう区別すればいいんだろうか。
現状では、これらのひねくれた姿勢・すねた態度を排除する方法がないように思える。
それは、仕方がないことなんだろうか。
でも、そうだったとしたら「リベラル」の側は最初から負け戦をしていることになるし、それは自業自得でしかなくなってしまう。
誰かおしえてください。
ぼくは「リベラル」でありたいんです。その姿勢のうちへの「ひねくれた心」の侵入は、どうやったら食い止められるんですか。
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kocteau 『泥炭や目無炭は無いの?』
goito-mineral 『ナイ。』
naozane 『『革新ポーズで心情保守』が団塊世代の特徴です。
というかもうお爺さんですね。現役と勘違いしてます。』
goito-mineral 『団塊に限らず、「いつも革新」という態度への固執が、思考や振る舞いの硬直を生むという図式はあるんじゃないかと。
これは、微妙に翌日(4月12日)のエントリーにも関わる話題ですね。』
kotoba_mamoru 『理解される事よりも理解する事を求めれば良いのです。
勿論、理解する事と屈服する事は違いますので、誤っている事
には、「違う」と言えば良いのです。
大谷氏の世代にとっては、我々の様にネットで見知らぬ人間と
匿名で意見を交換する事自体が、とてつもなく気味が悪い
行為ではないかと思われます。
現に、「昔は仲良しが連れ立って飛び降り自殺をしたものだが、
ネット心中にはそういった人間的な繋がりがない。だから
厳罰化するべきだ」という意味の事を書いています。
しかし、心中や自殺幇助にネットを使うというだけで
やみくもに「厳罰化」を叫んでいるのは、単なる「恐れ」の
現れの様にしか私には見えません。
擬似恋愛に救いを見いだし、「もう人間の女性なんて要らない」
という恋愛弱者たちを「萌え族」と呼んで恐れ、猟奇的殺人者と
混同してまで攻撃するのも、きっとヒステリックなまでの恐れ
が原因だと思います。
ただ、誰でも自分の意見の裏側に恐れやスネやヒネクレが隠れ
ているのは、当然と言えば当然の事なのではないでしょうか?
それを自覚さえしていれば、無茶な暴論に走る事もなくなると
思います。』
goito-mineral 『少々ことを整理せずに書いてしまったところがあるんで恐縮なんですが、おっしゃる通り意見表明に「すねる気持ち」や「ひねくれる気持ち」が潜むのは、どこでも起こることだと思います。もちろん、それを自覚することが大切だし、同時にとても難しいことだと思います。
ではあるんですが、社会の「問題」を発見し、摘出し、それについて声高に語る姿勢が習い性になってしまったり、もっと強く固着してしまった場合、「すね」や「ひねくれ」を自覚することが難しくなってしまうんじゃないかということなんですね。それは保守・革新問わずついて回る話なんですが、とくに「異議申し立て」がなされている場合「それは『すね』でしょう?」と指摘することはたいへん難しいことです。まず不可能ではないかと思います。
それは「正当なうらみ」と「逆うらみ」の峻別が第三者には困難であること(あるいは、すべきではないこと)と、そういう局面で、どうしても人間にはその「困難さ」を逆手にとってしまうところがあることに由来するのではないかと考えています。』
kotoba_mamoru 『例えば人形を趣味とする私の場合、高崎事件で犯人の人形が
テレビで曝された事とフィギュア萌え族の問題が、肉親との
関係悪化の一因となった事が、まとめサイトを作って抗議する
動機の1つになっていますが、これが正当なうらみか逆うらみ
かは、検証のしようがありません。逆うらみであるならば、
日頃から自分の趣味への理解を得る努力を私が怠っていた事に
なります。現に高崎事件直後に言われた事は「これが殺人犯の
人形か!お前、誤解されない様にしろよ」だったわけですが、
これが、「お前が『誤解だ』と言いたくなるような受け止め
方を俺はしているぞ」という意味なのか、「お前は殺人犯と
同類だと思われない様に努力するべきだ」という意味なのかは
判らないわけです。ただ、大谷氏の「フィギュア萌え族」と
いう妄言が、私の「理解を得ようとする努力」を挫くもので
あり、現実に被疑者が逮捕されて妄言だと確定していなければ、
肉親と腹を割って話す勇気は到底出なかったでしょう。
私に、スネやヒネクレや恐れが無かったとは言いません。
しかし、マスコミの報道の方が、離れて暮らしている肉親の
弁解よりも説得力を持ってしまうという状況について、罪は
どこに問えばいいのでしょう?
被疑者が人形マニアでなかった事によって、私はようやく
報道被害について抵抗する勇気を保つ事ができたと思います。
逮捕されないか、現実に人形マニアであったならば、そういった
勇気さえ挫かれていたと思います。
恐れ、スネ、ヒネクレが、問題意識のキッカケになる事自体は、
悪い事ではありません。社会の「問題」に対して、自分の立場
を「絶対正義である」等と誤解しない限り、「問題」の向こう
側の立場に居る人を、闇雲に傷つける様な「異議申し立て」は
できないのではないでしょうか?
「フィギュア萌え族」は、大谷氏や一部のマスコミ関係者の中
にあるネット世代やオタクに対する過剰なまでの「恐れ」や
「不気味に思う気持ち」が生み出した「申し立て」なのです。
そこには、自分を「正義」としつつ「視聴率を取る為に面白
おかしく」という姿勢になっているという問題があります。
おそらく、時代の潮流となっているネットやオタク産業に
対する、老いたマスコミ人たちの恐れ、スネ、ヒネクレが
存在しているのでしょう。
その溜飲を下げようとして「面白おかしく」する事で視聴率を
取れると勘違いしているのです。そこまで自分達の公益性を
過信している訳です。
問題は第3者にどう見えるのかですが、どの様な問題についても
「完全な第3者」を設定する事は不可能であって、この例では、
大谷氏を信望する人にとっては「オタクの逆恨み」、オタクや
ネット世代にとっては「マスゴミの不当な仕打ち」としか
なりえないでしょう。
ただ、明らかな誤りを主張する者に対して、後世に良い評価は
与えられません。宮崎勤は10万人も居ませんし、今回オタク
産業が打撃を被ったという事も特にはないと思います。
この様に、「異議申し立て」を行う者が、負の感情に負けて
不当な手段に訴える事は、その者の申し立て自体を負けさせる
結果に繋がると、私は思うのです。
だから、「ひねくれた心」は追い出せなくても、明らかな誤りに
基づいて主張する愚を犯さないかぎり、自らの思うところに
適う主張を続ける意味はあると思います。』
goito-mineral 『ようは、自覚できてればいいと思うんですよ。だけど、とかく「革新」とか「弱者の正義」とかいった旗印のもとに、たとえば「運動の論理」に嵌まり込むと、自分でも薄々「これは逆恨みなんじゃ…」と気づいていても、方向転換ができなくなったり、ホントにただの逆恨みでしかない人間(またこういうのの声がでかかったりする)に引っかきまわされたりするんですね。
私が「すねる」「ひねくれる」といっているのは、目的と行動との齟齬として現れているもの、といいかえてもいいですね。幼児教育の世界では「素直な子」というのは「表情や行動と感情に差がない子」という意味だそうです。それに近い考え方です。
別に私は「異議申し立て」をすること自体を退けているものではありません。「怒り」は大切です。けれど、それを継続して続ける際に、その「問題」に固着するうちに出てくる態度の問題を指摘しているのです。それがたとえば「不寛容」だったりするわけです。大谷昭宏は、こうした問題系とは別に「電波芸者」という商業的な側面があるので、「不寛容」の例として最近の大塚英志を例にあげておきましょう。このところの「新現実」での森川嘉一郎、安彦良和との対談、「小説トリッパー」での斉藤環への対談などです。』
kotoba_mamoru 『大塚英志氏については不勉強なので調べてみたのですが、「おたくの精神史」を書いた人ですね? なるほど、私自身は宮崎勤と同一視されない為に「おたく」と呼ばれる事を拒否していましたし、確かに90年代前半までは「おたく」「オタク」は蔑称でした。そう仕向けた政治やマスコミを許せないという気持ちは確かに判ります。私自身が微力ながら大谷昭宏氏批判で行動しているのには「今の若いオタクたちに同じ思いをさせたくない」という気持ちもある訳です。オタクが世代を重ねて市民権を得てきたにも関わらず、未だに気味悪がられているのも現実でしょう。私にルサンチマンが無いとは言えないし、ネットがマスコミにとって換わる事に期待してしまうのもニーチェが言う所の「力への意思」なのだと思います。私自身は今まで槍玉にされてきた同人ポルノコミックには嫌悪感がありますし、それを叩く側の欺瞞にも無知でした。私自身はアニメアニメした表現からは一線を引いて叙情的な肖像画に価値を見出してきた訳ですが、その延長として辿りついた人形の世界が、いきなり小児性犯罪と関連付けられてしまった事に当惑と怒りを感じた訳です。これが私個人の精神史ですので、「オタクを迫害する者との全面戦争」を主張している訳ではありません。私が肖像画や人形に求めている「穏やかな癒し」の様なものとして認識している「萌え」と、若い世代のオタクたちにとっての「萌え」には差が有るのではないかと感じてはいます。しかし、「宮崎勤」というステレオタイプから離れた所に「自分の美学」を追及してきた(広義の)オタクの一人として、辿りついた先にマスコミが回りこんできて、再び「小児性犯罪者」のレッテルを貼り付けようとしている… 私がマスコミに対して抱いた感情は「いい加減にしてくれ!」だったわけです。故にNGO-AMIとは違う人形愛好家としての立場で行動を起こしたのです。ただ、私がこうして独自の「異議申し立て」を行う事で失ったものは、(広義の)オタクとしての自分を楽しむ時間だったと思います。「異議申し立て」自体を楽しむ様になってしまえば、単なるクレーマーと何処が異なるのだろうかと思う訳ですよ。本当に守りたい「心の平安」を乱してまで「申し立て」に注力するのは本末転倒ですからね。仰るように「問題に固着するうちに生じてしまう態度の問題」は指摘されなければならないと思います。』