西崎弘文さん(西崎義展)は昭和九年で私とは約一回り年は違っていた東京生まれで文学座の研究生をしたり、ジャズ解説者などいろいろな仕事をしていたと聞いている、ブローカーをしていた時は九州でやくざ同士の 抗争に巻き込まれ興行で降り立った空港でピストルの弾が耳をかすめたなどという体験談を聞かされた。虫プロ商事に入社してアポロの歌を大阪のABCに売り込んできた、その放送が決まった時手塚治虫先生から初めて紹介された、それが西崎弘文さんとの出会いであった。印象は凄腕のブローカーというイメージであった手塚先生も気に入っていた、当時彼はキャデラックのオープンカーに乗っていた。社用としてであった、ガソリン代など考えると贅沢で手塚治虫でさえ5ナンバーのグロリアに乗っていた当時だ。 しかし取ってきた仕事の大きさから考えて、誰もそのことについて文句を言うものはいなかった。私も先生同様 彼を信頼していた。メルモの題名を決める時も彼はいた。 よく 手塚治虫のゼネラルマネジャーを務めたと書かれているが、私の知っている限りは虫プロ商事の社員であった。そのころゼネラルマネジャーは手塚 卓さんや平田昭吾さん斉藤ひろみさんがそうであったと記憶している。メルモの後番組として海のトリトンを決めてきた。西崎弘文さんが居れば今後手塚プロの映画部は安心だ穴見常務の再来だとも思った。 そんな誰もが信頼しきったところで彼の裏切りの策略が進行して行っているとは,神でもない手塚 治虫や我々は思いも寄らなかった。その始めは海のトリトンで半分の制作を のちの「スタッフルーム」黒川慶二郎プロデューサーにやらせてほしいということであった、黒川さんはワンダースリーに入った時の直属の上司でアシスタント・プロデューサを勤めていた。制作の先輩として手本であり、目標でもあ尊敬していたし、大好きな先輩の一人で、その人と肩を並べて仕事が出来る事によろこんだ、そして練馬の喫茶店で演出家の富野喜幸さんを交えて何度か激論を交わした。私は、手塚作品を大切にするがため作品の質を優先したいと言うが、制作のプロの黒川さんは予算が大事だと制作のプロとしての意見を持っていた。何回かそんな事をして制作も手塚プロで2,3本作った頃であった。 朝手塚治虫が私のところへ来て 「漫画映画が作れなくなってしまった」という。「西崎にだまされて作れなくなってしまったのだ」と言う その頃なんとなく主導権が向こうに移っているような気がしていたので、海のトリトンの制作を取られてれてしまったのだと思った。 そこで「先生それでは次の企画キャプテンケンかエンゼルの丘を進めましょう」と言う私に、目に悔し涙を浮かべた、手塚先生が「違うんだよ、何にも知らない私をいいことに、西崎が今までの私の版権をすべて売ってしまった。だから私の今までの作品を漫画映画にする事が出来なくなってしまったんだよ」という事でした。
これが世に言う西崎事件で 当時の島方社長や数人の人しか知らず、今日に至っている。その証拠にその後しばらくは,手塚治虫のアニメ活動はなく、企画していたミクロイドZも手塚プロでの制作ではなく東映動画での制作となり、手塚 卓さんや平田昭吾さんの居る、斉藤ひろみ社長のひろみプロで、特撮の「サンダーマスク」などを原作を書くが、日本テレビ の「バンダーブック」 や「マリンエクスプレス」の単発物になってしまい、キャラクターも手塚 治虫の新しく作り出した作品という事になってしまう。現在版権問題はどうなっているのかアニメの世界から遠ざかってしまったので分からないが、虫プロで作られたアニメの版権問題も複雑になっているようです。 |