ラフィン・ノーズの一員として華々しくメジャーデビューを飾ったナオキ。しかし、眩い世界に抱いていた希望は、逃げ場のない現実の中で矢継ぎ早に消費され、その輝きは急激に色あせていくのだった。そんな迷走を続ける中、ナオキは場末の繁華街で意外な男に再会する。そして、ナオキの生き様は、さらに恐ろしいスピードで加速し、回転し始めることに・・・・・・。
人生がひっくり返るような大事件が渋谷で起きましたか!
「そやねん。あの頃、オレとPONでよう渋谷で飲んでてんけどな、そんときも何気なく渋谷をプラプラしとったらさ前からヨタヨタのスーツを着て、セカンドバック持ってさ、くたびれた顔して歩いてるヤツがおってん。そんなサラリーマンはいっぱいおるねんけど、PONとふたりで『なんかどっかで見たことある顔やなぁ』って。で、よう見たらさ、ビックリや!」
誰だったんですか?
「なんとそいつはヨースコーやってん(笑)」
おぉ! そりゃたしかにビックリしますよね。
「なんかな、大阪でコブラがダメになって、ひとりで東京に来てるっていうのは風の噂で耳にしててんけど、まさかこんなとこで、こんな形で会うなんて思わへんやん」
東京に夢を求めて?
「そやな、多分やけど東京に来たら何とかなると思っとったんちゃうかな。でも、現実そんな簡単ちゃうわけやん。バイトしてなかったし、なんかもう見るからにボロボロやったな。で、PONとふたりで『お前、これからどうすんねん?』って感じで始まって、それから度々ヨースコーとPONと3人で飲むようになってん、腐りかけたもん同士で(苦笑)」
まぁ、腐りかけが一番美味しいっていいますけどね(笑)
「アハハハハ。でもな、その後の流れを考えたらたしかにそやねんな。その再会から何日も経たへんうちにコブラの再結成が決まんねんからな」
飲みの席で再結成が決まったんですか! でも、まだナオキさんもPONさんもラフィン・ノーズなわけですよね?
「そやねん。だから最初はさすがのオレも躊躇したけどな。でも、もう止められへんわけよ。オレらといえば、いつ帰ってくるかわからへん親分を待ってるだけの日常やったわけやし、明日も明後日もスケジュールは白紙や。PONとヨースコーがふたりで飲んでるとき、もうコブラ復活させる方向で話しが進んでたみたいよ」
また展開早いですね!
「そやね。でさ、その際ギターがナオキやったらって感じで、復活をどんどん具体的に煮詰めてたみたい。で、改めての飲みで『コブラでギター弾かへんか?』って。でも何となくそんな気がしてたから心の準備はできてたんよ」
アハハハハ!
「そのちょい前にPONが『ナオキ、オレ、ラフィンを辞めるけど、お前はどうすんねん?』って聞いてきてさ(苦笑)。まぁ、現状を考えたらPONと考えてることにそんなズレなどなかったし、『今のオレらの状況を考えたら、この流れは止められへんな』ってことになって。話していくうちに、ヨレヨレでボロボロになってるヨースコーとの偶然の出会いも何かの啓示なんかなって思えてきてさ」
神様が決めたことみたいな(苦笑)。で、そのままサラリとコブラ再結成ですか?
「そやねん、さすがに最初は『これって大丈夫なんかなぁ!?』って思ったけど、最後はオレも『よし、やろう!』って。でも、そんときはなぁ・・・・・・。なんやろ!? コブラの再結成っていうかさ、ぶっちゃけヨースコー再生計画って感じやったな(笑)」
東京でボロボロになってる親友をなんとか更生させよう!みたいな(笑)
「いやいや、みんなボロボロやったんちゃう? で、どんどんガッツリとリハーサルですわ
早いなぁ(笑)
「暇やったってこともあんねんけどな。でもさ、これがまた何もかもがバッチリ決まんねん、楽しいねん!」
無意識レベルで抑圧されていたモヤモヤみたいなものが一気に弾けとんだ?
「飛んだ飛んだ! 弾け飛んだで!! 『Oi! Oi! Oi!』ってな感じや」
でも、オイオイオイッ!もいいですけど、まだナオキさんやPONさんは公にはラフィン・ノーズなわけじゃないですか。それってアリだったんですか?
「まぁ、絶対にアリではないわな。最初はやっぱ後ろめたいっちゅうか、会社にも事務所にも友達にも内緒にしてたわ。でもさ、どこから嗅ぎつけたか知らんねんけど、とある事務所がコブラ再結成の一連の話を知ったみたいで、まだ数回しかリハとかしてへん段階で専属契約の話を持ってきおったんにはめっちゃ驚いたで」
音楽業界恐るべしですね。そうなってくると、もはや隠し通せないですよね。
「まぁ、隠してるわけじゃなかったんやけどな。チャーミーが帰ってきたら速攻で言おうってPONと決めてたし」
で、帰ってらっしゃった。
「そう、これまた突然に。でな、帰ってきたその日にやで、『今後の方向性やその他もろもろなミーティングをするから事務所に集まれ』ってなってさ。で、チャーミーが意気揚々と何かを言おうとしたときにPONがさえぎってさ、『チャーミーちょっと待ってくれへん。その前にオレとナオキはみんなに言わなアカンことがあんねん。聞いてほしい』って」
そのまま脱退表明ですか?
「・・・・・・、そやねん(苦笑)」
チャーミーさんはもちろんのこと、マルさんやスタッフのみなさんは腰を抜かしたんじゃないですか?
「そりゃビックリしとったで! 鳩が豆鉄砲ってのはこういうことかってな感じでさ。でも、絶対にこのタイミングで伝えとかなアカンことやしね、コブラはもう動き出してたからさ」
コブラをやるってことを伝えた瞬間ってのは?
「もうドタバタや。チャーミーに『お前らラフィン辞めて何やんねん!』ってブワーって聞かれてさ、そんで『コブラやるねん』って言ったときはさすがのチャーミーもショックみたいやったなぁ。最初はさ、頼むからそれだけは止めてくれへんかな的なことも言われたけど、こればっかりはしょうがないしね。チャーミーも最後は『そっかぁ・・・・・・』って感じでうなだれてしもて、なんかもう受け入れるしかないって表情やったわ」
辛いシーンですね、ちなみにそのときマルさんは?
「冷静やったというか、意に介さずというか。まぁさ、マルはもうその日のミーティングの前から感付いてたよ。だって、マルは日本にいたわけやし、オレ抜きでリハしてるってことも知ってたみたいやったから」
ラフィン脱退はその後もスムーズに?
「スムーズって流れでは決してなかったな。引き止めみたいなものもいくつかあったけど、もう決めたことやったしな。オレらかってただ辞めるのは失礼やと思ったし、脱退ライブもやったしね」
それ、ボク行きましたよ。正直、心の底から悲しかったですよ。
「そっか、そりゃ悪いことしたな(苦笑)。でも、オレらはもうふっ切れてったし、前しか見てへんかったな。ラフィンで勉強したことを活かそうって決めてたし、『オレらは、コブラは絶対に変わらへんぞ!』『このまま最低でも10年はやろうぜ!』って、毎晩ビールで乾杯や。お金の面でも何でもメンバー全員が平等でいれるバンド、何事もメンバー全員で決めるバンドにしようって」
最高の船出ですね! もともとからパンク界でのブランドイメージは絶大だったコブラの再結成、しかもラフィンの元主要メンバーが絡んでるわけですから話題性も抜群!
「これも初めて言うけど、事務所と契約した段階で、まだ満足なリハーサルとかもしてへん状態、楽曲とかも揃ってへん段階やのにアルバムの発売日から当面のライブの日程まで決まったりしてたしな(苦笑)」
えぇ!!
「信じられへんやろ? まさにイケイケドンドン状態や! 速攻で全国ツアーまで決まってさ。しかもさ、デビュー前の渋公も発売1時間もせんうちにソールドアウトやろ、『もうこれはいったいどうなってるんや?』って」
「まさかここまで?」 って感じですか?
「少しは話題にはなるやろなって思ってはいたけど、想像を絶するというか、勢いが想像してたレベルと二桁くらい違ったわ。ラフィンのときよりも凄まじいスピード。ホンマにさ、とにかく忙しかったわ・・・・・・。ファーストアルバム(「Oi Oi Oi」90年5月5日)出して、その5ヶ月後にセカンド(「CAPTAIN NIPPON」90年10月10日)やろ、アホかっちゅうねん(苦笑)」
まさに嬉しい悲鳴って感じですか?
「まぁそやな。めちゃくちゃなスケジュールやったけど、出だしの頃は当時やりたかった感じのことが思いっきりできて、それが笑けるほど上手くいってるわけやからさ、しんどかったけど楽しかったね。それこそ、経済面でもラフィンのときに比べたら向上したしな」
いやらしい話で恐縮なんですけど、かなりの上昇気流だったんじゃ?
「まず基本給があるってのが大きかったで! 事務所には当時リンドバークだとかジギーだとかもいてさ、もうイケイケドンドンやねん」
80年代後半から90年代初頭の日本のメジャーロックシーン代表するバンドの後光にも助けられていたわけですね!
「ありがとう! って感じや。なんてったってさ、基本給12万スタートやもん。嬉しかったなぁ(しみじみと)」
へ!? 当時のあの勢いで12万なんですか?
「ん!? 多いかな?」
少なすぎですよ!!
「でもさ、後々交渉して15万になったんやで! 高給取りやろ(ニッコリ)」
いやいやいや(苦笑)
「もちろん別収入もあったけどな。コブラを再結成したとき、さっきも言ったけどさ、誰が詩を書こうが曲書こうが4等分って決めてん。で、事務所もちゃんとした会社やったから、印税とかさ、そういう成功報酬みたいなものはちゃんとしててん。事務所からメンバ−みんなの口座に100万円くらいの金がポンポンと振り込まれたりしたことだってあるし。でもなぁ、勢い良すぎたよな(苦笑)」
まさかですよね、想像してました?
「してへんよ! してへんっちゅうねん(軽怒)」
「オレたちは変わらない、このまま10年やろうぜ!」って始まった再結成コブラでしたが・・・・・・。
「僅か2年弱で解散や! まぁ、勢い良すぎてコーナー曲がりきれんとスリップして転倒したって感じやな」
差し支えなければ、コブラ解散の真相を教えていただきたいです。
「そやな、そろそろオレの口から話してもええころやしな。まぁ、発端はヨースコーとPONがいきなり、バンドの状況が絶好調な時期にやで、『オレらコブラを脱退したいねんけど・・・・・・』ってな。あれにはホンマに驚いたで・・・・・・。まぁ、思い当たる節は数えきれんほどあるんやけど、こっからはあくまでオレ視点の話なんやけど、やっぱ一番はコブラのパブリックイメージがオレらが考えるコブラとはまったく違うものになってしまったってことやと思う」
パブリックイメージのズレですか?
「例えばな、オレらの知らんところでTシャツやらなんやらと、事務所が勝手にコブラグッズみたいなもんを作ったりとかするんよ。っていうか、コブラのグッズってオレらは全部、何のタッチもしてへんねんな」
えぇ! あのニョロニョロコブラ君みたいなのもですか!
「あんなもんオレらが考えるわけあらへんやろ(苦笑)。しかもやで、まぁ物販に関しては100万歩くらい譲って、まぁええかってことにしても、アルバムのジャケットはちょっと許せへんやろ?」
ジャ、ジャケットもですか!
「メンバーは何にもタッチしてないよ。レコード会社や事務所の人間に『アルバムのジャケットが決まったから』って感じでデザインを見せられて、そこで初めて見る知る触るみたいな感じ。もう『マジ? こんなジャケットなん!?』って」
なんかロックっていうより芸能界って感じですよね、アイドルじゃないんだから。
「ホンマやで。で、そんな問題で頭を抱えてたら、それとは対極っちゅうか、真逆な問題も浮上しだしてなぁ・・・・・・」
真逆とは?
「やっぱさ、コブラは『Oi』ってのをバンドのイメージ、スローガン的に掲げてたわけやん。でも、『Oi』ってのはご存知の通り、本筋で解釈すればナショナリズムとまでは言わへんけど、街宣車的な色合いも色濃くあるわけやん。でさ、本物って言ったら全然おかしな話やねんけど、本格派っていうんかな、そういう人たちがちょこちょことねぇ・・・・・・(苦笑)」
お前らが「Oi」を語るなみたいな感じで怒られたり?
「怒られるってレベルじゃないよ。例えばさ、どっかでライブが終わって打ち上げしてるやん。そしたら打ち上げ会場に斜め45度のいなたいグラサンかけた人らが何食わぬ顔で入ってきたり(溜息)」
しかもその人たちもOiのバンドの人だったりするわけですか?
「そう。しかもどっかの構成員みたいになっちゃってたり、『お前ら昔はコブラの後輩みたいなもんやったやんけ!』 ってな。しかも矛先がヨースコーとPONなわけよ。このふたりがコブラの原動力なんやろうって意識があったみたいでさ。まぁそんなんがちょいちょいとね」
キツいですねぇ、ナオキさんにはこなかったんですか?
「それがな、オレの弟はそのへんとはかつて仲間だったりしたから、そいつらは普通にオレんちに弟を訪ねて遊びにきたりしててん。だからさ、そういった緊迫した場面でもオレには『ナオちゃん元気?』みたいな感じなんよ。なんだかもうわけのわからん空気になるんよね(苦笑)」
なんとも複雑な人間関係図ですね・・・・・・。
「コブラをやればやるほど、好きなことをやればやるほど変なことに巻き込まれて、重くなっていって、ふたりはかなり複雑やったと思うわ。でも、バンドの状況はそんなん関係なしにフルスピードで回転してるわけや。1年後のスケジュールまで決まってて、それに向かっていろんなもんをドンドン作っていかなあかん。そんな中で、これはまぁ時期は前後するけども武道館爆破予告とか」
ぶ、武道館爆破予告!?
「あったでぇ。武道館でのライブの時に爆破予告があったみたいでさ、『客席のどっかの椅子に爆弾を仕掛けた』っていう脅迫電話があったり・・・・・・。当日、スタッフはもう会場入りからずっと爆弾探しや。みんなもう必死、開場してからもずっと爆弾探し、だからちゃんとライブなんて見てへん関係者もおったらしいねん」
大丈夫だったんですか?
「結局はハッタリ、脅しやってんけど・・・・・・、あれはガツンとボディーに効いたなぁ。オレらは後々で詳しい事情を聞かされたんやけど、まぁこっからはどうせ書かれへんだろうから言わへんよ、怖すぎて(笑)」
そういえば、武道館って九段下にあるわけですもんね。恐ろしいなぁ・・・・・・。
「まぁ、そんなんが解散の直接の原因ってわけじゃ決してないねんけど、深く掘り下げていくと一因ではあるよね。そんな状況の中で、ふたりの中にあったいわゆる“パンク”ってものが急速に痩せ細っていったんやろうな。で、『脱退したい』や。「STAND! STRONG! STRAIGHT!(91年5月5日)」を作る1ヶ月くらい前に言われてさ、『ちょっと待ってよ、まだ結成して1年ちょいですけど?』って、『あん時10年やるって言ってたやん?』って。まぁ今となってはあの頃のふたりの気持ちもわかるけど、そん時はねぇ・・・・・・許せへんかった」
簡単には受け入れられなかった?
「受け入れられへんよ! でも、同時に受け入れなアカンっていう気持ちもあったし、なにしろふたりの何を責めていいかがわからへんかった。ただ、悔しいって気持ちは抑えきれへんかった。受け入れるしかないんやけど受け入れられないしっていう葛藤の中でさ、もう二ヶ月間毎晩飲み続けたね、結局はなにをどうしたらいいかなんて考えつかへんかったけど」
そして、解決策が出ぬままファイナルツアーが組まれ、そのまま解散ですよね。
「『いつ解散する』って公表をいつするかとか、ファイナルへのプラン、リリースが決まっているレコーディングもやらなあかんし、解散まではあっという間やった。で、あのふたりはCOW-COWってハウスのユニットをやるっていうことがもう決まってさ。そんな一方で、オレとKI-YANはやることがないわけさ。で、会社の人間に『ふたりはこれからどうするの?』って言われて」
・・・・・・。奇しくも、コブラ再結成時にナオキさんがヨースコーさんにかけてあげた言葉そのまんまですね(苦笑)
「皮肉な話やろ。でさ、オレもう疲れてもうてさ、『任期満了したところとでもう辞めます』と、『オレは音楽の世界から身を引きますわ』って。ラフィンであれだけ酸いも甘いも勉強してきてやで、そこで得た経験全部を下地にして、今度こそイケイケやってことで始めたのにこんな結果やろ? もう自分の音楽人生に呆れてしもてさ。そんでな、一番に考えたこと、なによりも一番はコブラを支えてくれたファンやろ。ファンに申し訳ないって気持ちがホンマに大きくて、辛くて、ラフィンもそうやったのに、コブラでも・・・・・・、ってさ」
でも、ナオキさんはそのドン底から、新たにドッグファイトを結成されて、シーンに華々しく戻ってらっしゃいますよね。
「うん。なんかさ、飲んだくれて飲んだくれてって繰り返してる内にさ、『ここで終わるのって悔しいな』って気持ちが日を追うにつれて化け物みたいに大きくなってきてさ。会社側もあのふたりがCOW-COWをやんねんやったら、ふたりも何か始めたらいいやんってことになってさ」
音楽業界によくある”にこいち”ですね。
「そうそう。コブラの人気をひとつのバンドに引き継がせるよりも、もうひとつの一派を作って一石二鳥で儲けたろみたいな考えは誰の目にも見え見えやったけど、そんな理由はどうあれオレらをプロモーションしてくれるってことやったし。再起に向けて動きだすためへの自分への理由付けも明確になってきたし」
その理由付けとは?
「やっぱな、ラフィンのときもコブラんときも、先頭に立ってたのはチャーミーであり、ヨースコーとPONやった。もちろん、オレだってギタリストとして自分のアイデンティティーを完全燃焼させとったよ。でも、やっぱり先頭ではなかった。ここで新しいバンドを作るってことはさ、同時にオレが先頭に立つわけやん。乱暴に言ってしまえば、オレの音楽を初めてオレのプランで進めていけるってことやん? これはやってみる価値があるかもしれん、挑戦する意味があるなって。『よっしゃ、腐っとる場合ちゃう! とにかくメンバー探しや!』って」
ナオキさんご自身が辣腕を振るう「ナオキ再生計画」のスタートですね!
「そや、そう考えたらもうオレの音楽が燃えまくり出してさ、ドラムはもちろんKI-YANや。で、バンドの顔のヴォーカルはどうしょうかなって考えて、やっぱ信頼できるんはこいつしかおらんなってことで」
弟のタイショーさんですね!
「そや。でも、弟も当時はワンダラーズってバンドをやっとってんけどさ、音楽で食っていくっていうようなスタンスじゃなかったんよね。結婚も間近で、子どもが生まれるって時期やったし、ちゃんと仕事もしとって生活も安定しとったからな。でも、オレのバンドに誘うってことは、給料が12万になってしまうわけやろ。ヴォーカルはタイショーしかおらんって思ってたけど、誘うのには結構悩んだなぁ・・・・・・。まぁ、結局は口説き落としてワンダラーズも辞めさせたけど」
さすがはお兄さん! 弟に対しては強引極まりないですね(笑)
「アハハハハ! でな、ベーシストはオーディションで元ペッパーボーイズのケンに決まってさ、いざ出発や。とにかく走ったな、バンド名も何も決まらんままレコーディングに突入したもんな」
バンド名くらいは最初に決めときましょうよ(苦笑)
「ホンマやな、オレら誰やねん?って状況でアルバム制作に入ってるっつーのもむちゃくちゃやな。でもさ、もうその時点でデビューアルバムの発売日とファーストツアーの日程が出ててさ」
またですか!
「そやねん、めちゃめちゃや(苦笑)。もう何もかもを同時に作っていく感じ、とにかく走りたおしたわ。で、レコーディングも佳境にさしかかって、そろそろジャケットの撮影しなアカンってことになって・・・・・・」
バンド名が無いと(苦笑)
「あれは困ったなぁ。メンバー全員で持ち寄ってんけど、全部しっくりこなくてさ。特にオレの案なんていの一番の速攻で蹴られた。リーダーやのに」
アハハハハ!
「でさ、ケンが『ドッグファイトってのはどう?』って、他の全員が『それええやん!』ってなってドッグファイトに決定」
なんか不満そうですね?
「もちろんオレもええ案やなって思ったけど、バンド名ってなんかこう呼び方があるやん、略すというかさ。例えばラフィン・ノーズやったらラフィンとかさ、なんか愛称で呼ばれる感じってのがオレの中では重要やってん。そやしさ、ドッフファイトでっていう流れの中でいろいろ考えたよ。『ドッグ! それやったらただの犬やん・・・。 ファイト!? 意味わからん』みたいなさ、まぁ諦めざるを得なくなってしもたから飲んだけど」
諦めざるを得ない?
「もうジャケットがドッグファイトで刷り上がってしもてん(苦笑)」
アハハハハ!
「で、そうこうする内に顔見せライブや。今はなき日清パワーステーション。コブラが分裂して、COW-COWはいわゆる“パンク”とはほど遠いことをやっとるわけやし、もう一派のオレらにラフィンからのファン、コブラのファンはめっちゃ期待しとるわけや。まだ音源も出てへんかったし、お客さんは曲なんて1曲も知らん状態やで、ホンマ緊張したぁ」
日清パワーステーションでのドッグファイトファーストライブはもはや伝説ですよ。
「これでもかってくらいのお客さんやったな!」
ヨースコーさんとPONさんのCOW-COWが大幅な音楽性の転換をしたのとは対照的に、ナオキさんのドッグファイトは汗くさい男の骨太ロックのオンパレードでしたから、ファンも大満足だったんじゃないでしょうか。正直、コブラでファンになった人たちの多くがドッグファイトに流れたと思います。
「でも、パンクってわけでもなかったし、目が点になってる人もぎょうさんおったと思うで。まぁ、とにかくやったってのが実感できたから嬉しかったな。でも、そっからがなぁ・・・・・・」
そっからとは?
「コブラと同じや。はい顔見せが終わりました。ファーストアルバムが出ました、ツアーに行きます。で、すぐにセカンドがの録音。シングルを出して、すぐにツアー。間髪入れずに次のアルバム。で、ツアー、またアルバム、ツアー・・・・・・。このバンドは核の部分がまだ完成されてないまま走り出してるわけや、そんなもんやからさ、バンドの核になるもの、核を得るための曲がなかなか作れへんかったんよ」
バンドの先頭に立つもののみ知る苦しみというか、今まで見えなかったものを初めて味わった?
「そうかもしれへんね。曲自体はさ、ラフィンでも作ってたけど、チャーミーが『それは違う』って言ったらそれで終わりやろ。で、コブラはヨースコーが作曲、ポンが作詞、オレが編曲って感じで、基本がこの3人の関係性で作ってたんよ。で、今度はオレが中心になってくるわけだ。やっぱ簡単じゃなかったね、プレッシャーもスゴかった」
投げ出したくなったときも?
「ないと言えば嘘になるけど、やっぱ嬉しかったね。プレッシャーとかストレスに潰されそうになっても、嬉しさが勝ったね。『オレの曲を作りたい欲』みたいなのがラフィンの頃からめちゃめちゃあったからな。でも、欲を言えばやけど、できればさ、制約とか、時間とか、パンクとか、そういったカテゴリーのないところで純粋に作りたかったな」
でも、楽曲のクオリティーはとんでもなく高かったと思いますよ。
「ありがとう! 意外とさ、やっていくうちにいい感じになってきたと思うな。特に弟はめちゃめちゃ熱い人間やし、あいつの歌で曲の存在感がスゴく高まったな。楽曲に関しても、いい意味悪い意味含めていろんなバリエーションが出来てきて、全体を通したら、『なんかオレらエエやん!』みたいな自信というか、イメージがやっと持てるようなってきたんやけどなぁ(苦笑)」
またもやバンドを揺るがす大事件が起きちゃいますよね。
「結局さ、活動1年も経たないうちに事務所が手を引いたんよね。『それってちょっと違うんちゃうん?』『全力でバックアップするって言ったよね?』って・・・・・・。でも、こればっかりはもうどうしようもなかったな。でな、事務所のマネージメントやってた人が会社起こしてさ、オレらもそこの所属になったんやけど、やってもやってもアカンわけよ。あの当時ってのは世の中小室(哲哉)ブームでさ、そんでタイアップなわけさ。とにかく世の中タイアップブーム、会社からもコマーシャルなものを求められだしてさ、一発逆転を狙うため的なことを考えさせられるわけよ。タイアップが出来るような曲を書かなアカンっていうプレッシャーはスゴかった」
バンド存続のために、初志からは遠くかけ離れた活動を余儀なくされた?
「そやね。でもな、単純に”いい曲”を書きたいっていう気持ちはスゴくあったんよ。いろんなこと考えて、研究して、とにかく頑張ったし、それが運良くそういうのに引っかかればいいなって心の底から思ってた。そんな感じでさ、小さいタイアップをいくつか取れるようになるまでにはなってんけど、やっぱさ、大手民放で流れるCMやドラマの主題歌みたいなのにはなられへんかったな。っつーかさ、ムカつくねんけど、最終的にそういったところに売り込むには金が必要やねんなぁ・・・・・・。裏事情ってどこにでもあるやん?(苦笑)」
もちろん全てではないでしょうけど、コンペに参入するだけでも裏金が必要って話は聞いたことありますね。
「結局、今の世の中、いくらやっても巨大なモンスターには、業界ってヤツには勝たれへんように出来てるねんな。手持ちがなかったら勝負もさせてくれへんわけやん。そんな状態でバンドが上手くいくわけもないねんけど、オレはとにかく紆余曲折、試行錯誤しながら曲を書くのだけは止めへんかったし、ライブも続けてた。いろんな事務所を移り渡りながら、フルアルバム6枚、シングル9枚、ライブアルバム1枚出した。ライブはどこも盛り上がってるし、音源も好評やった。でも、最終的には契約解除や・・・・・・。当時いた事務所にエレファント・カシマシが入ってきてさ、エレファント・カシマシに多額のお金を投資をするという臭いがプンプンで、オレらが飛ばされたんよね。あれはもうホンマに悔しかったね」
そうだったんですか・・・・・・。でも、契約解除後もドッグファイトは活動を続けますよね?
「メジャーがなくなった後も1年間は活動してん。もうファンを裏切りたくないって気持ちが大きくてさ、ファンに『契約終わったからバイバイ』じゃオレらのやってきたことが嘘になるやろ。もちろん、このまま続けるのは現実面で無理やってのはわかってたよ、でもさ、解散するにもちゃんとした節目が欲しかってん。ドッフファイトを支えてくれたファンに『オレ、もう一回がんばるから』って言いたかった。で、その活動の中でもしかして再起のチャンスがあるかもしれんってね。でも、1年かけてもダメだったら解散しようって、キレイに終わろうって」
そして、ドッグファイトは97年に惜しまれつつも解散します。
「もうこれ以上はってとこまで、とにかくやるだけやったし満足やったよ。自分の音楽でお客さんが反応してくれて、喜んでくれて、ホントに楽しかった。そうそう、ドッグファイトがもうどうにも回らへんようになってきた頃、ようこんなこと考えたわ、『ラフィン・ノーズって今何してるんかなぁ』って」
ラフィンのメンバーとは全然交流がなかったんですか?
「全然。で、ラフィンにPONが戻ったって話は耳にしとったから、ラフィンのライブに行ってみようって思っていきなり行ってみてん。ほなさ、会場に入ったらいきなりPONに会ってさ(苦笑)」
コブラ解散以来の再開ですか?
「いや、一回くらいあったかな。オレがドッグファイトでPONがまだCOW-COW時代に取材場所で偶然遭遇したことはあるよ。PONもそこに取材できとってさ、でもね、そんときは会話なんてまったくなかった。やっぱり俺には少しの意地もあったし。でもさ、そっから6年以上の月日が経ってさ、やっぱり間接的にいろいろ聞くわけやん。COW-COWは終わったとか、ヨースコーはソロになってダメみたいとかさ。ラフィンについても」
いい時代では決してなかったですよね。
「そやね。でも、そんときはお互いが『久しぶり!』って感じで、もうPONとも普通に話せてさ、打ち上げで一緒に飲んだりとかしてな。昔、お互いにそういうことがあったからどうとかっていう話なんてまったくなくて、昔みたいにただ明日を見てる目で話が出来てんねん。明日を見てるとさ、もう恨み辛みとかって無くなるんよ」
死線を超えた戦友みたいな関係?
「そうそう! 今まで彼らが背負ってきたであろうプレッシャーやストレス、自分自身の判断の中から生まれる責任だとかを経験したわけで、作家としても自信がついたし、誰かの勢いの中でしかやってこなかった男が、自分の足で歩き始めたことによって何もかもが知らない間にクリアになったんよね。しかもさ、そういうきっかけをくれたのは、そういう出来事があったからやん。そうなってくると、あの当時のモヤモヤとかも違う目線で思い返せるようになって、『あの時は悪いことしたな』とか、そういう風に振り返るようになったんよ。するとさ、『みんな元気かな』って思って。『会いたいな』とか、『久しぶりに飲んでみたいな』って思うようになってさ」
素晴らしいですね! でも、ナオキさんの突然過ぎる来場には誰もがビックリしたんじゃ?
「まぁビックリしたやろうな、『なんでナオキがきとんねん!』みたいなね。微妙なしこりはもちろんあるにしても、そんなもんは自分から捨てようって決めとったし、普通になれる自信はあったしね。ヨースコーともさ、いうても中学の同級生やで。そんな面倒くさい話はもうええわって感じや。『あの時はなんでああやってん!』って問いただすことなんてくだらんことやろ。一緒に飲んでる時は今まで通りの連れやん!って。そんなことを思えるようになってさ、ドッグファイトはキレイに終わろう、後を濁さずに幕を閉じようって。ファンの前でも、しっかりと言うことやることをやって、けじめをつけていこうって思えるようになった・・・・・・、んやけどさぁ(涙)」
へ!? どうしたんですか?
「なんかキレイな話の展開でいい感じやねんけどさ、その後のオレ、アルバイト人生(涙)」
あちゃぁ・・・・・・、バンドもなくなっちゃいましたしね(苦笑)
「97年、ちょうど10年前や。32歳になったとこやってんけど、年齢がネックになってアルバイトの面接に行っても落ちてまうねん、十数か所行ったけど全滅、落ちまくりや。しかもオレ嘘付けなくてさ、プロフィールなんかもバカ正直に書いてまうわけよ」
プロフィールって(笑)。学歴とか職歴のことですよね?
「そうそうそう。でさ、よくよく考えたらオレって高校卒業したときからバンドやん。だからさ、どこどこのレコード会社所属ってしか経歴があらへんわけよ。リアル浦島太郎やで! そんな怪しい人間なんか基本的にどこいっても使ってくれへんよなぁ(苦笑)」
なんて言ったらいいもんかと(苦笑)。バイトっていっても星の数ほどあると思いますが、どの辺りの職種を攻めてたんですか?
「オレさ、とにかく人の目に触れる仕事がしたかったからカラオケボックスの面接ばっかり行ってたんよ。でもさ、カラオケすら受からんねん。でさ、とあるお店なんて面接してくれた人に『あのぉ、ラフィンの・・・・・・?』ってさ、あれは辛かったなぁ(しみじみと)」
たしかにそれは辛いですね・・・・・・。
「19から音楽で死ぬほど忙しくしててさ、で、30前半で放り出されて、社会に必要の無い存在になってるわけや。それに気づいたときはもう『わちゃぁ、オレの人生、もしかしてやってもうたか!?』って嘆いたわ(苦笑)。でも、生活があるし、家賃は払わなアカンしで、今の生活を維持するだけのバイト人生が始まるわけよ。でも、世の中でいう“まとも”なとこには受け入れてもらえなくてさ、ラブホテルの清掃業から始まって」
えぇぇぇぇぇぇっ!? ナオキさんがラブホテルの清掃ですか!!
「やっとったでぇ! 使用済みのアレとかも片付けとったよ(苦笑)。あとはボーイズバーの面接に行ったら速攻で受かったり」
ボ、ボーイズバー!? 新宿2丁目あたりのですか?
「そうそう。そのボーイズバーが三軒茶屋で新しくお店を出すってことでな。そこのマスターが芸能界とか好きな人やってさ、で、オレ歳もいってるから『若い子ばっかりだとダレるかもしれないし、年上の店長クラスがひとりいたほうがいい』ってことで仕事もろてん」
ナ、ナオキさんって・・・・・・、違いますよね?
「アホか、全然ちゃうわ! でな、その店はすぐ潰れたんやけど、 オレ、なんか知らんけど結構マスターから信頼されてさ、今度は新しいスナックをやるからそこに用心棒で入ってくれって言われて、次はスナックの用心棒や(苦笑)」
なんだか凄まじい人生になってきちゃいましたね!
「そやろ? 話だけ聞いてたらキッツいやろ(苦笑)。でも、そんときは不思議と悲壮感はなかったなぁ。でさ、用心棒やってるうちにな、そのボーイズバーで出会った若者ふたりと三軒茶屋で飲み屋でもやろうよって話になって。で、早速飲み屋を始めたんよ」
飲み屋のマスターでらっしゃった時代もあったんですねぇ。
「もとミュージシャンって人にはありがちな道筋やろ。でもな、オレは金のことは一切考えへんかったんよ。たださ、もう1回さ、仲間と会える場所が欲しかってん。店でも始めたらさ、もう1回くらいあの時の物を取り戻せるかなって思ってさ。もうオレ、生活さえできたらそれ以上のお金なんかいらへんかったし、友達が来たらめっちゃ安くしたり、時にはただにしたり」
ちなみに、なんていう名前のお店だったんですか?
「ボイラールーム」
おぉ! なんかかっこいいですね。
「やろ? 結構それなりに頑張っててんで。お店は98年初頭から始まってんけど、お店のビラまきとか駅前でガンガンしたし、ガンガン営業もかけてさ。で、友達のライブハウスとかに行ったら、自分のお店のビラを持っていって、昔の知り合いに配って、『打ち上げとか2次会3次会で是非使こうてぇや!』ってさ。いろんなヤツらがたくさん来てくれよってさ、嬉しかったな」
取り戻せましたか?
「それはどうなんかわ今でもわからへんけどさ、ヨースコーはよう店におったでぇ。金なんて全然持っとらへんから彼はいっつもただやったな(苦笑)」
アハハハハ! で、コブラの再々結成に繋がるわけですね?
「そやな、まぁ・・・・・・、いろいろあってそれも3年で、すぐに終わったけどな」
でも、そのコブラの再々結成時のライブがあったからこそ今のSAがあるわけですもんね。
「過言じゃないよね。99年の4月やったかな、SAが復活ライブやるってなってさ、それにゲストで出たんよ」
当時、ナオキさんはSAのことをご存知だったんですか?
「正直、全然知らへんかった。オレがラフィンでデビューした頃にヨースコーがプロデュースしてリリースしたオムニバス『Oi of JAPAN』に入ってるのは知ってたけど、顔も知らへんかった」
そうだったんですか! SAも当時から貫禄爆発って感じのバンドでしたけど。
「知らん(笑)。タイセイがバッドメサイアになったときもまったく知らん。あれはKENZI&THE TRIPSのベースだったJUN-GRAYが新しく作ったバンドって認識しかあらへんかったし、タイセイのことは、そのバッドメサイアにいる長髪の男前ってくらいにしか思ってへんかった」
たしかに江口洋介ばりのサラサラ長髪でらっしゃったですけども(苦笑)。でも、実際どうでした? SAのライブは?
「カッコいいな! めっちゃいい感じやん! もうさ、スゴい楽しそうやし、超羨ましかった。その後も再々結成コブラと何回か対バンやってんけど、SAはオレらどころかイベントごと食ったるって感じできおんねん! もうさ、『かかってこいや!』みたいな感じで。もうめっちゃカッコいいって、圧倒されたもん」
そんなSAにナオキさんが正式加入したってニュースにはホントに驚いたわけなんですが、経緯っていうのは?
「まぁなんやかんやでさ、タイセイとめっちゃ仲良くなって、気づいたらよう飲んでたんよ。でさ、そん頃はまだSAってバンド形態ではあったけど、タイセイのソロプロジェクトって意味合いが強かってんな。でも、タイセイは『ソロじゃなくバンドでSAをやりたい、できればいっしょにやってほしい』って。オレもSAが大好きやったから断る理由なんてまったくなしや!」
でも、今までの勉強もあることですし、また同じ事を繰り返すかもっていう不安はなかったですか?
「あったよ、だからこそオレは最初にタイセイに伝えたんや、『やるよ! でもさ、オレはその代わり本気だよ』って。当然、タイセイも本気や。熱い男同士は結ばれんねんな」
相思相愛だったんですね。でも、その本気って部分なんですが、具体的にはどういう?
「まず、最初にな、オレが正式に加入するってことになったらさ、他のメンバーも同じくらいの気持ちやないとアカン。当時はまだメンバーがおったわけやから、そこをハッキリとさせたな。『オレはこういう気持ちでSAをやっていこうと思う』ってことを伝えた、じゃあさ、当時のメンバーときたら『じゃあライブ1本のギャラとかがさ・・・・・・』みたいなことをいい始める始末でさ、オレはもう『SAのライブでオレは今んとこギャラなんていらん!』って、『1本いくらとかなんかより、結果からもっと大きな結果を生み出すってことしか興味はあらへん!』って。で、『タイセイ、新しいベースとドラムを探そう!』って」
全員クビにしたんですか!別のバンドになってしまうかもしれないという懸念とかは?
「そんなもんあらへんよ。先のない先入観なんて全部ぶっ壊してしまえっていう感じやった。やっぱりさ、SAが持ってる可能性をもっと広げたいし突き抜けたいって思いがオレとタイセイにはあったんよ。ただ単に続けていくバンドなんか意味あらへんし、ヌルいのだけはガマンできひんしね。で、速攻でメンバーを探してさ、ケン(Ba)とショウヘイ(Dr)が加入して、翌年(02年)から新生SAとしての活動を始めんねん」
当時どうでしたか? SA再始動の手応えっていうのは?
「最高や! うれしかったよね。とあるイベントでもさ、オールナイトのイベントやってんけど、最後にみんなでセッションみたいになってさ、そんときPONが『ナオキがストリートに帰ってきたぜー』って言ってくれたんよね。それ、覚えてんねんけど、PONは酔っぱらってたから覚えてないかも知れへんけど、それがスゴくうれしくてさ。そういう紹介されて出て行ってさ。別にオレはずっとメジャーにおったってつもりはないんやけど(苦笑)」
PONさんもナオキさんのシーン復帰がうれしくてしょうがないんでしょうね。そんな新生SAの快進撃はまさに突撃精鋭部隊! 向かうところ敵なしといった感じですが?
「ありがとう! 新生っていってももうSAは6年目やねんな、あっという間やね。最初の方は多少の足並みの違いはあったんやけど、スゴくさ、なんかどんどんどんどん締まっていく感じやね。ホンマに不思議なバンド、今のオレにとって人生で一番大切なもんや。なんてったってさ、こんなにメンバーと楽しく飲めるバンドないもん」
反省会とかじゃなく?
「あるかいな! そこにあるのは未来の話、現在進行形の話だけ。結局さ、気付いたらそんな感じ。次のツアーでこうしたいとか、次のアルバムはあれに挑戦してみよう!とか、『オレはSAをこうすんねん!』とか、『この先、SAで絶対こうやったんねん!』とかな。時々思うよ、『この熱気はなんや!?』って、『このスピリットはどこから生まれてくんねん!?』って思う。着実にどんどん年取ってるのにさ。オレ、もうけっこうおっさんよ(苦笑)」
いやいやいや。私感で恐縮なんですが、コブラとか、DOG FIGHTの後期の時のナオキさんって、SAのビデオクリップに映ってるナオキさんより老けてるんですよね
「やっぱわかる? そやろ、キラキラ度が違うやろ? 」
たしかに、キラキラ度が確実に違います!
「もちろん、バンドっていうのは人生においてリスクは確実に背負うやろうけど、オレはさ、絶対に、絶対にオレらがさ、もう一回パンク与党に輝くんだって。日本ロック界の政権奪取をしてやるんだって。オレらはまだこの世界で野党一党にもなれてへんぐらいの位置にいると思うねん。でも、それがまたモチベーションに繋がってるわけやしね。誰にも負けへんよ、オレらは」
パンク与党! 最高です。 SAこそが日本の腐ったロックシーンを転覆させる火薬庫なのだと信じています。
「はな垂れみたいなさ、ついこないだ高校卒業したようなヤツばっかりや、だから余計さ、パンクというものがものスゴく安くなっていったわけよ。オレの信じるものがそうやって安く見られるってことは、自分の子供が罵声を浴びてるみたいで許せへん気持ちにもなってしまう」
その通りですね! 是非、SAの政権奪取に期待しています。
「ホンマやで。でも、これまたなかなか難しいんよね。なんか、任命責任問われてんのかなぁ、オレらに憧れて出てきたパンクが情けないってことで罰を受けてるみたな気にときどきなんねんけどな」
アハハハハ!
1965年6月18日生まれ。兵庫県出身、本名:宮本直樹。82年、高校在学中にCOBRAを結成。COBRA脱退後の84年、ギターテクニックが惚れ込まれ、若干19才にして当時のパンクシーンの象徴的存在だったLAUGHIN' NOSEに加入、その名を全国へと広める。90年、突然のLAUGHIN' NOSE脱退を表明、親友のヨースコーと、共にLAUGHIN'NOSEを脱退したPONとでCOBRAを再結成させ、デビュー1年を待たずに武道館ライブを見事、成功させる。COBRA活動停止後は実弟のTAISHOとDOG FIGHTを結成。シングル9枚、アルバム7枚を世に送り込む。DOG FIGHT解散後、バーの用心棒など数々の仕事を渡り歩くも、01年12月にSAへの正式加入を突如発表し音楽シーンに復帰を果たす。ナオキ加入後のSAは、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで人気が加速、RANCID日本ツアーを全国6箇所にてサポートするなど、殺到するイベントオファーをこなしつつ、07年6月に最高傑作という声も高い『BEYOND I』をリリース。同アルバムを掲げた全国ツアーは軒並み満員御礼の嵐! 「オレらは今、パンクの野党やねん。見ててみ、もうすぐ政権交代や!」 NAOKIの野望成就の日はもうそこまできている!!
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