「ゲッ! ゲッ! ゲッザグローリー!!♪」。いやぁ、マジでお会いできて光栄です! 80年代、日本のパンクシーンを牽引した伝説のパンクバンド「LAUGHIN'NOSE(ラフィンノーズ)」の初期黄金時代を飾ったギタリストであり、その人気が社会現象にまでなった「COBRA(コブラ)」、男を魅了するロックの神髄を提示した「Dog Fight(ドッグファイト)」を経て、現在はパンク界のカリスマ的な存在である「SA(エス・エー)」で活躍されているナオキさんの登場です!
「照れくさいこと言うなぁ、まぁよろしく頼みますよ(苦笑)」
ナオキさんのロングインタビューなんてチャンスはなかなかないと思うので、『OG』初の前編中編後編掲載という特大枠でやらせてもらいますのでよろしくです! さて、日本のパンクギタリストの代表的人物の少年時代っていうのはどんな感じだったんですかね?
「オレが生まれた頃はな、世の中的にはっていうか、日本は高度経済成長のど真ん中みたいな感じで元気な頃だったね。日本のめっちゃいい頃や」
その頃って、景気も良くて、国民総中流階級化みたいな時代だったんですよね?
「そうそう、オレんちもな、これといって貧乏でもなく、言ってみれば普通やね。もうこれぞ普通って状態で生まれてん。4人兄弟で上から3番目や。でもな、これは兄弟がおるやつみんなが感じることやと思うけど、親の愛情っていうんかな、やっぱり初孫は身内ウケが良いっていうかさ、大事にされるやろ。で、兄貴がいて、姉ちゃんも最初の女の子やって身内内でガツンとウケますわ。で、俺が生まれてすぐ弟が生まれてんけど、一番ちっちゃい子はやっぱウケがいいんやね(苦笑)」
ナオキさんは一番ウケずらいタイミングにドンピシャ!
「そうそうそう! オレは今思えばいまひとつウケがよくなかってん(笑)。なんかさ、真ん中の子ってやたら怒られたりとか、わがまま聞いてもらえへんかったりとか。生まれたポイントっていうのは人を大きく左右するな。もう小さい頃から客観性みたいなのを身に付けたもん。ああいう風にゴマをすれば、こう響くとか、いろんなのが見えてくる。子どもながらに」
だからこそ自我に目覚めるタイミングというか、自分自身で趣味みたいなものを見いだす時期みたいなのが早かった?
「そう! その通りやね。それが根拠なんかはいまひとつわからへんけどさ、充分そう感じてたわ。やっぱな、与えられるものも少なくて、兄貴と一番下の弟は『欲しい』って言ったものをすぐに買ってもらえるような感じやった。それを客観的に見てたらさ、『オレはそういう立場なんやな』と」
なんだか寂しいですねぇ・・・・・・。で、そっからもうロックに目覚めた感じで?
「ちゃうちゃう、そんなもんいっさい知らんかったわ。野球やね、V9時代の巨人! 長島がもうバリバリの頃や」
でも、ナオキさんって大阪、しかもこれぞ大阪っていう尼崎出身ですよね。虎柄に支配されているような街なのに怒られませんでしたか?
「まぁ、ぶっちゃけ非国民やね。小学生ながらにオレも自覚してたわ(苦笑)」
ある意味、小学生んときからナオキさんのスピリッツは完成されてたわけですね(苦笑)
「そうかどうかはわからへんけど、大阪やからって阪神を応援せなあかんっていう風潮っていうか、そういう関西人の気質はあんまり好きやなかってん。野球の放送は今も昔もほとんどが巨人中心やん、やっぱ好きになるよ、スーパースターだらけやし、もう否応なしに巨人ファンやった。で、見てるだけやったら我慢できひんくなって、最終的には自分でチームを作るようになったりね」
野球チームに入ったりとかじゃなくてご自身でチームを旗揚げされたんですか?
「そやね。地元の連れを集めて作った。自分らでフェルト生地を買ってきてさ、チームのマークを作ってみんなの帽子に貼ったりとかしてやってたわ」
ものスゴいバイタリティーですね!
「自然とそうなったんや。自分の弟の世代とかも友達やし、姉ちゃんや兄貴の世代とも友達やし。そういうのでみんなで野球やったらおもろい思ってんな。堅苦しいの抜きで好きなもんだけで集まってさ。年上とか年下とかとの付き合いなんかはそこで覚えたんやと思う。協調性っていうか、和っていうんかな。まぁ、読者がオレに期待するアナーキーな感じには反するかもしんないけどさ(苦笑)。まぁそういうのがあって、そのまんまどっぷり6〜7年間は野球やね。幼稚園から小学校丸々」
チーム内のほとんどの子が阪神ファンですよね?
「そらもう全員やで、虎だらけや。でも、オレは巨人だけには飽き足らずって感じで、南海(ホークス/現・福岡ソフトバンクホークス)とか阪急(ブレーブス/現・オリックスバファローズ)とかのファンになって、最後の方は広島カープが好きになってきて、カープ初優勝の時なんかすごい感動して号泣したで」
南海や阪急(どちらも本拠地は関西圏)はわかりますが、広島なんてなんの縁もないじゃないですか。まぁ、あくまでアンチ阪神なんですね(苦笑)。ちなみに、ナオキさんのポジションってどこだったんですか?
「ポジション? キャッチャーやで」
意外ですね。ピッチャーとかサードとかみたいな花形じゃなくて?
「そらそっちのほうが派手やろうけど、なんかさ、キャッチャーっていう立ち位置が好きやねん。常に参加してるって意識みたいなのを感じれるっていうか、普通やったらずっとなんかをやってなあかんのに、キャッチャーはずっと受けなきゃいけないっていう。そんなキャッチャーってポジションがオレは好きでね」
ゲーム中のチームを掌握しているような気分にもなる?
「なるなる! あの感覚はさ、オレのバンドでの役割っていうか、人生観から見るオレの立ち位置ってものにものスゴく役立ってると思う。オレはいつもキャッチャー目線やわ。そうするとな、なんか優しくなれんねんな、あらゆるもんに」
ナオキさんのキャッチャー理論はものスゴく共感できますね。では小学校を卒業された後も野球一直線で?
「それがちゃうねんなぁ。もちろん、野球しかやってへんかったし、中学に入ったら野球部に入ろうと思ってたけど、避けられへん現実に直面するわけよ」
避けられない直面?
「坊主や(即答)」
中学の野球っていえば今も昔もほとんどが坊主じゃないですか。受け入れられなかった?
「なんで野球すんのに坊主やないとアカンねん、なんでスポーツとハゲがイコールやねんって。『ドカベン』の殿馬一人(とのまかずと)とか『侍ジャイアンツ』の番場蛮(ばんばばん)とかさ、みんな髪の毛長いやん? そんなん軍国主義やで。さっきの『大阪は阪神』って話もそうやけど、そういう理由なき当たり前的な流れみたいなものにはもう子どもんときから違和感があって、否定的やったし、納得できひんかった」
みなが、それがあたかも既成事実であったかのように染まっていく体制というものに子どもの頃から溶け込めなかった?
「そうやね。坊主がイヤやったからちゃうねん、当たり前のように坊主にされることに対してなんの疑問も持たへんっていうことにどうしても納得できひんかった。でも、それと引き換えに野球ができひんくなったわけやし、なんか抜け殻みたいにはなったな。で、そんな心にポッカリと穴が空いてしまった時に、見てしまうわけやな、彼を」
彼とは?
「河島英五や」
か、河島英五ですか!? あの『酒と泪と男と女』や『時代おくれ』のシンガーソングライター?
「そや。あれは島田紳助がやってた夕方の番組やった。そこに河島英五がギター1本持って出てきて熱唱するわけよ。でな、歌の途中でそのあまりの力唱がたたってかなんか、なんとギターがドンドン壊れてくねん。ギター弾きながら歌ってるだけやのにギターが壊れていくねんで! 弦がブチブチ切れて、サウンドホール(真ん中の穴)がバキバキに割れていくねんで! もうね、『なんやこのおっさん! なんでギターブチ壊しながら歌っとんねん?、なんなんやこれは!?』って」
アハハハハ! それまで野球しか知らなかった少年には衝撃的でしょうね(笑)
「そりゃもう衝撃的やったで! 別に河島英五が好きやったわけちゃうねんけど、『どんまいどんまい〜くよくよするなぁ〜♪』って歌いながらギターをブチ壊してんねんから(笑)」
ギタリストがギターを志す理由として「ジミ・ヘンドリックスがギターを燃やしてるのを見て驚愕した」とか、そんなコメントをよく耳にしますけど、ナオキさんにとってのジミヘンは河島英五だったわけですね!
「そやで! もう完全に河島英五にヤラレてもうてさ、次の日にレコード屋にダッシュしてアルバム買ったもんな。一番最初に買ったレコードはそんとき流行ってたアイドルものとかやったけど、河島英五はそういうメディアに操作されて買ったもんとは違って、『これが聴きたい』って思って買った初めてのアーティストやった。で、ギターに興味がわくわけや」
河島英五はナオキさんがギターを始めるきっかけでもあるんですね! 正直、意外でしたよ
「『SEX PISTOLS(セックス・ピストルズ)』とか『CLASH(クラッシュ)』とか言うたら"きっかけ”的にはまとまるんやろうけど、オレは河島英五やねん。でも、さっきも言ったけど、オレはあんまり物を買ってもらえへんポジションにおってさ、しかもさすがにギターはなかなか買ってくれへんかったわ。ならばお年玉でって思ったけど、お年玉は全額親に没収されてたしな」
だいたいの親が使う魔性の言葉、「将来のために貯金しておくからね」ですね!
「そやねん。でも、野球以外で初めて見つけた”やりたいこと”やったからオレもゴネまくってね、その貯金とやらからお金を下ろしてもらって、安いアコースティックギターを買ったんよ。メーカーなんて今考えたらわけのわからんボロいやつやったけど、もう1日中弾きまくったね」
ギタリスト・ナオキの誕生ですね!
「誕生したねぇ、してもうたわぁ(しみじみと)。今よりは遥かに練習してたしな、もう我を忘れてガンガンに弾きまくった。とにかく、『1日でも早く河島英五みたいになりたい! あのおっさんみたいに弾き語りが出来るようになりたい』って一心やった」
1日でも早く英五に! しびれる中学生だなぁ(笑)
「当時売ってたソノシート付きの教則本とかを読みあさって、アルペジオとかスリーフィンガーとかストロークとか、無我夢中で覚えたわ。普通はオ●ニーとかに目覚めてサルになる年なんやけどな」
アハハハハ! 酷使する棒が息子でなくギターのネックになってるという(苦笑)
「もうグリス! トリル! たまぁにハンマリングやで! でな、そういう練習をずっとやって中2になった時にはオリジナル曲を作り始めんねん。中2でオリジナルやで、もちろんオナ●ーよりも早かったで(意気揚々と)」
●ナニーよりもオリジナル制作のほうが早かったですか(笑)
「早かったな。でな、中2になってフォークソング部に入部すんねん」
えぇー!? ナオキさんってフォークソング部出身なんですか!
「そやねん。まぁぶっちゃけ基本クラブ内はかなり暗かったね。南こうせつというかさだまさしというか、そんな感じのメガネ率が異常に高かったわ。でも当時はモテたで! ギターが弾けるっていうだけでクラスじゃ大人気。オレ、自慢じゃないけど多分クラスで1番バレンタインチョコも多かったもんな。もう『ナオキ君なごり雪を弾いて!』とか『私は22歳の別れを弾いて』とかもうギャーギャーや! オレもカッコ付けて『あ、いいよ、いいよ』なんてな。中3んときは文化祭でバンドもやったな」
おぉ、とうとうバンドになりますか!
「まぁバンドっていってもしょうもない感じやったけどな。『CHAGE&ASKA』のファーストアルバムに入ってる『夏を過ぎて』って曲をみんなでやって。もう1曲はおれの作曲した曲で、ベースの八木君っていうのが詞を書いて。曲目が”冬が来る”と書いて『冬来』」
なんだか暗〜いバンドですね。
「ウケへんかったねぇ・・・・・・。またその八木君ってのがさ、ルックスがもう完全にさだまさしなわけ。詩の世界もさだまさし丸出しでさ、『防人の歌』とか、聴いてる人に詩を読ます勢いや。内容も暗い暗い(苦笑)」
ナオキさんが中3のときって1979年くらいですよね、世界はパンクブーム真っ最中ですよ
「世の中にパンクっちゅうもんが生まれてたなんて当時は全然気づかんかったなぁ(苦笑)、ヨースコー(COBRA、VO)は多少知っとったみたいやったけどな」
へ? ヨースコーさんって当時からお友達なんですか?
「そやで、同じ中学やし、あいつもオレと同じでフォークソング部やったんよ」
ヨースコーさんもフォークソング部だったんですか!
「そやねん。でも全然あいつは暗くなかったで。ヨースコーはおもしろいギャグばっかりやってるタイプの人やった。ドリフが大好きで、ドリフネタをやらせたら学校一おもしろかった。で、そんときからあいつは洋楽志向やったな。ロックマガジンとか、あの辺をずっと愛読しとったからな」
ナオキさんはヨースコーさんが当時聴いてた音楽に興味はなかったんですか?
「高校んときからやな。高校に入学したはいいけど、我が尼崎市塚口って街は中学んときからの仲間がいっぱいいるわけやから、電車通学しなあかんような遠い高校やと結局いうほど友達もできひんねんな。そやし、学校終るとすぐに帰って地元の奴らとただ遊んどってんけど、そん時集まってた中にはいっつもヨースコーがいたし、最初のコブラのメンバーでドラマーだったミーちゃんっていうやつもいた。でな、みんなでくだらん話ばっかりして、酒飲んだり、朝まで遊んだり、なんか悶々としとってさ、万引きしようかとか、喫茶店行って、喫茶店で1番かわいい子を誰が落とすかとか、そういうことに明け暮れとってんけど、ヨースコーがパンクの洗礼を受けてからは早かったな」
ヨースコーさんに「お前もパンクを聴いてみろよ」みたいな?
「うん。ヨースコーの家に溜まることが多くなってきて、そんで初めて聴かせてもらったのがクラッシュやったわ」
おぉ、ここは順当にきましたね!
「最初がクラッシュでよかったで。このタイミングで『Discharge(ディスチャージ)』とかみたいなハードコアを聴かされてたら絶対アカンかったと思うわ。『どんまいどんまい』からいきなりなわけやし、ビックリして死んでたんちゃうか(苦笑)」
たしかにハードル超え過ぎですよね。で、クラッシュはすんなりと入ってきた?
「入ってきたね、ファースト、セカンド、サードは全部、速攻で好きになった。特に『white riot』や『tommy gun』って曲には心底ヤラれたわ。スリーコード爆発っていうか、もうめちゃくちゃかっこいい! アレンジも覚えやすいし。中でも一番好きになった理由は身近に感じたことかな。普通に聴いても実はそんなに上手くなく聞こえるやん、オレらの耳にもさ。なんか『これオレらでもできるんちゃう?』みたいな感覚」
そこがパンクの魅力であり、ジャンルをフィルターにした最大のメッセージですからね。
「で、自然にバンド組みたいってなるやん。ヨースコーは高校すぐにクビになってたこともあってやることないからもちろんやりたがってたわけで、『よしバンドや!』ってなって、『ギター弾けるヤツ? 近所におるやん、ナオキや!』、『ドラム叩けるヤツ? 近所におるやん、ミーちゃんや!』ってなって、すぐにバンドになったんよ。今まで一人でフォークをやってたわけで、それがロックになって、グループになってバンドにしたわけやん。やっぱり野球が好きやったのも大きいんかな、何かをグループでやるのが大好きやってん。だからヨースコーに『バンドやろうぜ』って言われたときもなんの躊躇もなく入ったわ。スタジオに入ってみんなでワイワイやってるのがホンマに楽しかった」
でも、次はエレキギターが必要になりますよね?
「 そこなんよ、でも、知らん間に手元にあったけどな(ニンマリ)」
ヤリましたか(苦笑)
「 いやいや、パクッてはないけど、手元にあんねん(笑)」
いやいやいやいや(苦笑)
「まぁ、オレはよう知らんねんけど、当時の楽器屋さんってギターなんかすぐパクれるっちゅうかさ・・・・・・。、まぁええわ! もう時効やしな。その通り、盗める盗める! 年間100万相当パクッたで。もう最終的に捕まったからええやろ(笑)」
アハハハハ! 超高校生級だなぁ、今でいう万引き王子ってとこでしょうか(苦笑)
「そんなええもんちゃうで。まぁどやったろ、スニーカーから、食べ物から、たばこまで。もう全て! 盗れるものは全部盗ったったわ(笑)。オレも子供だったからさ、暇なんだよね、なんかおもしろいことないかなぁ的にやっちゃうんだよ。その結果が16から17の一年間、万引き人生の盗人人生や」
決して紙面上で肯定はできないですけど、やっぱそんなエピソードのひとつやふたつはミュージシャンの口から聞きたいもんですよね。
「まぁ自慢するようなことやないけど、今の子(ミュージシャン)らには絶対ありえへんやろうなぁ(苦笑)。でもな、楽器はうちにもいっぱいあってん。当時な、実家は尼崎で大きなラウンジバーを経営しとってな、今は大御所演歌歌手みたいになってる人がさ、大川栄作とか新沼謙治とかがワッサワサ来てたもん。結構大きい店やったから、いろんなレコード会社、事務所がプロモーションに来て演歌ショーなんかをやんねん。今でいうお笑い芸人の大御所の人らもようきてギャグやっとったで」
へぇ、もう立派な劇場じゃないですか! ナオキさんはお笑いとかも好きだったんですか?
「そりゃ好きやで! 大阪に住んでんねんもん。『よしもと新喜劇』はもう毎週必ず観てたな。オレの子どもんときはオレが思う新喜劇の黄金時代やったからさ。もちろん、新喜劇の役者さんもたくさんきてくれはったよ。(故)岡八郎、花紀京、井上竜夫、室谷信雄、木村進とかね、まぁみんな借金だらけで首が回らへんどころか何百周してる人らばっかりやけど(苦笑)」
アハハハハ! でも、名前だけからでも往年のロックスターのようなオーラが出てるってのはやっぱりスゴいですよね。
「そやろ、今の芸人は生き方が小粒やからな。この時代のお笑い芸人さんはもちろんもうなんていうかデッカいというか、真っ黒やで(苦笑)。でも、人前で何かを表現する人間っていうのはやっぱりある意味変わってんとアカン思うしね。しっかし、ホンマうちのラウンジには芸人さんがようきたで、間寛平ちゃんなんかも若手の頃によう店にきはったわ。まぁ、その店には楽しいことばかりやなくて、いろんな物語があんねんけどな」
ちなみに、そのいろんな物語とは?
「バンド結成の話と変わるけどいいか?」
脱線はNO問題どころか大歓迎です! 後で戻ってくりゃいいんです
「おもろいインタビューやなぁ、ほないくで。まず、当時なんでオレの実家の店に大物のお笑い芸人が来るかってことやね。さっきも言ったけど、ぶっちゃけ借金抱えてる芸人っていっぱいいた。みんな『打つ! 買う! 飲む!』やしね、ギャンブルが大好きで、やたら金使いが荒い。要するにな、正規のギャラだけやったら生きていけないんやねぇ。で、そこで登場するのが夜の興行やねん」
予想通りのきな臭い話になってきましたけど、大好きです(笑)
「そうか、こんなん好きか(笑)。でな、それを仕切る興行主ももちろんいるわけやね。で、そういった芸人さんたちを仕切ってね、スナック回りをさせるんですよ。名目は『飲みに行きましょう』っことで。そしたらスナックから『1本ギャグやったってーや』とか、『ちょっとステージでおもしろいことしてーな』ってことになって、謝礼ってことで数十万貰えるとかね。要するに遊びの延長ならいいよと、遊びのお金としてね」
で、そのお店の中にナオキさんのご実家もあったということですね。
「でもその中のひとりにうちの親父が騙されてや、もう大変やってんで。親父はいつもそういう芸人を快く受け入れるからさ、興行主によっては親父を身近な存在と思う人も出てくるわけや。その逆で、親父も興行主とかを『怪しいヤツや』とか思わないようになってくるよね。要は仲良くなり始めるやん。普通のことやねんけど、そん中のひとりが親父に借金の保証人になってほしいってなって、親父も『その人との付き合いが深まるなら』ってことでポーンとはんこを押しちゃったんよ。無論、そのままとんずらや」
わちゃぁ、絵に描いたような保証人被害ですね。
「でな、なんと芸人にもそいつの保証人になってる人がおるって話で、そいつに逃げられたヤツがおるってことで聞いてみたら、なんとそれが寛平ちゃん(笑)」
あちゃちゃー、そりゃ寛平ちゃんも夜の興行関係なしで飲みにもき ますよね(苦笑)。ちなみに幾らくらいヤラれたんですか?
「当時で2000万やから今でいう6000万とかそれ以上やな」
それはもう大黒柱がブチ折れる金額ですよね・・・・・・。
「見事にブチ折れたで(苦笑)。それからお店の経営もドンドン傾いていってな、そういうこともあって、5〜6年後には最終的には夜逃げしたからね」
夜逃げするまで追い込まれたんですか?
「追い込まれたなぁ、まぁお店の末期の話はのちのちラフィンの話にも繋がるストーリーやから、今は後にしょうか」
いやぁ、楽しみです! で、バンド結成の話に戻るんですけど、お店もありますし、機材面や練習環境にも困らないですよね。
「うん、足りひんもんもいっぱいあったし練習スタジオみたいなのにも入ったりしてたけど、環境面は整っててん。でも、いきなりアコースティックからエレキやろ、最初はアンプのインプットとかアウトプットとか見ても、もうどっちがどっちやねんっていう状態でな。ボリュームはわかんねんけど。『トレブルってなんや? ミドルってなんや? ベースってなんや!?』って世界や。まぁ考えてもわからんから、適当につまみをピューってやってパンパンとやって、大きい音だしてガーガー出てりゃいいやろって感じやったけどな」
クラッシュのコピーから始めたんですか?
「いやいや、それがいきなりオリジナルやねん」
また、”冬が来る”と書いて『冬来』みたいな暗い曲ですか?
「なんでやねん! ちゃうちゃう。最初は3人で『TAN(タン)』というグループを作ってんけど、クラッシュみたいなんをやろうってバンド組んだんやけど、出来上がったのはノイズバンドやってん(笑)。で、そのタンでライブを3回くらいやったんやけどすぐ辞めて。で、次は「SUBWAY KIDS(サブウェイ・キッズ)」っていうバンド名になってさ」
なんかパンク魂がまったく見えてこないバンド名ですね。
「恥ずかしいバンド名やろ。『ARB(エーアールビー)』とか『THE MODS(モッズ)』みたいなジャパニーズロック。でも、これはライブを1回もすることなく消滅して。そのまんまの流れでコブラになったんですよ」
初代コブラの結成って高校生だったんですか?
「そや、高校2年の時やな。最初のコブラはもうイケイケのハードコアパンクやった」
ノイズからモッズみたいなめんたいロックを経て、そのままハードコアって流れもこれまたとんでもないですね。
「まさに試行錯誤やね。あれも違うこれも違うって考えながら一所懸命にやってたわ。その頃の方向性を考えてたのはヨースコーやったんやけど、いきなりハードコアやもんね」
で、ハードコアからオイパンク(以下、オイ)になるわけですか?
「そやねん。まぁオレが思うにヨースコーは強烈な天然パーマやったから髪型がどんなジャンルのロックにも合わへんねん。そやし、オイのルックスを見て一気にオイになったんちゃうかなぁ」
アハハハハ! オイの人たちはほとんどがスキンヘッド、もしくは短髪ですからね。
「もうすぐに髪の毛短くしてたもん。オイに出会ってからの彼の転身は光の速さより早かったよ。いつも方向性を変える時はいろんな話し合いがあったんやけど、この転身の時だけはなにも話し合いがなかったしね。いきなりMA-1にドクターマーチンにフレッド・ペリーのポロシャツにサスペンダーやもん。いきなりの変わりようにオレらは『あれ?』状態やったもん。『これは一体何なの?』っていうね」
オイの音はすぐに聴きました?
「ヨースコーに聴かせてもらったよ。『The Business(ザ・ビジネス)』とか。今考えたらもうベッタベタな」
こりゃまたド直球なオイパンクですね!
「恥ずかしいなぁ。でも、あの頃に関西でオイをやるってかなり早かったというか、ヨースコーが始めたって言っても過言じゃないと思うよ。当時のパンクっていったらほっとんどがハードコアやったし、ハードコア全盛の頃にオイが産声を上げたというかね」
注目されたんじゃないですか?
「注目とまではいかへんかもしれんけど、ちょっとした話題にはなったよ。まだタンをやってたときにな、大阪の南に夢屋ってライブハウスがあってんけど、そこで『NASHI(なし)』ってバンドと共演したことがあってん。そのなしってバンドはPONがいたバンドなんやけどな」
おぉ! とうとう出ましたね!!
「出たな(笑)。で、もうそんときあたりからシーンみたいなのとは繋がりが出来てて、ヨースコーも広報的な動きをめちゃくちゃするヤツやったし、ライブハウスにもよう顔を出しとって、コブラの名前は通ってたんよね。そんな感じで『みんなでなんかやりたいな』とかって話になって、よう一緒にライブなんかもするようになって、82年には当時ラフィンノーズが立ち上げてたレーベルの『AAレコード』から『BREAK OUT』ってシングルも出したしね」
『BREAK OUT』って高校生んときに出したんですか!
「そやで、まだ高校行っとったわ。もうそん時はオイ色出しまくりで『オイオイオイ!』って叫んでるもんね(苦笑)。『不法集会』もその頃やで、まだ高校生」
あの不滅の伝説オムニバス、「不法集会」にも現役高校生で参戦されてたんですか!
「むちゃくちゃ怖かったよ。あんな気合い入ったハードコアの人たちをいっぺんに見たんは初めてやったしね。でも、その不法集会のレコーディングが終わってすぐぐらいに辞めるっていうか、コブラをクビになんねんけどな」
えぇ! ラフィンノーズに加入るために辞めたってのが定説になってますけど違うんですか?
「真実はちゃうねんなぁ。いろんな本とかにはオレがラフィンノーズに入るためにコブラを捨てたみたいなこと書いてあるらしいけど、捨てられたんはオレやねん(苦笑)。実はな、コブラは不法集会のあたりからもうオレの代わりのギターを見つけとってん。で、それを告げられた時はビックリしたよ、中学んときからいっしょおって、いっしょに音楽聴いて、バンド組んで、ずっといっしょにおってからなぁ、青天の霹靂とはまさにあのことやわ」
原因はなんだったんですか?
「まぁ、オレが思うにみんなと時間を共有することがあまりできひんかったからちゃうかな。当時、コブラの人気は右肩上がりでさ、でもオレには店を手伝うっていう絶対に外せへん仕事もあったんや。さっきも言ったけど、その頃は借金の問題でお店が潰れかけててん。で、従業員全員を解雇してしもてんな。お店は100人くらい収容できるラウンジやねんで。親だけやったら絶対に回せへんし、兄弟4人が全員で働かなあかん状況やってん。学校に行き、家に帰ってきたら、ネクタイ締めてそのまんまお店って日常や」
バンドでこれから!って状況のみんなとは絶対にかみ合わないでしょうね。
「そやね。ライブをするのが精一杯で、終わったらすぐに家に飛び帰ってネクタイ締めて仕事や。打ち上げとかで他のバンドとかと交流を深めたりとかもできひんし、メンバーとの時間を持つことすらあまりできひんかった。他のメンバーや他のバンドからしたら、オレはライブハウスでしゃべるだけの人間でしかない。事情知らない人たちから見たら付き合い悪い人間にしか見えへんやろ。そんな状況で、『オレ、コブラに入りたいんやけど』ってやる気満々の人間がきたらそりゃ誰でも考えるよ」
で、クビですか・・・・・・。
「『実は新しいギターを”入れた”んやけど』って、もう事後報告やったわ。でも、オレも高校卒業してからの進路に悩んでたし、同時にお店が潰れないようにオレが頑張らなって思ってたこともあったし、すんなり受け入れたよ。逆に『オレはお店やろ。おれは、それだけで生きていくんだ』って、夜の商売に身を埋める覚悟を決めた。親父を助けてやりたかったしな。で、コブラをクビになって辞めたその1週間後にめちゃ意外な人から突然電話がかかってくんねん、あっこからやな、オレの人生が走り出したんわ」
意外な人とは?
「 チャーミーや」
1965年6月18日生まれ。兵庫県出身、本名:宮本直樹。82年、高校在学中にCOBRAを結成。COBRA脱退後の84年、ギターテクニックが惚れ込まれ、若干19才にして当時のパンクシーンの象徴的存在だったLAUGHIN' NOSEに加入、その名を全国へと広める。90年、突然のLAUGHIN' NOSE脱退を表明、親友のヨースコーと、共にLAUGHIN'NOSEを脱退したPONとでCOBRAを再結成させ、デビュー1年を待たずに武道館ライブを見事、成功させる。COBRA活動停止後は実弟のTAISHOとDOG FIGHTを結成。シングル9枚、アルバム7枚を世に送り込む。DOG FIGHT解散後、バーの用心棒など数々の仕事を渡り歩くも、01年12月にSAへの正式加入を突如発表し音楽シーンに復帰を果たす。ナオキ加入後のSAは、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで人気が加速、RANCID日本ツアーを全国6箇所にてサポートするなど、殺到するイベントオファーをこなしつつ、07年6月に最高傑作という声も高い『BEYOND I』をリリース。同アルバムを掲げた全国ツアーは軒並み満員御礼の嵐! 「オレらは今、パンクの野党やねん。見ててみ、もうすぐ政権交代や!」 NAOKIの野望成就の日はもうそこまできている!!
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