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船井流「上手な生き方・経営法」Vol.20 ◆『赤福』に見る勇気◆

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皆さんは、赤福というお餅をご存知でしょうか?
駅のキオスクなどに並べられているあのピンク色の
包装紙に包まれたお菓子のことです。日本には
100年以上の歴史を誇る企業が約6200社ほど
あると言われています。
その中でも赤福という会社は約300年という長い
歴史を守り抜かれてきました。


もちろん、その長い歴史の中で企業存続の危機も
あったわけですが、創業理念を守りとおすことで
見事に克服されたわけです。今回はそのあたりの
エピソードをお伝えする中で、企業における勇気ある
決断について考えていただけたらと思います。


赤福さんの商いは、西暦1707年、伊勢の
旧参宮街道筋の茶店としてスタートしました。
長旅を続けてきたお客様に、つきたての熱いお餅と、
炊き立ての餡を差し出し、熱いお茶とともに食べて
もらったのが始まりだそうです。


お客様からとても人気があり、疲れが取れたと
喜んでいただいていたようです。
創業以来、改良を重ねながら、その時代時代で、
得られる最高の原料を使い、心を込めた製法で作る
ことに徹してこられました。
現在も、一番大事なのは、良い原料を調達する
ことと考え、これが仕事のうちの4分の1の比重を
占めていると聞いています。


赤福の名前の由来は、「赤心慶福」という4文字に
起因します。「赤心」は生まれたての赤ん坊の心。
汚れのない心、真心と解釈ができます。「慶福」と
いうのは、福を慶ぶ。
真心を持って事にあたれば、幸せは自ずからやって
くるという意味です。


その頭と尻を取り、「赤福」と名づけたようです。
そして、この商品を取り扱ううえで、常にお客様に
新しいものをお届けしたい、原価を安くし、値段を
上げないという姿勢を掲げました。
そのために、
「3つ余分に売ろうとするよりも、1つも残すな」と、
現在風の社訓のような形で社員に戒めていると
聞いています。


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現在、キオスクの売店を含め、販売箇所が300カ所
ぐらいあります。大阪、京都、名古屋を結ぶ線から
はみ出さず、毎日商品管理ができる範囲で止めて
いるのです。
そして、各販売箇所を1日に最低4回は巡回し、
商品調整を行ないます。売れ行きの良い販売店は、
4回に止まらず、5回、10回とまわることもあります。
「売り切れを是とし、売り残すなかれ」という形で、
腹八分の販売で我慢をしていこうという考え方です。


赤福で原料として使用している餅米、砂糖、小豆の
どれ一つ取っても当時は贅沢品でした。
そして昭和19年になり戦局が悪化すると、原料が
底をついてしまったのです。闇市場でなら買うことが
できたそうですが、普段の5倍、10倍の値段が付く
時代でした。しかし、闇で原料を買うぐらいだったら、
赤福を売る必要はないと断固として製造、販売を拒否
されたのです。


そこで潔く、のれんを降ろす決意をされました。
何と潔い、勇気ある決断だと思われませんか。
その後、当時40人ほどいた従業員を休業させ、
その人達に一定の休業補償を与えながら、
自宅待機をしてもらったと聞きます。その資金を
得るのに、2つの支店の土地建物を売却。なおかつ、
当主家にあった別荘2つを売り、苦難の時代を
しのいだわけです。


その後ほぼ6年も店閉めていたわけですが、40人の
従業員には給与を払い続け、守ってきたというのは
すごいことだと思います。環境さえ整えば、いつでも店は
再開できます。そのときに職人の方々がいなければ、
何も売ることができません。だから、働いてくれる人々を
ことさら大切にしたのだと思います。


この考え方は、今でも脈々と受け継がれ、苦労してきた
人達が定年を迎え、社を去って行くときに、「社祐」
「準社祐」という形で、会社独自のいわば年金制度の
ような形を採用していることも特筆すべき点だと思います。


これまでに述べてきたように、船井流の「勇気」とは、
「良心に従い、良いと思うことはすぐに行い、悪いと思う
ことはすぐに中止する」ことと考えています。赤福の
事例に見る「勇気」は類稀なる経営判断であるとは
思いますが、皆さんにとっても大いに参考になるものと
思います。

                             (船井幸雄談、文責・佐野浩一)

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