明治期
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1868(明治01)年03月02日:コレラ、コルクの黒焼きでコレラ全快。
→【中外新聞
1868(明治01)年03月--日:官軍の鼓笛隊が演奏する「宮さん宮さん....」(品川弥二郎作詞)が流行する。
1868(明治01)年03月--日:江戸麹町9丁目心法寺境内で曲馬の見せ物興行あり。
1868(明治01年)年春より:江戸両国橋詰めの見世物で、足芸女花川小鶴が評判に。両足の指が自在なり。
→【斉藤月岑『武江年表』】
1868(明治01)年閏04月03日:福沢諭吉、塾を新銭座へ移転して慶応義塾と命名。中庭にブランコを設置、遊園と運動場出来る。
→【木下秀明『スポーツの近代日本史』】
1868(明治01)年閏04月06日:天皇、大阪城内で馬術をご観覧。
1868(明治01)年閏04月17日:天皇、大阪座摩社で相撲天覧。
1868(明治01)年閏04月--日:「黒奴売買」と同様と、「亜国ミニストル」が年期名目の、日本人の外国への人身売買を禁ずと。
→【中外新聞外篇
1868(明治01)年05月17日:新政府、横浜吉原町に我が国最初の駆黴病院を設置。
1868(明治01)年06月26日:新政府、旧幕府の「医学所」を医学校として復興。
1868(明治01)年07月17日:政治・一般、天皇、江戸を東京とする旨の詔書をだす。江戸府が東京府に。
1868(明治01)年08月02日:兵学校を開校。
→【太政官日誌
1868(明治01)年08月15日:横須賀製鉄所の日仏合同パリ祭で職工の慰安運動会挙行。賞品に着物や帯。初の洋式運動会。
1868(明治01)年09月23日:横浜市中において、立小便禁止の御触でる。
→【もしほ草
1868(明治01)年10月17日:新政府、長崎の精得館を「長崎医学校」と改称し、長与専斎を学頭に任命。
1868(明治01)年11月02(3?)日:新政府、帯刀者の興行場(芝居や相撲や見世物など)への威嚇無銭入場を取り締まる。帯刀禁止。
1868(明治01)年11月13日:新政府、火刑・磔刑(たっけい)を廃止。
1868(明治01)年11月19日:新政府、築地に外人居留地設置。また外人相手の新島原遊郭出来る。(明治4年6月に廃止)
1868(明治01)年12月07日:医師は免許制に、と御布令書が出される。
→【東京城日誌
1868(明治01)年12月23日:新政府、富くじ興行を禁止。
1868(明治01)年12月--日:徳川氏沼津に兵学校と付属小学校を創設。操練を重視。
→【大場一義「体育と遊戯の奨励」】
1868(明治01)年12月--日:田辺良輔『新兵体術教練』。
→【今村嘉雄『十九世紀に於ける日本体育の研究』】
1868(明治01)年--月--日:この年、芝に私設の屠牛場開設。
1868(明治01)年--月--日:松本良順「養生法」翻訳。益軒の養生訓を批判しつつ、科学的「運動操作」に言及。
→【木村吉次『日本近代体育思想の形成』】
1868(明治01)年--月--日:J.P.モリスが横浜クリケットクラブを創設
→【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1869(明治02)年02月18日:京都府で種痘御用仰付け。
→【太政官日誌19】
1869(明治02)年02月19日:東京府、市中風俗矯正の町触れで、卑猥の図画、見世物、器物の売買や興行を取締る。混浴禁止。
1869(明治02)年02月29日:天皇、京都で賀茂競馬を上覧。
1869(明治02)年02月--日:東京須田町広場で湊川某、相撲を興行。
1869(明治02)年02月--日:鬼面山谷五郎、横綱を免許。
1869(明治02)年03月--日:大阪相撲、従来からの東西二枚綱番付を、初めて縦一枚番付に改めて発行。
1869(明治02)年04月04日:責馬の稽古を勧める。
→【太政官日誌
1869(明治02)年04月12日:外人医師立ち会いで人体解剖。
→【中外新聞
1869(明治02)年04月13日:イギリス女王ビクトリアの誕生日を祝い、英兵、横浜で小舟の競漕会を実施。
1869(明治02)年04月28日:市中での鳥撃ち(狩猟)発砲を禁止。
→【太政官日誌
1869(明治02)年05月13日:出版許可制、政府非難・風俗びん乱などを禁止し、版権保護などを盛り込んだ出版条例が定められる。
1869(明治02)年06月22日:東京府、種痘奨励の布告。出生より75日、または100日までの間に最寄りで種痘を受けるよう指示。
1869(明治02)年06月--日:この頃 藩籍奉還のため、大名の力士召抱え減る。
1869(明治02)年06月末より:江戸浅草奥山で、瞽者(こしゃ)の角力が見世物として行われる。
1869(明治02)年09月22日:海軍操練所を築地に設立。海軍兵学校(1876年)の起源。
1869(明治02)年10月20日:陸軍操練所を芝新銭座に設立。
1869(明治02)年11月02日:新政府、無刀の者の乗馬を禁止。
1869(明治02)年--月--日:沼津兵学校で初めて身体検査を課し、種痘ずみの有無をも入学の条件に加える。。
1869(明治02)年--月--日:高知藩で綱引、操練、器械体操、号令の稽古実施。
1869(明治02)年--月--日:堀越藤吉、東京芝に牛鍋店を開き、「御養生牛肉」の看板を立て、身体の栄養になることを説く。
1869(明治02)年12月14日:戊辰戦争に協力した京都力士に相撲場を永世下賜。
1870(明治03)年02月05日:政府、華族のおはぐろやかき眉を禁止に。
→【太政官日誌3
1870(明治03)年03月22日:人力車を創案・完成させた和泉要助、東京府より人力車の営業を許可される。
1870(明治03)年04月15日:政府、死刑者の死体を試し斬りすることを厳禁。
1870(明治03)年04月15日:政府、人肝、霊天蓋(脳髄)、陰茎などの密売を厳禁。
1870(明治03)年04月17日:天皇、駒場野で連隊調練を閲見、東京における最初の天覧演習、士民一般の玉体奉拝の初め。
1870(明治03)年04月24日:政府、僻地まで種痘を行うよう府藩県に命ず。種痘法を全国に実施。
1870(明治03)年07月--日:明石博高、京都祇園に私設療病館を設立。娼妓の検黴を行う。
1870(明治03)年08月--日:東京府、馬場の賭博を取り締まる。
1870(明治03)年09月23日:W.H.モーズを会長に、会則などを可決して神戸にKobe Regatta & Athletic Clubが創設
→【棚田真輔『居留外国人による神戸スポーツ草創史』】
1870(明治03)年-秋---日:江戸、練馬生まれの松井源水、英米で軽業興行を行い、一万円以上の収益をあげ帰国。
1870(明治03)年11月13日:徴兵規則制定。「兵卒年令20より30を限り身体強幹、筋骨壮健、長け5尺以上.....」(第1条)
1870(明治03)年12月24日:KRAC(Kobe Regatta & Athletic Club)がクラブハウスの落成を記念し、第一回レガッタ競技を開催。
→【棚田真輔『居留外国人による神戸スポーツ草創史』】
1870(明治03)年--月--日:この年、東京や大阪で、トンビ(二重回し)が流行しはじめる。
1870(明治03)年--月--日:弘前藩、この年開所の津軽藩弘前伝習所でフランス式体操(器械体操)を実施。悪戦苦闘。
→【木下秀明『スポーツの近代日本史』】
1870(明治03)年--月--日:佐藤アイザック、木造自転車をアメリカより購入し乗車。
1870(明治03)年--月--日:招魂社(靖国神社)で軍人による最初の競馬が開始される。
→【木下秀明『スポーツの近代日本史』】
1871(明治04)年03月29日:KRAC(Kobe
Regatta & Athletic Club)のクラブ総会で、最初の陸上競技会の開催を決定。
→【棚田真輔『居留外国人による神戸スポーツ草創史』】
1871(明治04)年04月18日:前年に禁止した平民の乗馬を許可。(太)
→【太政官日誌
1871(明治04)年04月26日:大阪城内兵部省出張所で、日本最初の西洋式徴兵検査施行。
1871(明治04)年05月04日:神奈川県が山手公園造営のための土地を外人に貸与。
→【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1871(明治04)年05月14日:種痘の「新苗」渡来す。
→【太政官達
1871(明治04)年05月15日:海軍兵学寮の招魂社大祭で競馬あり。賞品に懐中時計、服地、毛布など。
→【兵部省達
1871(明治04)年06月14日:刑部省、従来牢庭で実施していた断頭を小塚原・鈴ケ森で行うことに決定。
1871(明治04)年07月02日:刑部省、断頭・梟首(きゅうしゅ)場を小塚原のみで行うことに決定。
1871(明治04)年07月14日:政治・一般、 廃藩置県の詔勅。
1871(明治04)年07月17日:東京、千住に黴毒(ばいどく)院が開院。宿場の遊女に検黴(梅毒検査)を実施。以後各地で行われる。
1871(明治04)年07月18日:文部省を創設。
1871(明治04)年07月22日:各府県に寄留、旅行する者に鑑札を渡す規定を廃止。旅行自由となる。
1871(明治04)年07月--日:おはぐろ、法令で禁止すべしと「新聞雑誌」で報ず。
→【新聞雑誌】
1871(明治04)年08月09日:散髪・制服・脱刀は勝手、と御布令あり。
→【太政官日誌
1871(明治04)年08月18日:平民にも羽織・袴の着用を許す。
→【太政官日誌
1871(明治04)年08月23日:華族・士族・平民相互の結婚を許可。(太)
1871(明治04年)09月01日:今断然その服制を改めよと、天皇から服制一新の詔(勅語)が出される。
→【新聞雑誌
1871(明治04)年09月23日:散髪・帯刀の自由を認める。(太)
1871(明治04)年09月--日:浅野伝吉ら3名、軽業で六年間ヨーロッパを周遊し帰朝。
→【新聞雑誌
1871(明治04)年-秋---日:横浜アマチュア・ローイングクラブ設立、秋に神戸RACとのボートレースを実施
→【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1871(明治04)年10月18日:従来の養老扶持を改め、米寿の祝いを下賜。
→【太政官日誌
1871(明治04)年10月26日:九段招魂社境内でフランス人スリエ、曲馬を興行。
1871(明治04)年10月--日: 東京千住小塚原に梅毒業院設置。
→【新聞雑誌
1871(明治04)年11月--日:天然痘予防に種痘医11名を指定(御布令)。
→【新聞雑誌
1871(明治04)年11月--日:横浜市、市内にはじめて板囲いの共同便所を設置。翌72年には83ヶ所になる。
1871(明治04)年11月--日:賤民の裸体御禁止。
1871(明治04)年11月--日:無駄をはぶく女性の断髪と断髪を賛美する声、「千葉新聞」に掲載。
→【千葉新聞
1871(明治04)年--月--日:慶應義塾三田に移り、校庭にブランコ、鉄棒、シーソーなど設置。
1872(明治05)年01月08日:陸軍始め。天皇、日比谷門外の操練場で行軍式を閲する。以後恒例となる。
1872(明治05)年01月--日:大変な物好き、と洋服を着る芸者について「日要新聞」が報ず。
→【日要新聞
1872(明治05)年01月--日:明治天皇が牛肉を試食。(肉食に対する日本人の偏見が薄れ始める。明治10年には東京の牛鍋屋が558軒に。)
1872(明治05)年02月10日:乗馬し婦人を蹴倒した罰に杖90。(神奈川県庁)
→【新聞雑誌
1872(明治05)年02月20日:異国人男女の曲馬軽業、浅草寺奥山において興行あり。
1872(明治05)年02月22日:江戸府庁、淫奔な劇・芝居を禁止。猿若町三座大夫及び作者三名を府庁へ御呼出しと「東京日日」報ず。
→【東京日日
1872(明治05)年02月28日:兵部省を廃し、陸軍省と海軍省をおく。
1872(明治05)年03月10日:梅若、能興行勧進を願いでて10日間の興行実施 。
→【東京日日
1872(明治05)年03月13日:第一回京都博覧会余興で、京都府知事のすすめで、都踊り、鴨川踊り、東山名所踊りを競演。
1872(明治05)年03月19日:女相撲禁止。
1872(明治05)年03月27日:神社仏閣の地の女人禁制廃止。
1872(明治05)年03月--日:女性の富士登山(4〜8月)を許可。
1872(明治05)年03月--日:女子の断髪は見るに忍びず、と「新聞雑誌」が報ず。
→【新聞雑誌
1872(明治05)年03月--日:東京の住民大部分は散髪、と「名古屋新聞」が報ず。
→【名古屋新聞
1872(明治05)年04月02日:横浜で外国人の競馬を実施、日本人の見物を歓迎。見料を出した者には観覧席利用の特典あり。
→【日新真事誌
1872(明治05)年04月03-5日:横浜山手の丸馬場で外国人が競馬の余興に人力曳きに競走を行わせ、賞金を出す。
1872(明治05)年04月05日:婦女子の髪は従来通り。東京府、女子の断髪を禁止。 男子に限る御布告あり。
→【新聞雑誌
1872(明治05)年04月05日:神戸外人居留地で神戸レガッタ・アスレチッククラブ主催によりロ−ドレ−ス開催
→【棚田真輔『居留外国人による神戸スポーツ草創史』】
1872(明治05)年04月08日:南校に運動所設置。
1872(明治05)年04月上旬:東京府下で、裸体、混浴、春画、性具、刺青厳禁の布令、と「新聞雑誌」が報ず。
→【新聞雑誌
1872(明治05)年04月14日:京都府、新英学校と女紅場(女子手芸の教授施設)とを開設。
1872(明治05)年04月25日:僧侶に肉食、妻帯、蓄髪および法用以外での平服着用を許可。
1872(明治05)年04月--日:南校での体育 武事に資する体操から保健養成法へ。
→【大場一義「体育と遊戯の奨励」】
1872(明治05)年05月02日:大阪府、漢方医門弟の取り立てを禁止する。
→【日新真事誌
1872(明治05)年05月29日:文部省、東京に師範学校を設立。
1872(明治05)年05月--日:相撲、芝居、寄席、観覧場の興行に日税。大弓、楊弓、旅籠、酒食業に月税。市場、会社には年税を。
1872(明治05)年05月--日:学制発布後、半月遅れで小学校の改正教則と、中学校の布達番外が発せられる。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1872(明治05)年06月05日:教部省が歌舞伎興行を監督。
→【東京日日
1872(明治05)年06月28日:自葬を禁じ、必ず神官僧侶に依頼するよう命じる。(太)
1872(明治05)年06月--日:長崎県庁、市・郷・戸長へ男女の混浴や裸体外出、立小便などの厳禁を達示。
1872(明治05)年06月--日:南校で■(しゃ)中体操法図が作成される。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】 →【今村嘉雄『十九世紀に於ける日本体育の研究』】
1872(明治05)年07月--日:富士登山賑わう。
→【新聞雑誌
1872(明治05)年07月--日:京都府、風俗上の理由をもって盂蘭盆会(うらぼんえ)の習俗いっさい停止。
1872(明治05)年08月03日:「学制」を頒布。文部省。最初の近代的教育制度の法令。全国を学区に分け、国民皆学に。
1872(明治05)年08月25日:能狂言、芝居や歌舞は勧善懲悪を主に、と教部省が布達。「東京日日」が報ず。
→【東京日日
1872(明治05)年08月25日:豆州熱海の温泉とか薬湯と号するものも、男女混浴を布令で禁止すべしと「東京日日」が報ず。
→【東京日日
1872(明治05)年09月03日:名古屋での芝居興行と相撲興行。酩酊高砂浦五郎の暴力事件。
→【東京日日
1872(明治05)年09月04日:越中島に於いて近衛兵調練の体裁、天覧あり。
1872(明治05)年09月12日:新橋=横浜間鉄道開業式。(日本最初の鉄道。一日9往復、運賃は「下等」で37銭5厘)
1872(明治05)年09月25日:招魂社御祭礼中で、競馬が行われる。
1872(明治05)年09月--日:音曲歌舞営業の心得について、教部省がお達し。
→【新聞雑誌
1872(明治05)年10月02日:新政府が太政官布告として人身売買・娼妓・芸妓の年季奉公廃止を全国に向けて命令する。
→【立川昭二『病気の社会史』】
1872(明治05)年10月02日:農商工業における作男、丁稚、徒弟などの年期を7年に限定。
1872(明治05)年10月02日:司法省、娼妓解放令(人身売買禁止令)を布達。
→【東京日日
→【立川昭二『病気の社会史』】
1872(明治05)年10月15-6日:横浜本牧で小銃射的会開催、各国人200名余りが参加。一等は村田経芳大尉。
→【新聞雑誌
1872(明治05)年11月09日:太陰暦を廃し、太陽暦を採用するとの詔書あり。
1872(明治05)年11月23日:東京府下の相撲、二日目からの女性の見物自由に。
→【東京日日
→【和歌森太郎「相撲か野球か」】
1872(明治05)年11月28日:徴兵の詔書。国民皆兵制へ。
1872(明治05)年11月--日:中学校の教則(体操などを含む、外国教師が授ける関連教科など)を布告、と「日要新聞」報ず。
→【日要新聞
1872(明治05)年11月--日:大阪などでは、斬髪で帽子大人気に、と「新聞雑誌」が報ず。
→【新聞雑誌
1872(明治05)年12月--日:東京府下に美俗布令あり。許可されない場所での水泳禁止など。
1872(明治05)年12月--日:東京芝増上寺後方の芙蓉弁財天の池に氷張り、人々氷上を滑る。外国人も滑り見物人多し。
1872(明治05)年--月--日:日本人初の野球プレヤー牧野伸顕、アメリカへ留学。
→【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1872(明治05)年--月--日:横浜で米人コプランド、ビールの醸造を開始。我が国最初。
1873(明治06)年01月10日:東京鎮台管下の府県が徴兵を命じられる。国民皆兵を旨とする徴兵令発布。20歳以上の男子に兵役義務。
1873(明治06)年01月15日:庶民をまどわす梓巫(あずさみこ)、市子(いちこ)、憑祈祷、狐下(きつねさ)げなどの民族信仰を禁止。
1873(明治06)年01月15日:府県に対し、公園の候補地を選ぶよう布告。(5月24日東京府、浅草寺、寛永寺など5ケ所を選ぶ)
1873(明治06)年01月--日:東京三座が近日歌舞伎開演で、三座役者の入替番附を公表。
→【新聞雑誌
1873(明治06)年01月--日:放屁で罰金七百五十文。
→【新聞雑誌
1873(明治06)年02月07日:仇討ちを禁止。(太)
1873(明治06)年02月19日:東京府、府下の歌舞伎四座に櫓増設を許可。
→【東京日日
1873(明治06)年02月--日:鳥獣猟免許取締り規則を定める。
→【新聞雑誌
1873(明治06)年02月--日:佐倉順天堂、本郷湯島に病院を開く。(現順天堂大学)
1873(明治06)年03月03日:皇后、御歯黒をはぎ、眉墨をおとす。宮内庁が発表。
→【東京日日
1873(明治06)年03月08日:もと講武所剣術師範榊原鍵吉、撃剣会興行を願い出、政府に認可を得る。
→【中村民雄『剣道事典--技術と文化の歴史--』】
1873(明治06)年03月14日:外国人との婚姻を許可。(太)
→【東京日日
1873(明治06)年03月16日:山岡鉄舟、春秋二回邸内にて撃剣会を催す。
→【東京日日
1873(明治06)年03月20日:天皇も初めて断髪に。皇后の御歯黒や眉墨につづく。
→【新聞雑誌
1873(明治06)年03月--日:福島県会津地方、青年男女の風紀是正のため、念仏踊、若者組、地蔵祭などを禁止。
1873(明治06)年03月--日:散髪する者増加。このころ東京府下の男子、7割が半髪、3割が断髪。
1873(明治06)年03月--日:千葉県木更津で闘鶏が流行、と「新聞雑誌」で報ず。
→【新聞雑誌
1873(明治06)年03月--日:闘鶏など厳禁の布令、と「郵便報知」が報ず。
→【郵便報知
1873(明治06)年04月06日:小倉市街に天然痘発生、流行の兆しありと報告。
→【東京日日
1873(明治06)年04月26日:もと講武所剣術師範榊原鍵吉、浅草で撃剣会を興行。盛況にて二日間延長。
→ 【木下秀明『スポーツの近代日本史』】
→【中村民雄『剣道事典--技術と文化の歴史--』】
1873(明治06)年05月20日:もと講武所剣術師範榊原鍵吉、浅草の後に横浜で撃剣会興行実施。各地諸武術家も興行実施へ。
→【中村民雄『剣道事典--技術と文化の歴史--』】
1873(明治06)年05月27日:華族・旧楽人に限られていた神楽・舞楽の伝習、一般庶民にも許される。
1873(明治06)年05月--日:文部省、小学校入学前に、男女に種痘を実施するよう布達。
→【新聞雑誌
1873(明治06)年07月13日:山梨県、旧暦盆の廃止を勧告。新潟県他も同様の指示を出す。
1873(明治06)年07月15日:撃剣会興行の乱立で低俗化に拍車。旧武士階級からの批判高まり、大蔵省興行禁止令を布告。
→【中村民雄『剣道事典--技術と文化の歴史--』】
1873(明治06)年07月25日:船越景保ら、水泳道場を開設し、広く一般に宣伝。
→【東京日日
1873(明治06)年07月--日:中村座で上演の「花軍扇絵合」、流行の撃剣会をあてこんだ長短槍試合で評判となる。
1873(明治06)年08月12日:大学教員は教授、中学校教員は教諭、小学教員は訓導とする。(太布)
1873(明治06)年09月12日:山田顕義、海外の軍事調査に基づいて提出の「建白書」中で、学校で軍隊操練を行うよう主張。
1873(明治06)年09月--日:府庁、寄席にて狂言や手踊りなど催すことの禁止を布達。
→【新聞雑誌
1873(明治06)年10月09日:天皇、開成学校で体操を天覧。(手摺、行飛、矢倉)
1873(明治06)年10月14日:祝祭日を定めて休日制定。元始祭、新年宴会、孝明天皇祭、紀元節、神武天皇祭、神嘗祭、天長節、新嘗祭。
1873(明治06)年10月--日:開成学校の開業式天覧に際し、気球を飛ばすことや、組体操が実演される。
→【新聞雑誌
1873(明治06)年11月15日:横浜アマチュア・アスレチック協会を結成し、第1回陸上競技会を開催とJWM紙が報ず。
→【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』
1873(明治06)年11月--日:ご贔屓の殿様怒らせ、力士達が詫状
→【郵便報知
1873(明治06)年11月--日:力士高砂浦五郎、相撲改革を迫り、相撲会所より除名。番付から名を削られる。
1873(明治06)年-秋---日:フットボール、イギリス海軍のダグラス少佐と33名の軍人によって海軍兵学寮に伝来。
→【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1873(明治06)年12月10日:東京府、貸座敷(遊郭)渡世規則、娼妓規則、芸妓規則を定める。
1873(明治06)年--月--日:この年、農民騒乱約56件。とくに徴兵令反対の騒乱激発。処罰者多数。。
1873(明治06)年--月--日:開成学校の米人、数学教師ウィルソン、初めて野球を紹介。
→【渡辺融「武道と洋式スポーツの共存」】 →【大和球士『真説日本野球史(明治編)』】
1873(明治06)年--月--日:横瀬文彦、阿部弘国、『西洋養生論』翻訳。「運動の事」で運動の科学的意義に言及。
→【木村吉次『日本近代体育思想の形成』】
1873(明治06)年--月--日:松山棟庵、森下岩楠「初学人身窮理」(全二巻)翻訳。健康法について身体の法則を知る意義に言及。
→【木村吉次『日本近代体育思想の形成』】
1874(明治07)年01月16日:本所付近で鳥猟した者、逮捕されて話題に。
→【郵便報知
1874(明治07)年01月28日:軽業師早竹小虎、ヨーロッパ各地でうける。
→【東京日々
1874(明治07)年02月05日:東京警視庁、邏卒(らそつ)を巡査と改称。
1874(明治07)年02月18日:本庁、「巡査礼式」を定める、礼式の内容を「新聞雑誌」が報ず。
→【新聞雑誌
1874(明治07)年02月19日:布令の湯加減(「80度にあらざれば人身の健康に害」)で、銭湯が経営ピンチと報じられる。
→【日新真事誌
1874(明治07)年03月12日:伊沢修二、愛知師範学校長となる。幼児に唱歌遊戯を初めて実施。
1874(明治07)年03月13日:東京に官立の女子師範学校を設立。
1874(明治07)年03月21日:わが国最初の陸上運動会「競闘遊戯会」、築地海軍兵学寮で開催。
→【木下秀明『スポーツの近代日本史』】 →【渡辺融「武道と洋式スポーツの共存」】
1874(明治07)年04月05日:新潟県、初めて種痘法を公布。
1874(明治07)年04月20日:日本人の洋服は滑稽画の如し。ドイツの新聞で掲載された記事を「新聞雑誌」が報ず。
→【新聞雑誌
1874(明治07)年04月13日:山梨県、流行の発句相撲(景品をつけた発句競技)に警告。
1874(明治07)年05月30日:山梨県下に、子どもの生肝・生血を取り外国に得る者ありとの風説あり。県、事実無根と諭す。
1874(明治07)年05月--日:仏人ジュクロー、陸軍戸山学校で体操・フェンシングの指導を開始。
1874(明治07)年05月--日:東京府、佐賀の乱の首謀者で処刑された後藤新平らの■{きゅう}首写真の販売を禁止する。
1874(明治07)年06月07日:医療・服薬を妨害する禁厭(まじない)や祈祷(おはらい)の取調を命令。(教部達)
1874(明治07)年07月04日:当夏東京で、吹矢、麦湯店など流行、賑わう。
→【新聞雑誌
1874(明治07)年07月13日:東京府、道路や車内での頬かぶり、手拭かぶりなどを禁止。
1874(明治07)年08月04日:口髭で威儀仰がれる高位高官、抱腹に堪えざる模倣する下等官員。虚飾名利を「新聞雑誌」が批判。
→【新聞雑誌
1874(明治07)年08月--日:米国ウィルソン・リーダーを範に小学読本改正、体育の啓蒙に一役。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1874(明治07)年09月13日:東京大阪の相撲顔合せ、東京が勝越しと、東京日々が報ず。
→【東京日日
1874(明治07)年09月18日:器械体操の名人仏人教師ジュックロー、陸軍省に雇われる。
→【新聞雑誌
1874(明治07)年09月19日:東京府下蓮沼村へ行幸あり。練兵を天覧。陸軍三兵(歩、騎、砲)の演習式を実施。
→【東京日日】  →【新聞雑誌
1874(明治07)年09月24日:交誼和熟のため三府立会いの勧進大相撲、西京八坂社内で開催、日本大番附を公表。
→【新聞雑誌
1874(明治07)年09月26日:浴場、男女混浴まかりならぬ。府庁番外布達ありと「新聞雑誌」報ず。
→【新聞雑誌
1874(明治07)年09月29日:西京からミカンコ舞来たりて、東京深川八幡宮社前で楽を奏す。
→【東京日日
1874(明治07)年10月10日:大阪難波新地での三府立会いの勧進大相撲人気。
→【新聞雑誌
1874(明治07)年10月27日:鹿鳴館で外務、宮内などの高官たちがダンスの練習、話題に。
→【時事
1874(明治07)年11月12日:文部省、種痘規則を発布。
→【新聞雑誌
1874(明治07)年11月15日:太政大臣、鳥獣猟規則を改正。
→【郵便報知
1874(明治07)年12月06日:小児の死亡多しが、西洋渡来の種痘を嫌い、東京で受けた者一割、と東京日日批判。
→【東京日日
1874(明治07)年12月08日:能狂言、長唄、富本、清元、義太夫など、家元たちが諸芸を興行、と新聞雑誌が報ず。 
→【新聞雑誌
1874(明治07)年12月25日:築地東京第一長老協会で、日本最初のクリスマス祝会開催。
1874(明治07)年12月29日:種痘を危惧する者絶えず。警視庁安寧課、愚民・窮民等を指導するよう検討。
→【郵便報知
1874(明治07)年--月--日:イギリス人教師ジョンス、工学寮でフットボールを紹介。
1874(明治07)年--月--日:改正小学校規則などで次第に新置の体操科指導始まる時流下、東京育英小学校では馴染めず不振。
→【大場一義「体育と遊戯の奨励」】
1874(明治07)年--月--日:アメリカ留学から帰った牧野伸顕と木戸孝正の二少年、開成学校に入学しキャッチボールを披露。
→【和歌森太郎「相撲か野球か」】
1874(明治07)年--月--日:開拓使仮学校にて英語教師ベーツが野球こと始め。
→【大和球士『真説日本野球史(明治編)』】
1875(明治08)年01月04日:東京府知事、天然痘予防の仮規則を制定。
→【東京日日
1875(明治08)年01月08日:東京府、諸芸人に賦金(営業税、地方税の一種)を課する。
1875(明治08)年01月18日:村田経芳、射撃術研究のため渡欧。
1875(明治08)年02月02日:芸者が袴で乗馬、老人を蹴倒し屯所へ連行される。
→【東京日日
1875(明治08)年02月16日:力士代表、事ある時には輜重隊に入り報国の志あり、と東京府庁へ誓願。話題に。
→【東京日日
1875(明治08)年02月19日:文部省学監モルレー 地方教育視察の結果を申報。大阪師範学校で熱心な体操の指導ありと。
→【大場一義「体育と遊戯の奨励」】
1875(明治08)年02月22日:招魂社の祭りへ天皇が行幸。競馬や相撲の催しが雪で順延。
→【読売新聞
1875(明治08)年04月19日:英人ストレンジ(日本への漕艇、陸上競技の育成者)来日し、東京英語学校教師となる。
1875(明治08)年06月04日:小石川で闘鶏賭博があり多数逮捕。
1875(明治08)年06月13日:相撲の雷電雲右衛門、拘引される。 
→【東京曙
1875(明治08)年06月19日:東京府下、吹矢などの賭け商売をいっさい禁止。
→【東京曙
1875(明治08)年07月12日:若い婦人もダンスを、と日本の舞踏会を批判するイギリス人投書有り。
→【郵便報知
1875(明治08)年07月27日:横山卓、官許を得て築地合引橋ぎわに水泳道場開設。稽古人日々相増し盛況。
→【郵便報知
1875(明治08)年07月29日:横山卓の水泳道場で、島田髷の娘が達者に水泳、評判に。
→【読売
1875(明治08)年07月--日:京都府、南禅寺の療病院管轄下に癩狂院を設立。(公立精神病院の初め)
1875(明治08)年08月15日:榊原鍵吉、門人三名と目黒の元松平主殿屋敷にて、イタリア人らに剣術を披露。
→【東京日日
1875(明治08)年08月31日:英国婦人が富士登山。
→【東京曙
1875(明治08)年09月01日:富士山の登山者数4684人。(日本人男性約3860、女性790、外国人男子26、女子8名)
→【東京日日
1875(明治08)年10月05日:不景気で銀座は見世物ばやり。洋犬の踊り、白鼠の踊りなど。
→【朝野
1875(明治08)年11月09日:賭博を好む大阪の山師が、禁制ビリアードを再流行させた、と注意を促す報道あり。
→【仮名読新聞
1875(明治08)年11月15日:多少なりとも運動を助け、衛生の補益をなすと、上流社会で大弓が流行。
→【朝野
1875(明治08)年--月--日:朝倉松五郎、洋式メガネを作製。
1875(明治08)年--月--日:小幡英之助、初めて歯科医の名医条を得る。
1875(明治08)年--月--日:横浜でのテニス実施は婦人クラブから
→【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1875(明治08)年--月--日:渡欧中の射撃の村田経芳、マルセイユの万国射撃大会で優勝。最初の国際競技優勝者誕生
→【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1876(明治09)年01月12日: 内務省、開業医の国家試験の実施を発令。
→【東京曙
1876(明治09)年01月18日:玉垣、追手風など、相撲の年寄も当節流行のざんぎり頭に。髪型話題に。
→【東京曙
1876(明治09)年01月19日:青木安兵衛、横浜根岸村にアイススケート場を開設。
→【横浜毎日
1876(明治09)年01月27日:東京警視庁、売淫罰則7条を定め、私娼の営業を取り締まる。
1876(明治09)年03月05日:貸自転車屋、広小路水茶屋にて開店。広小路を一度乗り回し、料金は一銭五厘。
→【花の都女新聞
1876(明治09)年03月13日:玉突き禁止で楊弓店がはやる
→【浪花新聞
1876(明治09)年03月28日:廃刀令が出され士民の帯刀禁止。
1876(明治09)年04月01日:男子満20年をもって成人とする太政官布告。
1876(明治09)年04月12日:オルゴールなどの伴奏ですべるローラースケート(場)の話題、浪花新聞で紹介。
→【浪花新聞
1876(明治09)年04月22日:松本市開智小学校開校式に同校教員吉田昌智、燕尾服で生徒を指揮し、体操の模範演技を披露。。
1876(明治09)年05月02日:両国回向院の相撲の入り、初日1047人、二日目2094人と読売が報道。
→【読売
1876(明治09)年05月01日:浅草観音の開帳で、人体を見世物にするろくろ首、万作手踊りを禁止。
→【朝野
1876(明治09)年05月06日:額を打ち付け詫びを入れた、雷電と梅ヶ谷との、故実に忠実な回向院相撲の対戦。 
→【東京曙
1876(明治09)年05月09日:天皇・皇后を迎えて、上野公園の開園式を開催。
1876(明治09)年05月20日:ビリアード、大阪で禁止なら、東京でも禁制にすべきと読売新聞が反問。
→【読売
1876(明治09)年05月23日:内務省、天然痘予防規則を布達。
→【東京日日
1876(明治09)年05月26日:裸商売の相撲は国家の恥、と主張する新聞報道あり。
1876(明治09)年06月03日:大阪相撲の力士一行が上京、下谷二長町で興行を開始。
→【東京曙
1876(明治09)年06月03日:力士の給金決まる。大達35円、剣山29円50銭、大鳴門と西の海20円など。
→【読売
1876(明治09)年06月07日:ドイツ人医学者ベルツ横浜来着。翌月医学校生理学教師となる。医学的、合理主義的体育論を主張。
→【木村吉次『日本近代体育思想の形成』】
1876(明治09)年06月07日:雷電こと年寄阿武松死去
【燈】
1876(明治09)年06月08日:大阪が賑わい、肌ぬぎや裸多く、人力車曳きは半纒ばかりで股引はなし、と読売報道。
→【読売
1876(明治09)年06月14日:蓬莢橋際蓬莢社にて、各国公使70余名を招き仏国の洋楽とダンスあり。
→【東京曙
1876(明治09)年06月29日:札幌農学校創学経営のためアメリカ人クラーク(W.S.Clark)来日。
1876(明治09)年07月06日:洋服をみて犬がほえると、仙台周辺の様子を「東京曙」が報ず。
→【東京曙
1876(明治09)年07月14日:榊原鍵吉、浅草公園での撃剣会を願い出るも、許可下りず。
→【読売
1876(明治09)年07月17日:西京相撲、華族5名が興行主となり、飯田町から亀井戸にて興行。
→【郵便報知
1876(明治09)年07月24日:「濡れ手に粟」を志向、堺県下泉州岸和田で福引きが流行。
→【浪花新聞
1876(明治09)年07月26日:昨年に引き続き、横山卓による築地の遊泳場、今年も開場。鑑札料1人2銭。
→【読売
1876(明治09)年07月26日:新しく出来た湯島の滝に、浴衣代1人前2銭でかからせる。
→【読売
1876(明治09)年08月18日:炎暑の折り、小石川の滝など遊客で繁昌。集会なども計画あり。
→【東京曙
1876(明治09)年08月29日:高橋お伝、蔵前の九竹旅館で商人後藤吉蔵を殺して逃走。(79年1月斬罪)
1876(明治09)年08月--日:ペンハロー、札幌学校(9月に札幌農学校と改称)に陸上競技を導入。
1876(明治09)年09月06日:箱根温泉でビリアード流行。玉突場15〜16ケ所に。
→【東京曙
1876(明治09)年09月--日:東京府下でビリアードはやる。金ではなく物品を賭けて勝負。
→【中外評論
1876(明治09)年10月05日:才賀文馬、寄席にて釣狐という踊りをして始末書。
→【東京曙
1876(明治09)年11月08日:安井算知の追慕の囲碁対局あるも、スローテンポで時代に不向きと新聞報道。
→【郵便報知
1876(明治09)年11月14日:東京女子師範学校内に幼稚園を開設。日本で最初の近代的幼稚園。
1876(明治09)年12月13日:相撲営業者、これまでの冥加金に代え、府税の徴収ありと、東京府布達。
→【東京曙
1876(明治09)年12月--日:境川浪右衛門、横綱を免許。
1876(明治09)年--月--日:この年東京で、藤八拳、玉突流行。
1876(明治09)年--月--日:長崎や横浜の新聞にローラースケ−トの記事が掲載。
→【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1876(明治09)年--月--日:横浜競馬協会(YRA)が設立され、以後春秋に競馬会を開催。
→【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1877(明治10)年01月03日:三条公もビリアードを遊ぶ。太政大臣ら高貴な人々の交際に。
→【読売
1877(明治10)年01月16日:向ヶ岡にて警視局の射的演習の開業式、射撃場を設ける。
→【東京日日
1877(明治10)年01月18日:横浜本牧牛込村でアメリカ人メリマンらがアイススケートをして遊ぶ。
→【朝野
1877(明治10)年01月30日:政治・一般, 西南戦争起こる。
1877(明治10)年01月--日:英人ブラッシー男爵、ヨット「日光号」で太平洋横断し横浜に到着。
→【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1877(明治10)年02月10日:紙鳶(タコ)あげ、羽根つき、独楽(コマ)あそび、交通妨害の理由で禁止に。
1877(明治10)年02月13日:東京で、楊弓店繁昌、東京警視本署、風紀悪化の傾向防止のため、楊弓店取締規則を定める。
1877(明治10)年02月19日:コレラ治療の医師沼野玄昌、肝取りと流言され、漁民数十人に惨殺される。
→【立川昭二『病気の社会史』】
1877(明治10)年02月--日:米人ブルックス、札幌農学校教師として着任し、本国から持参したスケートで初めて滑る。
1877(明治10)年03月06日:大阪府で内務省に伺いを出すも、帯刀禁止で相撲の行司木刀も佩刀できず。「東京曙」が報ず。
→【東京曙
1877(明治10)年04月12日:東京開成学校と東京医学校を合併。東京大学と改称。法・理・文・医学部。
1877(明治10)年04月27日:横浜雨沼の角打場で共遊競力社の人々、競趨(かけくらべ)と競力を挙行。
1877(明治10)年04月27日:東京府、府立産婆教授所を5月15日より開校、営業中の産婆にも傍聴を許すことを発表。
1877(明治10)年04月--日:留学帰国者平岡煕が野球を紹介、新橋クラブを結成。
→【木下秀明『スポーツの近代日本史』】
1877(明治10)年04月27-8日:横浜アマチュア・アスレチック協会が春季競技会を開催 
→【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1877(明治10)年05月01日:元老院議官佐野常民、博愛社を設立。政府軍・西郷軍の別なく西南戦争の負傷者を看護。赤十字社の前身。
1877(明治10)年05月02日:横浜で男女混浴禁止。
1877(明治10)年05月03日:榊原鍵吉、禁止されていた撃剣興行を、官許を得て浅草公園で再開。
→【読売新聞
1877(明治10)年05月12日:日本港波止場沖で米英軍艦による対抗バッテラー(ボート)競漕を開催。
→【横浜毎日
1877(明治10)年05月21日:海軍省が軽気球の飛行実験を実施。外国人の手を借りず成功。
→【読売
1877(明治10)年05月26日:気球乗りのフロンティア体験を、郵便報知が一般向けに報じる。
→【郵便報知
1877(明治10)年05月--日:この頃、内藤新宿の勧農局で、ジャム・桃李の砂糖漬けを製造販売。
1877(明治10)年06月07日:東京府、貧民患者救済のための各区に区医を配置、施療券。無料種痘券を発行。
1877(明治10)年06月10日:今後、鹿鳴館の舞踏会は中止か、と東京日日報ず。
→【東京日日
1877(明治10)年07月22日:札幌の学校にアメリカ人教師
→【朝野
1877(明治10)年07月24日:小児の種痘、どこの医者でも自由
→【朝野
1877(明治10)年07月26日:伊勢ヶ浜の新潟巡業
→【新潟新聞
1877(明治10)年08月10日:有名なる人形師大江伊兵衛、木彫りの解剖人体彫る。五臓六腑も精巧、と話題に。
→【大阪日報
1877(明治10)年08月21日:第一回内国勧業博覧会開催。人気を集める。11月30日まで。入場者総数45万4668名。
1877(明治10)年08月--日:コレラ、上海より長崎や横浜に伝播、10月にかけて各地に蔓延。この年の罹病者13,816名、死亡者8,027人。
1877(明治10)年09月07日:明治10年9月、横浜の近来の流行物は温泉、室内射的。温泉は港内に7〜8ヶ所、射的は約10ケ所。
→【大阪日報
1877(明治10)年09月20日:コレラ、横浜で流行を警戒。コレラ予防事務取扱い所を設ける。米英独伊諸国の軍艦も早々に出帆す。
【朝野 →【立川昭二『病気の社会史』】
1877(明治10)年09月27日:渡り鳥を捕えて商売。連日おびただしき雀合戦と、郵便報知が報道。
→【郵便報知
1877(明治10)年09月29日:東京体育倶楽部(メンバーは外人)、陸上競技会を海軍兵学寮向側のグラウンドで挙行。
1877(明治10)年10月15日:両国の回向院での東京大相撲の復活を、年寄り代表が出願届出。
→【東京曙
1877(明治10)年10月16日:岡山で避病院への患者隔離・魚類売買禁止に反対し、村民が巡査を傷害。コレラ一揆。
→【立川昭二『病気の社会史』】
1877(明治10)年10月20日:女相撲興行に加わって旅をしていた人妻が、警察により手配、拘引される。
→【時事
1877(明治10)年10月27日:東京芝神明社で、楊弓場の女三人が英語などを勉強、話題に。
→【郵便報知
1877(明治10)年11月09日:東京大相撲、年寄の出願により、回向院の相撲復活。
→【郵便報知
1877(明治10)年11月15日:共同競馬会社の不忍池畔秋期競馬で、初日に明治天皇が御臨幸。
→【東京日日
1877(明治10)年12月06日:軽気球に五万の見物人
→【朝野
1877(明治10)年12月09日:両国回向院の大角力、初日から女も見られることに。
→【東京曙
1877(明治10)年12月14日:雷電年寄になれず西方へ
→【横浜毎日
1877(明治10)年--月--日:愛知師範学校校長伊沢修二、児童に「嬉遊」を奨励。「唱歌嬉遊ヲ興スルノ件」を建議。
→【大場一義「体育と遊戯の奨励」】
1878(明治11)年01月06日:神田佐久間町の戸山勝五郎、新聞の流行から新聞仕方踊り思いつき興行を願い出る。
→【朝野
1878(明治ll)年01月--日:横浜ジョッキークラフ(YJC)が結成
→【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1878(明治11)年02月02日:番町小学校、東京府知事を招き、純和風建築で開校式。
→【東京曙
1878(明治11)年02月05日:東京警視本署、興行取締規則(興行場の清潔、観客の賭博行為の取締など)を布達。
1878(明治11)年02月05日:相撲・行司取締規則を布達。これにより東京相撲統合一本化。
1878(明治11)年03月06日:雷門は馬車のたまり場で不潔、近所の者取締を願い出る。
→【読売
1878(明治11)年03月06日:大阪では医師以外の針・灸を禁止、と「読売」が報ず。
→【読売】
1878(明治11)年03月10日:芸を売る大道芸人は乞食にあらず、本署の回答を「朝野」が報ず。
→【朝野
1878(明治11)年03月14日:松山にコレラが発生し、全国に蔓延。
1878(明治11)年03月16日:内務省衛生局の調査で、全国の開業本免許医師700名と「東京曙」が報ず。
→【東京曙
1878(明治11)年03月19日:海軍省兵学校の生徒、洋風の剣術の稽古を開始と、読売が報道。
→【読売
1878(明治11)年03月20日:相撲頭取、行司年寄など代表者が出頭し、警視局に鑑札料を納める。
→【朝野
1878(明治11)年03月20日:廃娼の建白あり、と「東京日日」が報ず。
→【東京日日
1878(明治11)年03月--日:長崎、愛知、山梨、東京にジフテリア流行。
1878(明治11)年04月04日:陸軍戸山学校で、兵隊を甲乙に分け対抗運動を計画。
→【東京曙
1878(明治11)年05月05-6日:加茂の競馬で賑わう 。
→【東京曙
1878(明治11)年05月17日:有害鳥の排除規則布達。(施行25日)
→【東京日日
1878(明治11)年05月25日:種痘施術料として三銭以下徴収することを定める。
→【朝野
1878(明治11)年05月25日:札幌農学校で、第一回運動会(陸上競技会)を挙行。
1878(明治11)年06月03日:村田経芳、村田銃発明者の見事な腕前。仮皇居のおん馬場へ近衛士官を召させられ、射的の演習あり。
→【東京日日
1878(明治11)年06月19日:コレラ菌を含む、府下朱印外で製造の不潔な氷、取り捨て。
→【東京日日
1878(明治11)年06月20日:榊原鍵吉主催の撃剣会で、各地より腕自慢が出場。
→【読売
1878(明治11)年06月21日:観世、宝生の能狂言両氏、維新後時節到来で再び宮内省に雇用。
→【東京曙
1878(明治11)年06月21日:徴兵、兵役免除の特典。東京府が各区区役所へ達示。 
→【朝野】
1878(明治11)年06月--日:大森の農業・島田十郎兵衛、麦藁帽子を製造。4万個を売る。
1878(明治11)年07月10日:神田神保町に、府立脚気病院設立。(維新以後白米常食により脚気病激増、死亡率10%越える)
1878(明治11)年07月12日:芝神明裏に楊弓店20余軒が開店。
→【東京曙
1878(明治11)年07月27日:山口仙之助、箱根宮ノ下の藤屋旅館を買収、「富士屋ホテル」と改称、外人専用ホテルで営業開始。
1878(明治11)年07月28日:英国人ガウランド、外国人として初めて槍ヶ岳に登山。
1878(明治11)年07月29日:楊弓、麦湯店などの客引き近日禁止、と東京日々が報ず。
→【東京日日
1878(明治11)年07月31日:築地居留地、鉄砲洲明石橋に鎮台の遊泳所設置と東京日々報ず。
→【東京日日
1878(明治11)年07月--日:横浜市、婦女弄鞠社に山手公園の地を貸与してテニスコートを設置。
→【鳴海正泰『テニス明治誌』】
1878(明治11)年08月08日:警視局、コレラ予防で東京中のゴミ溜や便所の調査を、府庁へ依頼。
→【朝野
1878(明治11)年08月09日:新富座「舞台明治世夜劇」(ぶたいあかるきちせいのよしばい)と題し、歌舞伎最初の夜芝居興行。
1878(明治11)年08月27日:東京大学の水練の教員大橋寛吾、新大橋から千住大橋まで泳ぐ。
→【真砂新聞
1878(明治11)年09月13日:東京裁判所落着。養父母を打って傷を負わせ、終身刑に。
→【東京曙
1878(明治11)年10月24日:アメリカ人リ−ランドを招き、東京神田一橋に文部省直轄の体操伝習所を開設。
→【東京日日  →【木下秀明『スポーツの近代日本史』】
→【大場一義「体育と遊戯の奨励」】
1878(明治11)年11月16日:東京漕艇倶楽部(メンバーは外人)、秋季競漕会を東京の大橋と永代橋間で挙行。
1878(明治11)年11月19日:警視本署より達し。興行、演劇類似の所作は興行差し止めに。
→【朝野
1878(明治11)年11月--日:水府流太田派、東京浜町河岸に教場を開設。
1878(明治11)年12月21日:本所回向院で興行予定の大相撲、大関境川、梅ケ谷以下の幕内力士名を「東京曙」が報ず。
→【東京曙
1878(明治11)年12月24日:両国若松町の米津風月堂、初めて貯古齢糖(チョコレート)の販売広告を「かなよみ新聞」に掲載。
1878(明治11)年--月--日:平岡煕が最初の野球チーム「新橋アスレチック倶楽部」を組織。
→【山本邦夫、棚田真輔『横浜スポーツ草創史』】 →【大和球士『真説日本野球史(明治編)』】
1878(明治11)年--月--日:政府が東京に脚気病院を設立。
1879(明治12)年01月04日:梟首(きょうしゅ、さらし首)刑を廃止し、斬刑(ざんざい、打ち首)に処する。太政官布告有り。 
→【東京曙
1879(明治12)年01月09日:東京警視本署、玩具の西洋形短銃用紙雷管危険につき、製造禁止を通達。
1879(明治12)年01月15日:島根県、笞杖実刑を率先して廃止す、と「東京日日」が報ず。
→【東京日日
1879(明治12)年01月18日:番附への不満で紛糾、力士大勢脱走。無人にて興行と「東京曙」が報ず。
→【東京曙
1879(明治12)年02月24日:医師試験規則が制定される。
1879(明治12)年03月11日:警察や海軍で剣術を稽古、体操の時間に撃剣。
→【東京日日
1879(明治12)年03月12日:上野公園内に体操場(木馬、梯子、鞦韆など)を設置か。
→【朝野
1879(明治12)年03月13日:皇后、東京女子師範学校の卒業式で体操を御観覧。
1879(明治12)年03月14日:松山にコレラ発生。全国に蔓延。(年末までに罹病者162,637人、死亡者105,784人。)
1879(明治12)年04月07日:体操伝習所 体操科教師養成コース開設、伝習生の入試実施。25名入学させ即日授業開始。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1879(明治12)年04月08日:女子も徴兵の妄説あり。その回避のため7歳の娘も婚礼騒ぎ、と「東京日日」が報ず。
→【東京日日
1879(明治12)年04月10日:体操伝習所訓導米人リーランド、伊沢修二に意見書を提出。「少力運動」(=軽体操)を推奨。
→【木村吉次『日本近代体育思想の形成』】
1879(明治12)年04月27日:陸海軍警視合同の小銃射撃会を開催。
→【東京曙
1879(明治12)年05月18日:福島県若松で3千人余、槍、薙刀、鎖鎌などの試合挙行。撃剣会流行し、剣術道場増加。地方に及ぶ。
1879(明治12)年05月30日:横浜港公園内の外人球投げ場拡張を関係者で計画、と横浜毎日報ず。
→【横浜毎日
1879(明治12)年06月16日:福田会(仏教徒の慈善団体)、東京に育児園(孤児院)を創立。
1879(明治12)年06月27日:天皇、陸軍戸山学校に臨校、体操場で学生の器械体操および障碍物通過をご観覧。
1879(明治12)年06月26日:コレラ予防のため、大阪府知事、人力車に石炭酸水を備え散布するよう布達。
→【朝日
1879(明治12)年06月28日:コレラ予防仮規則布告。患者所在を速やかに届け出るよう規定。
→【朝野
1879(明治12)年07月08日:工部大学校で、グランド将軍歓迎夜会を開催。
1879(明治12)年07月10日:コレラ予防で、寒天、ところてん、ひじき、あらめ、なんばきび、南瓜の販売禁止。
→【大坂日報
1879(明治12)年07月13日:内務省衛生局が、コレラの予防薬として横浜ガス局で製造のコールタールを買い上げ。
→【読売
1879(明治12)年07月14日:大阪府、コレラの予防のため寄席類の興行停止。各地でコレラ送りの騒動続発。患者数17万2637名
1879(明治12)年07月19日:京橋精養軒で、欧米の玉突きの名手ロヘルツとショルトルが曲技を披露。(縦覧料1円)
1879(明治12)年07月19日:大阪で、コレラ予防の石炭酸水を持たぬ人力車夫、拘引される。
→【朝日
1879(明治12)年07月--日:上野公園養老院跡に、東京府{癩らい}狂院設立(後の巣鴨病院、松沢病院となる)
1879(明治12)年07月--日:嘉納治五郎、渋沢栄一に招かれ、飛鳥山渋沢別邸で前米大統領グランド将軍(7.3来日)に柔術を演ず。
1879(明治12)年08月02日:女性がシャツに袴で乗馬し、危険ゆえ巡査に拘引され説諭。
→【横浜毎日
1879(明治12)年08月02日:小野光景ら三氏、横浜で有志を募り施薬所を設け、コレラ予防薬を一般に施薬。
→【東京日日
1879(明治12)年08月04日:石川県でコレラ送りの行列、町を通過させる件で紛糾、大喧嘩有り。
→【東京曙
1879(明治12)年08月05日:軍技を錬磨するため戸山学校射的場で陸軍射的月次会を行うことを決定。
→【東京日日
1879(明治12)年08月05日:新潟で、コレラ予防のため野菜・果物・魚類など発売禁止に。米価暴騰、細民困窮し米商を襲撃。
1879(明治12)年08月07日:新潟中浦原群でコレラ騒乱起こる。暴徒700人に軍隊出動、死者13名。この年各地で24騒乱続発。
→【立川昭二『病気の社会史』】
1879(明治12)年08月08日:大阪府会議が、漢方医、洋医より劣るとて免状二千五百取り上げる方針、と「朝野」が報ず。
→【朝野
1879(明治12)年08月15日:東京府コレラ患者隔離のため本所病院(8月29日大久保病院、9月9日駒込病院)等の避難病院を開設。
→【 立川昭二『病気の社会史』】
1879(明治12)年08月16日:徴兵満期後も再兵役を願い出て話題に。「東京曙」が報ず。
→【東京曙
1879(明治12)年08月20日:東京曙、明治12年8月までのコレラ患者を7万6000余名と報ず。
→【東京曙
1879(明治12)年08月23日:コレラ病人を恐れ、石炭酸と石炭油を間違え火災。予防に石炭酸を飲んで危篤など。
→【東京曙
1879(明治12)年08月23日:コレラ避病院が外人に売る肝取りの場との流説、新聞曙が報ず。
→【立川昭二『病気の社会史』】
1879(明治12)年08月20日:天皇、陸軍戸山学校の円競馬場で、グランド将軍とともに競馬を御観覧。。
1879(明治12)年08月25日:グランド将軍歓迎ムード高潮、天皇、上野公園不忍池畔で、競馬や犬追物など、種々ご覧に。
→【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1879(明治12)年09月05日:コレラ流行の新潟県下、毒薬を井戸へ投げ込む等の流言にまどわされるな、と「新潟新聞」報ず。
→【新潟新聞
1879(明治12)年09月14日:岐阜県大野郡、コレラ病人の吐瀉物を畑に埋めた件で巡査出張。畑を掘り返し消毒。
→【朝野
1879(明治12)年09月17日:東京日日、明治12年9月までのコレラ患者を13万8000余名と報ず。
→【東京日日
1879(明治12)年09月21日:文部省、一ツ橋通りに体操講習所を新設と朝野が報ず。
→【朝野
1879(明治12)年09月26日:高島屋、元服、角前髪などの身なりによる店員区別法を廃す。新等級制に。
1879(明治12)年09月--日:体操伝習所主幹伊沢修二「新設体操法ノ成績」を報告。新設体操法を撃剣及び練兵と区別。
→【木村吉次『日本近代体育思想の形成』】
1879(明治12)年10月03日:警視本署構内に新設の撃剣稽古場、6日に開場。
→【東京日日
1879(明治12)年10月03日:野沢源吾、佐久間象山より習った算術を、子供手遊びと名づけて教える旨出願、話題に。
→【郵便報知
1879(明治12)年10月27日:徴兵令、改正の布告あり。
→【東京日日
1879(明治12)年10月31日:大阪府で検査、売春に携わる女性の大部分が梅毒と判明。
→【朝野
1879(明治12)年10月--日:森有礼 東京学士会院の例会で稿本「教育論--身体ノ能力」を朗読。欧米諸国の制度に学べと主張。
→【木村吉次『日本近代体育思想の形成』】 →【吉見俊哉「運動会の思想」】
1879(明治12)年11月01日:島津家に伝わる犬追物を、麻布伊地知邸にて天覧にすべく計画中と、朝野報ず。
→【朝野
1879(明治12)年11月30日:11月05日に設立の共同競馬会、第一回共同競馬会を陸軍戸山学校で開催。
1879(明治12)年12月11日:群馬県、群衆雑踏の場所および夜間の自転車使用を禁止。
1879(明治12)年12月11日:東京府の水道は水源を浄化の要あり、と東京日々。
→【東京日日
1879(明治12)年12月12日:岡山の師範学校で、運動時間に撃剣流行。
→【朝日】
1879(明治12)年12月12日:大阪でならず者が撃剣会を口実にゆすり流行、と東京日日報ず。
→【東京日日
1879(明治12)年12月24日:島津家犬追物を天覧。 
→【東京日日
1879(明治12)年12月--日:子どもの玩具泥メンコが鉛メンコに変化。大正期に紙製になるまで続く。
1879(明治12)年--月--日:この年、官員に髭をはやすことが流行。
1880(明治13)年01月12日:投鞠が流行。営業する者には課税あり、鑑札も付与されると、東京日々報ず。
→【東京日日
1880(明治13)年01月13日:島津家、私邸にて犬追物を実施。入賞金は四万円なり。
→【東京日日
1880(明治13)年01月14日:昨年12月27日までのコレラ患者16万8314人、死亡者10万人突破と東京日々で報道。
→【東京日日
1880(明治13)年01月15日:浅草公園茶店で、楊弓から玉ころがしへ流行移る。無税での営業好まれ、と東京日日。
→【東京日日
1880(明治13)年01月15日:福笑いで商売と、「郵便報知」が話題に。
→【東京日日
1880(明治13)年01月17日:築地の旧海軍練兵場空き地に梅毒本病院を新築か、と朝野が報道。
→【朝野
1880(明治13)年01月19日:巡査養成の課程に、撃剣及び捕縛法の練習が義務づけられ、剣術家の警察の武術師範の道開かれる。
→【中村民雄『剣道事典--技術と文化の歴史--』】
1880(明治13)年01月21日:横浜で闘鶏賭博が流行、処罰で、25〜75銭の罰金に。
→【読売
1880(明治13)年01月23日:昨年8月以来の名古屋地方天然痘患者、本年1月15日現在で250余人と、朝野が報ず。
→【朝野
1880(明治13)年01月23日:衛生局のお雇いイギリス人エンテルリン、満期帰国。
→【朝野】
1880(明治13)年02月08日:京都西京で撃剣流行。河原町の林精一郎氏の門人増加し道場も拡張。
→【朝日】
1880(明治13)年02月26日:青山に陸軍射的場。日々作業に出る兵卒のため増食支給を決定、と郵便報知が報ず。
→【郵便報知
1880(明治13)年03月02日:東京警視本署、寄席の上演科目を、軍談講釈・落語・浄瑠璃及び唱歌・手品・音曲・操人形に。布達。
1880(明治13)年03月06日:京都府、撃剣指南の開業を無益として禁止。これに反駁、建白の動きあり。
→【朝日】
1880(明治13)年03月22日:吹上禁苑円馬場で、天皇皇后はじめ皇族、大臣、参議など、島津家の犬追物を御見物。
→【東京日日
1880(明治13)年04月12日:内務省社寺局衛生局『虎列刺豫防諭解』を刊行、政府による初期の衛生キャンペーン。
→【立川昭二『病気の社会史』】
1880(明治13)年04月16日:陸軍、駒込に射的場を新設の計画と、東京日日報ず。
→【東京日日
1880(明治13)年04月--日:音楽取調掛に初めてピアノが備え付けられる。
1880(明治13)年04月--日:米人メーソン、東京師範学校、同附属小学校などで唱歌指導をはじめる。
1880(明治13)年05月21日:警視局より東京府下大弓半弓射的場に、酩酊者の参加禁止や安全管理や賭博禁止など取締りの達し。
→【東京曙
1880(明治13)年06月08日:両国回向院の相撲、十日間の見物人2万4000余人。来客数推移など、東京曙報ず。
→【東京曙
1880(明治13)年07月09日:コレラ病予防規則を廃し、伝染病予防規則を制定。
→【東京曙
1880(明治13)年07月15日:千日前の西田秋山両氏の道場、撃剣志願者増加。学校生徒に至るまで撃剣流行と朝日報ず。 
→【朝日
1880(明治13)年08月26日:千日前で道場開業の秋山西田両氏、外人シムイ氏の招待に応じ神戸で撃剣会を開催と、朝日報ず。 
→【朝日
1880(明治13)年09月11日:紀州高野山、一度は女人登山禁止を宣したが、山が賑わわず、再び女人禁制を解く。
→【有喜世
1880(明治13)年10月20日:疱瘡患者を山奥隔離した伊豆七島の旧弊に、東京府、寺院での遺骨埋葬の申し出を許可。
→【東京曙
1880(明治13)年11月21-2日:三田育種場で競馬を開催。記念切手売り出し、大盛況。
→【東京曙
1880(明治13)年11月--日:三遊亭円遊、浅草の並木亭で「すててこ踊り」を始め流行。またこの頃三遊亭万橘「へらへら節」。
1880(明治13)年12月17日:福岡県の臼井六郎、父母の敵(かたき)を東京・京橋で殺害し自首。最後の仇討ち。
1880(明治13)年12月23日:不景気の折、東京芝愛宕下の楊弓店で、黒点に当てた客に女をあてがう違法賭博ありと投書。
→【朝野
1880(明治l3)年--月--日:日本レースクラブ(NRC)が横浜根岸競馬場に設立
→【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1881(明治14)年01月09日:東京芝愛宕下の楊弓場で、女給の給金を一定に押し合わせ。
→【有喜世
1881(明治14)年01月21日:沖縄で、昨冬大阪商人が輸送した紙鳶から、にわかにタコ上げ流行と、東京日々報ず。
→【東京日日
1881(明治14)年01月24日:貴夫人が浅草へ赴く途中公衆便所を使用。その不潔に驚き病気に、と東京日日報ず。
→【東京日々
1881(明治14)年01月26日:神田枝松町から出火。1万1000戸を焼失。明治期最大の火災となる。
1881(明治14)年01月--日:香川県丸亀で、維新以来廃止の煤竹(どんど=15日に若者が門松や錦竹を焼く行事)を復活。
1881(明治14)年01月--日:江戸麹町の桜田麦酒醸造所、桜田麦酒を発売。大瓶1ダース2円75銭。
1881(明治14)年02月13日:青森県で、1874年以来禁止中の豊作祈願の「厭態(えんぶり)」踊り再開。
→【東京日日
1881(明治14)年02月24日:昨年の大阪における寄席の年間売上は1万2千余円、と「朝日」が報ず。
【朝日
1881(明治14)年03月14日:仏人の企てで、各国人を集めて自転車競争あり、と東京日々が報ず。
→【東京日日
1881(明治14)年05月04日:神奈川県厚木町で、町民が天覧に供せんと、1100枚張りの大ダコをつくる。
→【東京日日
1881(明治14)年05月04日:小学校教則綱領制定される
→【郵便報知
1881(明治14)年05月09日:麻布の島津家の別邸で、犬追物と角力の天覧を実施。
→【東京日日
1881(明治14)年05月13日:東京府下に種痘接種所を増設。現在の4個所から15区6郡へそれぞれ1個所づつ設置へ。
→【朝野
1881(明治14)年05月22日:回向院の相撲太鼓櫓、過日風の事故あり。高さを三丈までから二丈までに改める。
→【朝野
1881(明治14)年05月24日:娼妓の黴毒検査法の改善を通達との情報に、各貸座敷、軽減の嘆願書を相談中。
→【郵便報知
1881(明治14)年05月26日:漢方医、本免許下附の申請につき全国大会を開催。
→【東京曙
1881(明治14)年05月下旬:東京師範学校、陸軍教導団に依頼した銃隊教練に好成績。
→【朝野
1881(明治14)年06月04日:横浜居留地で外国商館社長らが丸太船での競艇を実施。
→【東京横浜毎日
1881(明治14)年07月13日:間歇熱、静岡県下演習地方で流行、長与衛生局長巡視のおり太政官に上申。
→【東京日日
1881(明治14)年06月16日:賭博した者は村中を謝罪して廻らせる、滋賀県の事例を「朝野」が報ず。
→【朝野
1881(明治14)年07月24日:斬首廃止で、首切り浅右衛門(一説では、それまで人肉(肝)等の薬用売買人)が廃役となる。
1881(明治14)年08月01日:横浜で開催の競争射的会で、村田中佐ハンディキャップ付きでも三等に。
→【朝野
1881(明治14)年08月05日:体操術を教導団楽隊の教科に加える、と朝野が報ず。
→【朝野
1881(明治14)年08月08日:東京本郷区で、衛生への知識を高めコレラを予防のために無料講演会計画と、東京曙報ず。
→【東京曙
1881(明治14)年09月30日:長野県小布施村、賭博頭が賭博場を新築と投書あり、「朝野」が報ず。
→【朝野
1881(明治14)年09月--日:大阪中学校に屋内体操場竣工。
1881(明治14)年11月04日:日本競馬会社の横浜競馬を開催。ロクエット、キルクウトら外国人も参加。
→【東京日日
1881(明治14)年11月17日:富士登山者は日々二、三千人、その賑わいは近年に覚えず、と朝野報ず。
→【朝野
1881(明治14)年12月15日:内務省図書局、「歌舞伎新報」千部買い上げ。外国よりの依頼かと、いろは新聞報ず。
→【いろは新聞
1882(明治15)年01月08日:京都府で体育演武場設立、開場式盛会。賓客多数、柔剣術等の模範試合あり。
→【東京日日
1882(明治15)年01月10日:回向院の大相撲、年寄一同協議し、今後一切番付の上下差別なく勝点で昇等なすこと決定。
→【東京横浜毎日
1882(明治15)年01月23日:大阪府、和泉、河内、大和の合併で、同地域内の鍼灸、水姪、吸玉の治療術の新規開業を禁止。
1882(明治15)年02月14日:大阪府警察、流行中の玉突き場(ビリアード場)で、賭博にかかわる九百人を検挙。
→【東京日日 →【朝野
1882(明治15)年02月16日:コレラ流行の原因は新暦のためと、伊豆地方に迷信生じたことを「朝野」が報ず。
→【朝野
1882(明治15)年03月05日:浅草廐橋際の梅若実宅で能狂言が開催と、朝野報ず。
→【朝野
1882(明治15)年03月18日:東京で、開店や売出に反物等の景品添付、富くじ類の行為も流行。警視庁、警察署に取調を命令。
1882(明治15)年03月20日:上野公園内の動物園(農商務省付属)開園。
1882(明治15)年03月--日:体操機械運道具店の闊広堂創業(神田神保町)。
1882(明治15)年04月14日:群馬県で、全県下の遊郭を88年6月限りで廃止すべき旨布達。
1882(明治15)年04月29日:廃娼の建白に業者の猛反対で、群馬県でついに延期。
→【朝野
1882(明治15)年05月02日:共同射的会社設立と、東京日々報ず。
→【東京日日
1882(明治15)年05月05日:嘉納治五郎、下谷北稲荷町永昌寺書院に柔道場開設。講道館のはじまり。
1882(明治15)年05月13日:警視庁、玉突きを一等球戯場とし、球転がし等の二等球戯場と区別して鑑札下付。
→【東京日日
1882(明治15)年05月18日:京都の木綿問屋、従業員の兵役除けに免除金九千九百円を出す。
→【時事
1882(明治15)年05月20日:曲馬の名人渡辺捨次郎、15日間800円で雇われ、日本橋箱崎町で興行す。
→【時事
1882(明治15)年05月--日:体操機械運道具店の美津濃商店創業(本郷)。
1882(明治15)年06月01日:東京府下、芝、神田に真性コレラ発す、と東京日日報ず。
→【東京日日
1882(明治15)年06月06日:横浜在留外人の共同競舟会(春季共同競舟会)を同港東波止場脇にて開催。
→【時事
1882(明治15)年07月06日:樺山警視、身を鍛え護るために巡査に撃剣を奨励、と郵便報知報ず。
→【郵便報知
1882(明治15)年07月08日:宮内省、向ヶ岡射的場を御用地に、と東京日日報ず。
→【東京日日
1882(明治15)年07月10日:女生徒の体操に両親が反対、退校をさせるも多し、と東京日日報ず。
→【東京日日
1882(明治15)年07月24日:熱海にもコレラ、浴客大あわて、と時事が報ず。
→【時事
1882(明治15)年07月26日:明治10年より15年に至るコレラ発生(流行)の状況を、東京日日が報ず。
→【東京日日
1882(明治15)年07月30日:静岡県よりその筋へ、御殿場からの富士山登山新道の開発を上申。
→【岐阜日日
1882(明治15)年08月14日:徴発令、制定・布告さる。
→【時事
1882(明治15)年08月30日:コレラ除けのお守り、怪しげな絵(三本足の猿の像など)が発売禁止に。
→【読売
1882(明治15)年09月02日:神奈川県橘樹群末長村村民30余人、隣村のコレラ病死人火葬を嫌い集合し不穏、警察官説諭し解散。
1882(明治15)年09月10日:手を鰭(ひれ)足を尾とする、魚類の動きをなす米式泳法紹介。
→【朝日
1882(明治15)年10月07日:戸塚軍医総監、脚気病予防の議につき上申。高木兼寛の提唱で麦飯採用による兵食改良計画すすむ。
1882(明治15)年10月31日:大阪で高砂浦五郎が社長となり、相撲新聞の発行を願い出。
→【絵入自由
1882(明治15)年11月04日:撃剣の伊庭軍兵衛の息子、実業家転身に成功、と東京日日報ず。
→【東京日日
1882(明治15)年11月21日:隅田川で天覧による海軍競漕会を開催。
→【郵便報知
1882(明治15)年12月01日〜:馬喰町にて、三府(東京、大阪、京都)合同による大相撲興行あり。
→【東京横浜毎日】
1882(明治15)年12月08日:三府に700余名いる力士を対象に、高砂浦五郎学校設置を計画、と東京日日報ず。
→【東京日日
1882(明治15)年12月08日:巡査に帯剣の布令あり、特に短い剣を用いるとの評議あり、と東京日日報ず。
→【東京日日
1882(明治15)年12月12日:奈良大和五条地方で闘鶏の賭博が流行、と「朝日」が報ず。
→【朝日
1882(明治15)年--月--日:工学寮生徒は体操嫌い、だが次第に運動への認識は深まる。
→【大場一義「体育と遊戯の奨励」】
1882(明治15)年--月--日:伊沢修二「教育学」出版し、体育(スポーツ)の必要性に言及。
→【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1883(明治16)年01月11日:京橋木挽町の明治会堂で、初めて西洋風舞踏会を開催。
1883(明治16)年01月12日:囲碁、方円社、九段制を十二級制に改正。
→【郵便報知
1883(明治16)年01月21日:回向院の大相撲で、伊勢ノ浜に勝った日下山が弓取り。
→【東京横浜毎日
1883(明治16)年02月01日:名人ルドルフ横浜渡来ビリアード曲突きは見物料一ドル
→【時事
1883(明治16)年02月12日:近衛砲兵大隊が越中島で、大砲射的による競点射撃を行う。
→【東京日日
1883(明治16)年02月21日:大阪での感冒流行に、風の神送りをして躍り騒ぐこと流行。
→【東京日日
1883(明治16)年02月21日:京都博覧会で、飛鳥井家門流の蹴鞠実演。なにとぞ学校の科目中に御備えありたしと。
→【東京日日
1883(明治16)年03月08日:京都府立女紅場、体操は嫁入りに役立たず、ぞくぞく退校、と郵便報知が報ず。
→【郵便報知
1883(明治16)年03月16日:山岡哲太郎邸にて、春秋ごとに撃剣会を催す。
→【東京日日
1883(明治16)年03月23日:京都名物、鴨東八坂新地の芸妓が催す都踊りを保存と決定。来月一日から今年も開催。
→【朝野
1883(明治16)年04月04日:人力車夫、半纒(まとい)だけの股出しは御法度。 
→【東京日日
1883(明治16)年04月17日:明治天皇、近衛隊の対抗運動会を天覧。
→【郵便報知
1883(明治16)年04月21日:仙台で、35枚の大凧を制作するも、強風で吊り上げられ落ちて大怪我。
→【東京日日】
1883(明治16)年04月21日:力士も読み書き算盤必要と、教師を相撲興行先まで同道、と東京横浜毎日報ず。
→【東京横浜毎日
1883(明治16)年04月24日:東京府下1千有余の学生、舟遊親睦会を開催。陸上で綱引き、角力、球取等も実施。
→【朝野
1883(明治16)年04月--日:学習院に柔道場が設けられ、嘉納治五郎が指導。
1883(明治16)年05月05日:京都府下愛宕郡の加茂別雷神社で、明治4年まで行われていた競馬を復興。
→【郵便報知
1883(明治16)年05月09日:三田育種場で和鞍の競馬。  
→【東京日日
1883(明治16)年05月11日:東京、大阪、横浜の三司薬場を衛生局試験所と改称。
→【東京日日
1883(明治16)年05月19日:江崎礼二、隅田川での海軍競漕会の短艇競争を撮影。飛動する対象を写す初期のもの。
1883(明治16)年05月27日:女教員・女学生の「袴に靴はもっての外」と「朝日」が論ず。
→【朝日
1883(明治16)年05月--日:女子教員、女子師範学校、高等女学校の生徒の袴に靴の装束が、風俗の浮華に走る行為と問題に。
1883(明治16)年06月03日:隅田川で共漕会あり。
→【東京日日
1883(明治16)年06月04日:陸軍戸山学校の競馬場で天覧競馬を実施。
→【東京日日
1883(明治16)年06月09日:興農競馬会社(三田育種場)の春期第七次大競馬に天皇御臨幸。
→【郵便報知
1883(明治16)年06月16日:東京大学、法、理、文学部と大学予備門、英国人教師ストレンジの提唱で合同の陸上競技会開催。
→【木下秀明『スポーツの近代日本史』】 →【渡辺融「武道と洋式スポーツの共存」】
1883(明治16)年06月27日:六十三銭分の住吉踊りを強いられ、踊り子へたばり話題に。住吉神社。
→【朝日
1883(明治16)年06月--日:文部省より体操伝習所に、「剣術柔術等教育上所用ノ利害適否」調査の達しあり。
→【木村吉次『日本近代体育思想の形成』】
1883(明治16)年06月--日:東京師範学校附属体操伝習所と東京大学との間で、日本における最初の対校競漕を実施。
→【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1883(明治16)年07月02日:陸軍戸山学校で、最初の体操競技(共進)会。八角階段競登、障害物競踰など実施。
→【郵便報知
1883(明治16)年07月11日:盲人ばかりで賭博、踏み込まれて御用に。「朝野」が報ず。
→【朝野
1883(明治16)年07月14日:陸軍戸山学校の条例改正あり。射的・体操術を専科とする。
→【官報
1883(明治16)年07月31日:文部省、教科書採択の許可制を施行。
1883(明治16)年09月--日:岡山県児島郡、都宇群、安那群などの風土病(肝臓地方病)問題となる。後に肝臓ジストマと判明。
1883(明治16)年10月16日:京都市名倫小学校、女子の体操授業延期の伺いをだす。
1883(明治16)年10月27日:愛媛県下、各地に赤痢流行、避病院を設置と、東京日日報ず。
→【東京日日
1883(明治16)年10月--日:嘉納治五郎、飯久保恒年より起倒流の免許を受け、伝書一切を譲り受ける。
1883(明治16)年11月06日:明治天皇、横浜競馬場へ行幸。
→【東京日日
1883(明治16)年11月10日:宮城県下深沼カ浜で、70過ぎの二老女見事な泳ぎっぷりをみせ話題に。東京日日報ず。
→【東京日日
1883(明治16)年11月28日:麹町内山下町に完成の鹿鳴館、開館式。内外の高官、紳士淑女約600名集まり夜会盛況。
1883(明治16)年11月--日:スポーツ振興を目的とした東京遊戯会、体操伝習所で発会式を挙行。
1883(明治16)年12月07日:大男力士の武蔵潟、乗合馬車を体重でこわす。話題に。
→【読売
1883(明治16)年12月27日:梅毒、沿海の港地や山間僻地に多いと内務省報告。
→【東京日日
1883(明治16)年12月28日:改正徴兵令公布。官公立学校の歩兵操練科の卒業証書を持つ者に免除をほのめかす条項あり。
1883(明治16)年--月--日:横浜でのスポーツクラブの情景を描写した、旅行家A.H.クロウの『日本の大通りと裏通り』刊行。
→【鳴海正泰『テニス明治誌』】
1883(明治16)年--月--日:日赤の創設者佐野常民を会長に、大日本私立衛生会発足。国の繁栄衛生の外なし。
→【立川昭二『病気の社会史』】
1884(明治17)年01月04日:徴兵令に基づく操練科設置で、官公立学校陸軍省へ村田銃払い下げ依頼、と東京日日。
→【東京日日
1884(明治17)年01月--日:徴兵令改正により、徴兵忌避のため、60歳以上の戸主と養子縁組を求める者増加。
1884(明治17)年02月13日:大阪の歌舞伎役者、二派に分かれていがみあう、と郵便報知が報ず。
→【郵便報知
1884(明治17)年02月24日:初代梅ケ谷藤太郎、吉田善門氏より横綱免許を授与と、朝野が報ず。
→【朝野
1884(明治17)年02月24日:相撲を天覧を機に、すべて回向院勧進相撲の式を行うことに決定、と朝野報ず。
→【朝野
1884(明治17)年02月28日:梅ケ谷、今場所ただ一人全勝など、郵便報知が十日目の勝負を報ず。
→【郵便報知
1884(明治17)年02月--日:体操伝習所、文部省から諮問をうけ、小学校で歩兵操練を課すことの適否の調査命じられる。
1884(明治17)年10月17日:埼玉県師範学校ではじめて遠足会を開催。
→【山本信良・今野敏彦「明治期学校行事の考察、近代教育の天皇制イデオロギー」】
1884(明治17)年10月--日:体操伝習所、中学校、師範学校で兵式体操を、小学校では柔軟体操の一部を課す程度が適当と答申。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1884(明治17)年03月02日:旧岡山藩主の庭園であった後楽園、公園となり公開。
1884(明治17)年03月10日:東京・芝の浜離宮延遼館での天覧相撲。横綱梅ケ谷と三枚目大達の勝負、30数分にわたる大一番に。
1884(明治17)年03月23日:下谷竹町に放し飼いの雀を吹き矢でとらせる見世物興行あり。警視庁、残酷だと禁止。
→【東京絵入
1884(明治17)年04月02日:両陛下、海軍のボート競漕会に臨御
→【東京日日
1884(明治17)年04月07日:山本長五郎(清水の次郎長)、賭博で懲役7年、罰金400円に処せられる。
1884(明治17)年04月13日:東京の私立学校学生の親睦会。神田明神を出発、幟旗を立て上野、向島、浅草、日本橋を練り歩く。
1884(明治17)年04月14日:健康診断、尾張町の木梨氏が開祖。
→【東京日日
1884(明治17)年04月19日:床下で賭博を開帳。警察に内偵され一網打尽、と「郵便報知」が報ず。
→【郵便報知
1884(明治17)年05月06日:梅ケ谷藤太郎、横綱昇進の盛宴あり。
→【読売
1884(明治17)年05月09日:元四五段目の渡米力士「荒竹」、レスラーに勝ち話題に。
→【朝日】
1884(明治17)年05月26日:大相撲(回向院7日目)、梅ケ谷と大達の取組に観客総立ち。
→【東京日日
1884(明治17)年05月31日:大達羽左衛門大関の写真大人気。たちまち売り切れ一枚3〜4銭より8〜9銭に値上。
→【郵便報知
1884(明治17)年05月31日:相撲見物の質向上か、興行中一流料亭に賑わい。
→【郵便報知
1884(明治17)年06月11日:ご贔屓の殿様怒らせ、相撲仲間一同で協議のうえ詫状を入れる。
→【郵便報知
1884(明治17)年06月12日:鹿鳴館で第一回婦人慈善市を開催、同館で7月頃より毎週月曜日に舞踏練習会が開催される。
1884(明治17)年06月14日:横浜海岸通りに高橋某、海水浴場を開設。
1884(明治17)年06月21日:京都府八坂新地、会社の懇親の宴に女相撲。老妓数十名出場、郵便報知で話題に。
→【郵便報知
1884(明治17)年06月21日:力士二人で酒八升と麦飯五十杯ペロリ、話題に。
→【東京横浜毎日
1884(明治17)年06月23日:東京共同競馬会社にて不忍池競馬場新設と、「時事」が報ず。
→【時事
1884(明治17)年06月24日:相撲の流行に圧倒されて、芝居小屋も相撲仕立てに、と「東京日日」報ず。
→【東京日日
1884(明治17)年07月07日:華族令を発布。貴族を公・侯・伯・子・男の五爵(しゃく)に分ける。
1884(明治17)年07月22日:兵庫県監獄本署、コレラ予防のため、特大の糞溜め設置を計画、と「郵便報知」報ず。
→【郵便報知
1884(明治17)年07月26日:ロンドンの日本人村、恥さらしなり日本人の見世物。
→【郵便報知
1884(明治17)年07月--日:幹事長鍋島侯爵以下70余名、ヤンソンを舞踏教師として舞踏練習会(後の東京舞踏会)を設立。
1884(明治17)年08月12日:鹿児島県で、維新の頃よりすたれた武士踊りを再興の動き、と「朝野」報ず。
→【朝野
1884(明治17)年10月07日:不忍池競馬場の完成に伴い、近く競馬開催の見込みと「時事」が報ず。
→【時事
1884(明治17)年10月10日:観音崎砲台の標的を、扶桑、筑紫の両艦にて試射と、「東京日日」報ず。
→【東京日日
1884(明治17)年10月17日:東京大学走舸組、隅田川で競漕会開催、ストレンジ審判を行う。
→【時事   →【渡辺融「武道と洋式スポーツの共存」】
1884(明治17)年10月27日:鹿鳴館、高官たちもダンスの練習。
→【時事
1884(明治17)年10月28日:新設の不忍池馬場で、第一回秋期競馬会開催。
1884(明治17)年10月--日:ドイツ人医師ベルツ、日本旧来の身体や運動の伝統に立脚した体育の必要性を教育会雑誌で強調。
→【木村吉次『日本近代体育思想の形成』】
1884(明治17)年11月01日:西洋ダンスは馬鹿踊り、と「朝野」が論ず。
→【朝野
1884(明治17)年11月05日:上野不忍池に浮かべるボート50隻を注文。
→【今日
1884(明治17)年11月日:横浜大競馬に明治天皇が御臨幸。13日まで。
→【時事
1884(明治17)年12月08日:近衛兵の大砲演習を天覧、千葉県女化原に行幸。
→【東京日日
1884(明治17)年12月27日:大達羽左衛門、張出大関にされ不平。仲間は傲慢なる申し分と反発。
→【自由燈
1885(明治18)年01月03日:附け出し大関問題の渦中大達羽左衛門、師匠高砂を殴って破門、と「郵便報知」が報ず。
→【郵便報知
1885(明治18)年01月18日:回向院大相撲の番付発表。物議をかもした大達には位附なし。
→【東京日々
1885(明治18)年01月23日:文部省、公私立学校生徒の運動会や旗取りの名目での飲酒乱暴、危険奇異の行動取締を通達。以後届け出制に。
→【山本信良・今野敏彦「明治期学校行事の考察、近代教育の天皇制イデオロギー」】
1885(明治18)年02月13日:学習院及び女子師範などで舞踏を科目に。
→【東京横浜毎日
1885(明治18)年02月20日:京都府、率先して女子体操科を設け、女子に体操を指導する方針と、「朝野」が報ず。
→【朝野
1885(明治18)年02月20日:不忍池競馬場で馬場ならし、打毬も人気。参加者も次第に増加と、「東京日日」が報ず。
→【東京日日
1885(明治18)年02月21日:相撲常連、三都の相撲行司を相撲に見立て番附を作成、話題に。
→【東京横浜毎日
1885(明治18)年02月27日:日本力士松田虎吉、ニューヨークのエピスコーパル寺院で外人女性ロッジと結婚。
1885(明治18)年03月03日:横浜梅ケ枝町の相撲が上景気にて盛況、見物の朝鮮副使も興奮し話題に。
→【東京横浜毎日
1885(明治18)年03月07日:八王子の相撲興行で、大達と一ノ矢、朝飯前に軽く二人で酒九升を飲み話題に。
→【朝野
1885(明治18)年03月28日:相撲本場所、回向院から野見宿禰神社に変更か、と「東京日日」が報ず。
→【東京日日
1885(明治18)年03月--日:荻野吟子、医術開業試験に合格。最初の女医誕生。
1885(明治18)年04月08日:北足立郡第15学区本太学校生徒、運動会と称する「旗奪」を実施。
→【山本信良・今野敏彦「明治期学校行事の考察、近代教育の天皇制イデオロギー」】
1885(明治18)年04月10日:京都で自転車流行。事故や悪影響をふせぐため生徒の自転車使用を禁止に。
→【日本立憲政党
1885(明治18)年04月12日:帝国大学内の最初のボートレース。審判のことで大紛争。試合を中止。
→【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1885(明治18)年04月23日:京都から流行が移り、貸自転車所が大津で2、3ケ所で開業。1時間2〜3銭。
【日出
1885(明治18)年04月29日:興行、曲独楽の名人竹沢藤治、市村座に出演。
→【東京横浜毎日
1885(明治18)年04月--日:坪井玄道、田中盛業とが編纂する『戸外遊戯法』出版。ローンテニスを日本に紹介する最初の本。
→【鳴海正泰『テニス明治誌』】
1885(明治18)年05月05日:東京師範学校体操科で兵式体操を実施。この年「文部省年報」で歩兵操練から兵式体操に名称変更。
→【木村吉次『日本近代体育思想の形成』】
1885(明治18)年05月14日:梅ケ谷藤太郎、人気のため、引退・年寄襲名もままならず、と「東京日日」が報ず。
→【東京日日
1885(明治18)年05月15日:行司の庄三郎が木村庄之助を襲名。「読売」が報ず。
→【読売
1885(明治18)年05月17日:高知で欧米人に劣らぬ体力を養う目的で 春秋二回競走健足の会を計画。運動競技会の奨励。
→【自由燈
1885(明治18)年05月20日:喧嘩で名高い中絶のしこ名「四ツ車」を襲名、話題に。
→【朝野
1885(明治18)年05月30日:京都都踊り舞妓300名、世話方30名を相手に告訴、話題に。
→【日本立憲政党
1885(明治18)年06月05日:京都上賀茂競馬が、古式の通りに再興。
→【東京日日
1885(明治18)年06月06日:横浜クリケット・アンド・アスレチッククラブの会員が帝大の運動会に初めて招待され出場。
→【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1885(明治18)年06月08日:京都上賀茂競馬が復興。
→【東京日日
1885(明治18)年07月08日:コレラの種付け実験の結果、効果ありと、海外の情報を「朝日」が紹介。
→【朝日
1885(明治18)年07月27日:大森に新競馬場開場、記念競馬を開催。
→【東京絵入
1885(明治18)年07月--日:東京で渡辺鼎、石川映作、生活改善を目的に婦人束髪会を設立。束髪の影響論議呼ぶ。
1885(明治18)年08月14日:乗馬令発布で、月俸百円以上の高級官吏が乗馬練習、と「朝野」が報ず。
→【朝野
1885(明治18)年08月--日:医家松本良順、神奈川県大磯に海水浴場を開く。
1885(明治18)年09月03日:束髪が大流行の兆し、と「朝野」が報ず。
→【朝野
1885(明治18)年09月12日:本所、深川両区の湯屋渡世仲間、コレラ予防等、衛生奉仕のため湯銭値下げで総会開催。
→【朝野
1885(明治18)年09月17日:日本人軽業師小川虎吉、その他手品師等が、フランス人に雇われてアメリカへ出発。
→【朝野
1885(明治18)年09月--日:東京師範学校女子部、洋服を採用、学校でダンスの稽古をする。
1885(明治18)年10月03日:束髪・洋服の娼妓が千住に出現。ある貸座敷で洋風装い開業式を実施と。
【郵便報知】
1885(明治18)年10月04日:東京で体育奨励のため公立小学校連合して遊戯、第一回体育奨励会(運動会)。遊戯優等者には褒賞品。
→【官報 →【吉見俊哉「運動会の思想」】
1885(明治18)年10月08日:汽船アラワ号、七十三日間で世界一周、という海外情報を「東京日日」報ず。
→【東京日日
1885(明治18)年11月03日:F.W.ストレンジの紹介で、東大学生、初めて横浜外人とスライディング・フォアー(滑席艇)で競漕。
→【木下秀明『スポーツの近代日本史』】 →【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1885(明治18)年11月07日:工部大学の競漕会(ボートレース)、隅田川上流にて開催。
→【改進
1885(明治18)年11月07日:奥州・北海道相撲巡業での珍談。四角い土俵など、「東京横浜毎日」が報ず。
→【東京横浜毎日
1885(明治18)年11月09日:種痘規則を定める。翌86年1月より実施。
1885(明治18)年11月10日:江戸時代からの化粧品の老舗、芝の「花の露舗」が時勢にのれず閉店。
1885(明治18)年11月12日:華族女学校に屋内体操場完成。
1885(明治18)年11月12日:新橋などの芸者、横浜でイタリア人から舞踏を伝授、話題に。
→【東京横浜毎日
1885(明治18)年11月15日:上流社会で大弓が流行、と「朝野」が報ず。
→【朝野
1885(明治18)年11月15日:歩兵操練には学生(東京大学生徒)の帯剣を許す、と「東京横浜毎日」が報ず。
→【東京横浜毎日
1885(明治18)年11月17日:京都府、小学校教員に女児の体操美容術講習。6回で男子229名、女子19名受講。
→【東京絵入
1885(明治18)年11月24日:婦人束髪会の有志、麹町八丁目で束髪演説討論・演説会を開催。
→【朝野
1885(明治18)年11月28日:明治天皇、黒田清隆邸に行幸。相撲18番を天覧。
→【東京日日
1885(明治18)年11月--日:森有礼、埼玉師範学校で人物養成の三気質(従順、友情、威儀)に関する演説を行う。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1885(明治18)年12月03日:洋書流行につられ洋服も人気、と「朝野」が報ず。
→【朝野
1885(明治18)年12月04日:東京四ッ谷広瀬小学校で体育会開催。体操と競争各種を披露。
→【朝野
1885(明治18)年12月22日:梅ケ谷藤太郎、ようやく年寄「雷」となる、と「東京日日」報ず。
→【東京日日
1885(明治18)年12月--日:体操伝習所、東京高等師範学校の付属となる。
1885(明治18)年12月--日:森有礼が文部大臣に就任。兵式体操の学校への本格的導入。従順、友情、威儀の三気質の開発へ。
→【木村吉次『日本近代体育思想の形成』】
1885(明治18)年--月--日:松本軍医総監が提唱、日本で最初の海水浴場が神奈川県大磯に開設。
→【木下秀明『スポーツの近代日本史』】
1885(明治18)年--月--日:福沢諭吉「日本婦人論」を刊行。女子の身体運動法を、単に学校教場に限定させる社会状況を批判。
→【木村吉次『日本近代体育思想の形成』】
1885(明治18)年--月--日:英人ストレンジ『Outdoor Games』を訳し『戸外遊戯法』(下村泰大編)を刊行。
→【鳴海正泰『テニス明治誌』】
1885(明治18)年--月--日:坪井玄道・田中盛業共編による『戸外遊戯法』出版される。
→【大場一義「体育と遊戯の奨励」】
1886(明治19)年01月08日:喜留前田喜兵衛、禁止されていた花合わせカルタ骨牌の発売を再開。
→【東京横浜毎日
1886(明治19)年01月08日:乗馬流行の兆しに、横浜で日本婦人に西洋流馬術の教授を計画中と、朝野報ず。
→【朝野
1886(明治19)年01月10日:回向院大相撲、19年1月場所の番付公表。
→【改進
1886(明治19)年02月13日:埼玉県岩沢小学校、全国で初めて歩兵操練実施を計画と、「東京横浜毎日」が報ず。
→【東京横浜毎日
1886(明治19)年02月15日:日本人力士松田虎吉、アメリカのレスラーに破れる。
→【東京横浜毎日
1886(明治19)年02月24日:芸妓が祇園新地の女紅場で評議、不景気で中断の鴨川踊り再興を決定。諸芸を大復習。
→【朝野
1886(明治19)年02月15日:東京師範学校で「長途遠足」を開始。(2月25日まで。)修学旅行の起源。
→【山本信良・今野敏彦「明治期学校行事の考察、近代教育の天皇制イデオロギー」】
1886(明治19)年02月28日:鹿鳴館の舞踏、紳士のエチケット未だ身につかずと「郵便報知」が報ず。
→【郵便報知
1886(明治19)年02月--日:高等師範学校で学術研究を兼ねて兵式による徒歩旅行実施。修学旅行の始まり。
→【木下秀明『スポーツの近代日本史』】
1886(明治19)年02月--日:埼玉県の熊谷学校で運動会実施。荒川土手で「紫隊」と「白隊」が模擬戦争。
→【吉見俊哉「運動会の思想」】
1886(明治19)年03月18日:伊藤博文、延遼館に貴顕淑女を招き舞踏会を開催。
→【東京日日
1886(明治19)年03月26日:舞踏の技も試験。踏舞会が1〜5等までの卒業証書を発行、と「東京日日」が報ず。
→【東京日々
1886(明治19)年03月26日:帝国大学の広田理太郎や同理科大学の田中館愛橘らが自転車会設立。
【朝野
1886(明治19)年03月--日:埼玉県体育会設立。地方体育団体の初め。
1886(明治19)年04月11日:大道芸人の取締を検討中、との情報を「朝野」が報ず。
→【朝野
1886(明治19)年04月16日:東大が第一回春期競漕会を隅田川で開催。横浜居留地のアマチュアローイングクラブを招待。
→【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1886(明治19)年04月20日:「開き席」と称する家屋での興行は許可を受けるよう、警視庁から達しあり。
→【東京日日
1886(明治19)年04月23日〜:不忍池競馬場で、春季競馬会を開催。
→【東京日々
1886(明治19)年04月26日:大阪、東京、京都の三府合併大相撲を五日間、京都建仁寺境内にて興行。
→【郵便報知
1886(明治19)念04月28日:帝国大学が制服を詰襟洋服に、制帽を欧風菱形帽に制定。(11月11日実施)
1886(明治19)年04月28日:「倶楽部」は誤訳。「快楽」ではなく、本来は「集合」「団結」、と朝日が報ず。
→【朝日
1886(明治19)年04月--日:教育令を改正して学校令発令。小学校体育を遊戯、徒手体操、軽体操(手具体操)、隊列運動に規定。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1886(明治19)年05月10日:回向院境内で勧進元大相撲19年5月場所を開催。番付公開。
→【郵便報知
1886(明治19)年05月22日:浅草公園の開園式を実施。雨で順延にも人出賑やか。 
→【時事
1886(明治19)年05月25日:コレラ予防のため食物の腐敗には注意、と「朝野」が報ず。
→【朝野
1886(明治19)年05月--日:前年よりのコレラ再び蔓延、夏、秋にかけて全国的大流行。患者15万5923人、内死亡10万8405人。
1886(明治19)年06月05日:日本、万国赤十字条約に加盟。
1886(明治19)年06月06日:大日本私立衛生会、コレラ対策の予防事項などを協議する臨時会議を開催。
【燈
1886(明治19)年06月--日:英国人デクソン軽井沢に宿泊、ショーとともに8月下旬まで滞在。避暑地利用のはじまりに。
1886(明治19)年06月--日:歩兵操典に準じた「府県尋常中学校教科体操中兵式体操の細目」規定
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1886(明治19)年07月02日:東京舞踏会の貴婦人連、伊藤博文の邸で会員を増やす計画を協議、と「東京日日」が報ず。
→【東京日日
1886(明治19)年07月05日:内務省衛生局東京試験所、越後屋呉服店員90名の食料調査実施。極めて粗食。
1886(明治19)年07月17日:コレラ流行の兆しの中で、兵士に禁食令を制定し予防を、と「朝野」が報ず。
→【朝野】
1886(明治19)年07月19日:米人青年トーマス・ステヴェンス、自転車で世界一周と時事が外国の情報を報ず。
→【時事
1886(明治19)年07月20日:コレラ流行のおかげ? ラムネの売り上げ延びると「大阪日報」が報ず。
→【大阪日報
1886(明治19)年07月--日:京都で、「こっくり様」という占い遊技が流行。
1886(明治19)年08月07日:“コレラ予防に全力を”と東京日日が論ず。
→【東京日日
1886(明治19)年08月08日:内務大臣、東京をコレラ流行地に指定。全国で3府16県に。
→【東京日日
1886(明治19)年08月29日:1道9県をコレラ流行地に追加。
→【東京日日
1886(明治19)年09月01日:神田秋葉原で、チャリネ曲馬団興行。大仕掛けの興行あり。一覧の価値あり。
→【朝野
1886(明治19)年10月10日:肉食奨励のため大牧場の計画。
→【毎日
1886(明治19)年10月14日:神田裏神保町の有志、日本人の体位向上をめざし肉食奨励、精肉廉価販売の洪養社設立。
→【時事
1886(明治19)年10月17日:埼玉地方への鵠と木兎の旅猟者増加で、囮に使う鵠と木兎が高値に、と「読売」報ず。
→【読売
1886(明治19)年10月29日:“教育ある男女の交際に舞踏を”は極端、と「朝野」が論ず。
→【朝野
1886(明治19)年10月--日:長野県丸子学校ほか7校の連合運動会実施。隊列運動重視の軍隊演習型運動会の普及。
→【吉見俊哉「運動会の思想」】
1886(明治19)年11月01日:天皇・皇后が、チャリネの曲馬を御観覧。。
1886(明治19)年11月17日:青木周蔵外務次官邸にダンス場新築で、東京舞踏会発会の催しあり。18日まで。
→【東京日日
1886(明治19)年11月21日:自転車で世界一周のアメリカ人スチーブンソンが長崎に来日。その後神戸を経て横浜に到着。
→【時事
1886(明治19)年11月--日:日本橋小網町に、洗愁亭という喫茶店開業、東京で初のコーヒー店。
1886(明治19)年12月06日:矢島楫子らが、婦人矯風会を設立。
1886(明治19)年12月14日:大阪府の小学校職員月俸。校長22〜35円、高等小学校訓導15〜30円、尋常小学校訓導10〜25円。
1886(明治19)年12月05日:明治19年の京都府コレラ患者三千百余人、と東京日日が報ず。
→【東京日日
1886(明治19)年12月18日:第三高等中学校で生徒運動会を開催
→【朝日
1886(明治19)年12月20日:ダンス教師ヤンソン、舞楽会納会に日本舞踊(春雨、御所車、夕暮れ等)を演じ話題に。
→【毎日
1886(明治19)年12月24日:東京府、疫病等で撤去された不潔な共同便所の改造・増設を計画、と時事が論ず。
→【時事
1887(明治20)年01月06日:道路への撒水は衛生に大害、とある医会の指摘で苦情が増加、その対応が話題に。
→【東京日日
1887(明治20)年01月09日:トランプ、花札が、大阪で流行と「東京日日」が報ず。
→【東京日日
1887(明治20)年01月11日:肉食会、全国にひろがる。会員すでに八百余名と「読売」が報ず。
→【読売
1887(明治20)年01月15日:知事通達で、「旧風を守りて動かざりし京女郎」も束髪に、と「東京日日」が報ず。
→【東京日日】
1887(明治20)年01月16日:昨年11月から今年1月15日までの遊猟出願者百三十人、と朝野が報ず。
→【朝野
1887(明治20)年01月17日:皇后、婦人に洋装を勧告する思召書を下付。以後上流婦人の洋装広まる。
→【朝野
1887(明治20)年01月22日:東京電燈会社、移動式石油発電機を使い、鹿鳴館で白熱電燈を点燈(電燈営業の初め)
1887(明治20)年01月28日:日本人力士松田虎吉、米国シカゴでアメリカのレスラーに敗れる。
→【東京横浜毎日】
1887(明治20)年01月--日:大阪で、花合せやトランプ流行。
1887(明治20)年02月06日:京都の画学校、体育・算数等の教課も加えて入学者増え、話題に。
→【東京日日
1886(明治19)年02月28日:鹿鳴館の舞踏、紳士のエチケット未だ身につかず、と「郵便報知」が報ず。
→【郵便報知】
1887(明治20)年02月--日:東京本所松倉町、四谷信濃町、麻布新網町等の貧家で、物乞い用に子供を1日5〜8銭で貸借する者あり。
1887(明治20)年03月04日:舞踏会の会員数、洋風を学ぼうとする時代の風潮か急増、目下百三十余名に。
→【東京日日
1887(明治20)年03月08日:府立大阪医学校、教科中に体操加え教員も採用。ただし服装は揃えず、と朝日が報ず。
→【朝日
1887(明治20)年03月09日:桜井錠二、 東京高等女学校の女学生に対してテニスのすすめ(講演「女子の体育」)を行う。
→【鳴海正泰『テニス明治誌』】
1887(明治20)年03月11日:破門騒動渦中の大達羽左衛門、高砂との師弟関係解消。柏戸の門へ、と東京日日報ず。
→【東京日日
1887(明治20)年03月15日:再出発の大達羽左衛門、中央の大関となり、木挽町での5日間の相撲興行に参加。
→【東京日日】
1887(明治20)年03月19日:府立商業学校で、洋服着用の全校250余名の生徒が運動会を開催。
→【朝日
1887(明治20)年03月20日:美人タイプの移り変わりについて、維新昨今の流行ぶりを「東京日日」が報ず。
→【朝日
1887(明治20)年03年25日:神戸外国人居留地で蹴鞠会(フットボール大会)開催、と神戸叉新日報が報ず。
→【棚田真輔『居留外国人による神戸スポーツ草創史』】
1887(明治20)年03月27日:山口県で、鶴猟禁止を指令と「高知日報」が報ず。
→【高知日報
1887(明治20)年04月16日:帝国大学、艇庫開場と新艇進水を兼ね第一回春季短艇大競漕会開催。渡辺総長がスポーツ精神鼓吹。
→【郵便報知 →【木下秀明『スポーツの近代日本史』】 →【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1887(明治20)年04月17日:宮城県遠田郡小学校生徒430名、上埣原で大運動会を開催。
1887(明治20)年04月20日:伊藤首相官邸で仮装舞踏会を開催。来賓はいずれも異様な装飾で参加。
→【やまと
1887(明治20)年04月22日:「国民皆兵のため兵役短縮すべし」と「高知日報」が報ず。
→【高知日報
1887(明治20)年04月23日:京都体育会、下加茂神社境内で春季大運動会を開催。運動会が洋服着用を促す機会に。
1887(明治20)年04月23日:地方衛生会が開催され、地方の公衆衛生等に関する事項を審議。
→【官報
1887(明治20)年04月--日:高師女子部職員や大学教授らの発起で、舞踏/音楽等を以て善良な男女交際育成を目指す和楽会設立。
1887(明治20)年05月01日:神奈川県西多摩郡八ケ村小学生の運動会を富岡村神社境内にて開催。父兄に体育への理解を啓蒙。
→【山本信良・今野敏彦、「明治期学校行事の考察、近代教育の天皇制イデオロギー」】
1887(明治20)年05月05日:曲乗りの水上自転車、浅草公園の旧勧工場跡にて興行中。話題に。
→【毎日
1887(明治20)年05月05日:木挽町でスパーラ(ボクシング)、ラスラ(レスリング)を興行。
1887(明治20)年05月09日:華族女学校、体操授業のため洋服規定を作成 /06月01日より着用を決定。
1887(明治20)年05月14日:居留地のチーハ賭博で当てたがバレて御用に。
→【東京日日
1887(明治20)年05月14日:東京の自転車流行、上達した人に大型の貸し二輪車が人気。貸賃は1時間およし4〜5銭。
→【毎日
1887(明治20)年05月16日:華族女学校、体操の正課採用を機に規定「生徒洋服制限」を定め、洋服着用を義務づける。
1887(明治20)年05月20日:博愛社、日本赤十字社と改称。第一回総会を開催。
1887(明治20)年05月21日:「女学雑誌」、首相官邸の舞踏会(4月20日)での伊藤首相と華族婦人との醜聞を批判し、発行停止に。
1887(明治20)年05月31日:衛生試験所を東京、大阪、横浜に設置。勅令第17号発布。
→【官報
1887(明治20)年05月--日:石川県の金沢石川河北三郡連合大運動会実施。森有礼の巡視の下、軍歌を唱え行進、隊列運動等演習。
→【吉見俊哉「運動会の思想」】
1887(明治20)年05月--日:宮城県遠囲郡の小学校運動会、430名の小学生に対し参観者3万以上で話題に。
→【吉見俊哉「運動会の思想」】
1887(明治20)年06月01日:斉藤元吉、築地居留地で西洋力士10余名との合同の相撲興行を警視庁に願い出る。
→【東京日日
1887(明治20)年06月18日:東京京橋で、力士剣山、一の矢、西の海らとウェブスター、ジョンソンら外人を含めた相撲興行。
→【木下秀明『スポーツの近代日本史』】
1887(明治20)年06月22日:横浜の仏蘭西波止場で、初のヨットレース(端舟競漕会)を開催。
→【朝野
1887(明治20)年06月--日:神奈川県八ケ村で生徒大運動会。 体操時の洋服採用問題浮上、と教育会雑誌報ず。
→【大場一義「体育と遊戯の奨励」】
1887(明治20)年07月--日:秋田市でも婦人の束髪と男子の洋服が流行。仙台では自転車が流行。
1887(明治20)年08月07日:小学校の学科として兵式体操の容易科を設け、それを実施する計画あり、と読売が報ず。
→【読売
1887(明治20)年09月04日:東京体操学校、体育が必要と入学生多し、と東京日日報ず。
→【東京日日
1887(明治20)年09月--日:日本麦酒醸造会社が設立される。(1890年3月に恵比寿ビールを発売する)
1887(明治20)年10月12日:中蒲原郡村松町某の妻、女相撲の興行に加わり力士として放浪、警察に拘引される。
→【時事
1887(明治20)年10月14日:徳川邸行幸、古式能を天覧。
→【めさまし
1887(明治20)年10月16日:上尾公園に日本壮士大運動会と称して各地より壮士が集合。治安妨害を理由に解散を命じられる。
1887(明治20)年10月27日:横浜の上水道配水開始、鉄管使用。近代的上水道の初め。
1887(明治20)年11月06日:香具師寺田某、浅草公園六区に高さ32m裾周り270mの張り子の富士山に、望遠鏡を備え興行。
1887(明治20)年11月23日:エレキ魚釣りの方法を発明、で話題に。
→【めさまし
1887(明治20)年--月--日:初めてテニスが小説(『新粧之佳人』)の中に登場。
→【鳴海正泰『テニス明治誌』】
1888(明治21)年01月14日:大阪府尋常師範学校、小学教員に兵式体操を教授を計画。小学生から兵式体操を。
→【朝日
1888(明治21)年01月15日:芝公園内の弥生社へ行幸あり、柔道・剣道・相撲を天覧。
→【東京日日
1888(明治21)年01月26日:浅草北三筋町の帝国自転車製造所で自転車の製造販売開始、と郵便報知が報ず。
→【郵便報知
1888(明治21)年01月26日:大阪医学校、普通体操を廃し兵式体操科を設置、と朝日が報ず。
→【朝日
1888(明治21)年02月16日:来遊する外国人に対し、遊歩規定・銃猟規則等取締りを強化、と朝野が報ず。
→【朝野 
1888(明治21)年02月19日:板垣退助、昨年帰郷以来、高知潮江村に閑居。自宅で相撲、山野で狩猟と悠々自適。
→【毎日
1888(明治21)年03月10日:相撲社会を改良せんとする高砂発議もウヤムヤ。角界ゴタゴタ続き、と毎日が報ず。
→【毎日
1888(明治21)年03月22日:コレラ19年中の患者15万5千人、死者三分の二、と朝野報ず。
→【朝野
1888(明治21)年04月06日:陸軍省、調馬隊を廃し、乗馬学校を開校。
→【朝野
1888(明治21)年04月13日:下谷西黒門町で中国人がコーヒー(可非)茶館を開業。席料1銭5厘、コーヒー1銭5厘。
1888(明治21)年04月14日:東京府、日比谷練兵場に学校生徒体操会を開催。森文相臨席。
1888(明治21)年04月25日:各国公使及び夫人を集め、最近の舞踏熱下火にカツを入れる一大舞踏会を開催。
→【東京日日
1888(明治21)年05月06日:横浜壮年協会、ピクニック=パーチーと称し野外遊歩を実施。
1888(明治21)年05月09日:米国にて日本の弓が流行で、大阪商人に注文ありと。
→【毎日
1888(明治21)年05月13日:往年の名力士陣幕久五郎、靖国神社大祭に土俵入り、と東京日日報ず。
→【東京日日
1888(明治21)年05月--日:ジャパン=ブルウェル会社、ドイツ式製法で日本人向きビール製造、麒麟ビール。
1888(明治21)年05月--日:埼玉県の川越英和学校で運動会実施。二隊に分かれて模擬戦争。
→【吉見俊哉「運動会の思想」】
1888(明治21)年06月--日:茨城上蛇小学校で女性隊をつくり集団訓練、男子は兵式体操。
1888(明治21)年07月18日:神奈川県、海水浴場に男女の区域を設ける。混浴禁止。違反者には違警罪を適用と。
→【東京日日
1888(明治21)年07月26〜08月24日:公立学校体操科教員の兵式体操講習を東京府が実施。
1888(明治21)年08月----:「修学旅行」という用語が教育法令(「尋常師範学校設備準則」)上ではじめて用いられる。
→【山本信良・今野敏彦「明治期学校行事の考察、近代教育の天皇制イデオロギー」】
1888(明治21)年10月03日:私立「体道学校」「東京体操専修学校」認可。
1888(明治21)年10月27日:第二回帝国大学陸上運動会、勝者ハンディキャップ制を始める。
1888(明治21)年10月28日:鹿鳴会員による園遊会、小石川の後楽園で開催。体格優良の小児や子どもに賞品付与。
→【東京日日
1888(明治21)年11月01日:英国帰りの松旭斎天一の西洋手品興行。浅草文楽亭にて開催と広告。
【時事
1888(明治21)年11月06日:自転車が大阪で再び流行、寄席の軍談や落語に影響か常客減少、と時事が報ず。
→【時事
1888(明治21)年11月10日:第一高等中学校、対農学校野球戦で31対14と大敗。
→【読売
1888(明治21)年-秋---日:川上音二郎、大阪落語桂文之助一門で浮世亭と名乗り、オッペケペー節を演じる。
1888(明治21)年12月05日:芹沢半蔵、三階建の富士見楼を建築。噴水浴、海水浴などを設けて開業。話題に。
→【東京日日
1888(明治21)年12月18日:東京府、体操術速成伝習所の伝習規則を改正、兵式体操を新たに加える。翌年9月20日閉所。
1888(明治21)年12月26日:大阪で来年から自転車に課税。1輛1年金25銭。現在数区部で700、郡部で179。
→【郵便報知
1888(明治21)年12月28日:文部省、直轄学校に活力調査(健康検査)を毎年4月に行うよう訓令。(定期身体検査の初め)
1889(明治22)年01月04日:ややこしい外人との結婚手続きの問題を「朝野」が報ず。
→【朝野
1889(明治22)年01月13日:相撲協会の紛糾で、改革派力士16名が特別昇給や相撲取締役と検査役選挙を要求。
→【東京日日
1889(明治22)年01月10日:東京府、体操科教員学力検定試験に兵式体操を追加。これまでは普通体操のみ。
1889(明治22)年01月15日:文部省、学生・生徒の体格検査に基準を定め、各直轄学校に訓令。
→【官報
1889(明治22)年01月15日:鉄道局技師平岡煕一が、野球を日本に広める、と時事が報ず。
→【時事
1889(明治22)年01月19日:雷、高砂の両年寄が、取締役に撰挙され紛糾収まり、相撲22年1月場所開幕。番付。
→【時事
1889(明治22)年01月22日:徴兵令改正。国民皆兵主義実現。
1889(明治22)年01月--日:江戸時代よりの大角觝仲間を、東京大角力協会と改称。
1889(明治22)年02月08日:来る11日の市街御通輦(つうれん)で、明治天皇に「万歳」と唱えては、との報道あり。
→【中外商業
1889(明治22)年02月09日:東京日日新聞、社説で「敬礼の方法」を提案。天皇を迎える民衆の従来の対応は「不体裁」。
→【牧原憲夫「万歳の誕生」】
1889(明治22)年02月11日:政治・一般、大日本帝国憲法発布。紀元節を祝う憲法祭が、華々しく展開。神楽・相撲・見世物....等々。
→【牧原憲夫「万歳の誕生」】
1889(明治22)年02月11日:政治・一般、衆議院議員選挙法公布。国税15円以上納付の25歳以上の者に選挙権、30歳以上に被選挙権。
1889(明治22)年02月11日:帝大教職員学生ら、教授外山正一の音頭で天皇・皇后の馬車に向かい万歳をとなえる。万歳の初め。
→【牧原憲夫「万歳の誕生」】
1889(明治22)年02月13日:青山練兵場で観兵式。近衛・第一師団の諸隊を天覧。
→【東京日日
1889(明治22)年03月17日:大阪相撲の年寄陣幕久五郎、鋭敏な反応とその資金源が評判に。読売報ず。
→【読売
1889(明治22)年03月23日:北海道、トナカイ保護のため鹿猟を禁止。
1889(明治22)年04月05日:体育奨励のため、私立小学校も公立学校と同様に、管轄警察署の許可なく運動会開催が可能に。
1889(明治22)年04月07日:大阪北野茶屋町の遊覧所(凌雲閣)落成式。9階層、高さ49m。
1889(明治22)年04月10日:東京打球会が園遊会を催し、米人の希望する日本古来の打球(ポロ)を実演、と「東京日日」報ず。
→【東京日日
1889(明治22)年04月13日:第一高等中学校で四艘のボートを新造、ボート部組織充実。隅田川で競漕会開催。
→【東京日日 →【東京日日
1889(明治22)年05月10日:相撲記事の書き方を改良、と東京日日。しかじかの取り手にて何々の手にて勝ちたり。
→【東京日日
1889(明治22)年05月14日:幕内十五枚の番付は情実によるか、と「時事」が相撲世界を問題に。
→【時事
1889(明治22)年05月--日:北海道、鶴の保護のため鶴猟を禁止。
1889(明治22)年05月--日:角力会所を角力協会と改称し、四本柱を検査役と改める。
1889(明治22)年05月--日:青森県弘前市の小学校大運動会実施。軍隊の演習方式の児童版「旗奪」。
→【吉見俊哉「運動会の思想」】
1889(明治22)年06月05日:相撲界に常設館建設の計画。近々建設に着手と、「東京日日」が報ず。
→【東京日日
1889(明治22)年06月22日:高等商業高校、YARC(横浜)との対抗レガッタ戦実施と、「ジャパンウイークリーメイル」が報ず。
→【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1889(明治22)年06月27日:鹿鳴館、地所・建物とも9万円で第十五国立銀行に払い下げ風聞す、と「東京日日」。
→【東京日日
1889(明治22)年07月01日:政治・一般、東海道線新橋=神戸間全通。一日一往復、片道約20時間、下等料金3円60銭。
1889(明治22)年07月20日:山梨県女子師範学校生徒、体力養成・実地修学のため京都地方へ旅行。女学生修学旅行の初め。
1889(明治22)年08月01日:木挽町に新築の歌舞伎座、電燈170、新装置も取りつけ、と話題に。
→【東京日日
1889(明治22)年08月06日:比叡山で外人100余名がキャンプ。これに同伴する日本人130余名、と「東京日日」報ず。
→【東京日日
1889(明治22)年08月17日:大磯の海水浴、女性が水着で泳ぎ始める。いかなる椿事の起こるやも知れず、と「朝野」報ず。
→【朝野
1889(明治22)年08月27日:陸軍省「体操教範」を改正発布。
1889(明治22)年09月18日:チーハ賭博の現行犯はその場で検挙。
→【読売
1889(明治22)年11月10日:京橋区木挽町に兼ねて新築中の歌舞伎座、新築落成式あり。
→【時事
1889(明治22)年11月17日:風俗を害する故裸体画の販売を禁止に、との新聞紙上での論議を「朝野」が報ず。
→【朝野
1889(明治22)年11月18日:料理屋で「飲食切符」賭博、19名の嫌疑者あり。東京軽犯罪裁判所開廷。
→【郵便報知
1889(明治22)年11月21日:東京、木挽町に歌舞伎座開場、舞台ならしに団・菊・左が出演。
→【東京日々
1889(明治22)年11月28日:群馬県議会が、廃娼建議案を可決する。
1889(明治22)年12月09日:矯風会及び白標倶楽部による、植木枝盛らの廃娼論の演説会あり。
→【東京日日
1889(明治22)年12月17日:諸遊芸人中でも、大神楽は舞踏ゆえ課税(地方税)と東京府決定、と「毎日」が報ず。
→【毎日
1889(明治22)年--月--日:神戸商業学校で米人教師ランバスがフットボール指導
→【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1890(明治23)年01月09日:大相撲1月場所4日目の勝負と取組表。
→【東京日日
1890(明治23)年01月14日:伊勢神宮、お陰参りで賑わうと「中外商業」が報ず。
→【中外商業
1890(明治23)年01月28日:政治・一般、富山で米騒動。以後各地に広がる。
1890(明治23)年02月23日:鹿鳴館、貸会場の条件が厳重に。貸渡規則を調整中と、「東京日日」が報ず。
→【東京日日
1890(明治23)年02月--日:流行性感冒、はじめて米国より入り全国的に流行。
1890(明治23)年03月05日:テケテン賭博、職人の間に流行、と「時事」が報ず。
→【時事
1890(明治23)年03月22日:和泉流13世山脇元清氏、佐々木岳楽軒の四百五十年祭を、東京芝公園能楽堂にて開催。
→【東京日日
1890(明治23)年03月23日:歌舞伎座の開場狂言は「相馬平氏二代譚」ほか。入場料初日は1/3、2日目半値。
→【東京日日
1890(明治23)年03月--日:埼玉県二葉学校で運動会開催。遠足と区別がつかないタイプの運動会。
→【吉見俊哉「運動会の思想」】
1890(明治23)年04月01日:長与専斎らの提唱で、第1回日本医学会開催(09日まで)。
1890(明治23)年05月07日:上野公園にパノラマ館開場。戊申の役、奥州白川戦争の状況画を展示、話題となる。
1890(明治23)年05月17日:明治学院との野球試合で一高応援団、明治学院教授インブリーに暴行し問題化。
→【大和球士『真説日本野球史(明治編)』】
1890(明治23)年05月29日:第一高等中学校と明治学院の生徒連合し野球中、明治学院教師インブリー負傷事件起こる。▲17日?
→【朝野
1890(明治23)年06月01日:福島県管内小学校教員50人を選定し、県尋常師範学校で、教育、理科、算術、体操を講習。
1890(明治23)年06月04日:群馬県管内小学校訓導108人を召集し、国語、兵式体操を講習。志願者には軽体操、唱歌の授業法。
1890(明治23)年06月13日:岐阜県管内の小学校教員と授業生50余人に、唱歌、体操、教育学、授業法を講習。
1890(明治23)年06月--日:長崎にコレラ発生し、全国に蔓延。この年患者4万6019人、死者3万5227人。
1890(明治23)年07月14日:浅草でオーストリア人の人体解剖蝋細工、覗きからくり、天体望遠鏡など話題となる。
1890(明治23)年07月--日:浅草公園花屋敷内奥山閣、縦覧の余興に蝋管蓄音器を聞かせる。
1890(明治23)年08月11日:車夫・人足などが数人で、ドッコイ賭博を白昼に日比谷で行い検挙。
→【朝野
1890(明治23)年08月11日:愛媛県、小学校教員144人に、教育、理科、体操の三学科を講習。
1890(明治23)年08月26日:埼玉県、学童の教育上支障ありとして、素人芝居を禁止。
1890(明治23)年10月12日:英人スペンサー、横浜公園で気球実演。気球で上昇し落下傘で降りる。
→【東京日日
1890(明治23)年10月25日:英人スペンサーの気球実演をみて、尾上菊五郎も新富座で風船乗りを計画、と「東京日日」。
→【東京日日
1890(明治23)年10月25日:帝国大学の運動場で秋季運動会を開催。 
→【朝日
1890(明治23)年10月26日:和仏法律学校で、生徒800余名が飛鳥山に繰り出し秋季運動会を開催。
→【朝日
1890(明治23)年10月30日:政治・一般、教育に関する勅語発布。
1890(明治23)年11月08日:農科大学で、構内の運動場で秋季運動会(陸上運動会)を開催。
→【朝日
1890(明治23)年11月12日:ヨーロッパで日本の能面を珍重と、読売が報ず。
→【読売
1890(明治23)年11月13日:浅草千束町に遊覧所・凌雲閣開場。最初のエレベーターを設置。
1890(明治23)年11月13日:女角力(多くは山形県出身)20人両国回向院で興行。
→【国民
1890(明治23)年11月19日:女力士は一升酒、読売が女相撲の酒豪自慢話を報ず。
→【読売
1890(明治23)年11月20日:第一高等中学校の生徒が兵式体操運動会のため、東多摩郡地方へ遠足。。
1890(明治23)年11月24日:スペンサー、上野公園で気球の興行。上等席1人1円、下等席1人20銭。千メートル上空から降下。
→【朝野  →【朝野 →【朝野
1890(明治23)年11月25日:横浜学校・商業学校その他2、3の学校生徒約800名、国会開院を祝い、神奈川県旧県庁跡で運動会。
1890(明治23)年11月27日:両国回向院で興行の女角力差し止められ、翌日より力芸のみ見せる。
1890(明治23)年11月29日:横浜の有志の発起で、国会開院を祝い、横浜根岸で有志競馬を挙行。
1890(明治23)年12月03日:興行について、営利を目的にしないものは不問、と警察令。
→【時事
1890(明治23)年12月04日:ベルリン留学の北里柴三郎、ジフテリアと破傷風の血清療法を発見。
1890(明治23)年12月14日:軽気球乗りの冒険家ボールドウィン来日、と時事が報ず。
→【時事
1890(明治23)年--月--日:国内で軟式用テニスボ−ルの生産を開始。東京高等師範学校、三田土ゴム会社に委嘱。
→【鳴海正泰『テニス明治誌』】 →【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1890(明治23)年--月--日:大阪聖三一神学校で英人ポールがフットボール指導
→【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1891(明治24)年01月08日:5世尾上菊五郎、「風船乗評判閣」を歌舞伎座で上演。風船乗りの妙技を披露。
→【時事
1891(明治24)年01月24日:回向院の相撲興行の招待客、都が報道。 府下貴顕紳士各新聞記者から各所の芸奴まで。
【都
1891(明治24)年01月--日:加納治五郎、欧米視察の帰途、船上で豪力のロシア人士官を柔道で投げる。
1891(明治24)年02月20日:新橋の芸奴ら30余名が、西桟敷4間打ち抜き相撲見物で、話題に。
【都
1891(明治24)年03月--日:東京で女学生および中流以上の令嬢に紺足袋流行。男性は黒羅紗の高帽子流行。
1891(明治24)年03月--日:コッホの結核治療剤ツベルクリン、医科大学に到着。
1891(明治24)年03月--日:小松宮、神田駿河台の御座所で侍従、主馬寮束を召して打毬会を開催。
1891(明治24)年04月04日:天皇、校舎新築落成を機に学習院に。歩兵中隊稠密運動/柔軟体操/乗馬体操/徒手体操/柔道等御覧。
1891(明治24)年04月08日:泉祐三郎一座の今様能が大入り、と時事が報ず。
→【時事
1891(明治24)年04月08日:歌舞伎座、三十年前と同じ狂言で大当たり、と「日本」報ず。
→【日本
1891(明治24)年04月10日:加納治五郎、帰国の船上でロシアの大男を投げ飛ばす、と「読売」が逸話を報ず。
→【読売
1891(明治24)年04月11日:夫婦と思しき外人の相乗り自転車あり、話題となり「日本」が報ず。
→【日本
1891(明治24)年04月14日:歌舞伎座で千秋楽に吉例のソソリ、と都が報じ、興行の前評判をあおる。
【都
1891(明治24)年04月--日:帝国大学第四回競漕大会で、両校応援が加熱。応援団同士の小競り合いもおこり中止に。
→【渡辺融「武道と洋式スポーツの共存」】
1891(明治24)年05月01日:アメリカで日本婦人が日本舞踊を指導、温雅な情踊り(ステテコとフカクガワ)うける。
→【朝野  →【時事
1891(明治24)年08月11日:日高籐吉郎が日本体育会を創設。
1891(明治24)年08月14日:米人トレーン氏、計画の55日間世界一周が61日間で終了、と「時事」が報ず。
→【時事
1891(明治24)年08月31日:横浜の外人専用洋酒店チョンキナ屋のチョンキナ踊り、醜体故に禁止。違反には罰金。
→【読売
1891(明治24)年08月--日:警視庁東京市15区及び八王子町の墓地で、死骸・遺骨の土葬を禁止。
1891(明治24)年09月12日:群馬県が、公娼を禁止する旨の布告を出す。
1891(明治24)年11月17日:文部省、天皇・皇后の「御真影」と教育勅語謄本を尊重に奉置するよう訓令[訓]。奉安殿設置。
1891(明治24)年11月26日:歌舞伎深野座、無断で狂言役者替え、役者名が先に新聞に出たと警察に召喚
→【寸鉄
1891(明治24)年11月--日:小学校教則大綱の中に、初めて体操科の目標が明記される。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1891(明治24)年12月23日:勧進元の収入上に関係もあり、幕内力士、これまでの場所中9日から10日間の出勤に。
→【時事
1892(明治25)年01月02日:本場所前に力士数十名、街頭で桟敷木戸代の軽減などの改善を宣伝、広告10余万枚配る。
→【時事
1892(明治25)年01月03日:25年1月場所前に番付を時事が発表。
→【時事
1892(明治25)年01月16日:十三歳で番付に載った有望少年力士「梅の谷」が紙上で話題に。
→【毎日 →【読売
1892(明治25)年01月22日:期待の相撲大一番、大砲と小錦の一戦は引き分けに。
→【毎日
1892(明治25)年02月20日:歌舞伎、市川家曽我の起源について、「朝野」で報ず。
→【朝野
1892(明治25)年03月12日:歌舞伎座、歌舞伎十八番の一つに「女楠」と、「時事」が報ず。
→【時事
1892(明治25)年03月24日:九州沿岸で海軍大演習
→【寸鉄
1892(明治25)年04月--日:「風俗画報」で、運動会を江戸寺子屋の花見以来のものとみなす論説(「運動会とお花見」)掲載。
→【吉見俊哉「運動会の思想】
1892(明治25)年05月----:慶應義塾体育会結成。野球部も創設。
→【大和球士『真説日本野球史(明治編)』】
1892(明治25)年05月07日:梅若五世梅津丹波守八百年忌に能楽を催す、と「日本」が報ず。
→【日本
1892(明治25)年05月25日:天然痘、今年の患者数二万余人、追々消滅の模様、と「朝野」が報ず。
→【朝野
1892(明治25)年06月08日:英人キルベ、東京−広島間を自転車で往復、と「東京日日」が報ず。
→【東京日日
1892(明治25)年06月15日:警視庁、角兵衛獅子の子供買い取り禁止。現在の人員のみ営業を許可、と「中央」が報ず。
→【中央
1892(明治25)年07月09日:手品師3世柳川一蝶斉、鍋島邸で芸を天覧に供する。
1892(明治25)年07月17日:隅田川でオボコ釣り。満潮の度に大漁、と「国民」が報ず。
→【国民
1892(明治25)年07月28日:憲兵司令部で、馬に代え自転車の使用を決定、春以来練習開始と、「郵便報知」が報ず。
→【郵便報知
1892(明治25)年08月16日:隅田川の渡し場、夜間渡船を廃止。事故予防で午後7時までに。
→【東京日日
1892(明治25)年08月21日:皇太子、神奈川県尋常小学校へ行き、競走、相撲、擬戦、綱引きなど観覧。
1892(明治25)年08月23日:日本橋浜町海岸の向井流や水府流の水泳教場、美人3名が泳ぎ評判に。
→【読売
1892(明治25)年08月28日:日本橋浜町の水練稽古場連合で、第二回目の大遠泳会を挙行。
→【朝日
1892(明治25)年09月04日:徳島県の盆踊り許可に市会議員が大反対、盆踊り停止を議決。願い人願い下げで決着。
→【東京日日
1892(明治25)年09月18日:アームストン曲馬団、回向院で曲馬の妙技を披露。連日大入り、と「朝野」が報ず。
→【朝野
1892(明治25)年10月23日:鹿の繁殖期に狩猟許可とは手ぬかり、と「郵便報知」が報ず。
→【郵便報知
1892年(明治25)年11月11日:109歳の旧和歌山藩士、壮健なること驚くべし。甲冑で水泳と「郵便報知」で話題に。
→【郵便報知
1892(明治25)年11月17日:東京府教育会、第一回学校衛生取調委員会を開催。
1892(明治25)年11月20日:上野不忍池畔の秋季大競馬会を開催。格別の見物人はなし、と「国民」が報ず。
→【国民
1892(明治25)年11月30日:大日本私立衛生会の伝染病研究所(主任北里柴三郎)が福澤諭吉の後援で設立される。
1892(明治25)年--月--日:関東(特に東京府)で天然痘流行。この年の全国患者数33,779人、死亡8,409人。
1892(明治25)年--月--日:静岡中学に二つの野球部が結成される。この頃から中等学校へと一高野球が普及。
→【大和球士『真説日本野球史(明治編)』】
1893(明治26)年01月31日:東京市、日比谷練兵場跡を公園地とし、日比谷公園と称する。
1893(明治26)年03月20日:岡本翁の志を継ぐ千島拓殖、郡司成忠(ぐんじしげただ)大尉の探検隊一行90人、壮途に上る。
【朝野  →【朝野
1893(明治26)年03月--日:日本体育会に体操練習所(体操学校)が設置される。
1893(明治26)年04月03日:東京婦人矯風会、キリスト教関係婦人団体を糾合し全国組織「日本基督教婦人矯風会」結成。
1893(明治26)年04月16日:カーピー氏の自転車旅行、東京日日で話題に。横浜=東京築地間を1時間23分で走破。
→【東京日日
1893(明治26)年04月22日:東京府への北里博士からの伝染病研究所設立の出願に、地元芝区愛宕町から苦情。
→【東京日日
1893(明治26)年05月06日:三高と同志社、琵琶湖で競漕(ボート競争大運動)を開催。
→【国民
1893(明治26)年05月17日:歌舞伎座は演劇史上に大書すべき大建築、と8ヶ月後に迫った落成を「都」が報ず。
【都
1893(明治26)年05月22日:文部省、「学校生徒の官吏送迎並びに遊歩運動につき注意の件」発令。遊歩運動の服装華美を注意。
1893(明治26)年05月24日:千島探検の郡司大尉一行、鮫港を出発後に暴風雨で一行遭難か、と「東京日日」が報ず。
→【東京日日
1893(明治26)年05月25日:幕内力士の給金九日間で最高九十円。全勤の力士へ給金倍増の改革実施で活気。
→【時事
1893(明治26)年06月11日:千島探険郡司大尉の一行函館にあり。その後錦旗丸にてエトロフ島に出発。
→【東京日日  →【時事
1893(明治26)年06月29日:陸軍中佐福島安正、シベリア単騎横断に成功、東京に帰着。
1893(明治26)年06月--日:文部省令で、女生徒の競争遊技は不適当とされる。
1893(明治26)年07月11日:自転車の同好者によるクラブ、日本輪友会を設立。社交と共に自転車実用の道を啓発。
→【朝日
1893(明治26)年07月21日:千島探険の郡司大尉、エトロフ島から新知島に渡る計画、と「東京日日」が報ず。
→【東京日日
1893(明治26)年07月22日:文部省、女子修学を促進すべく小学校に裁縫の教科を置くよう勧奨[訓]。女子就学率40.59%。
1893(明治26)年08月05日:その名誉を伝え、力士の奨励を図らんと、寛政元年からの横綱免許の力士調べあり。
→【時事
1893(明治26)年08月12日:文部省、学校の祝祭日儀式に用いる歌曲に「君が代」など八編を制定。
1893(明治26)年08月13日:満洲地方沿岸の探検と水族の棲息所発見のため、探北義団10名ロシア領沿岸に出発。
→【東京日日
1893(明治26)年08月31日:北里柴三郎、新潟市でつつが虫病について講演、と「時事」が報ず。
→【時事
1893(明治26)年09月07日:横浜居留地公園で、米軍艦乗組員と横浜在住米人の野球試合開催。
→【時事
1893(明治26)年09月20日:日本体育会、国民の体位向上と国防力強化をめざし設立。大阪に支会設立の計画あり。
→【東京日日
1893(明治26)年10月22日:千島探検、大尉の一行はシュムシュ島に移住と「東京日日」が報ず。
→【東京日日
1893(明治26)年10月--日:日本基督教婦人矯風会、売春婦に転落する婦人の救済施設、職業婦人宿舎を設立。
1893(明治26)年10月--日:二宮忠八、飛行機を試作。動力はゼンマイ、車輪付き。
1893(明治26)年10月--日:青森県の尋常中学校で運動会。「家鶏争奪競争」で会場騒然。プログラムの軍事離れ、新趣向。
→【吉見俊哉「運動会の思想」】
1893(明治26)年--月--日:神戸クリケットクラブ(Kobe Cricket Club)、兵庫師範と初めて野球の対外試合を実施。
→【棚田真輔『居留外国人による神戸スポーツ草創史』】
1894(明治27)年01年01日:回向院の大相撲二十七年一月場所開始。その番付。
→【時事
1894(明治27)年01月14日:日本輪友会、郊外サイクリング(上野公園〜王子間)を開催。
→【時事
1894(明治27)年01月25日:世界ヘビー級ボクシング、コーベット(米)対ミッチェル(英)戦に観客二万余。国際。
→【東京日日
1894(明治27)年01月31日:樺山子爵の令息、樺山愛輔が東海道自転車旅行に、と「時事」が話題に。
→【時事】
1894(明治27)年02月08日:伝染病研究所この中旬に落成予定。研究伝習生を募集、と「東京日日」が報ず。
→【東京日日
1894(明治27)年02月16日:能保存のため皇太后陛下より五百円下賜
→【時事
1894(明治27)年02月18日:日本輪友会、近郊へ観梅のサイクリング(第三回目)を実施。
→【東京日日
1894(明治27)年02月18日:ビリアード、腕自慢を集めて玉突競技会を開催。参加者およそ40名。
→【東京日日
1894(明治27)年02月20日:泉祐三郎が東京鳥越の中村座でテリハ能を興行。大評判に。
→【時事
1894(明治27)年03月02日:祇園の女紅場にならい、東京にも歌舞女教場を。都踊りを設け芸妓に習わせんと。
【都
1894(明治27)年03月--日:上流社会に、一楽織の羽織、有国織の女帯地、風流織、大島紬など流行。
1894(明治27)年04月--日:埼玉県比企郡小川高等小学校運動会開催。開帳見物となった運動会。
→【吉見俊哉「運動会の思想」】
  1894(明治27)年05月06日:一高主催による第一回連合紅白試合が開催。
→【『大和球士「真説日本野球史(明治編)』】
1894(明治27)年05月23日:東京相撲協会、回向院境内での大相撲興行(25〜30日)の純益金の寄付を、日本赤十字社へ申し出。
1894(明治27)年05月29日:慶應義塾で大運動会を開催、三田山に大観衆。
→【時事
1894(明治27)年06月30日:私立「東京体操専科学校」許可。
1894(明治27)年07月28日〜:歌舞伎座でフランス女優テーオーと成田屋一門の合併芝居あり。話題に。
→【東京朝日
1894(明治27)年08月01日:清国に宣戦布告[詔](日清戦争)。
1894(明治27)年08月12日:千島探検 郡司大尉再び上野を出発し千島へ。
【時事
1894(明治27)年08月25日:北里柴三郎、ペスト菌発見。
1894(明治27)年08月25日:博文館から『日清戦争実記』創刊。写真銅板を多数採用し評判。この頃戦争錦絵の売れ行き増加。
1894(明治27)年08月29日:知育偏重を改める。井上毅、「小学校ノ体育及衛生ニ於ケル注意」文部省訓令第六号を発布。
→【朝日 →【木村吉次『日本近代体育思想の形成』】
1894(明治27)年09月01日:文部省、北海道庁府県に対して「児童の体育に留意し教育の完成を期せざるべからず」と訓令。
1894(明治27)年09月05日:東京府知事、体育・衛生に関する文部省訓令の主旨を管内に訓令。
1894(明治27)年10月02日:歌舞伎座、客が東京にいなくなるとの理由で芝居休業、と「国民」が報ず。
→【国民
1894(明治27)年10月24日:自転車の速力、馬を抜く。米人ジョンソンが1マイル走で1分35秒5分2の記録。国際。
→【時事】
1894(明治27)年11月19日:華族女学校、第一回運動会を開催。
1894(明治27)年11月27日:横須賀白浜の海軍練兵場で、旅順占領祝賀のため横須賀町運動会を開催。
1894(明治27)年11月--日:広島市仮議事堂で、日清戦争戦勝記念天覧撃剣大会を開催。
1894(明治27)年--月--日:井原外助の「我国野球の幼年時代の思出」が『学士会月報』に掲載。訳語「庭球・野球」誕生に言及。
→【鳴海正泰『テニス明治誌』】
1895(明治28)年01月11日:明治天皇、日清戦争当時の大本営二階の廊下で、蹴鞠を披露。
→【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1895(明治28)年01月--日:高等女学校の体育への関心が多少高まり、高等女学校規定が制定。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】 
1895(明治28)年02月01日:市内の道路計画で、不忍池馬見所(競馬場)を競売に。
→【国民
1895年(明治28年)02月20日:明治天皇、日清戦争当時の大本営会議室で、気晴らしにクォイツ(鉄輪投,quoit)を実施。
→【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1895(明治28)年02月22日:中馬庚が「野球」と翻訳した『一高野球部史』刊行。従来は「塁球」「庭球」「底球」等。
→【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1895(明治28)年03月14日:このところ不繁昌の歌舞伎座、 団十郎と三猿の顔合わせで大入りに。
→【東京朝日
1895(明治28)年03月23日:力士連が「近衛」に従軍 金庫保護の重任負い話題に。
→【朝日
1895(明治28)年03月27日:狩猟法公布{法}。
1895(明治28)年04月01日:京都で第四回内国勧業博覧会開催。07月31日までに総入場者113万人。
1895(明治28)年04月17日:政治・一般、日清講和条約調印。朝鮮の独立承認。(4月23日、三国干渉)
1895(明治28)年04月17日:京都で、大日本武徳会設立(会長渡辺千秋)。
→【渡辺融「武道と洋式スポーツの共存」】
1895(明治28)年06月18日:神戸葦合村でコレラ流行期に、疾病予防の目的で健康診断実施。地区住民の健康診断はじまる。
1895(明治28)年06月22日:一高野球部、明治学院・慶応の連合チームに12対1で大勝。
1895(明治28)年08月04日:「歌舞伎新報」が記事、写真画とも大家ぞろいで復刊(第1613号)。
→【東京朝日
1895(明治28)年08月08日:内務省、コレラの消毒予防法いっそう徹底に関して訓令。この年コレラでの死亡4万150人。
1895(明治28)年08月15日:岩崎弥之助、ビリアード以外に遊技の趣味なし、と報知が人物紹介。
→【報知
1895(明治28)年08月20日:日清戦争以来国民の尚武心とみに増し、神刀館、榊原河岸に撃剣道場を新設。道場開き。
→【東京日日
1895(明治28)年08月--日:神田小川町の体育養成館で、ローラースケート行われる。
1895(明治28)年08月--日:文弱主義否定、国民道徳の昂揚を背景に小学校教育に「体育衛生ニ関する訓令」(岡田訓令)布達。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1895(明治28)年夏----日:氷店、東京と大阪で増加。氷水1銭、ほか氷イチゴ、氷レモン、氷しるこ等多種。
1895(明治28)年10月14〜19日:横浜の秋季クリケット競技会(横浜公園)に、神戸、上海からも参加。
→【毎日
1895(明治28)年--月--日:帝国教育会が開催され、軍国化を背景に体育の重要性が決議される。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1895(明治28)年10月25日:大日本武徳会が平安神宮で第一回演武大会を開催。
1895(明治28)年--月--日:琵琶湖でボ−ト大会(全国大競漕会)はじまる。一着は海軍兵学校、二着は一高。
→【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1896(明治29)年01月26日:猟銃家十文字信介氏、石油発動自転車(オートバイ)購入。汽車に倍する速力と話題に。
→【国民
1896(明治29)年03月12日:熱海と小田原間に8人乗り人車鉄道できる。好評。
1896(明治29)年03月--日:オリンピア運動会(オリンピック)の記事紹介。初めて「文芸叢誌」(3月号)に掲載。
→【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1896(明治29)年03月--日:小錦八十吉、横綱を免許。
1896(明治29)年04月01日:伝染病研究所、イギリス人軍医タッド氏が細菌研究のため入所。
→【時事
1896(明治29)年04月08日:一高のボート競争(端艇競争)開催。墨堤に花ひらく。
→【時事
1896(明治29)年04月12日:東京の馬車鉄道の利用者増加。この日の日曜、9万2488人に達する。
1896(明治29)年04月27日:歌舞伎座を株式会社として認可。興行も新会社が。
→【時事
1896(明治29)年04月30日:歌舞伎座興行開始、場内なかなかの人手。団十郎の助六が人気。
→【時事
1896(明治29)年04月--日:「スキ駈け」と題しノルウェー式スキーの紹介記事、雑誌「少国民」に掲載。
1896(明治29)年05月23日:無敵を誇る一高野球部、 横浜公園で横浜外人チームに4対29で大勝。
→【読売  →【木下秀明『スポーツの近代日本史』】
→【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
→【大和球士『真説日本野球史(明治編)』】 →【功力泰雄「明治野球史」】
1896(明治29)年05月--日:井上毅、文部大臣就任後「公立学校生徒ノ送迎及遊歩運動」の訓令第六号を発布。
→【木村吉次『日本近代体育思想の形成』】
1896(明治29)年06月05日:23対9 一高対外人クラブ(米国軍艦乗組員)のベースボール試合、再び一高が勝利。
→【朝日  →【時事  →【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1896(明治29)年06月10日:長唄の松永和楓、55歳になり後進に道を譲り引退、と報知が報ず。
→【報知
1896(明治29)年06月12日:第一回学校衛生顧問会議開催。文部大臣が学生の体育法、校舎と衛生の関係など諮問。
1896(明治29)年06月27日:連敗の米戦艦デトロイト号野球チームが一高に挑戦
→【読売     →【時事
1896(明治29)年07月17日:凋落著しい能の伝統保存のために能楽会を作る、と「日本」で報ず。
→【日本
1896(明治29)年07月19日:正岡子規が新聞連載の随筆『松羅玉液』の中で、野球など戸外遊戯について解説。
→【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1896(明治29)年07月22日:正岡子規の「ベースボールの来歴」が新聞「日本」に掲載。
→【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1896(明治29)年07月23日:東京で朝顔栽培流行、愛好者の団体「一六会」設立。
1896(明治29)年07月--日:文部省において衛生顧問会議が設立。
1896(明治29)年07月--日:横浜ホーン商会、日本で初めてロウ管式蓄音機を輸入。
1896(明治29)年08月01日:東京の馬車鉄道停車所を定める。飛乗り、飛降りは自由。
1896(明治29)年08月02日:東京府下有名の剣客数名が発起し、下谷二長町の撃剣道場「振武館」が開場式。
→【報知
1896(明治29)年08月13日:昨今の大磯は海水浴客で賑わい。両三日前より1000名以上、と「朝日」が報ず。
→【朝日
1896(明治29)年08月15日:第一回アテネオリンピック大会の記事を掲載する雑誌『少年世界』が刊行。
→【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1896(明治29)年10月29日:横綱小錦の張り出し問題、姑息な番付処理は悪例と、「時事」が批判。
→【時事
1896(明治29)年11月08日:貴顕有志の能楽会、活動軌道に乗る。第一回の式能を能楽堂で開演。各派熱演。
→【時事 →【時事
1896(明治29)年11月28日:千葉県の山本尋常高等小学校で生徒競技会開催。この頃から遠足と運動会が分離する傾向に。
→【山本信良・今野敏彦「明治期学校行事の考察、近代教育の天皇制イデオロギー」】
1896(明治29)年12月--日:熱海温泉「あたみに冬なし」と宣伝、浴客ふえる。
1896(明治29)年--月--日:学校の運動会が興行的傾向を帯びてきたという避難、雑誌「日本人」に現れる。
1897(明治30)年02月15日:稲畑勝太郎、大阪南地演舞場でシネマトグラフを自動写真の名称で初興行。連日大入り満員。
1897(明治30)年03月15日:文部省、活力検査に関する訓令を廃し、直轄学校学生生徒に「学生生徒身体検査規定」制定。
1897(明治30)年04月01日:浅草のシネマトグラフ館で「撃剣試合い」上映。
1897(明治30)年04月04日:五高対山口高野球試合(福岡)。21対2で五高勝つ。旧制高校の対抗試合のはじめ。
1897(明治30)年05月26日:回向院大相撲、大月対有村戦で37回の連続マッタ。勝負預かりで翌日取り直しに。
→【読売
1897(明治30)年06月03日:一高野球チーム、横浜在留外人チームに15対6で大勝。
→【読売   →【大和球士『真説日本野球史(明治編)』】
1897(明治30)年07月24日:清国からの注文で、東京府下吉岡町の森田自転車製造所の国産自転車初輸出。
→【時事】
1897(明治30)年07月29日:大阪の力士八陣に横綱免許
→【時事
1897(明治30)年08月10日:両国の川開き、人並みで欄干こわれ200人余りが川中に転落。死傷者多数。
1897(明治30)年08月13日:初めて横浜外人と水府流太田派との間で競泳実施。日本側が勝つ。
→【木下秀明『スポーツの近代日本史』】
1897(明治30)年09月22日:京阪合併大相撲の初日、幕下梅ノ谷が前頭筆頭荒虎を押し出す。
→【時事
1897(明治30)年11月03-4日:横浜の外人による日本バイスクリングクラブが日本人クラブと連合自転車競争運動会を実施。
→【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1897(明治30)年11月16日:岡鬼太郎「義太夫評判」を「報知新聞」が掲載。以後、娘義太夫に人気。
1897(明治30)年12月17日:行司、六代目伊之助没す。52歳。
→【時事
1897(明治30)年12月25日:志賀潔、赤痢(せきり)の病原体を発見。
1898(明治31)年01月14日:4月1日より、北海道庁府県郡市町村立の各学校に学校医を置くことを決定。勅令第二号。
→【東京朝日
1898(明治31)年01月--日:関西鉄道で、客車に油燈にかえ初めて電燈をとりつける。
1898(明治31)年02月16日:自転車で世界一周を目指す外人旅行者が東京に到着。数日間各所見物。
→【国民
1898(明治31)年02月--日:東京専門学校(早稲田大学の前身)の体育部規則が出来る。
→【大和球士『真説日本野球史(明治編)』】
1898(明治31)年04月01日:警視庁、4月3日上野公園で開催予定の労働組合期成会の大運動会に対し、集会禁止を命令。
1898(明治31)年04月02日:各省高官一同が発起する、日比谷原の社交用ロ−ンテニスクラブが発会式。
→【報知
1898(明治31)年04月10日:遷都30年祭を祝し労働組合期成会会員800余名、上野公園鶯亭で祝会。運動会禁止の不平を慰労。
1898(明治31)年04月13日:一高対二高の対抗戦。野球試合は三点差で一高勝つ。好天に恵まれ見物も数千人。
→【朝日】
1898(明治31)年04月19日:野球対戦の後の柔道で、二高との対抗試合に敗け、一高の柔道選手7〜8名が丸坊主。話題に。
→【時事
1898(明治31)年05月01日:エール大学が一高にまず挑戦か、早稲田渡米以前の野球秘話。記事掲載誌『太陽』が刊行。
→【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1898(明治31)年05月08日:印刷会社秀英社、1000人余りの男女職工らが集まり、東京大久保のつつじ園内で春季大運動会。
1898(明治31)年05月08日:五月場所大相撲開場を控え、米価値上がりで勧進元は出費増を心配、と時事が報ず。
→【時事
1898(明治31)年05月14日:回向院五月場所大相撲2日目。梅ヶ谷、常陸山初の大一番で場内興奮。衣類が土俵に山積み。
→【読売
1898(明治31)年05月15日:五月場所大相撲、幕内力士の平均年齢は32、3歳と、読者の質問に応じ時事が一覧。
→【時事
1898(明治31)年05月--日:横浜南京街で、「チーハー」賭博が流行。
1898(明治31)年05月--日:日本体育会への国庫補助を図る「体育奨励に関する建議案」が第12階帝国議会で建議される。
→【木村吉次『日本近代体育思想の形成』】
1898(明治31)年06月15日:村井兄弟商会、内務大臣の命により、たばこに添付の外国製裸体画カードの挿入中止。
1898(明治31)年08月13日:横浜港で水府流太田派の泳者と在留外人クラブ員が競泳勝負。太田派優勢。国際水泳競技の初め。
→【朝日】 →【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1898(明治31)年09月08日:神戸双輪会の五名、自転車で神戸−東京間を邦人が初めて走破。
→【朝日】  →【国民
1898(明治31)年09月-- 日:学校伝染病予防及消毒法が制定。
1898(明治31)年11月20日:高等師範学校と高等商業学校との軟式テニス試合行われる。わが国で最初の日本人同士の試合。
→【鳴海正泰『テニス明治誌』】
1898(明治31)年--月--日:東京高師と東京高商の庭球部が「庭球要領」出版。日本人による初の本格的テニス解説・指導書。
→【鳴海正泰『テニス明治誌』】
1899(明治32)年01月05日:本場所の番付表が事前に漏れ問題に。警察の捜査で印刷業の職工が浮上。
→【報知
1899(明治32)年01月09日:力士大砲の足袋、長さは一尺三分、と時事が相撲取の身体を話題に。
→【時事
1899(明治32)年01月18日:一月場所大相撲屈指の取組、常陸山が一気の寄りで梅ケ谷に勝つ。拍手喝采の声百雷の如し。
→【国民
1899(明治32)年02月08日:中学校編成及設備規則制定。中学校の運動場の基準を初めて規定。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1899(明治32)年02月09日:高等女学校編成及設備規則制定。高等女学校の運動場の基準を初めて規定。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1899(明治32)年02月11日:山口高等学校生徒、校庭=宮市天神間で11.5マイル競走を行う。長距離競走の初め。
→【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1899(明治32)年04月03日:京都大学第一回陸上運動会開催。
1899(明治32)年04月07日:相模川、酒匂川の鮎漁を禁止。違反者には1〜3日の拘留または20銭〜1円95銭の罰金。
→【国民
1899(明治32)年05月09日:根岸競馬場で競馬天覧。第六回競馬の賞品として銀製花瓶を下賜。
→【国民
1899(明治32)年05月13日:第一高等学校生徒が不忍池畔で13マイル競走を実施。今村次吉、1時間35分49秒で優勝。
1899(明治32)年05月18日:相撲行司の古式の紫房、司家(吉田家)および相撲協会より、庄之助らに許可。
→【報知
1899(明治32)年05月25日:山陽鉄道で、我が国で初めて食堂車を使用。
1899(明治32)年06月01日:「米西戦争活動大写真」神田の錦輝館で上映。ニュース映画の初め。
1899(明治32)年06月--日:浅草に、日本初の蓄音器専門店、三光堂開店。
1899(明治32)年06月--日:東京高等師範学校に体操専修科ふたたび設置。
1899(明治32)年07月04日:日本麦酒会社、新橋際にビヤホール開店、話題となる。
1899(明治32)年08月03日:文部省、公認の学校において宗教上の儀式・教育を行うことを禁止。
1899(明治32)年08月12日:横浜アマチュア・ローイングクラブの申し出で、再度水府流太田派との国際水泳大会再び実現。
→【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1899(明治32)年08月15日:米国で製菓研究の森永太一郎、赤坂溜池でキャンデー・ケーキの製造開始。
1899(明治32)年08月--日:山陽鉄道、夏期夜行列車の1、2等客に、蚊帳を貸す。
1899(明治32)年10月01日:川上音二郎サンフランシスコ興行でオッペケ節、と「国民」が報ず。
→【国民
1899(明治32)年10月15日:浅草公園に、初の常設水族館でき開業式。
1899(明治32)年11月18日:内務省ペスト予防で、清国・インドから、ぼろ・古綿・古革皮・古羽毛の輸入を禁止。
→【国民
1899(明治32)年12月29日:ペスト予防に、東京市会で鼠20万匹買い上げを計画。1疋5銭、10疋50銭、100疋5円。
→【報知
1899(明治32)年--月--日:井口あくり、スウェーデン体操研究のため米国へ3年間留学。体操留学生の初め。1903.2月帰国。
1899(明治32)年--月--日:この年、全国の肺結核死亡者数が66,408人に。総死亡者数の7.1%になる。
1899(明治32)年--月--日:田中銀之助とE.B.クラーク(慶應義塾教師)、ラグビーを慶應義塾学生に紹介。最初のチーム結成。
→【木下秀明『スポーツの近代日本史』】
1899(明治32)年--月--日:福沢諭吉『新女大学』で男尊女卑の弊風批判。女子も「怪我せぬ限りはあらき事をも許して」遊戯。
→【木村吉次『日本近代体育思想の形成』】
1900(明治33)年01月15日:東京市、ペスト予防のため、ネズミの買い上げを実施。一匹5銭。
1900(明治33)年01月26日:力士の好酒家は5〜6升から1斗酒と、彼らの豪傑ぶりを「報知」が話題に。
→【報知
1900(明治33)年01月--日:日本楽器(株)、ピアノ製造開始。
1900(明治33)年02月23日:函館の娼妓坂井フクの廃業訴訟、大審院で勝訴。娼妓の自由廃業運動活発に。(10月2日、娼妓取締規則公布)
1900(明治33)年02月--日:第14回議会貴族院において、武道の正科必修が初めて議題に。
→【木村吉次『日本近代体育思想の形成』】
1900(明治33)年03月10日:<政治・一般> 治安警察法公布(法)。
1900(明治33)年03月26日:学生生徒身体検査規定(文部省令)を制定。年二回実施(4、10月)や検査11項目を規定。
→【官報
1900(明治33)年03月26日:文部省、女子師範学校や高等女学校生徒に配慮、生理時の体操などを施行せぬよう訓令[訓]。
1900(明治33)年05月08日:日本体育会、九段の事務所完成落成式。体育は国家富強の基礎と総裁閑院宮殿下の令詞。
→【東京日日
1900(明治33)年05月15日:南多摩郡八王子付近で、学齢期児童の興行的な相撲が流行。東京府、波及を取締るよう通達。
1900(明治33)年05月24日:内務省、男女混浴禁止の年齢を明確化。12歳以上の男女。
1900(明治33)年06月05日:内務省、清涼飲料水営業取締規則を公布。
1900(明治33)年06月09日:米人シードフラックほか5名の自転車曲乗り、両国回向院と歌舞伎座で興行。11日まで。
1900(明治33)年08月--日:小学校令施行規則が制定され、体操科の目標が明示。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1900(明治33)年09月14日:津田梅子、東京麹町に女子英学塾を設立。後の津田塾大学。
1900(明治33)年09月--日:救世軍・二六新報社、新吉原で廃娼運動。流血事件頻発。
1900(明治33)年10月02日:内務省が娼妓取締規則を公布し、娼妓の自由廃業を認める。
1900(明治33)年10月28日:不忍池畔で双輪倶楽部の第二回自転車競走会を実施。
→【国民
1900(明治33)年11月02日:横浜山下町の日本自転車倶楽部、自転車競争を開催。曲乗り競走や外人参加の競走など。
→【朝日】
1900(明治33)年11月10日:東京帝国大学運動会で、初めてヤード制改め「メートル制」を採用。
1900(明治33)年--月--日:万国博覧会への日本人参加者、誰一人競技を見ず。第二回パリオリンピック大会。
→【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1900(明治33)年--月--日:精神病者監護法が公布。
1901(明治34)年02月01日:大砲の横綱問題を協議決定し、直に吉田家へ横綱免許の請願へ。横綱いよいよ確定。
→【朝日】
1901(明治34)年02月24日:奥村五百子(いおこ)ら、愛国婦人会創立。軍人遺族、傷痍軍人の救護活動を開始。
1901(明治34)年03月01日:一高記念祭で、西寮寮歌「春爛漫の花の色」発表。
1901(明治34)年03月--日:「中学校令施行規則」と「高等女学校令施行規則」通達、体操科の目標を明示。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1901(明治34)年04月03日:司家吉田追風より、大砲に横綱免許。
→【読売
1901(明治34)年04月07日:人力車賃節約と事務効率化で、警部・巡査が自転車の練習、と「国民」で話題に。
→【国民
1901(明治34)年04月13日:慶大野球部遠征の旅に出発。浜松中学や和歌山中学などと対戦、四勝一敗。
→【大和球士「真説日本野球史(明治編)」】
1901(明治34)年04月30日:ビリアードのイギリス人名人ロバ−ツ夫妻が神戸に来日。
→【時事
1901(明治34)年04月--日:「小学校体操科課程及教授時間割」通達。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1901(明治34)年04月--日:東京専門学校(早稲田大学の前身)でベースボール部が活動を開始。
→【大和球士『真説日本野球史(明治編)』】
1901(明治34)年05月15日:回向院相撲、異例にも初日から徳川慶喜らが見物。新横綱(大砲)や新大関(常陸山)で大人気。
→【時事
1901(明治34)年05月16日:回向院相撲2日目、神聖なる土俵の四本柱に企業広告の水引は失態、と東京日日が報ず。
→【東京日日
1901年(明治34年)05月25日:死球をめぐる日米解釈への差が勝敗を分ける。一高が6対5で敗れる。
→【大和球士『真説日本野球史(明治編)』】
1901(明治34)年05月27日:引き分けをはさみ四連敗の梅ケ谷、ついに新大関常陸山を破る。
→【毎日
1901(明治34)年05月28日:大相撲34年5月場所、8日目までで総計二万二千余人の観客動員、と「時事」が報ず。
→【時事
1901(明治34)年05月29日:10日目の千秋楽には幕内の取組なし。しかし好景気なり。
→【東京日日
1901(明治34)年05月29日:警視庁、ペスト予防と風俗改善のため、東京市内での車夫・馬丁などの「はだし」を厳禁。
→【毎日
1901(明治34)年05月----:大日本武徳会の小沢一郎・高野佐三郎が撃剣の正科採用を文部大臣に建言。
→【木村吉次『日本近代体育思想の形成』】
1901(明治34)年06月08日:横浜外人対英艦乗組員によるクリケットの対抗試合を開催。
→【時事
1901(明治34)年07月07日:雷権太夫の稽古場落成を期に、梅の谷が梅ケ谷を襲名。結婚も披露と報知が報ず。
→【報知
1901(明治34)年07月25日:東京市、路上見世物禁止。
1901(明治34)年08月05日:京都武徳殿で全国青年大演武会を挙行
→【時事
1901(明治34)年08月21日:淀川の長距離水泳、十余里を完泳は未曽有の壮挙。大日本武徳会の主催で実施。
→【朝日】
1901(明治34)年09月12日:回向院相撲、土俵作りの名人・千代吉爺さん死ぬ。享年78歳。
→【二六新報
1901(明治34)年09月18日:「時事新報」が埼玉県関根イトの女工虐待に関する裁判を報道。以後女工虐待問題批判の世論高まる。
1901(明治34)年10月22日:金輪倶楽部、秋季自転車競走を不忍池畔で開催。
1901(明治34)年10月22日:日本女子大学校、第一回運動会を飛鳥山で挙行。
1901(明治34)年11月09日:東京の不忍池畔で、全12時間の長距離競走挙行。時事新報社主催。
→【木下秀明『スポーツの近代日本史』】
1901(明治34)年11月25日:ベルツ、月曜会で女子の服装改革を講演。。
1901(明治34)年12月07日:慶応義塾のラグビーチーム、横浜外人と初の国際試合。35対5で惨敗。
→【時事 →【渡辺融「武道と洋式スポーツの共存」】
1901(明治34)年12月10日:田中正造、議会開院式より帰途の天皇に、足尾鉱毒事件を直訴。
1901(明治34)年12月15日:東海道線で初めて食堂車を使用。
1901(明治34)年12月15日:大阪毎日新聞社主催の8時間競争、堺大浜で開催。
1901(明治34)年12月23日:日本体育会の模範体操学校で卒業式を挙行。卒業者35名。
→【独立
1901(明治34)年--月--日:日本体育会北海道氷技部が氷上運動会を実施。
→【木下秀明『スポーツの近代日本史』】
1901(明治34)年--月--日:A.H.グルーム、六甲山上にゴルフ場用土地を確保、貸借契約を結ぶ。
→【棚田真輔『居留外国人による神戸スポーツ草創史』】
1902(明治35)年01月23〜27日:青森歩兵第5連隊の将兵210名、八甲田山に雪中行軍を行い遭難、199人凍死。
1902(明治35)年01月25日:全勝の両大関、梅ケ谷が常陸山を連破
→【時事
1902(明治35)年01月31日:スラビン(豪)対ルシファ(米)の拳闘試合、横浜山手公会堂で挙行。
1902(明治35)年02月--日:「中等学校教授要目」制定。萌芽的な最初の体操要目。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1902(明治35)年03月01日:一高で東寮寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」発表。
1902(明治35)年03月16日:野球が国技、職業野球も盛ん。「時事」に在米の桑谷定逸氏から報告。
→【時事
1902(明治35)年03月27日:横浜市山手公会堂で、ボクサースラブィンの指導のもとに、外人ら数名が拳闘会を開催。
→【時事
1902(明治35)年03月--日:子爵秋元興朝ら、日下会(ひのしたかい)を結成し、相撲道の向上を図る。
1902(明治35)年04月06日:社団法人日本体育会、第一回総会開く。正会員一万五千人。
→【時事
1902(明治35)年05月18日:一高野球チーム、米艦乗組員との野球対抗戦を実施し、34対1と大勝。
→【時事  →【時事
1902(明治35)年05月24日:神戸ゴルフ倶楽部開場式。
1902(明治35)年05月25日:自転車競走会、日本自転車奨励会による第二回自転車競争会が横浜で開催。
→【時事
1902(明治35)年06月--日:英国より帰国の東京師範学校教授坪井玄道、卓球(ピンポン用具)を紹介。
→【木下秀明『スポーツの近代日本史』】
1902(明治35)年08月--日:日本体育会、上野、浅草、芝、坂本、深川の5市内公園に双輪、回転鎧、鞦韆、固定円木、鉄棒など設置。
1902(明治35)年08月21日:静岡県磐田郡在住の83歳の老婆、多田ミナ、娘と共に富士登頂に成功、話題に。
→【時事
1902(明治35)年08月26日:貴族院議員大原重朝伯校長の自転車学校設立。乗り方・修理方など教授、と時事が報ず。
→【時事
1902(明治35)年09月13日:京都吉田町の三高で校内にコレラ患者発生、雇い人33歳が死亡で予防消毒に大騒動。
→【大阪毎日
1902(明治35)年10月01日:私立初等軍事自転車学校設立。(1904年1.11に廃校)
1902(明治35)年10月01日:宮崎滔天、新体浪花節(桃中軒)を組織、錦輝館で雲右衛門ら興行。
1902(明治35)年10月06日:横浜にペスト患者発生。
1902(明治35)年10月09日:万朝報に連載中の「椿姫」が、風俗壊乱のかどで掲載禁止となる。
1902(明治35)年10月11日:ペスト予防のための裸足外出禁止の区域を東京市外へも拡大、と「日本」が報ず。
→【日本
1902(明治35)年10月30日:横浜のペスト発生地域の家屋を12戸焼き払う。
1902(明治35)年10月--日:秋田県立図書館、僻地の住民啓発のため、巡回文庫を県内要地に設置。
1902(明治35)年10月--日:慶応義塾大学に器械体操部結成。
1902(明治35)年11月02日:連休利用の紅葉見物客のために、新橋=京都間に初めて回遊列車を運転。
1902(明治35)年11月14日:東京帝国大学の運動会で法科学生藤井実、100m競走に優勝。記録10秒24。
1902(明治35)年12月24日:東京にペスト患者発生。
1902(明治35)年--月--日:この年宮田製作所、新型アサヒ号自転車を発売。この頃より自転車普及。
1902(明治35)年--月--日:児島烏水らが、はじめて槍ヶ岳登頂。
→【木下秀明『スポーツの近代日本史』】
1902(明治35)年--月--日:高島平三郎『身体修養論』中で「人格修養の体育」に論及  
→【木村吉次『日本近代体育思想の形成』】
1902(明治35)年--月--日:米国帰国後の川瀬元九郎、『瑞典式教育的体操法』の緒言でスウェーデン体操を積極的に紹介。
→【大場一義「体育と遊戯の奨励」】
1903(明治36)年01月12日:日本体育会体操学校に女子部設置。
1903(明治36)年01月28日:女子体育の振興を企図し、東京女子校等師範学校に国語体操専修科設置。
1903(明治36)年01月----:大阪生命保険会社、懸賞化粧まわしを1月場所の優勝力士に寄贈。
1903(明治36)年03月01日:第五回内国勧業博覧会が大阪で開催。7月31日閉会までに観覧人530余万人。
1903(明治36)年03月06日:東京府下連合野球大会恒例の紅白試合を開催。各校1名の選手と一高や大学の選手の混成。
【読売
1903(明治36)年03月28日:札幌麦酒会社、隅田川吾妻橋東岸に、ビアガーデンを開く。
1903(明治36)年05月14日:日本基督教婦人矯風会の職業婦人宿舎(1893年設立)を慈愛館と命名。
1903(明治36)年05月15日:元横綱陣幕、府知事に大関・横綱への年金支給を重ねて請願するを、東京日日が批判。
→【東京日日
1903(明治36)年05月24日:最初のゴルフクラブ「神戸ゴルフ倶楽部」結成。六甲山に9ホールゴルフ場開場。知事を式典に招く。
→【木下秀明『スポーツの近代日本史』】 →【棚田真輔『居留外国人による神戸スポーツ草創史』】
1903(明治36)年05月25日:米国帰りの井口あくり、女子体育に関する日米比較論を「教育広報」や「体育」で展開。
→【木村吉次『日本近代体育思想の形成』】
1903(明治36)年06月01日:日比谷公園、新造完成し開園式挙行。
1903(明治36)年06月10日:ペストが東京本所区内で再発し、市が予防費10万円の支出を決定、と報知が報ず。
→【報知
1903(明治36)年06月13日:二代目梅ケ谷藤太郎、常陸山谷右衛門、横綱を免許。両力士の取組に人気沸騰、明治黄金時代。
1903(明治36)年06月15日:常陸山、梅ケ谷の両力士、来年の1月場所から横綱に、と時事が報ず。
→【時事
1903(明治36)年07月--日:日本基督教青年会同盟(YMCA)成立。
1903(明治36)年07月--日:嘉納治五郎が「琉球教育」で、運動会の目的は全校生徒が集い競争する、ひとつの試験場だと主張。
→【吉見俊哉「運動会の思想」】
1903(明治36)年09月30日:祇園の芸妓の加藤ゆきが、アメリカの富豪G.モルガンに10万円で身受けされる。翌年結婚し渡米。話題に。
1903(明治36)年10月01日:浅草の電気館会場。映画常設館の初め。
1903(明治36)年10月01日:改築開店の東京の白木屋、木馬、シーソーなど新式玩具を備えた遊戯室設置。
1903(明治36)年11月01日:吉田司家で常陸山、梅ケ谷の両大関に横綱の免状授与式あり。
→【毎日
1903(明治36)年11月21日:第一回早慶対抗野球試合、三田綱町の慶応グランドで挙行。第一回は慶応の勝ち。
→【時事】 →【和歌森太郎「相撲か野球か」】
1903(明治36)年11月--日:クーベルタン男爵が雑誌「中学世界」(博文館)で、わが国で初めて紹介。
→【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1903(明治36)年12月09日:慶応義塾評議員会で三田綱町グラウンド設立原案可決。
→【大和球士「真説日本野球史(明治編)」】
1903(明治36)年--月--日:井口あくり、英国より帰国してスウェーデン体操を紹介。1905年頃から盛んに。
1903(明治36)年--月--日:講道館六段、警視庁柔道師範山下義韶、四年間の柔道指導のため渡米。
→【木下秀明『スポーツの近代日本史』】
1903(明治36)年--月--日:最初の国定修身教科書(小学校)が出版され、それに伴い近代的・市民的身体観が普遍化される。
→【木村吉次『日本近代体育思想の形成』】
1904(明治37)年01月09日:文部省、学生が徴兵猶予を利用する徴兵忌避に対し厳重警告[訓]
1904(明治37)年01月23日:常陸山、新しい化粧回しで土俵入り。
→【都】
1904(明治37)年02月01日:日比谷公園内に洋風喫茶店松本楼開店。
1904(明治37)年02月01日:佐世保市の裏手烏帽子嶽で連合艦隊の大運動会開催。海軍の士気を鼓舞。
→【国民
1904(明治37)年02月04日:内務省肺結核予防令公布。病院や旅館での患者の室や物品の消毒、公共場所に唾壺設置など。
1904(明治37)年02月06日:東京高等師範学校、初めて横浜外人チームとフットボール戦を行う。9対0で敗退。
→【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1904(明治37)年02月10日:政治・一般、ロシアに宣戦布告。日露戦争。
1904(明治37)年02月11日:黒岩周六、東京かるた会をつくり、常磐木倶楽部で第一回競技会を開催。
1904(明治37)年02月--日:東京高師対横浜外人蹴球試合、9対0で外人チーム勝つ。蹴球試合の初め。
1904(明治37)年02月--日:神奈川県立高女校長新原俊秀、「女学生の学校服改良に関する建議」を久保田文相に提出。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1904(明治37)年05月08日:東京での大祝勝会。市民10万人が参集。提灯行列で狂乱した民衆、死者20人に。
1904(明治37)年05月15日:アフリカ探検家スタンレー死去、と「国民」が海外情報を報ず。
→【国民
1904(明治37)年05月31日:相撲常設館の建設設計進む。目下敷地選定中と「国民」が報ず。
→【国民】
1904(明治37)年06月01日:一高対早稲田の野球戦、早稲田が9A対6で一高に勝つ。
1904(明治37)年06月02日:一高対慶応の野球戦、慶応が11対10で一高に辛勝。早慶に連日敗れ、一高時代去る。
→【時事 →【大和球士『真説日本野球史(明治編)』】
1904(明治37)年06月11日:37年五月場所は常陸山の休場で不人気、大損、と「時事」が報ず。
→【時事】
1904(明治37)年06月17日:37年五月場所の増給力士を「都」が報ず。
【都
1904(明治37)年07月01日:最初の専売煙草。敷島8銭、大和7銭、朝日6銭(口付20本入)、チェリー6銭(両切10本入)など。
1904(明治37)年07月11日:早稲田や慶応との試合を練習と言うは、常勝一高野球部の負け惜しみ。「日本」が批判。
→【日本
1904(明治37)年08月13日:下流の賤技とみなされることを懸念し、大相撲の渡米許可下りずと、時事が報ず。
→【時事】
1904(明治37)年10月21日:体操遊戯取調委員会が設立され、第一回会合を開催。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1904(明治37)年10月--日:20周年を迎え東京専門学校に早稲田大学野球部発足。
→【大和球士『真説日本野球史(明治編)』】
1904(明治37)年10月--日:大阪オールドボーイズ庭球倶楽部設立。
1904(明治37)年10月--日:普通体操実施や実験遊戯と称する教育遊戯の流行への功罪が問われる中、体操遊戯取調委員会設置。
→【大場一義「体育と遊戯の奨励」】
1904(明治37)年11月18日:神奈川県立高等女学校長新原俊秀「女学生の学生服改良に関する建議」を久保田文相へ提出。
1904(明治37)年11月20日:飯能高等小学校で運動会と遠足が分離。遠足運動会ではない校庭での秋季運動会を開催。
→【山本信良・今野敏彦「明治期学校行事の考察、近代教育の天皇制イデオロギー」】
1904(明治37)年11月27日:神戸レガッタ・アスレチッククラブ、宝塚に至る20マイルコースで徒歩競争を実施。
→【棚田真輔『居留外国人による神戸スポーツ草創史』】
1904(明治37)年12月07日:山田式気球実践で活躍と、工兵少佐河野長敏、軍用軽気球について「時事」紙上で語る。
→【時事
1904(明治37)年12月11日:嘉納治五郎賛助のもとで、小野寛次郎のサンダウ体育法流行。(新聞)
1904(明治37)年12月19日:日本女子体育大学で体育会設置。テニス、バスケット、ゴルフ等に取り組むと「日本」が報ず。
→【日本
1904(明治37)年12月23日:ロンドンのゴルフ誌(ゴルフ・イラストライテッド)に六甲山上ゴルフ場の記事掲載。
→【棚田真輔『居留外国人による神戸スポーツ草創史』】
1905(明治38)年02月05日:相撲の立行司木村瀬平が急死。69歳。
→【読売】
1905(明治38)年02月27日:早稲田大学野球部選手の渡米決定、と朝日が報ず。
→【朝日】 →【和歌森太郎「相撲か野球か」】
1905(明治38)年02月30日:体操遊戯取調委員会、37回の審議を経て「報告書」を提出。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1905(明治38)年02月--日:第21議会衆議院で、星野仙蔵らが剣道と柔道を正科にと建議。審議の末96対101で否決。
→【木村吉次『日本近代体育思想の形成』】 →【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1905(明治38)年03月12日:ペスト予防の鼠買い上げ金、昨年3月〜今年2月の一年間で4万円を突破、と「国民」報ず。
→【国民
1905(明治38)年03月21日:落語の人気回復のために、三遊派と柳派らが落語研究会を結成、日本橋常磐木倶楽部で第一回口演。
1905(明治38)年03月29日:陸軍、脚気増加に対処し、米麦7対3の混食奨励を訓令。
1905(明治38)年04月03日:日本花柳病予防協会設立。性病に関する啓蒙・予防・治療運動が開始される。
1905(明治38)年04月04日:早大野球部選手団13人米国に向け横浜出航。(26戦7勝。野球チーム海外遠征の初め。6.29.帰国)
→【時事 →【木下秀明『スポーツの近代日本史』】 →【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1905(明治38)年04月06日:大阪力士若島に横綱免許状
→【大阪朝日
1905(明治38)年04月25日:宮田暢、「工場法と体育」(「体育」4〜6月号)で「工場工業は労働者をして非体育的にする」と論ず。
→【木村吉次『日本近代体育思想の形成』】
1905(明治38)年05月01日:平民社で茶話会を開く。最初のメーデー集会。
1905(明治38)年05月19日:大阪協会が難波土橋西詰に新設の相撲常設館、起工式を挙行。
→【大阪朝日】
1905(明治38)年05月19日:慶応義塾体育会蹴球部の学生が日比谷公園でラグビーを披露。
→【時事
1905(明治38)年05月25日:相撲協会が協議し、回向院大相撲の触れ太鼓が廃止に。
→【東京朝日】
1905(明治38)年06月02日:品川陣屋横町の江見水蔭邸で文士相撲が再興。近く相撲大会を開催と東京朝日が報ず。
→【東京朝日】
1905(明治38)年06月08日:早稲田大学がスタンホ−ド大学と渡米第一戦。試合の模様など、朝日が報ず。
→【朝日】
1905(明治38)年06月20日:「中学世界」に竹久夢二の投稿挿絵「筒井筒」掲載。夢二署名画の初め。憧憬的美人画に人気。
1905(明治38)年06月21日:渡米記「野球漫評」で日米の野球を論じる。朝日がこれを掲載。
→【朝日】
1905(明治38)年06月28日:早稲田大学野球部、アメリカで転戦。「国民」で報ず。
→【国民
1905(明治38)年06月29日:早稲田の野球遣米使節の一行が帰朝。対戦中に日露戦争勝利の報もあり、選手の活躍評判に。
→【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1905(明治38)年07月04日:硬式のローンテニスが日本の新聞で初めて報道。神戸外人居留地の外人のテニス。
→【鳴海正泰『テニス明治誌』】
1905(明治38)年07月16日:自転車は女学生には普及せず、と「都」が報ず。
【都
1905(明治38)年07月29日:京浜間数名が発起人となり、社団法人日本競馬クラブ創設を計画、と「国民」が報ず。
→【国民
1905(明治38)年08月14日:クロール泳法、濠州よりアメリカへ渡る、と「時事」が報ず。
→【時事
1905(明治38)年08月20日:「大毎」主催の競泳大会に杉村陽太郎優勝。大阪湾10マイル泳、時間6時間8分。外人らも参加。
→【大阪毎日  →【棚田真輔『居留外国人による神戸スポーツ草創史』】
1905(明治38)年09月09日:KGC(Kobe Golf Club)主催、神戸六甲山上コースで日本最初の婦人ゴルフ競技開催。マッケー夫人優勝。
→【棚田真輔『居留外国人による神戸スポーツ草創史』】
1905(明治38)年09月24日:神戸六甲山上コースで、日本最初のゴルフ・ロング・ドライビング競技開催。
1905(明治38)年10月14日:小島鳥水ら、日本山岳会を結成。
1905(明治38)年10月17日:日本基督教女子青年会(YWCA)創立。会長津田梅子。
1905(明治38)年10月28日:野球早慶戦、慶応が早稲田を完封。5対0。
→【日本】
1905(明治38)年10月29日:六甲山上コースで、日本最初のゴルフ・キャディー競技開催。
1905(明治38)年10月--日:訓令「戦後教育上ニ関シ当局者留意方」で日露戦争後の体育振興の必要性を強調。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1905(明治38)年11月12日:早慶第三戦、日本初のダブルアンパイア(球審と塁審)による試合が実現。
→【大和球士『真説日本野球史(明治編)』】
1905(明治38)年11月--日:「体操遊戯取調報告」でスウェーデン式体操の学校体操への導入が決定される。
→【木村吉次『日本近代体育思想の形成』】
1905(明治38)年--月--日:デハビランド氏指導で「まり蹴り」から「サッカー」へ。わが国へのサッカー伝来。
→【木下秀明『スポーツの近代日本史』】
1906(明治39)年01月19日:慶応義塾、横浜公園で在留外人とホッケーの対外試合を実施。
→【時事
1906(明治39)年01月21日:晴天続き、相撲1月場所。十日間連日興行は初めて、と報知が報ず。
→【報知】
1906(明治39)年01月--日:体操遊戯取調委員会の報告書が官報で公示。スウェーデン式体操の学校への採用へ。
→【大場一義「体育と遊戯の奨励」】
1906(明治39)年01月--日:対戦相手に一高を選択 一高三高戦実現前の舞台裏。三高が挑戦状を送付。
→【大和球士『真説日本野球史(明治編)』】
1906(明治39)年02月13日:小鳥烏水等有志が山岳会を設立。機関誌「山岳」刊行を計画中、と読売が報ず。
→【読売】
1906(明治39)年03月--日:第13議会(衆議院)において、武道の正課採用を要求する建議提案。委員附託となる。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1906(明治39)年04月05日:後藤新平第一着。この台湾での自転車競走優勝は八百長、と「万朝報」が報ず。
→【万朝報
1906(明治39)年04月05日:小島鳥水らの山岳会が機関紙「山岳」を創刊。
1906(明治39)年04月06日:一高対三高の野球試合(最初の定期戦)に観衆一万五千人。一高5-3三高。
→【国民 →【大和球士『真説日本野球史(明治編)』】
1906(明治39)年04月28日:「後楽園余興大相撲実写」、神戸大黒座で封切。
1906(明治39)年04月--日:宇野澤太郎が「千葉教育雑誌」で、児童の競争意識を増幅し勝敗を重視する弊風を批判。
→【吉見俊哉「運動会の思想」】
1906(明治39)年05月08日:上野不忍池畔で合同競馬会を計画、と東京日日が報ず。
→【東京朝日
1906(明治39)年05月09日:閑院宮殿下を総裁に東京競馬協会設立を計画、と「国民」報ず。
→【国民
1906(明治39)年05月18日:不忍池畔の競馬会には浅草芸妓も出場、と「国民」が前景気を煽る。
→【国民
1906(明治39)年06月28日:女子教育家千葉秀胤、女性富士登山計画は三日の行程が妥当と指摘。紙上で話題に。
→【日本
1906(明治39)年08月01日:「実写・相馬の馬追」、電気館封切。
1906(明治39)年08月10日:スタンダード活動写真「体育奨励大相撲取組」など、錦輝館封切。
1906(明治39)年08月26日:富士山八合目に「富士山郵便局」を開設。海抜1万尺。
→【東京日日
1906(明治39)年09月19日:日英商会活動写真「高等女学校生運動会」など。歌舞伎座封切。
1906(明治39)年10月07日:浅草の観音さまの十夜念仏踊りを実施、と「都」で予告。
【都
1906(明治39)年10月20日:文部省、陸軍の書簡に対し、学校体育での体操を兵式体操のみにすることに反対と回答。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1906(明治39)年10月30日:愛知一中がKRACを訪ね、クリケットクラブ(Kobe Cricket Club)と野球対戦。11対0と大勝。
→【棚田真輔『居留外国人による神戸スポーツ草創史』】
1906(明治39)年11月04日:慶應義塾と東京府師範学校、初の器械体操の連合競技会を挙行。鉄棒、柵、横木、木馬。
→【時事
1906(明治39)年11月10日:帝国大学で恒例の運動会を開催。棒高跳びに藤井実が3m90を跳び、世界新記録と報道。
→【時事  →【朝日】
1906(明治39)年11月10日:早慶対抗野球試合で応援団問題起こり、第三戦は中止。無期延期に。
→【時事】 →【大和球士『真説日本野球史(明治編)』】
1906(明治39)年11月16日:早慶戦中止は応援団衝突の恐れから、と「時事」が詳細に報ず。
→【時事
1906(明治39)年11月23日:ダブリン大学選手で宣教師として来日のグレーの紹介で、慶應義塾にホッキークラブ結成。
1906(明治39)年11月30日:改築中の内務省伝染病研究所、東京芝白金台に完成。
→【東京朝日
1906(明治39)年ll月30日:日本レースクラブゴルフ協会(NRCGA)に9ホールのコース。
→【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1906(明治39)年12月10日:競馬協会の設立と監督に関する通達(閣令第10号)
→【官報】
1906(明治39)年--月--日:アテネで開催の近代オリンピック10周年記念特別大会に、日本招待されるも放置、参加実現せず。
→【木下秀明『スポーツの近代日本史』】
1906(明治39)年--月--日:英スポーツ誌(Batminton Magazine)の6月号に、六甲山上ゴルフ場の紹介記事掲載。
→【棚田真輔『居留外国人による神戸スポーツ草創史』】
1907(明治40)年01月10日:南商会、諏訪湖に氷滑場を開場。
→【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1907(明治40)年01月10日:汽車賃割引で諏訪湖のスケートを、と時事で報ず。東京=下諏訪往復運賃2等5円,3等3円。
→【時事
1907(明治40)年01月12日:諏訪湖でのスケート遊び体験。天晴れ英大使館員の曲芸滑走。「朝日」で報ず。
→【朝日】
1907(明治40)年01月14日:スケート滑りの初めは北海道、とスケートの由来を「朝日」が報ず。
→【朝日】
1907(明治40)年01月17日:諏訪湖でのスケート遊び、日曜は生徒らで大繁昌と、「朝日」が報ず。
→【朝日】
1907(明治40)年01月19日:横浜アマチュアクラブ運動場で外人選手とのホツキ−競技試合あり。ホッケー試合の初め。
→【朝日】
1907(明治40)年01月20日:東京相撲協会の約700名の力士、一場所で米を350俵消費、と「時事」が報ず。
→【時事
1907(明治40)年01月21日:諏訪湖の氷遊場、東洋随一を目指し設備を整えること急務、と「朝日」が報ず。
→【朝日】
1907(明治40)年01月26日:東京勧業博覧会会場予定地内で、室内温水プール(7.2m、14.5m)の棟上げ式挙行。
1907(明治40)年01月29日:竹久夢二、日刊「兵民新聞」に婦人スケッチを寄稿。
1907(明治40)年02月03日:佐藤順一、雪中に富士山登頂に成功。将来山巓に観測所を、と「東京朝日」報ず。
→【東京朝日
1907(明治40)年02月19日:警視庁、自動車取締規則制定。時速12.7Km以下と規定。
1907(明治40)年03月02日:ピンポン連合会創立。
1907(明治40)年03月15日:日本競馬会(目黒)設立。京都競馬会(京都)設立。
1907(明治40)年03月20日:関西競馬クラブ(鳴尾)設立。
1907(明治40)年06月19日:鉄亜鈴で有名な体育家サンドウの健康法(体操療法)が流行、と「国民」が報ず。
→【国民
1907(明治40)年07月02日:野球、早慶戦の代わりにリーグ結成の動き、と「東京朝日」が報ず。
→【東京朝日】
1907(明治40)年07月06日:女性グループ「この花会」が第二回目の富士登山を計画、と「日本」が報ず。
→【日本
1907(明治40)年07月--日:文部省、全国中学校長会議に「競技運動ノ利害及ビ其弊害ヲ防止スル方法如何」を諮問。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1907(明治40)年08月04日:横浜と神戸の居留地間でインターポート競技会(交歓ゴルフ競技会)が六甲コースで開始
→【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1907(明治40)年08月07日:相撲の常陸山、洋服姿で訪米の途へ。
→【朝日  →【読売
1907(明治40)年08月11日:国産自動車完成を記念し、乗用車10台、第一号所有者栖川宮家より多摩川へ遠乗会を開催。
1907(明治40)年08月21日:女学生の徒歩旅行が流行、と「東京日日」が報ず。
→【東京日日
1907(明治40)年08月29日:鳴尾速歩競馬会(鳴尾)設立。東京ジョッキークラブ設立。
1907(明治40)年09月06日:陸軍省と文部省との第一回共同調査会を開催。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1907(明治40)年10月02日:横浜アマチュアクラブのマクチュスニーの働きかけでリーグ戦結成か、と「時事」報ず。
→【時事】
1907(明治40)年10月02日:死体を埋めた回向院内に相撲常設館(国技館)建設。境内に無縁塚を建立と「国民」報ず。
→【国民】
1907(明治40)年10月20日:第一回アマチュア・ゴルフ選手権を六甲山上にある神戸ゴルフクラブのコースで実施。
1907(明治40)年10月24日:早稲田大学で大学創立25年記念ボートレース(第四回競漕会)開催。
→【国民
1907(明治40)年10月31日:自転車の両横綱(横浜小宮山長蔵、京都砂田松次郎)いよいよ決戦。「万朝報」報ず。
→【万朝報
1907(明治40)年10月31日:外国野球団(ハワイ・セントルイス)来日、綱町グラウンドで慶応と対戦。初めて野球入場料徴収。
→【渡辺融「武道と洋式スポーツの共存」】 →【大和球士『真説日本野球史(明治編)』】
→【功力泰雄「明治野球史」】
1907(明治40)年11月08日:ハワイの野球チームが来日し早慶と連戦、と「東京朝日」が報ず。
→【東京朝日】
1907(明治40)年11月12日:常陸山、アメリカの白館(ホワイトハウス)で大統領と会見、相撲披露。
→【朝日
1907(明治40)年11月15日:全国連合自転車大会、自転車競走の一騎討ちは京都砂田松次郎の勝利に。
→【時事
1907(明治40)年11年29日:訪米中の常陸山、米国前代の老力士と対面、と「朝日」が報道。
→【朝日
1907(明治40)年12月28日:たばこの値上げ実施。敷島10銭、朝日8銭、チェリー7銭、ゴールデンバット5銭(10本入)など。
1907(明治40)年--月--日:「岡田式静坐法」の体験記が「実業之日本」誌に連載。
1907(明治40)年--月--日:横浜クリケット・アンド・アスレチッククラブ、横浜商業、学習院、早稲田で京浜野球リーグ結成。
→【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1908(明治41)年01月10日:大相撲41年初場所の新番付発表。
→【東京日日
1908(明治41)年01月16日:ヘンリー・ファーマン、軽気球で88秒間に一キロを飛行。パリの出来事紙上で話題に。
→【時事
1908(明治41)年01月25日:学習院恒例のクロスカントリー(荏原郡弦巻村=目黒村間約6500ヤード)で近衛文麿第三着。
→【時事
1908(明治41)年02月11日:南信日日新聞社主催、諏訪湖一周氷滑大会開催。正式競技会の初め。
1908(明治41)年02月13日:諏訪湖で氷破れ、スケート中の20人が水中に落ちる。
→【時事
1908(明治41)年03月05日:ヘラルド=トリビューン社企画、時事新報社募集の美人写真の1位に末広ヒロ子選出。
1908(明治41)年04月08日:山田猪三郎、三角形の日本式気球を完成。仏独製に勝る、と「国民」で報ず。
→【国民
1908(明治41)年04月----:有島四郎助、横浜家庭学園を設立。女子感化院の初め。
1908(明治41)年05月16日:天津駐留のドイツ軍により「列国軍人競技会」開催。
→【木下秀明『スポーツの近代日本史』】
1908(明治41)年06月01日:新橋駅構内に、洋装の花売娘(14歳)現れ、評判となる。
1908(明治41)年06月01日:文部省、片仮名信号法を小・中・実業学校体操科中で教授するよう各地方庁、高等師範学校へ通牒。
1908(明治41)年06月29日:大阪鳴尾競馬場で636円の大穴、と「時事」が報じ話題に。
→【時事
1908(明治41)年06月29日:慶応義塾野球部、招待を受けてハワイへの遠征に出発。「朝日」招待の名誉を強調。
→【朝日】
1908(明治41)年06月----:丸の内濠端の蛍繁殖、夜更けまで蛍狩りで賑わう。
1908(明治41)年07月11日:昨今夜の日比谷公園堕落男女の野合場と化す。毎夜密行巡査十数人醜行取締に出動。読売報ず。
1908(明治41)年07月26日:大阪毎日新聞社。第一回関西中等学校庭球大会を浜寺で開催。岡崎中学が優勝。。
1908(明治41)年08月23日:慶応義塾野球部のハワイ遠征。慶軍最終戦に勝利。野球大会での成績は第二位に。
→【朝日】
1908(明治41)年09月06日:早稲田大学の招きで、米国ワシントン大学の選手83名東京に到着。
→【朝日】
1908(明治41)年09月24日:農商務省、狩猟法施行規則改正公布。駒鳥、目白など59の鳥類、捕獲禁止。10月01日施行。
1908(明治41)年09月----:橋戸頑鉄、雑誌「冒険世界」に第四回オリンピック大会記事を通信。スポーツマンによる最初の記事。
→【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1908(明治41)年10月03日:未来の乗り物、飛行機の研究を急げ、と「万朝報」紙上で主張あり。
→【万朝報
1908(明治41)年10月05日:内閣より馬政局へ、競馬における馬券発売禁止の通達あり。
→【東京朝日
1908(明治41)年10月16日:司法省監獄局、初めて全国の監獄に受刑者(満期接近の者)の指紋聴取を指示。
1908(明治41)年10月19〜24日:アメリカ太平洋艦隊来日。各艦と早慶が野球試合を開催。
1908(明治41)年11月16日:内閣、競馬規定公布。競馬会以外による競馬開催を禁止。
1908(明治41)年11月16日:慶応大学クラブ創設後初めて勝利。対横浜外人ラグビー試合。11対0。
→【朝日】
1908(明治41)年11月16日:政府、馬券廃止後、競馬会の維持を図り新しい競馬規程を発表。
→【時事
1908(明治41)年11月22日:米国プロ野球チーム来日。
→【時事
1908(明治41)年11月22日:リッチ・オール・アメリカン野球チーム来朝し、早大との第一戦に完勝。
→【東京朝日  →【朝日】
1908(明治41)年11月25日:辰野博士設計の相撲常設館(国技館)が鉄骨竣工、と「東京朝日」が報ず。
→【東京朝日
1908(明治41)年11月30日:元16代横綱西ノ海の年寄井筒親方心臓病にて死去。
→【東京朝日
1908(明治41)年12月01日:東京、数寄屋橋際に遊楽座開場。全館椅子席、食堂や休憩室設置。
1908(明治41)年12月--日:救世軍、社会鍋(募金)の救民運動始まる。
1908(明治41)年--月--日:小学生の間に、ポルカダンス流行。
1908(明治41)年--月--日:この頃から「岡田式静坐法」や「二木式複式呼吸法」「道和道丹田呼吸法」などが流行し始める。
1908(明治41)年--月--日:バスケットボール、大森兵蔵によって日本に初めて紹介。
→【木下秀明『スポーツの近代日本史』】
1909(明治42)年01月26日:東京大崎にスケート場。現在氷滑りの会員数44名と「東京日日」で紹介。
→【東京日日
1909(明治42)年01月29日:第2回横浜神戸インターポートゴルフ競技会、英国ゴルフ専門誌で「御門の国のゴルフ」と紹介。
→【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1909(明治42)年01月30日:Kobe Regatta & Athletic Clubと慶応大学との第二回ラグビー定期戦を開始。11対6で慶応敗れる。
→【棚田真輔『居留外国人による神戸スポーツ草創史』】
1909(明治42)年01月--日:時事新報社の美人写真で1位に選出された末広ヒロ子が世界6位となる。
1909(明治42)年02月05日:諏訪湖一周の第一回スケート大会、有志会が連合して準備、と「東京日日」が話題に。
→【東京日日
1909(明治42)年02月11日:諏訪湖一周の第一回スケート大会開催。一等の記録、12町の距離を3分18秒。
→【東京日日
1909(明治42)年02月19日:日本初のマラソン競走(神戸=大阪20哩長距離大競走)、「大毎」が主催と報ず。
→【大阪毎日
1909(明治42)年03月18日:競馬法案に反対の競馬屋が議会を威嚇。競馬騎手18騎が鞭を挙げ国会議事堂へ。
→【万朝報
1909(明治42)年03月21日:大毎主催の神戸=大阪間「マラソン」競走挙行。歓呼の中 岡山の金子選手優勝。居留地外人も参加。
→【大阪毎日 →【棚田真輔『居留外国人による神戸スポーツ草創史』】
1909(明治42)年04月14日:種痘法公布(新生児の種痘を義務化)
1909(明治42)年04月--日:三越呉服店に少年音楽隊設立。
1909(明治42)年04月--日:第四回一高対三高定期戦、審判の判定に不服で試合放棄・中止。
→【大和球士『真説日本野球史(明治編)』】
1909(明治42)年05月17日:柔道拳闘 日米の試合 見物は八百長と絶叫す。「朝日」で話題に。
→【朝日】
1909(明治42)年05月25日:相撲常設館の開館を記念する大相撲5月場所番付が発表。
→【朝東京日
1909(明治42)年05月31日:両国に新築の相撲常設館を国技館と命名。
→【和歌森太郎「相撲か野球か」】
1909(明治42)年06月02日:両国に新築した国技館の開館式を華やかに挙行。
→【時事
1909(明治42)年06月08日:新大関太刀山、常陸山を激戦の末負かす、の一件を「時事」が報ず。
→【時事
1909(明治42)年07月05日:陸軍省、東京府下豊多摩群渋谷町、代々木八幡村に新設の練兵場を代々木練兵場と名付ける[達]
1909(明治42)年07月27日:仏人ブレリオ、飛行機でドーバー海峡横断に成功、と「時事」が報ず。
→【時事
1909(明治42)年07月----:この頃、活動写真の常設館増加し、東京市内だけで70館余、浅草六区、本所、深川に集中。
1909(明治42)年08月01日:米人ライト弟、14分間の飛行で時速42マイルの記録達成、と「時事」が報ず。
→【時事
1909(明治42)年08月22日:田中館愛橘博士らが気球研究会に参加
→【報知
1909(明治42)年09月09日:文部省、学生生徒の飲酒取締強化を指示[訓]。
1909(明治42)年09月20日:野球の早慶戦復活を早大が呼びかけ、と「東京朝日」が報ず。
→【東京朝日
1909(明治42)年09月22日:米ウィスコンシン大学チーム来日、第一戦は慶応が勝つ。3A-2。
→【時事
1909(明治42)年09月28日:東京府北多摩群南秋津に、ライ予防法によるライ療養所全生病院(後の多摩全生園)落成式挙行。
1909(明治42)年09月28日:女子教育家懇話会、良妻賢母教育の立場から、若い婦人の男子に対する心得(べからず)10訓を作成
1909(明治42)年09月28日:「The Kobe Herald」紙で、第3回横浜神戸対抗ゴルフ競技会の上等なプレーなど紹介。
→【山本邦夫、棚田真輔『居留外国人による横浜スポーツ草創史』】
1909(明治42)年10月15日:大阪の天王寺公園、第五回内国勧業博覧会地跡に開園。
1909(明治42)年10月16日:現行普通体操法を改正するため、陸軍の要求で中学校体操法調査委員会を設置。
→【東京朝日
1909(明治42)年10月05日:ライト弟、高度四百五十メートルを飛行、の海外の話題を「東京日日」が報ず。
→【東京日日
1909(明治42)年10月19日:陸軍省と文部省との共同調査会を開催。学校体操統一案へ進展。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1909(明治42)年10月26日:早大の早慶戦復活申し入れを慶応拒否。
→【東京朝日
1909(明治42)年11月12日:柔道師範伊藤徳五郎、ハワイのシアトル劇場での一戦で、米国のチヤンピオン敗り話題に。
→【朝日】
1909(明治42)年12月01日:三越呉服店で、万国玩具博覧会開催。
1909(明治42)年12月09日:陸軍砲兵大尉相原四郎の竹骨複葉式の模造グライダー、初滑空で不忍池にボチャン。
→【報知
1909(明治42)年--月--日:この頃より、陸上競技にスパイク靴の使用一般化。
1909(明治42)年--月--日:島田髷(まげ)を催促髷と呼ぶこと流行。
1909(明治42)年--月--日:札幌農科大学で講師ハンス・コラーが学生にスキ−を紹介。(高田市へのスキー紹介以前。)
→【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1910(明治43)年01月02日:米国訪日観光団、大阪から京都に到着。都・京都両ホテルで芸妓が歓迎の踊り。
→【時事
1910(明治43)年01月06日:巨船クリーブランド号で来日の米国団体観光客650人が入京。
1910(明治43)年01月23日:逗子開成中学生徒12人と小学生1人、七里ヶ浜で遭難溺死。哀悼歌「七里ヶ浜」作られる。
1910(明治43)年01月25日:大森兵蔵の論文「国民体育上より見たる工場法案」が「体育」に掲載。体育の重要性を喚起。
→【木村吉次『日本近代体育思想の形成』】
1910(明治43)年01月26日:相撲は武士道を模範と、八百長相撲に対し、有力力士、八百長禁止の一札を入れ誓約。
→【報知
1910(明治43)年01月----:野中賢三、『文学世界』に小説「南国へ」を投稿。文学作品にスケート登場。
→【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1910(明治43)年02月07日:大阪と東京両協会の不仲、勧誘に応じ大阪相撲力士、東京へ脱走相つぐと東京朝日報ず。
→【東京朝日
1910(明治43)年02月15日:本場所10日間の力士と行司の給料。東京日日で公開。
→【東京日日
1910(明治43)年02月22日:千秋楽を終えて、大阪相撲の大関放駒も東京へ脱走、話題に。
→【東京朝日
1910(明治43)年03月09日:森下辰之助、飛行機凧を発明、皇孫への献上を出願。
1910(明治43)年03月22日:山形県黒川村に伝わる黒川能一行が上京、九段能楽堂で上演。
→【読売
1910(明治43)年04月23日:国技館にて全国盲人大会挙行。針按術研究に努め、盲人をして専業の貫徹を期すと決議。
→【時事
1910(明治43)年05月14日:日英博覧会ロンドンで開催。御木本真珠、安藤七宝、緑茶など好評。Special Japan Number発行。
1910(明治43)年05月31日:東京大相撲の行司、服装を直垂に烏帽子姿に。堅行司3名は地質龍門と東京日日報ず。
→【東京朝日
1910(明治43)年07月05日:アメリカをまねて東京滝野川にカントリークラブを組織。50円拠金で会員に、と読売報ず。
→【読売
1910(明治43)年07月05日:白瀬中尉ら、神田錦町錦輝館で南極探検計画を発表。(演説会)
→【東京朝日
1910(明治43)年07月27日:伝染病予防に、寺社や飲食店での手洗用に手拭の使用を禁止、と東京朝日が報ず。
→【東京朝日
1910(明治43)年07月30日:目黒競馬の馬券密売で、歌舞伎座技芸委員長中村芝翫ら検挙される。
→【国民
1910(明治43)年08月09日:目黒競馬での馬券密売で20余の名士取調べ。拘引せられたる者は9名、と東京日日報ず。
→【東京日日
1910(明治43)年08月22日:政治・一般、韓国併合に関する日韓条約調印。
1910(明治43)年08月27日:自動車総数64を数える中、上流夫人は自動車好き、と自動車夫人5名を話題に「都」報ず。
【都
1910(明治43)年09月06日:目黒競馬馬券密売事件の判決下る。懲役6ケ月罰金3百円(南波登発、54)他。
→【東京朝日
1910(明治43)年09月08日:山田猪三郎、山田式1号飛行船の飛行に成功。大崎から目黒間(東京)。
1910(明治43)年09月11日:白瀬南極探検隊、上陸地点や行軍計画などを決定。東京朝日報ず。
→【東京朝日】
1910(明治43)年09月14日:御船千鶴子の千里眼(透視)評判、実験に東京帝国大学の文科・医科・理科の博士9人が立会う。
1910(明治43)年11月20日:明治大学に野球部誕生。新勢力となるかと「中外商業」が選手など紹介。
→【中外商業  →【大和球士『真説日本野球史(明治編)』】
1910(明治43)年11月29日:白瀬中尉ら南極探検隊28人乗船の開南丸、芝浦を出帆。
【報知
1910(明治43)年12月14日:日野熊蔵大尉、代々木練兵場でグラデー式単葉飛行機で初めて飛行に成功(高度10m、距離60m)。
→【時事
1910(明治43)年12月17日:日野機、飛距離伸ばす。(高度30m、距離150m)
→【時事
1910(明治43)年12月19日:徳川好敏大尉もアンリ=フェルマン式複葉飛行機で飛行成功。本邦空前の飛揚。
→【時事
1910(明治43)年12月20日:外人も含め、東京横浜周辺の愛好者が「日本自動車倶楽部」を設立。会長に大隈伯。
→【時事
1910(明治43)年12月25日:スウェ−デン公使杉村虎一から陸軍省に送付されたスキ−2台の実験、越後高田の師団に要請。
→【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1910(明治43)年--月--日:名古屋松坂屋に少年音楽隊設立。
1910(明治43)年--月--日:医科大学副手石原修、工場と農村の実態検査実施。女工の結核罹病状況について調査。
1910(明治43)年--月--日:フランス大使ゼラールを通じて、わが国へ第五回ストックホルムオリンピック大会への参加を招請。
→【木村毅『日本スポーツ文化史』】
1910(明治43)年--月--日:相撲協会の合理的経営や待遇改善を要求し力士がストライキ
→【和歌森太郎「相撲か野球か」】
1911(明治44)年01月03日:1月場所相撲番付発表。新入幕5名。
→【東京日日
1911(明治44)年01月12日:大相撲春場所開幕前に、幕内力士集まって待遇改善(力士の給金が師匠の所得で不満)を要求。
→【国民
1911(明治44)年01月12日:オーストリアのレルヒ少佐、新潟県高田で高田連隊の陸軍青年将校に、初めて一本杖でスキー指導。
→【新潟  →【木下秀明『スポーツの近代日本史』】
1911(明治44)年01月13日:力士は強硬、檄文を飛ばし徹夜で協議。横綱の仲裁も謝絶、紛争長びく模様と東京日々。
→【東京朝日
1911(明治44)年02月06日:2日目の相撲。鳳対西ノ海の勝負判定が不明朗と問題化。西方が激昂し土俵入りせず。
→【東京朝日
1911(明治44)年02月07日:大相撲三日目の大紛糾の責任をとって検査役総辞職。  
→【東京朝日
1911(明治44)年02月08日:検査役の辞表預り。四日目から大相撲再開と、ふれ太鼓をまわす。
→【国民
1911(明治44)年02月24日:所沢に本邦唯一の大飛行場完成。まだ飛行機も飛ばない中に、と東京朝日が報ず。
→【東京朝日
1911(明治44)年03月01日:太刀山、5月場所より横綱となる。柳橋深川亭でその披露宴を開催。
→【東京日日
1911(明治44)年03月12日:三大米人飛行士が、大阪城東練兵場で飛行機の妙技を披露。
→【大阪朝日
1911(明治44)年03月14日:シカゴ大から招聘の早大渡米チーム、人選でもめる。安部部長辞職と東京朝日が報ず。
→【東京朝日
1911(明治44)年03月--日:カフェ・プランタン、東京・京橋に開店。以後次第にカフェーが増加。
1911(明治44)年04月06日:日、清、朝でペストを防ぐ国際協力(国際防疫)はじまる。船舶の検疫を開始と報道。
→【国民
1911(明治44)年04月06日:未だ横綱の化粧廻しが出来上がらぬ太刀山、借り物で諏訪の興行へ、と東京日日話題に。
→【東京日日
1911(明治44)年04月06日:所沢飛行試験で、徳川大尉と岩本技師が日本初の二人乗り。(飛行時間4分50秒、約3マイル)
→【国民
1911(明治44)年04月06日:ラグビー戦で慶応、三高に大勝。39対0。 
→【時事
1911(明治44)年04月08日:徳川大尉、所沢で30キロを超す大飛行。31分40秒の飛行時間。
→【東京朝日
1911(明治44)年04月09日:吉原遊郭で大火が発生し、全焼家屋6550戸。これをきっかけに廃娼運動が活発化する。
1911(明治44)年04月16日:レルヒ少佐、スキーを利用し富士山の春山登頂に成功。
→【東京朝日
1911(明治44)年07月08日:ロックフェラー医学研究所で、野口英世(35)が梅毒の病原体スピロヘータの純粋培養に成功。
1911(明治44)年07月08日:公娼廃止運動の「郭清会」発会式。
1911(明治44)年07月10日:大日本体育協会(体協)設立。
1911(明治44)年07月16日:第一回模型飛行機大会、大阪中之島公園で開催。
1911(明治44)年07月22日:日本女子大学附属幼稚園主事甲賀藤子、新しい表情的教授法による舞踏遊戯体操を披露。
→【万朝報
1911(明治44)年07月25日:明大対愛知一中の試合で「ドン事件」起こる。軍隊の正午の大砲音に驚きエラー、敗れる。
→【大和球士『真説日本野球史(明治編)』】
1911(明治44)年07月--日:中学校令施行規則改正で、武道が正科体育に加えることが認められる。
→【岸野雄三『近代日本学校体育史(前編)』】
1911(明治44)年07月--日:小川幸太郎が「北海道之教育」で、運動会を平素の児童の運動成績の試験場と主張。
→【吉見俊哉「運動会の思想」】
1911(明治44)年08月20日:関西で初めて、泳速を競う国際競技大会を開催
→【棚田真輔『居留外国人による神戸スポーツ草創史』】
1911(明治44)年08月29日:野球とその害毒に関する22回の連載始まる。野球は巾着切の遊戯との新渡戸校長談、東京朝日が報ず。
→【東京朝日 →【大和球士『真説日本野球史(明治編)』】
1911(明治44)年09月02日:野球の害毒記事(「東京朝日」)に天狗倶楽部が反発、と読売が報ず。
→【読売
1911(明治44)年09月16日:読売新聞社主催、神田美土町代青年会館で野球擁護(支持)の演説会を開催。論争話題に。
→【読売
1911(明治44)年09月17日:東京の早稲田大学運動場で模型飛行機大会を開催。
1911(明治44)年10月08日:戸塚球場で初の早明戦。早大が9対5で勝つ。
→【大和球士『真説日本野球史(明治編)』】
1911(明治44)年10月26日:6月に創立した大阪毎日新聞社の慈善病院、貧民施療を開始。
1911(明治44)年10月28日:東京朝日の連載「野球とその害毒」に対し、野球擁護書籍『野球と学生』が出版。
→【大和球士『真説日本野球史(明治編)』】
1911(明治44)年10月--日:大阪の立川文明堂、玉田玉秀斎口演の講談本(「一休禅師」を袖珍本で発売し好評。「立川文庫」。
1911(明治44)年10月31日:国産奈良原式鳳号、青山練兵場で飛行に成功。
→【国民
1911(明治44)年11月11日:フランスの活動写真「ジゴマ」公開。犯罪場面が評判になる。(大正元年10月10日に禁止)
1911(明治44)年11月25日:加藤時次郎、鈴木梅四郎、実費診察所設立。
1911(明治44)年11月29日:奈良原式三号機の飛行距離は六キロ。
→【中外商業
1911(明治44)年11月--日:第五回近代オリンピックストックホルム大会の予選会開催。三嶋、金栗の二選手を選出。
→【木下秀明『スポーツの近代日本史』】
1911(明治44)年12月19日:早大野球部、慶応非難の決議書を発表。再び彼等と同一運動場に立たざることを決議。
→【万朝報
1911(明治44)年--月--日:京都YMCAが会館を建設。ボーリングアレーや小体育館などのレクリエーション施設設置。
1911(明治44)年--月--日:カフェ=プランタンをはじめとし、カフェ=ライオン、カフェ=バウリスタなど東京に開店。
1911(明治44)年--月--日:片瀬海岸で学習院院長乃木希典がイギリスのボーイスカウトをモデルに、キャンプ活動を実施。
1911(明治44)年--月--日:文部省内に「通俗教育調査委員会」。俗悪読み物の摘発や「幻燈映画及び活動写真フィルム」審査。
1911(明治44)年--月--日:レコード、蓄音機、次第に普及。越後盆踊り、雲右衛門の浪花節、義太夫などのレコード続々発売。
1911(明治44)年--月--日:家族国家観に基づく第二期国定教科書成立。儒教的家族主義を強化させる身体観の強調。
→【木村吉次『日本近代体育思想の形成』】
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