NAOKI スペシャルロングインタビュー THE GREAT PANK ROCK

前編
後編

河島英五に魅せられてギターを手にしたナオキは、やがて、同級生で親友だったヨースコーとともにパンクに没頭する。そして、ヨースコーを中心にバンドを結成。そのバンドこそが、のちに日本中を熱狂させることになるコブラの原型となる。だが、血気盛んな世代にありがちなすれ違いが原因でコブラを追い出されることに・・・・・・。そして、コブラ脱退から一週間後、意外な人物からの電話が鳴った。

NO美談! ラフィンノーズ加入の本当の真実とは!!

NAOKI

チャーミーさんから電話がかかってくることなんてそれまでなかったんですか?

「ないないない! 絶対ないよ。めちゃめちゃビックリしたわ。だって大阪のリーダーやで、ラフィンノーズのチャーミーやで! 雲の上の存在とまでは言わへんけどやな、それに近いもんはあったしな。もう大先輩の中の大先輩やし、電話で話すだけでたじろいだわ」

やはりラフィンノーズのチャーミーっていうブランド力みたいなものは当時から絶大?

「デカかったね。で、いきなり『ナオキ、ラフィンに入らへんか?』やもん(苦笑)、当時のラフィンノーズは正式なギターがずっといないって状態やったのは知ってたけど、まさかオレんとこに来るとは夢にも思わへんかったしな」

でも、コブラも辞めてたわけですし、お店のことを抜きにしたら断る理由なんてないですよね?

「そりゃラフィンノーズやしね。でも、コブラを辞めたばっかりやったし、とにかく即答はせえへんかった。『高校卒業したばかりでブラブラしてるのもアレやし、進路的にも悩んでるんですわ』って。でも、チャーミーは『迷ってんなら1回入ってみいや。何回かやってみて、おもろなかったら辞めたらええやん』ってさ」

ナオキさんが欲しくてたまんなかったんでしょうね!

「ありがたい話なんやけどね。高校卒業したばっかりのガキに熱心にしてくれてさ。でも、やっぱちょっと怖いやん。『あのチャーミーさんとバンド!? しかもラフィンをやる? 誰が? オレが!?』みたいなね、躊躇したわ。で、間髪入れずに次はPONから電話がかかってきて、いみなり『ナオキ、ちょっと出てきいひんか?』って」

呼び出しですか!なんか怖いなぁ(苦笑)

「そうそう、『わちゃぁ、きたかぁ』みたいな感じや。でな、梅田で2人で会うことになって、で、喫茶店で話しているうちに・・・・・・、これはマスコミに初めて話すなぁ。ま、いっか(苦笑)」

全然いいです! で、初めて話す話とは!?

「いや、オレがラフィンに入る時の話って一部でめっちゃ美談っぽくなってるらしいねんけど、実はちゃうねん。PONとな、ラフィンに入るんか入らへんのかとかそういった話をしてたときに、どちらかといえばラフィン加入に渋ってるオレにPONが『実はなナオキ、今もうめっちゃ急いでんねん! オレら急いでレコード作らなあかんねん。しかもそれがアルバムやねん』って。で、『ナオキ! 今ここでレコーディングを手伝ってくれるって返事をくれたらギャラ10万円出す』って」

ま、まさか現ナマに目がくらんでラフィンに加入したんですか?

「ぶっちゃけそや! オレ貧乏やったし!!」

アハハハハ!

「やっぱり目がくらむよね(照)。そん時、実家はホンマにシャレにならへん状態やったし、しかもちょっと前のさ、20年前くらいの10万円って今と価値ちゃうで! そりゃもう19のガキにとっては天文学的な金額やしね。で、即答でOK! これがオレのラフィンノーズ加入の真実やで! 」

心の底からいい話ですねぇ!

「わずか10万円のお金に目がくらんだんや(苦笑)、お店は潰れそうだし、休みもない、給料もない、無休、無休・・・・・・。家への奉仕みたいな形で兄弟が無休の無給で働いてた状態やったし、『今のオレにはちょっとしたいい話やな』って割り切ってラフィンのお手伝いをすることを受けたんや。でも今思えば、それが運命の分かれ道やったわ」

確実にナオキさんの人生の分岐点はそこですね。

「そやな。とにもかくにも10万円は当時のオレにとっては魅力的やった。聖徳太子なんて、その頃はあんまり見る機会がなかったしさ、もう『ほなやりますわ!』って。で、リハーサルが始まるんやけど、いきなりレコーディングやし,『うわぁマジで!』って、もう出来が良いか悪いかもわかんないまんま突っ走っていく感じ」

当時のラフィンノーズの勢いは神がかってましたもんね。

「もうチャーミーとPONの勢いはスゴくてさ、大きいパワーを感じたね。なんか、もうイケイケな感じなんよ。『オレらは絶対に成功を掴めるんや!』みたいな空気が充満してて、こんなオレなんかも同じ気落ちにさせてもろてさ、すごい経験をさせてもらったって感じやった。で、レコーディングも無事に終わって、『じゃあ10万円もろて、ボクはそろそろドロンですかねぇ』とか思ってたらチャーミーとPONがさ、『いやなナオキ、ちょっと待ってくれへんか? アルバムのライブがあるんやけど、ついでにやってくれへんかな?』ときたもんや。オレも気持ちが盛り上がってたこともあって、『じゃあそれだけはやらせてもらいます』って快諾したんやけど、知らん間に走り出したスピードを止められへんくなって」

引き際を完全に見失ったわけですね(苦笑)

「そうそう、『あれ、オレいつまでやんのかな?』みたいなね。しかも楽しくなってきてさ、ラフィンノーズとしてステージに立ってることがすげえおもしろくなってきて、バンドもぶっ飛んでるし、客もスゴいし、とにかく楽しかった」

「あれ、オレもしかしてスゴいことしてるんじゃ?」みたいな?

NAOKI

「そうそう。毎日が半信半疑の夢の旅みたいな感じやねん。もうどこでライブやっても信じられへんぐらいの人の数やし、しかも会場は場末のライブハウスとかじゃないわけ中野公会堂とか、豊島公会堂とかやで。AAレコードの大きなイベントとか、ライブの規模もデカくて、しかもステージ裏は大人の臭いがプンプンすんねん。芸能事務所みたいなんも絡んでたりしてやな、レコード会社のスカウトの目なんかも露骨にあったし。ガキのオレにはもうドキドキなわけや」

いきなり身の回りの世界が激変したわけですもんね、いいなぁ、そんな経験してみたいですよ。

「東京にもしょっちゅう行けるし、全国ツアーとかもめちゃくちゃ楽しいし、電車とかホテルの部屋のランクも目に見える感じでドンドン上がっていくし、気づいたら梅田の喫茶店から数えて1年目に突入しててさ。でも、その1年前から比べても状況はいいほうに激変しててさ、体感出来るんよ、成功みたいなもんがさ」

うらやましいですねぇ、その頃ってもう自分はラフィンノーズのメンバーだって自覚はあったんですか?

「半年以上はかかったけど、もう自覚はしてたよ。まぁ、実家のお店を辞めたってのも自覚することに拍車をかけたと思うけどね」

アルタ前に2000人!?  暴動寸前の新宿で何が起きたのか?

実家のお店辞めちゃったんですか?

「レコーディングを手伝ってからラフィンのライブもやるようになって半年ぐらい経った頃はもうチャーミーは一人で東京に住んでたんよ。たしかそんときは亀有やったかな。ラフィンの営業拠点を東京と大阪に分けるためというか、完全にメジャー狙いって感じやね。で、おれらは大阪で頑張って、チャーミーに呼ばれたら行かなあかんみたいな感じやってんけど、店はなんとか続けててん。でもいろんな問題があって、ただでさえ傾いてんのに、店がさらに縮小化に追い込まれることになってしもてさ・・・・・・」

差し支えなければお聞かせ願えますか?

「別にかまへんよ。あれは1985年の幕開けやった、当時、大きなヤクザの抗争があってんけど、めちゃくちゃ報道もされてた一和会と山口組の分裂戦争みたいな抗争な。うちの店も、まぁ夜の店やし、どっちの組かとかは言えへんけど面倒を見てもろてたんよ。ケツ持ちっていうんやけど、なんか店にあったら解決してくれるっちゅうやつやな。まぁそいつらが飲みに来たらただで飲まさなあかんねんけどな。それで、ちょうど尼崎の街も抗争中でさ、元旦開けた次の日ぐらいから、相手方のヤクザがうちの店にきて大暴れや」

わちゃあ。家族だけでやってるのに、大変ですね・・・・・・。

「他のお客さんともみ合いになったり、とっくりとかおしぼりとか投げ出して、しまいにはテーブルとかも投げ出して、いろんなもんがどんどん飛んでくんねん。もうヤバイ空気や。あいつらももう暴れたくてしょうがないって感じで、『この店潰したる』って考えで来てるわけやしね。で、最終的には大暴れや。こっちは止めに入るんやけど、絶対に手は出せへんからもうボコボコや。親父もボッコボコにされてさ。ナイフもってるヤツもいて、電話線は切られるし、弟と目を合わせて『今日でオレたちは終わるんや、死ぬわ』って。とにかく母親を非常口から逃がして、下のお店から警察に電話してって感じで。で、警察が到着したと同時くらいに木刀とか持った構成員を山盛り乗せたトラックがきてさ、もう間一髪や(苦笑)」

NAOKI

警察の到着があと一歩遅かったらって考えたら恐ろしいですね。でも、なんだか「仁義なき戦い」のワンシーンみたいですね。

「あの頃の尼崎の夜なんてみんなそんなもんやで。とにかくあれはキツかったで、親父が殴られてんのなんて見たくなかったわ。なんかさ、最近は三丁目のなんとかとかさ、ノスタルジックな昭和映画みたいなのって流行ってるやん。実際はあんなもんちゃうで、もっとダーティーやっちゅうねん! でもまぁそんなこともあって、お店も開けれへんことが多くなってさ。そんな時期やったわ、メジャーの話は」

ラフィンノーズのメジャーデビューの話ですね!

「チャーミーから電話で『メジャーから話がある』って話を聞いてさ、『そろそろ東京に来いひんか?』って。今みたいにバンドがメジャーにすぐいけるみたいな時代やなかったし、ホンマにスゴい話やなと思ってさ。もう『東京に行くか』みたいな雰囲気になって。でも、お店のことを考えたらなぁとも思ったんやけどな。でも、『もうしょうがないかな』とも思い出しててさ。お客さんとかお店同士の仲間もいっぱいいたけど、東京に行くことを決心して、親父に『じゃ、オレ東京に行ってくるわ』って。お客さんから餞別とか貰ったなぁ、『東京でがんばってね』なんてさ」

いい話ですねぇ。で、あの伝説の事件が起こるわけですね。1985年4月28日、あの伝説の新宿アルタ前事件が。

「あれはスゴかったな。景気よく花火でも上げよかってなことになって、新宿アルタ前でソノシートを無料配布するって告知をラフィンのライブのチラシと雑誌の広告欄に数行だけ掲載してんけど、とんでもないことになってしもた(苦笑)」

たしかメンバー4人は(旧)新宿ロフトで待機してたんですよね?

「そうそう、たしかその日はロフトのライブがある日でさ。で、PONが『アルタ前に何人ぐらい集まってるかなぁ』って言い出してな、オレなんかは『誰もおらへんかもなぁ』って呑気なこと言ってたんよ。あのチャーミーですら『100人くらいはおるやろ』ってそんな強気じゃなかってさ。で、どうにも気になるってことで、チャーミーとPONがちょろっと見に行くことになってん。そんで程なくしたらPONだけが帰ってきて『スゴいことになってるで!』って」

NAOKI

アルタ前には2000人以上のファンが集まっちゃってて、警察なんかも出動しちゃって暴動化寸前って感じになってたんですよね!

「そうそう。まさかとは思ったけどな。チャーミーが必死で騒ぎを鎮めて、そのままロフトまで整列させながらアルタから連れてきたそうなんやけど、ロフトの入り口から青梅街道(距離にして約1キロ弱)まで伸びたパンクスの列を見て腰抜かしたわ」

正直、そんなにいるなんて思ってました?

「あり得へん。だって、ソノシートを配ろうって思ってただけやで。今ほど何をしたらどうなるかなんて考えてもなかったし、なんの想像力も働いてなかった。ただ、ロフトで待機してるだけだったからさ。その日のロフトも人が入りきれへんから結局2ステージや。えげつないわぁ(苦笑)」

その後のラフィンノーズのインディーズ最後の日本全国30本ツアーも大成功で!

「素晴らしいね。もう楽しくて楽しくてしょうがなかったわ。車で全国を回ってあの街この街ってさ、最初は旅館みたいなとこもあったけど途中からホテルやで。しかも『せめてメンバーはツインや!』ってなぜか上から目線でさ」

バンドのロードムービーを見ているみたいでボクも楽しいですよ。で、やっぱアッチのほうもとんでもなかったんですか?

「もうウハウハやった! と言いたいところねんけど、オレさ、そんとき一途な遠距離恋愛をやってたからさ、実家の店によお来てくれてたスナックのホステスの娘を口説いてさ、なんと東京に行く日に付き合ってん。東京に発つってときも新幹線のホームまで見送りに来てもらったりして、『またね』って言って東京に来たから、なんか頑に貞操を守ってたわ、セックスもしてへんのに」

意外に真面目だったんですね、他のメンバーなんかは?

「さすがに詳しくは言えへんけど、(小声で)チャーミーとかはスゴかったね」

アハハハハ!

「大人たちはスゴかったよ! まぁあんまり言えないけど、とにかく、ただいろんな街に行って、ライブをやって、酒飲んで、飯食って、暴れたいやつは暴れて、ヤリたいヤツはヤってってみたいなノリやん。その日の売上金からパッパパッパまわしてるから、金なんか使わへんし。もう何もかもがスゴかった。急遽2ステージになったりとか」

驚愕真実・・・、ラフィンノーズ・1STアルバムの秘密とは何か!?

そんなバンドは今いないですよ。ジャニーズか演歌歌手かってな感じでしかもまだインディーズですもんね!

「インディーズっていってもさ、当時はもうライブハウスだけではなかったよ。福岡とか札幌はホールやったし、インディーズツアーっていっても、最終は日比谷野外音楽堂だったわけやからね」

Laughin'Roll/ラフィンノーズ

今じゃ考えられないですよね。インディーズ最後のツアーも終わって、いよいよメジャーデビューですね!

「さっきも言ったけど当時はバンドがね、しかもパンクなんてもんが受け入れられる世の中とは違ったから、最初は大変やったよ。声はかかったけど、『インディーズを体感できるオムニバスに参加してくれないか』みたいなしょうもないもんやったり。オレらはパンクでメジャーに出たかったわけやし、世の中をひっくりかえしたかった。やってるまんまの音楽で歌謡曲なんかを抜いてやな、ベストテンかなんかで1位になりたかったんや。でも、そんなのはまさに夢でしかない時代やってんけど、ひとつのレコード会社はオレらの気持ちをわかってくれてさ」

それがVAPですね。

「そうそう。稲葉さんって当時は菊池桃子を担当してた人がいてんけど、ラフィンのライブとかを見てくれて熱心にいろいろと動いてくれてね。で、合宿とかも始まって、なんか業界人みたいな大人とかがスタジオにもよう来るようになってさ、もう緊張感ありまくりや(苦笑)」

き、菊池桃子ですか。で、そんな中で生まれたメジャー1作目のデビューアルバム「Laughin'Nose」なんですが・・・・・・。

「ん!? どした?」

大変恐縮なのですが、ぶっちゃけラフィンのファンは失望したというか、音がメジャー風になってしまったというか、パンクとはほど遠いクリーンなポップサウンドですよね。「ラフィンもデビューしてメジャーの枠にはめられちゃったのかな?」みたいな気持ちを子どもの頃に感じました。

「それ、正解よ(即答)」

正解とは?

「オレらも初めてそういった世界で仕事を始めて、ミュージシャンとしての技術が全然ダメやったことに気づかされてさ。だってさ、ドンカマ(本番レコーディング時に使用するナビゲーション用の音)の存在すら知らないもんな(苦笑)。そんな感じなもんやから、そういう初歩的なことに支配されちゃって、みんななんもできひんねん。難しい! しかもアナログレコーディングの時代やし、何回も練習なんてできひんし、こら時間かかるなぁって・・・・・・。アルバムのリズム録るのにさ、三日ぐらいで終わる予定が、リズム録りだけで一週間ぐらいかかった」

アルバムのリズムだけで一週間! そりゃちょっとヤバいですね。

「海外のスーパーアーティストとかとちゃうねんからな、しかもデビュー戦やで。でさ、『気持ち少し走ってるよぉ』とか『気持ちちょい遅いかなぁ、もたってるね』とかってよくあるやん。でもな、『その”気持ち”って何ですか?』ってなレベルでさ。わかんないまま何時間も同じ曲やってたら、もう自分で良いか悪かのジャッジなんてできひんねん。でもリリース日は決まっているわけやし、そっから逆算していったら、ここでリズム録りが終わります。その後ギターダビングです、歌です、コーラスですっていう運びが、全部計算狂うわけや」

歌入れの時間を割くわけにはいきませんし、ギタリストにしわ寄せがくる後ろ倒しですね(苦笑)

「そうそう、それでオレにしわ寄せが全部来たんや。でさ、稲葉さんにいきなり言われたわけよ、『あのさ、ギターなんだけど、スタジオミュージシャンを使っていいかな?』って」

・・・・・・、マジですか?

「マジやねん(苦笑)。でもさ、オレから見ても『もうしょうがないかな』って状況なわけよ。もちろん『GET THE GLORY』だとか、『Broken Generation』だとか、今までライブでもやってきた曲はオレが演奏したんやけど、あのアルバム用に書き下ろされた曲で弾いてないのもあんねん、オレ」

「Take Your Situation」だとか「FALLIN' FALLIN' INTO YOUR HEART」だとか?

「そこらへんは弾いてへんね(即答)」

えぇぇぇぇ!!

「一部をここだけ弾いてるとか、そういう世界。ある曲はバッキングはやってるけど、これはやってないとかな。もうとにかく時間がないねん、重い制約の中でやってたわけやし、オレは受け入れたんよ。3日で終われるはずのリズムレコーディングが1週間以上もかかってさ、もうどうもこうもならんよ(苦笑)」

オールドスクールなラフィンノーズファンには実に衝撃的事実なわけですけども、チャーミーさんとかは何も言わなかったんですか? 「オレたちの音が」みたいなこととか。

「言わない。誰も言わない。『まあ、しゃあないな』という空気のみや(苦笑)」

MEAT MARKET/ラフィンノーズ

悔しくなかったですか?

「悔しいよ、悔しくて悔しくてたまらんかったよ。けどな、じゃあ時間に余裕あったからといってホントに良いものが出来たかどうかもわからないし、プロのレコーディングなんて初体験やったわけやし、ここで『オレがギターや! 絶対にオレが弾く』なんて言ってもさ、当時のオレの技術で期日に上げるんは到底無理な状況やったんや。ほなもうしゃあない、『じゃあプロとやらはどんなもんか見たろ』って割り切ったわ。そんで、プロのギタリストがスタジオに来てな、普通やったら『んなもん聴いてられるか! 見てられるか!』って腐ってるとこやけど、オレは、『スタジオに入ってもいいですか?』って言って、一緒にヘッドホンして、その人の音を全部体感して、指をガって見て、どうなってるか全部見て、『次はこんな状況になっても絶対オレがやったる!』って」

陳腐な言葉かもしれませんけど、カッコいいっすねぇ。

「決断しなきゃしょうがないやろ。でもさ、そうやって隣でジッと見てたわけやけど、『うわぁ、スゴいな』って、スゴくいい音してんねんな、これが。指とかを見ててもさ、なんかもう無駄がないし、かなり研究したわ。そっからやね、ギタリストとしてひとつ上のステージに行けたんは。悔しいっていうのはあったけど、そこで腐らずに済んだってのが今のオレにとって大きいんちゃうかな。いい勉強になったよ」

大変貴重な話をありがとうございます。でも、ナオキさんのギターではないからということがラフィンの音がメジャーサウンドっぽくなった要因ではないですよね?

「そやね。やっぱさ、当時の音楽シーンで歪んだギターはやっぱちょっとってのがあったんとちゃうかな。チャーミーは『メジャーへ挑戦する』って気持ちでやってたと思うし、実際にはようわからんけど、確信犯的なところもあったと思う」

古いファンからは「裏切られた」的な声もあがりました。

「オレも激しいラフィンのサウンドの延長で行くとばっかり思ってたんやけど、レコード会社の意向ってのもあったと思う」

でも、ふたを開けてみると先行シングルがオリコン初登場36位! 歌謡曲が音楽シーンを支配していた当時としてはとんでもない数字を弾き出しましたね!

「どうせやったら1位って気持ちやったけどな。でもその頃はもうあまりにも周りのスピードが速すぎて、あんまり深い事を考えられへんかったな。どんどんどんどんスケジュールが埋まっていくし、レコーディングが終わった、次は野音や、ツアーや、テレビやってな感じでもうどえらい緊張の連続なわけ。四六時中ガチンガチンなまま夢心地で何もかもが終わっちゃうんよ。もうね、休む間がなかった。だから、オレらの方向性がどこに行くんだとか、そんなことすら考える余裕がなかったんや。イニシアチブは全てチャーミーが握ってて、オレはそのスピードに乗っかるのに必死やった」

宿命。1987・4・19 日比谷野音。あの日を振り返って・・・・・・。

ズバリ"売れた”わけじゃないですか、望んでいた状況なはずですけども?

「疑問は少しずつ膨らんできてたんはたしかや。メジャー進出大成功って言われても、自分の中では息苦しい感じしかなかった気がすんねんな。メジャーってこういうことかな、郷に入れば従えみたいな話なんかなと最初は思ってたけど、やれ映像撮るからギターソロはこの位置でやってくれだとか、普段はこの位置で弾いてくれってめっちゃ後ろに下げられたりとか、あの曲はこう動いてくれだとか、縛られてさ。最初は何も考えずに受け入れてたんやけどな(苦笑)」

これがオレがラフィンでやりたかったことなのかと?

「まぁなんとなくな。で、そんな感じのモヤモヤとしたツアーが終わって、そのタイミングでチャーミーがいきなりニューヨークに行っちゃうんよ。で、そこで何を感じてきたんかはわからへんねんけど、ラフィンがもう一回パンクとしての原点とかじゃないけど、メジャーシーンというか、ベストテンとかトップテンなんか関係ない素顔のラフィンに戻ろうってことになって。で、『Laughin'Roll』の方向性へと流れていくねん」

ラフィンノーズの作品の中で未だに絶大な支持を誇っている名作中の名作、セカンドアルバム、「Laughin'Roll」ですね。

「レコーディングなんかもさ、やれ『走った』だとか『もたった』だとか、カッティングがどうだ、ミュートがなんだ、音がどうだこうだとか難しいことなんかまったく考えずに一発や。あのファーストアルバムのまんまやったら、オレらはマジでホントに『Duran Duran』みたいになったかもしれへん。実際、当時の取材でも『Duran Duranみたいに』とか、まぁ半分冗談半分やけど言ってたりしてたしね(苦笑)。チャーミーが『Laughin'Roll』みたいな方向性になったんは、当時のバンドしての状況を考えたら助かったと思うな」

「Laughin'Roll」は新旧関係なくファンのハートを鷲掴みにしました。

「なんか楽になったね。いろんなもんがさ、いろんな肩の荷が一気に下りた感じや」

ジャケットの帯には「チャーミー突然の脱退から3ヶ月、新ボーカリストにクリストファー・ドミヤン君を迎え、さらに過激にスケールアップ!!」という衝撃的な文言が踊ってますよね。まだインターネットなんかが普及してない時代にめちゃくちゃしてますよね。

「信じたヤツめちゃくちゃおったもんな。でも、ジャケットみたらわかるやろ(苦笑)」

NAOKI

「前のクソボーカリストはオレが始末してやったぜ!」と意気揚々とコメントしているドミヤン君(チャーミー脱退後の新ヴォーカリストとして登場している少年)ですけど、どう考えてもドミヤン君がヴォーカルなんてあり得ないですもんね(笑)

「アハハハハ! 絶対に本気にするヤツが絶対にいるでって思ったんやけど、みんな乗り気でさ。歌詞カードのレイアウトからジャケットまでバンドで進めることになったんやけど、中の歌詞カードの写真見ても、アホな写真満載やんか。もうなんか、それまでのレコードはなんやったんやっていうぐらい楽しい感じやん。もう一度ラフィンがさ、自分たちらしい姿になった感じがしてめちゃめちゃ楽しかったもんな。さっき言った立ち位置がなんとかかんとかっていう話もさ、もうそんなん関係ない。ステージは暴れ者の世界。どこで誰が動いて、誰がぶつかろうがなんてもう知りませんぐらいのさ。ラフィンノーズが戻ってきた! って感じの時期に出せた最高の1枚やと今でも思ってる」

しかし、「Laughin'Roll」を掲げたラフィンロールツアーは散々だったと聞きますが?

「もちろん楽しかったんは楽しかったけどな。もうどこの会場でもぐっちゃぐちゃのめっちゃくちゃや。今みたいにさ、ステージと客席を隔てる柵なんてないし、警備員すら満足におらへんわけや。けが人も珍しくなかったし、会場をめちゃくちゃに壊す客もたくさんいたというか、必ずいた。何度もライブが中断されたり、中には強制終了させられたライブもあった。でも、そんなことよりも、あの頃のことを今思い返してみて、一番恐ろしい事はそれが当たり前やと、慣れてしまってたところやと思う。その代償があの日比谷野音なわけやしな・・・・・・」

1987年4月19日ですね。日比谷野外音楽堂でのライブ中にステージへと詰め掛けたファンが将棋倒しになって・・・・・・(死者3名、重軽傷者27名)。

NAOKI

「誰もあんなことが起こるなんて想定なんてしてなかった。でも、ラフィンを語るだけじゃなく、オレを語る上でも絶対に避けて通れへん話なわけやからな」

あまりこの事件に関して突っ込む気はないので単刀直入に聞きますが、あの事故で得たもの、失ったものというのは?

「得たもの? 悔しさかな。失ったものも同じ感じ。なんか体験したことがない悔しさやな・・・・・・。今、あのときのことを思い返すと、ただただ時代やなって、乱暴な言い方かもしれへんけど、時代が巻き起こしたものやと思う。とにかく、あれはどこの誰も想定してへんかったし、いつどこで起きてもおかしくなかったことやと思う」

順風満帆で突き進んできたラフィンですが、この事故を境に謹慎を余儀なくされますね。

「自宅謹慎な、それだけじゃなく業界からは完全に干された。雑誌なんかにも『これで日本のロックは10年遅れる』みたいなことを書かれたな」

今、読み返して見るととんでもなくねじ曲げられた内容の記事だらけですよね。しかも、とある夕刊紙なんかには「今後、死者が出る恐れのあるバンド・ランキング」なるものまで掲載されたりとか。

「ふざけんな! って感じやったけど、当時のオレらには反論する権利なんかひとつもなかったからな。でも、この事故はオレらの宿命やったかもしれへんなって思う」

宿命?

「オレらは自分で言うのもなんやけど、日本のロックシーンの最先端にいたと思うねん。やることなすこと全て。だからこそ、起こるべくして起きてしまったんかなって思うときがあるねんな・・・・・・、もうええかな? オレにできることは事故で亡くなられた方の冥福を祈ることだけや」

復活の狼煙の向こう側に待っていた突然の路線変更・・・。

・・・・・・、事故で亡くなられた3人の御冥福を改めてお祈り致します。野音で起きてしまった事故によってラフィンを取り巻く全ての状況が一変してしまったわけですが。

「スケジュールは全部白紙。レコーディングも何もかもや。とにかくライブがしたくても日本中の会場が貸し出し拒否なんやもん、まいったわ(苦笑)。半年間強何もできひんかった。でさ、オレらが休んでる間にブルーハーツが出てくるわけよ、ドーンってさ」

未来はボクらの手の中〜♪ ってな感じで。

「アハハハハ! そやな」

流れを知っている人からすれば、ブルーハーツがシーンに登場したタイミングって完全な隙間産業ですもんね(苦笑)

「悔しかったなぁ、あれだけは。彼らの台頭はオレの中でやっぱり大きかったよ。ブルーハーツがまだ全然デビュー前の頃、ラフィンの前座とかもやってたし、昔から交流ぐらいはあったんやけど、ラフィンがああいうことになった瞬間に、ブルーハーツが日比谷野音でギンギンの警備の中で。なんか、見方を変えればある意味ちょっとあの事故をモチーフに伝説っぽく始まるわけよ」

SUPER BEST/ザ・ブルーハーツ width=

おいおい、そこはオレらの席だよ! って感じですか?

「ホンマやで。なにオレらの居場所で勝手にいちびってんねん!ってマジに思ったわ(笑)」

恐縮ですが、羨ましく思ったことは?

「ないと言えば嘘になるな。でも、彼らが出てきたとき、『いかれたすごいのが出てきたな』って、『うれしいな』って、こんなのがいっぱいいれば日本もいい感じになるなって思ったよ。バンドブームって流れも始まってきたし、ホコテンブームも始まってきたし、っていう時代でさ。とんでもないのもいっぱいいるし、逆にショボいのもいっぱいいるしと思う中で、やっぱりブルーハーツみたいなのは『おぉ!』って思った。でも、ラフィンが休まざるを得ない状況の中で、『羨ましいな』って思ったのも事実や。オレらはそこで指をくわえて待つだけやもん。どこにも出られへんねんもん。ラフィンのライブは日本中開催拒否なわけやし」

ブルーハーツについてナオキさんから話が聞けるなんて夢にも思いませんでした! で、長い謹慎期間を経て、秋田県の田沢湖町観光協会が「若者に人気のラフィンノーズというバンドがライブをしたくても、会場が貸してもらえない」という状況を知り、ラフィンノーズのライブを町で開催することで、多くの若者に田沢湖町をPRし、過疎化が進む状況を少しでも食い止めたいという意外な理由でオファーがくるわけですが。

「嬉しかったねぇ! あれはホントに嬉しかった。そんな田舎のとこまで行ってさ。ラフィンを復活させようっていうファンたちがいろいろ動いてくれたわけやんか。スゴく嬉しかった。その後には横浜国大でライブがあって。それは有頂天が呼びかけてくれて、なんかこう復活の兆しが見えてきたなぁって肌で感じることができてホッとしたというか、嬉しかったわ。でも、話は変わるけど、ラフィンとか有頂天ってインディーズ御三家とか言われてたよな」

ラフィン・ノーズ、有頂天、ウイラードの3バンドですね。

Bad Brains/Bad Brains

「別に誰が誰と仲良いわけでも何でもなかったんやけどな」

アハハハハ! で、復活の狼煙とともにサードアルバム「ミートマーケット」へと流れていくわけですが、正直、このアルバムでファンは完全に二分化されたと思います。

「いきなりストイック路線やもんな。チャーミーがな、あの頃ニューヨークとかに頻繁に行くようになって。オレとかPONなんかは待ってる間、遊びながら曲を作ったりとか、オールナイトフジ収録に呼ばれてないのに遊びに行ってうっかりテレビ写ってるとか、楽しくやってたわけや。クヨクヨしててもしょうがないし、前向きにな。次のレコードに向けて曲もいっぱいつくった。で、チャーミーがニューヨークから帰ってきてやな、『オレ、こんな感じで作ってんねんけど」ってバーって聴かせたら、『実は、次のアルバムはそんなんちゃうねん』ってピシャリや! オレらは『え!?』ってなるやん。オレもPONもの「Laughin'Roll」の方向性で、ラフィンが一番ラフィンらしいラインの延長線上で行くと思ってたし、そういうテイストで曲も作ってたからさ。『実はちゃうねん』って言われて『うわーっ、またかぁ』って(苦笑)」

ニューヨークで何があったんでしょうねぇ(苦笑)

「何かまた風みたいなものを体中で浴びてきたんやと思うねんけど。で、『じゃあどんなん?』って聞いたらいきなり『Bad Brains』とか聴かされてさ、『あぁ、このへんですかぁ』みたいな」

たしかにあの頃のチャーミーさんって「Bad Brains」のTシャツをよく着てましたね。

「そういえば着てたなぁ。でもまぁ『Bad Brains』が好きとかキラいっていうジャッジよりも、当時のオレはね、結局はヴォーカリストがそれをやりたいって言うんやったら、それがバンドの意向なんだって思ってた部分があって、しかもチャーミーは絶対に欠いてはいけないバンド内で一番求心力のある人だって思ってたし。その人の意見があってこのバンドが動いているんだって考えてたからさ。キャッチャー理論として、ピッチャーが投げたい玉を受けてるみたいな」

でも、セカンドからサードへの音楽性の移行はそれだけじゃ解決できないほどのものだと感じるのですが?

「・・・・・・まぁ、たしかにそれはな」

悶々とする日々。崩れていく信頼、そして・・・・・・。

もっと楽しいことをパンクで表現したいのに、それを抑圧されてしまっていた?

「はいはいはい。ないといえば嘘になるよ。でもな、それでも何かを信じたいっていうのがあったんやな。とにかくバンドのメンバーが好きだったっていうのが一番にあったし。ただ、みんな年齢も20代中盤くらいになってきて。みんないろいろあるよね。ただ日常をスピードだけで乗り切った走った時代から、自分の立ち位置や状況をちゃんと判断して、それぞれが何かを考えなければいけなくなってきた時代になったというかね」

NAOKI

この頃のナオキさんはバンドの中でどういうポジションだと認識されてたんですか? 大変恐縮なのですが、たしかにデビュー当時のラフィンはチャーミーさんの求心力が絶大でしたが、「Laughin'Roll」後は全員が対等というか、ファンによってはナオキさんやPONさんを一番に考えていたファンが多かったと思いますが?

「・・・・・・。うん、そうかもしれないね。ラフィンがデビューした頃な、事務所に届いたファンレターでいうと、チャーミーがもうブワーって感じで、ポンもブワーってな感じ。で、マルがそこそこでオレは全然なかったの。1通とか、2通とかそんなもんや。でも、オレはそれが当たり前やと思ってたし、やっぱ最初はラフィンでやらせてもらってるっていう気持ちが無意識にあったと思う。でも、いろんなことがあって、ギタリストとしていろんなことを考えなあかん時期になって、そんな感情が芽生えてきた頃にたまたまファンレターのことを事務所に聞いたら逆転してたんや。オレの方が増えてんねん。オレはどんなことでも、どんな悔しいことでも受け入れて、全て吸収しながら自分のあり方っていうのを明確に打ち出していった、それが認められたんやなって思ったと同時に、いろんなことが自分の中で弾けだしたな」

グイグイと個性が溢れ出てきた時期もこの頃ですよね。

「あの頃からやもんな、ハードなスパイキー(ナオキのヘアスタイル)をやり始めたんわ。で、気がつきゃ、髪の色をライブ毎で赤やったり、ピンクやったり、緑やったり、青やったりっていう風に、ものすごい髪の色変えてたな。お客さんが、次ぎ何色で出てくるかギャンブルの対象になるくらい(笑)。なんかそうやって自己主張するのが楽しくなってきて、音楽だけでじゃなくて、バンドのパーソナリティが持ってるエンターテイメント性っていうんかな、そういうのがすごい長けてきたかなって思う。もちろん、葛藤みたいなもんも同時に抱きながらやけど」

NAOKI

自身がすごく大きな存在になっていくことと、実像とのギャップが埋まらないときもありましたか?

「その狭間で迷っていく中で、それを埋めるために生まれたのが『ミート・マーケット』かも知れへんな。ファンが二分化したように、オレの中でも何かが二分化し始めた時期やと思う」

多くのファンは「ミートマーケット」がナオキさんとPONさんのあまりに衝撃的なラフィン脱退劇の原因と思っていますが?

「そうみたいやけどね、実はちょっとちゃうねんな。要因はひとつではないねんけど、大きな部分では『ミートマーケット』後の延長線にあるわな。次に『ブレイン・コントロール』でアルバムを出すことになっててんけど・・・・・・」

発売延期を繰り返して、結局発売されなかった幻のアルバムですね。

「ニューヨークでレコーディングとかになってはりきってたんやけど、2度目のニューヨークレコーディングを終えて、帰ってきたら発売中止しましたっていうね。それは大きいね」

チャーミーさんの独断で?

「まぁ、『東京に帰ってきて聴いてみたら出来が悪い、こんなもん出せへん』みたいな感じや。あれを出さないっていう流れになった時、うちの会社(ラフィンノーズは自主で会社を持っていた)が潰れそうになったからな。だって、オレらの場合、レコーディング費用がそのまま借金に繋がるわけで、出さへんかったら全部借金や。その頃のオレとかPONとかなんて給料1万の時もあったしね。『ごめん、給料出せない。1万円でいいかな?』って(苦笑)」

えぇ!? 当時のナオキさんが給料1万ですか?

「最高で18万くらいやったよ、何回かしかないけどなぁ(涙)」

バンド全員ですか?

「チャーミー以外はそうやったんちゃうかなぁ」

そうやったんちゃうかなかぁって!

「オレ、ラフィンの時代って西荻窪の小さいアパートの1階のヒンヤリとした6畳2間に兄弟3人で暮らしてたもん。別にさ、同じバンドで金の話なんて言わないもん、そんなの別にどうでもいい思ったやし、楽しけりゃな。オレおかしいんかなぁ。金に何の執着もないねん。おいしいビール飲んでたらそれでええわ言うて。終電逃したら、朝まで飲めばええねんってな。でもなぁ、当時チャーミーの家に1回だけ行ったことあんねんけど、あれにはビックリしたけどな」

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ちなみにチャーミーさんはどんなとこに住んでたんですか?

「キレイなマンションの最上階。だってさ、事務所の人間がアメックス持たせてるんだもん。もう使う使う! なんか訳のわからん壺買ってきたりとか、何かの力が込められたお面買ってきたりとかさ。当時のあの人はスゴかったで」

ブラジル級のバンド内格差に疑問も覚えなかったんですか?

「覚えへンかったなぁ」

覚えときましょうよ、そこは(苦笑)。で、話を元に戻しますけど、「ブレイン・コントロール」の発売中止が決まって。

「録るだけ録ってさ、大金ぶちまけて録音して帰ってきて『出したくない』やしなぁ・・・・・・、そりゃ腐るで」

チャーミーさんが示す方向性に疑問が生まれてきた?

「オレから見て、チャーミーの方向性がどうとかじゃなくて、当時のチャーミーはオレなんかには踏み入れられない世界というか、”向こう側”にいたからね。あまりにも回転が速くて、自分が作った物をすぐに否定してしまうというか、現実のスピードに生きてなかったからしょうがないかなって。そんな状況なのに、チャーミーは『出したくない』って言った後、そのままインドに行ったりとかまたニューヨークに行ったりしてるから全然スケジュールが決まらへんねん。そんなんやからもうオレらは悶々としてくるんだよね。なんか、ああかなこうかなって言って動いてる分にはいいけど、チャーミーが海外行くと全部ストップするわけやし・・・・・・」

なんだかスゴい話ですけどね(苦笑)

「うん・・・・・・、まあ、しょうがないやろって諦めてたけどな。自分探しの旅が忙しくていろいろあるんやろうし。だからまあオレとPONは浪速のバカ兄弟いうてさ、PONとふたりでアホなことばっかりやってたわ、その頃かなオレの人生でラフィン加入と同じくらいの事件が起きるんやわ」

その事件とは?

「渋谷や!」

ラフィンノーズ脱退の真実が明らかに! 〜後編に続く〜

NAOKI
1965年6月18日生まれ。兵庫県出身、本名:宮本直樹。82年、高校在学中にCOBRAを結成。COBRA脱退後の84年、ギターテクニックが惚れ込まれ、若干19才にして当時のパンクシーンの象徴的存在だったLAUGHIN' NOSEに加入、その名を全国へと広める。90年、突然のLAUGHIN' NOSE脱退を表明、親友のヨースコーと、共にLAUGHIN'NOSEを脱退したPONとでCOBRAを再結成させ、デビュー1年を待たずに武道館ライブを見事、成功させる。COBRA活動停止後は実弟のTAISHOとDOG FIGHTを結成。シングル9枚、アルバム7枚を世に送り込む。DOG FIGHT解散後、バーの用心棒など数々の仕事を渡り歩くも、01年12月にSAへの正式加入を突如発表し音楽シーンに復帰を果たす。ナオキ加入後のSAは、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで人気が加速、RANCID日本ツアーを全国6箇所にてサポートするなど、殺到するイベントオファーをこなしつつ、07年6月に最高傑作という声も高い『BEYOND I』をリリース。同アルバムを掲げた全国ツアーは軒並み満員御礼の嵐! 「オレらは今、パンクの野党やねん。見ててみ、もうすぐ政権交代や!」 NAOKIの野望成就の日はもうそこまできている!!
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