国家主義または国民主義そしてナショナリズムの訳であるこのイデオロギーほど20世紀に決定的な役割を果たしたものは他にない。国家主義そのものは単純で、国民の住むむ領域=国境内で政治方針(軍事・外交)は統一され目的は国益=国民益を計るべきだ、という誰にも理解しやすいものである。
国家主義の反対概念は国際主義にほかならない。そして国際主義の多くはは汎民族主義・大国家主義の形をとって帝国として現れる。帝国(主義)も近世史上は二つあって海外殖民地を有する帝国と、一つの領域に二つ以上の民族を抱える帝国とである。英独仏が殖民地帝国でロシア帝国・ハプスブルグ帝国・オスマン帝国は後者いわば旧式の帝国であった。
第1次大戦はロシアとハプスブルグ帝国のトラブルが英独仏を巻き込んで発生した。英独仏は殖民地帝国であったが同時にヨーロッパでは国民国家でもあった。ただし英はアイルランド問題を抱えておりこの部分は旧式の帝国部分である。
国家主義について最初に警報をならしたのはドイツの哲学者パウルゼンではなかろうか。彼の1902年の言葉である。
「過度に刺激された国家主義が、ヨーロッパのあらゆる民族にとって、非常に重大な危険になっている。人々は、国家主義をこえた人間的価値にたいする感受性を失う危険に陥っている。極端に走れば、国家主義は信条主義(コンフェッショナリズム)と同じく、倫理的良心ばかりか論理的良心をさえも破壊する。正と不正、善と悪、真実と虚偽はその意義を失ってしまう。人々は、他の国民がそれを行う場合には恥ずべき非人間的行為と呼ぶものを、他の国民にはそれを加えよと、主張するのである。」
愛国主義は自国民または自民族と関係なく単純に国を愛する。ここでは人種、宗教、文明(?)の差は感じられない。この愛国主義はしばしば国際結婚をした貴族が民族の相違を克服し国益のみに拘泥することの愚かさを理解し衝突の調停に努めることで示される。
国家の対立は最大のものは領土だが、領土以外でも対立する民族は数百年前の相克を原因として対立する。しばしば始めに対立があってあとから領土問題がでてくる。そして係争の土地はしばしば無価値である。民族が一国家でまとまり、徴兵の軍をもつと対立は極度のものとなる。人々は国内の対立を忘れ敵の打倒に集中する。そこでは祖国への忠誠のみが叫ばれ、他の文化的な共通性は捨てられる。
文明の衝突による戦争など近世以降存在しない。戦争は現在でも相変わらず国と国の間の衝突である。戦争が内乱であってもどちらか一方は国である。国=民族となった時、大衆が戦争に熱狂する。そしてその大衆によって組織された軍が最強である。そして大衆を熱狂させることができない政権は確実に権力の座から転落する。そして熱狂させるのも時間との戦いであり、より長く何年もの間大衆の熱気を維持した方が最後の勝利を得る。
国家主義の定義は難しい。おそらく国の数以上種類はあるのだろう。ただ歴史に現れる重要なものは大国の国家主義である。またはっきりさせねばならないが、世界(平和)を忘れた国家主義は超国家主義に転落する可能性がある。これの意味は二重である。つまり侵略を伴う積極的なものと、他国の出来事に無関心を示す消極的なものに分かれる。
そして、大国の超国家主義は世界平和に危険を及ぼす。そして大国とは日・英・米・独・仏・露の5国であり、それは第1次大戦終了より現在に至るまで変化はない。
また消極的な国家主義とは別名孤立主義または最近の命名では一国平和主義だ。孤立主義は第1次大戦後のアメリカの政策であり、一国平和主義は第2次大戦後の日・独の社会主義者の主張した政策である。大国は世界平和に責任をもつ必要がある。日独が第1次大戦と第2次大戦で第1弾を撃った(=侵略)ことを忘れてはならない。
軍事力が国家の裏付けがなければ成立しない以上、文明の単位で軍事力をどうして組織できるのか。もちろん相克は歴史に裏打ちされているから、同じく歴史に支配される文明によって国家が同盟を組むことは多い。しかし同じ文明に属していても、対立は発生する。第1次大戦が好例だ。そして対立だからそもそもあまり文明的とはいえない。独仏の対立と文明を考えれば同じ文明のなかでどちらが代表するのかという動機での争いだったとも言える。国家主義が20世紀で終了したとはとても言えない。むしろフランス大革命以来連綿と根幹をなす国家運営の方針であり続けた。
アメリカ人は自国の運営が国家主義に基づいてなされていることを認めたがらない。ときおり外交はアメリカの国益に基づいて実行していると議会で討論される程度だ。その意味では健全な国家主義であるのに過ぎない。繰り返すが国家主義は資本主義と同じく、民主化・工業化のなかで自然発生する。アメリカ人の論証はしばしば国家以外の要因すなわち、人種・文化・制度(この合計が文明かもしれないが。)を持ち出す。まだ超j国家主義の経験がないためだろう。
国家主義は政治家・知識人と大衆では違う。大衆の国家主義はサッカーの応援やオリンピックでの興奮と大差はない。イギリスの歴史家Z.スタイナーは第1次大戦の原因は英国男性が長い間の平和に倦み、フランダースの地獄で男らしさを発揮したかったためだ、と述べる。
国家主義の父は民主主義である。大衆が選んだ政権が他国に攻められた場合大衆は熱狂する。次に熱狂するのは大衆が好む独裁者が侵略に出た場合である。
当然、こういった国によって組織された軍隊は強力である。
一部の政治家の国家主義はしばしば民族主義(レーシズム)とかさなる。国家の目的がありもしない民族の目的と同一で、その目的は政治家が示すというのである。もう一段階進むと民族が純粋なほどよいと主張する。そして敵が国内外の他民族となった時、破局が生ずる。
政治家より危険なのは仕事熱心の軍人・官僚である。そして大国はたいがい仕事熱心の軍人・官僚をもっている。大変に不思議なことだが国民国家として古くかつ共和国のアメリカが外務官僚または本部付き参謀将校に影響されたことがない事である。これはアメリカが新しい国だからと説明されるが、違うのではないか。アメリカ大統領の立場が独裁的に強いためだろう。
国家の形態として国民国家が二つの巨大な戦争と、また国内で少数集団への虐待があったことで、なにか国際主義が魅力的なものに映る。しかし歴史上で実験されたまたなおも現在維持されている国際主義国は旧式帝国と社会主義帝国だけだ。
結局国民国家または国家主義を否定するのではなくて、いかに運営するかにあるのではないか。そして最悪の失敗が第1次大戦の開始とその戦後処理ではなかったか。
国際主義(広域帝国・社会主義帝国)は小戦争の始まりである。国家主義は大戦争の直接原因となった。だが小戦争を防ぐ手段として国民国家があり、それを認めたうえで国家主義をコントロールするより他にない。とくに国民国家と帝国主義は領土・保護国が海外にあれば矛盾しない。
民族というのは幻影だろう。しかし民族にのった国民国家はまぎれもない現実である。しかも幻影が言語とか宗教に彩られると実体化する。国民国家で少数集団がいない国はまずない。国際結婚を禁止する国もまずない。だが一つの言語、一つの宗教を標榜するのは未だに普遍的である。実体上は人々が字を読めるようになってから国民国家が確立したところを見るとB.アンダーソンのいう通り、単に新聞が作ったのだろう。
国家主義の母は初等教育である。字が読めない人々は国家主義を支持しない。家族とその住む周辺地域を愛し防衛したいと思うだけである。
そして国家主義のゆりかごは新聞と農村地帯である。農村地帯にいる人々、とりわけ小農は移動しない。元々、教育が普及しなければ国家に関心をもつことがない。そして、農民政治団体を組織しなければ考え方は常に保守的で、社会変革を好まない。自由貿易に反対し、社会福祉より家族福祉を主張し、都市基盤整備に反対する。産業国有化などの社会主義政策に最も強く反対する。
都市生活者が社会主義政策を主張するとき、この層は必ず別の種類の重い政府=国家主義を支持する。
そして問題は国民国家でなければ、民主主義が成り立たない可能性があることだ。議会に少数民族の独立または分離党があって、政党政治が機能するだろうか。少なくとも帝国で民主主義が成功した国はない。
21世紀でも国民国家を越えるものがない、というのは幻影にのるしかないという事か?
またはたいていは無能な官僚が指導する、または指導もできない国際機関が国民国家の利害を強制力も含めてコントロールするのか?またたいていは失敗する人工的なアイデアによるのか。国民国家を簡単に越える事はできないと見るべきだろう。1999年に多木浩二氏が「戦争論」で、国民国家が第1次大戦の主因をなしたと説いている。この説は基本のところで肯綮を得ていると思う。ただ氏の見解に賛成できない点も多い。帝国主義と国民国家は隣接地域では成立しない。なぜならば広域帝国になってしまう。すくなくとも海は必要と思う。イギリスのアイルランド問題はそこに問題があるのではないか。
また氏は日本の第2次大戦前の君主制について天皇制ファシズムとしそこでは通俗マルクス主義(政治団体のプロパガンダ的の意味)的に呼ぶ。しかも内容ははっきりしない。第2次大戦前の日本はファシズムとは違うのではないか。ヒトラーのファシズム(ナチズム)とムッソリーニのそれも相違するが、共通なところは唯一人の独裁だった。
当時のドイツ人のスローガンは「唯一の民族(人民の方が適切か=VOLK)、唯一の総統、唯一の国家(REICH−帝国と通常訳されるがどうなのか)」というものである。組織の独裁などはここからは想像できない。そして三国で政治体制をあげれば自由の否定を除くとあまり共通するところはない。国家主義は自国国益を最大限追求するという主張で実は国益の内容は重大ではない。またヒトラーのは党名に反し国家主義ではなく民族主義ではないか。国家主義では民族の利害と国益が対立したら国益をとらねばならない。ヒトラーは国家の前に民族があると明快に言っている。ムッソリーニは逆である。
その三国とも超国家主義(アメリカ人の定義によれば道徳に反した侵略的国家主義)に違いない。ただしファシズムが即侵略的ではない。スペイン・ポルトガル・アルゼンチンは侵略的ではない。だが国家主義を過度に鼓舞すれば領土拡張主義また尚武精神発揮論に陥りやすい。
日本の戦前昭和の政治は言葉の通り、軍事独裁すなわち第1次大戦後期のルーデンドルフ独裁に近似している。そして当時の陸軍の軍人はルーデンドルフを信奉していた。
また旧陸軍の軍人は国家主義を否定し、広域帝国主義を目指していた節がありまた大アジア主義に近い幻想をもっていたのではないか。とても単純な海外植民地獲得にはみえない。この場合、天皇や国民を犠牲にすることも覚悟していたのではないか。
またマルクス主義歴史学者はしばしば天皇有責論を唱え、事実独裁をしていたという主張を展開することがある。だが当時の天皇に陸海軍の参謀総長(宮様のときは次長)の人事権があっただろうか。慣習的に大臣が選任することになっていたのではないか。そして陸軍では三長官合意で決まるとされた。
ところが更に下克上が働いたのか最近でている旧軍人の回顧録のなかには自分が陸軍大臣を選んだと堂々と自慢しているのがある。また海軍の井上成美は永野軍令部総長は自分が大臣に推薦して決まったと言っている。参謀総長を選ぶ権限も与えられず、ドイツの総統と比較してはならないだろう。日本の軍部の人事は基本的に内部互選だ。ドイツではウィルヘルムU世ですら小モルトケやファルケンハインは自分で選んだ。天皇責任論も多く出版されているが、隻言片句をとりあげ人事権に触れていない。ウィルヘルムU世も末期グレーナーを選任したときは年次と試験で内部互選に反対する手段がなかった。
この内部互選の悪弊が昭和陸軍の下克上や派閥を呼び、2・26事件の直接原因となったのではないか。
井上成美(このとき航空本部長)は一方で三国同盟に反対するため大臣を引き上げ倒閣させるべきだと主張している。すなわち局長クラスで軍部の人事は終了していたのだ。そして平時官僚がもっとも関心をはらうのは人事である。もちろんそれで井上が良識を失っていたとはいわない。井上は当時の本部付き軍人では最も優秀でかつ決断力があった。だが和戦の関頭にたてば、昭和の軍人はすべてを掌握しなければ動けないと錯覚したのだ。軍人は外交官ではない。軍事同盟であってもアドバイスはできても拒否権は軍人にはない。それが立憲国家である。
たとえ失敗と予想される同盟でも決定された段階で最良の国防を考えるのが軍人の仕事である。たとえ井上は大臣引き上げによる同盟政策反対を主張しても、立憲制のここの所は弁えていたのではないか。
米内ー山本ー井上が海軍良識派とされる。それゆえに最も強硬に反対したのではないか。そして一旦締結されたら、それを与件として考え太平洋戦争を推進という意味でむしろ積極的な役割をはたしたのではないか。井上が反戦軍人だと言うのは後世の価値観による歪曲で、そのような反戦政治論に動かされる無能な人間ではない。軍人として日米戦の実相を恐らく最も早く見抜いたのではないか。
陸軍の横車は次元が低く派閥と地位への私欲で考え政権を左右した。海軍は戦略・作戦を有していた。良識派の優れた戦略に横車が乗ったのではないか。両方とも国家のため、個人としての天皇を犠牲にしても国益に最善を尽くすという国家主義者ではなかったか。決して古いユンカーにみられる忠臣ではなく試験で選ばれた官僚だった。また根本には大臣に任命された人間が人事についてすら責任を果たすことがないという消極性が問題である。
繰り返すが戦前の日本の問題は君主制ではなくユンカーのいないプロイセン的官僚制度である。そしてこの残滓はまだある。官僚が現場主義・能率第一を持ち出すときが危険である。そして新聞記者はつねに現場主義の味方である。この現場主義が張作霖を爆殺しその後の不幸をリードしたのだ。
現在の日本においても事務次官は実体的にも首相または大臣によって選ばれなければならないし、当然政治家は権限を行使しなければいけない。それと同様なものがむしろ戦前の日本の問題ではなかったか。国民には天皇の名のもとで自分の拙い作戦方針を強要し、天皇の名を勝手に神聖化し、自ら大権を簒奪したものに責任がある。
ただ官吏であるからルーデンドルフと同様国家利益を計り自らを計らない点では旧軍人はヒトラーとその取り巻きよりはましだったのかもしれない。またこれは現在の日本にみられる通り法制では解決できず政治家が実行し国民が支持しなければ難しい。無能で腐敗した政治家(独裁者ではない)でも試験で選ばれた官吏や党や組織に指名された専任党員よりましである。政治家は国民の動向に無関心ではないからだ。
ただ氏は自ら現実主義者でないと言いきっており、見解はその直感に従ったものだろう。多くの論説が聞いたことがない外国の学者の言辞に依拠しているのに比較し戦争論=国民国家軍隊原罪論は独創であり卓見である。
国家主義はそれでも民族主義よりも安全だ。民族主義は旧式帝国主義とほぼ同義だ。人々が無意識に使う黄色人種、東アジア人、仏教徒(または儒教圏の人々)は、白色人種、欧米人、キリスト教徒の反対概念とも言える。この人間の区分け自体が優越または劣等意識と結びつけば危険である。区分けのなかの代表になろうとして、歴史上幾多の争闘が生じた。国家を利用して地域代表になろうとする(全世界制覇は無理として)のが旧式帝国主義そのものだ。
ヒトラーは第二帝国の熱帯帝国主義を排し、東方に拡張したアーリア人種(そんなものはないのだが)の広域帝国を目指した。旧式帝国は古代からあるだけにいまだに魅力を失っていない。
民族の区分けは文化人類学者の領域で歴史と無縁となるべきだろう。現実は違うが。
(別宮 暖朗)
多木浩二 戦争論 岩波新書 1999
ベネディクト アンダーソン 増補 想像の共同体 白石さや・白石隆訳 NTT出版 1997Steiner,Z.,Britain and the Origins of the First World War, London,1977