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 『デリー・シティFCの元GK、
 エディ・ハマン デリー 1999』

宇都宮徹壱「デジタル・ロンドンツアー AtoZ」へ
http://www.biglobe.ne.jp/dokodemo/tokusyu/london/london3221.html




●●第31回 エメラルドの島にて知られざるアイリッシュ・フットボール
         〜其の3 サンデー・ブラディ・サンデー〜


■デリー、あるいはロンドンデリーにて

「デリー」と呼ぶか、「ロンドンデリー」と呼ぶか、それが問題であった。
 駅のプラットホームには、確かに「Londonderry」と表記されている。英国で発行されている地図の表記も同様だ。しかし、地元のパブで私が「Londonderry」と発音すると、同席した男は「いや、ここはDerryだ」と言ってウインクする。案の定、彼はカソリックであった。

 歴史的にロンドンからのプロテスタント入植者が多かったこの街は、1613年に英国王ジェームズ1世によって「ロンドンデリー」となった。しかし、アルスター6州のなかでも例外的にカソリックが多数派を占める地元住民は、今なお「デリー」の名にこだわり続けている。17世紀以降、ここはカソリックとプロテスタントとの抗争で明け暮れ、その凄惨さはベルファスト以上であったと伝えられる。観光客が必ず訪れるデリーの城壁内では、今なお英国軍の装甲車が物々しい巡回を続けていた。

 ダブリンから列車を乗り継ぎ、私は北アイルランドのデリーまでやってきた。今週この街では、フットボールは行われない。それでも私は、デリーという街に大いなる関心を寄せていた。

 私がデリーという街に魅了された理由は、ふたつある。この街が、世界的ロックバンド、U2の名曲「Sunday Bloody Sunday」のモティーフになっていたこと。そして、地元クラブのデリー・シティFCが、本来所属すべき北アイルランドリーグではなく、何故か隣国のアイルランドリーグに「越境」加盟していることであった。実際私が訪れたときも、デリー・シティはアイルランド・プレミアリーグのスライゴ・ローヴァーズとアウェー戦を戦うために不在であった。

 私がいつも重宝している「European Football Yearbook」という資料は、無愛想とも言えるくらいの情報の羅列ゆえに、時として猛烈な想像力をかきたてる。日本を発つ前にアイルランドリーグの下調べをしていたとき、唯一、アイルランド国外からリーグに参加しているクラブの存在に気づいた。クラブの連絡先の国番号は「+44」。そのクラブ「デリー・シティFC」は、英国領北アイルランドから例外的に、隣国のリーグに加盟していたのである。

 何故? どうして? このとき私の想像力の翼が一気に広がったことは、言うまでもない。


■「サッカー・プラネット」での邂逅
 
 フットボールの世界における「例外」には、必ず「しかるべき理由」が存在する。
 イスラエル代表がAFCを「追放」されて、その後UEFAに迎えられたのも、ボスニア・ヘルツェゴヴィナに民族ごとのリーグが存在するのも、いずれもその国や地域をとりまく環境の特殊性に由来する。その特殊性は、往々に政治的、宗教的、民族的な諸問題と決して無縁ではない。

 では、デリー・シティの「越境」には、どのような「しかるべき理由」が存在するのだろうか?

 デリー・シティのクラブオフィスは、信じ難いことにスタッフ全員が不在であった。私は、自分の足と勘に頼るしかなかない。アイルランドにおける最も手っ取り早い情報収集の方法は、パブに入り浸ることである。が、その結果はあまり芳しいものではなかった。

 パブの客のなかで、いかにも「フットボール好き」という風体の男たちにアタックしてみたが、誰も「デリー・シティの歴史」について語れる者はいなかったのである。今思えば、敢えて口を閉ざす者もいたのかもしれない。結局私は、パイント3杯をあおっただけでパブを後にした。

 デリーは、観光地らしからぬ静寂さを保つ街である。夕暮れ時になると、街は人っ子ひとりいなくなることもしばしばだ。地元の人々はパブで静かにパイントを傾けるか、家庭での団欒を楽しんでいるのだろう。外を歩いているのは、ほとんどが旅行者だ。

 ひとりぼっちで石畳の坂道をトボトボと歩くうちに、ふいに私は、おそらくこの街で唯一のひなびたスポーツ用品店を発見する。「サッカー・プラネット」という看板を頂くその店のウインドゥには、禿げ頭のマネキンが赤と白のストライプのレプリカを着て、あらぬ方向を凝視していた。胸のエンブレムを見ると、それは明らかにデリー・シティのそれである。瞬間、私のなかで期するものが閃く。私は、薄暗い店内に足を踏み入れた。

 店内で私を迎えてくれたのは、何とも無愛想な、太った初老の男であった。店内は、商品が雑然としており、ダンボール箱がいたるところに積み上げてある。

「これじゃあ、店も繁盛しないだろうなぁ…」などと余計なことを考えながら、私は彼にデリー・シティのことを尋ねてみる。すると男は、きょとんとした表情を見せた。当然だろう。わざわざ極東の島国から、北アイルランドの地方クラブを訪ねてくる物好きなど、そうそういるものではない。しかし幸いにも彼は、私が単なる酔狂な旅人ではないことを理解してくれたようだ。

「ちょっと待っていなさい」
 彼はそう言い残して、バックヤードに消えた。


■「血の日曜日事件」

 男がバックヤードから持ってきたのは、古ぼけたマッチ・デー・プログラムであった。いとおしくページをめくる男の指先から、それが彼の生涯の宝物であることが伺える。やがて、あるページを開くと、男は一点を指さして語り始めた。

「1972年まで、私はデリー・シティFCのGKだった…」

 そこには、「GK エディ・ハマン」という名が記されていた。私は驚いて、男の顔を見上げる。その表情はすでに、無愛想なスポーツ用品店のオヤジのそれではなく、かつての栄光に想いを馳せる「元フットボーラー」特有の恍惚に満ちていた。あわてて私がテープレコーダーを回し始めると、彼はピンと背筋を伸ばして、誇らしげ語り出した。

「私の名前は、エディ・ハマン。元デリー・シティのGKだ…」
 ハマン氏の物語をもとに、デリー・シティの秘められた歴史をひも解いてみよう。

 デリー・シティが設立されたのは、1928年。設立の翌年には北アイルランド1部リーグに加入し、リーグ優勝1回(65年)、カップ戦優勝3回(49、54、64年)を誇った。そんな中堅クラブに突如、悲劇が訪れる。72年に勃発した「血の日曜日事件」である。

 60年代後半以降、デリーを中心に北アイルランドではカソリックとプロテスタントとの抗争が日ごとに激化していた。69年、カソリックによる不平等選挙に対するデモに対し、アルスター特別警察が襲撃。これに呼応して、それまで影を潜めていたIRA(アイルランド共和軍)が、再びテロ活動を開始する。公民権を求めるカソリックと、その示威行動を弾圧し続けるプロテスタントとの抗争は、ついに72年1月30日、デモ隊に英国軍が発砲し13人が射殺されるという大惨事に発展した。この「血の日曜日事件」は、のちにジョン・レノンやU2のボノによる「抵抗の歌」として歌い継がれることとなる。

 やがて事件は不幸にも、フットボールの世界にまで波及するに至った。北アイルランドのクラブが、テロリストの戦場となったデリーでのゲームを拒否したのだ。アルスターで唯一カソリックのクラブであるデリー・シティは、救いのない孤立へと追い込まれ、ついに設立44年目にして「活動停止」を余儀なくされる。

「72年、デリー・シティは死んだ。選手たちは、フットボーラーとして生きるために、皆クラブを離れるしかなかった。その後13年間、デリーでフットボールが行われることは、なかった…」


■デリー・シティの復活

 転機が訪れたのは、事件発生から11年後、『Sunday Bloody Sunday』が収録されたU2の3作目のアルバム『WAR』が発表された83年であった。ハマン氏を含むデリー・シティの元プレーヤーたちが、クラブ復活の運動に立ち上がったのである。彼らが向かったのは、カソリックの同胞であるアイルランド協会と、そのリーグであった。

 時代は、ゆっくりと対立から対話へ推移していた。英国のサッチャー、アイルランドのフリッツジェラルド両首相を中心とする辛抱強い交渉の結果、85年に「アングロ・アイリッシュ協定」が締結される。これは、北アイルランドにおけるカソリック市民に関する内政問題に、アイルランド政府が政府間協議に参加できる、という画期的なものであった(ただし、北アイルランド政党の頭越しで調印)。こうした対話の気運も、決して無縁ではなかったのだろう。同年、デリー・シティは晴れてアイルランドリーグの一員として、国境を越えて迎えられることとなる。クラブが活動停止に追い込まれてから、すでに13年の月日が流れていた。さながらケルトの英雄伝説のごとく蘇ったデリー・シティは、4年後の89年に新天地で、リーグ、カップの2冠に輝いている。

「もし北アイルランドとアイルランドの代表が試合をしたら、どちらを応援しますか?」

 私の意地悪な質問にハマン氏は、店内に飾ってあるアイルランド代表のレプリカに一瞥をくれると、こう答えた。

「もちろん、アイルランドさ。わしだけじゃあない。カソリックの心は皆、南に向いているよ」

 なるほど。確かにこの店では、北アイルランド代表のレプリカは、店内の隅っこに申し訳なさそうに置かれてある。おそらくカソリックの店主による、ささやかな抵抗なのだろう。私は、ハマン氏との素敵な邂逅を記念して、デリー・シティのピンバッジを買い求めると、店を後にした。

 翌日、私はデリー・シティのホームグラウンド、ブランディウェルを訪れた。
 スタジアムは、高い壁に遮られていてなかを伺うことはできない。壁の上部は鉄条紋が張り巡らされ、壁面いっぱいにIRAを賛美する落書きが描かれている。何とも寒々しい、それでいて少なからず殺気立った雰囲気のスタジアム。「アルスターのカソリック」という宿命ゆえに、スタジアムには、他者を寄せつけない頑なな想いが宿っているように、私には思えてならなかった。

 もっとも、どんな土地であれ、子供たちは旅人に対していつも寛容である。いつものごとく私は、原っぱでフットボールに興じる子供たちの仲間に入れてもらった。無心でボールを追いかけているうちに、私の冷え切った心は、少しずつほぐされてゆく。

 やがて、季節の変わり目を告げる心地よい秋風が、原っぱを駆け抜けていった。(つづく)





第3夜「U2との『再会』」


デリーの中心部に建つ兵士の像

 ヴァン・モリソン、エルヴィス・コステロ、U2、シニード・オコナー、クラナド、エンヤ、メアリー・ブラック…。いずれもアイルランドが世界に誇るアーティストである。80年代の我が国において、U2やコステロなどは、不幸にも「ブリティッシュ・ロックの一種」という不当な扱いを受けていたが、90年代初頭のワールドミュージック・ブーム、そして最近の「癒し系」ブームによって、ようやく「ケルト・ミュージック」が認識されるようになり、アイリッシュ・ロックは市民権を得るようになった(この傾向は、文学や映画、アートなどでも同様である)。

 今宵はやや思い入れをこめて、U2について語ってみたい。
 1976年、ダブリンの高校生だったボノ(Vo)、エッジ(G)、アダム(B)、ラリー(Dr)の4人がバンドを結成。79年に3曲入りEP『U2:3』でメジャーデビューを果たす。80年に初のアルバム『BOY』を発表。83年発表のアルバム『WAR』は、全英チャートで初登場ナンバーワンとなり、以来、80年代、90年代を通じてロック界にカリスマ的な地位を築く。

 さて、私にとっての「U2体験」は、80年代に始まり、80年代に終わっていた。すなわち『WAR』を中心とする「初期U2」こそが全てであり、その後のダンスミュージックやテクノミュージックへの転換は、どうしても馴染めなかったのである。その一方で、中心メンバーであるボノに政治的発言が目立つようになり、果てはホテル経営に奔走したりと、音楽以外の活動がメインになってしまったような印象を受けた私は、しばらくU2から距離を置くようになっていた。

 のちに知るところによれば、ボノの父はカソリック、母はプロテスタントであったという。自身がプロテスタントであった彼は、母親と日曜日の礼拝に赴き、父はひとりカソリックのミサに参加していた。アイルランドでは「カソリックこそが全ての規範」であり、ゆえにボノはマイノリティとして、保守的な体制が抱える矛盾に怒りを覚えるようになる。

「俺の教会はロックンロールだった」と、彼は回想している。

 私がU2と「再会」を果たしたのは、バルカンであった。クロアチアでも、ボスニアでも、そしてユーゴでも、中心街の至るところでU2のポスターが貼られて、若者たちはU2のメロディを口ずさんでいた。実は、私が初めてかの地を訪れた97年、U2はサラエヴォのコシェヴォ・オリンピック・スタジアムでコンサートを開催したのである。

 このコンサートでは、ボスニアの全ての民族、そして旧ユーゴ諸国からも5万人もの観客がサラエヴォを訪れた。特筆すべきは、この日に限り、全ての民族にヴィザなしの入国を認めるという特別措置がとられたことである。ほんの短い間ではあったが、U2は民族間の憎しみを、武力ではなく音楽で取り除いた。

「音楽は政治を超える」。
 これは、このときのボノの名言である。果して、現在のフットボールに、その力は残されているだろうか?




 宇都宮徹壱(うつのみや・てついち)
 
UTSUNOMIYA,tete,Tetsuichi

 1966年3月1日 福岡生まれ。
 小学校5年からフットボールに興じるも、大学時代にレギュラーポジションを得るまで、ベンチ暮らしが続く。92年、東京芸術大学大学院美術研究科修了。その後、映像制作会社に勤務。94年から「ダイヤモンドサッカー」(テレビ東京)、「BSワールドサッカー」(NHK)などの番組制作を担当。
 97年、何の見通しもないままに「写真家宣言」を敢行。運命に導かれるような格好で、一路バルカン半島に向かう。98年、旧ユーゴスラヴィア諸国の現状とフットボールとの関わりを描いた『幻のサッカー王国/スタジアムから見た解体国家ユーゴスラヴィア』(勁草書房)を発表。以後、フットボールの視点から、民族問題、宗教問題を切り取ることをテーマとして、活動を開始する。同年フランスで開催されたワールドカップでは、「サポーターの視座」から取材。『サポーター新世紀 ナショナリズムと帰属意識』として勁草書房から発売中。