Shinya talk

     

 

2007/11/01(Thu)

一連の誤解の終結

 削除のまま待機となっている中田英寿に関するトークの件だが、中田英寿のマネージメントをやられているTさん、それに今回の中田との対談をセットした編集者と私の3者で話をすり合わせたところ、ほぼ誤解がとけた。

 編集者が中田との中東での対談のセットへ動いていたことは確かなようで、まず私に打診し、次に中田側に打診をするつもりだったらしい。
 ただしここで編集者の勇み足というか、誤解をまねくような言動があった。

 日本にいる中田と会い、対談の話をすると彼は中東に行くのでそこに来てほしい。と言ったと私に電話してきたのである。
 とうぜんその時点で中田もしくは中田側に私の名前が出ていると思うのが自然だ。ところがその時点で編集者は私の名前を出していなかったらしい。

 私は削除したトークにも書いたように、たかが対談で中東まで人を呼ぶというのは礼を失していることなので、というより多少あきれてもいたので返事もしなかった。
 そのうちに時間切れ近くになって編集者の方から電話があり、今回は難しいようなのでまたの機会にということになったのである。

 その一連の過程の中で中田側は最後まで私の名前を聞いていないというのは2者の話をすり合わせたところ確かということがわかった。

 これはあきらかに中田側に落ち度があったのではなく、編集者のセッティングのやりかたに問題があったということだ。Tさんと話したところ中田という人間は誤解をまねくようなところがあるが、そのような失礼を働くような人間ではないので理解してほしいということであった。
 その意味で数時間とは言え、彼の言動を批判するトークをここでアップしたことは彼には申し訳ないと思っている。
 本来なら一連の種を蒔いた編集者が頭を下げねばならないところだが、私が変わってここに謝罪したい。

 また前回の「待機」と今回のトークは、長くトークのラインナップに掲げておく必要のないものと判断するから、削除トークをすでに読んだ人がこのトークを読むであろうと思われる期間のみ据え置いて、その後は削除することにする。

     

 

2007/10/31(Wed)

中田英寿に関するトークの待機

昨日の夜アップした中田英寿に関するトークだが、このブログを見た中田側から、午前0時の投稿で事実が異なるので連絡を取りたいというメールがあった。

書いたことが事実ならお怒りになるのはもっともだが、中田は中東にいたのは確かだが、雑誌を通して対談を申し込んだ事実(あるいは雑誌が対談のお膳立てをした事実)はないというのである。

キツネにつままれたような話である。
かりに中田側の言っていることが正確であるなら、何かがどこかで脚色されたという公算もありうる。

とりあえずブログというものは、こうしている間も夜中であれ次々とアクセスがあり、記事が読まれるわけだから、かりに書いている内容が事実と異なったものであれば中田側に迷惑をかけることになる。

そのようなわけで事実が解明されるまで、前回のブログはいったん速やかに削除し、待機することにする。

                       31日1時30分記

     

 

2007/10/23(Tue)

敵は本能寺にあり (2)

一体あの亀田問題は何だったのかと騒ぎがおさまってキツネにつままれたような感じが否めない。私は昔からのボクシングファンで海老原や原田の時代から数多くの世界戦を見てきたが、確かにあの世界戦は異様だったし、プロレスまがいの反則を見たのもはじめてのことだ。
 だが、たかが一介のスポーツという娯楽だ。
 
 TBSが亀田一家をここまで悪のヒーローに仕立て上げたとしても、対戦相手の内藤選手の口から「国民のため」という言葉が出たとき、妙な違和感があった。国民のために闘い、国民のために勝利した、という言い方は国民である私もその中に含まれるからである。

 そして”国民”はたかが娯楽スポーツのヒール役が負けたが最後、熱狂とも言える怒りをこの一家に集中させた。確かにあの陰湿な陰に隠れての目つぶしは見るに耐えないものだったが、亀田一家もここまで問題が怪物のように肥大化したことにあっけにとられたのではないか。

 私はこの不可思議な現象を見ながら、ここに例の「怒りのシフト」が起こったのだと見ている。

 かつてナチスのヒトラーは第一次大戦以降の不況と大きな負債を背負ってあえぐ国民の怒りを巧妙にユダヤ人への怒りにすり替えながら、一介の小政党をあれよあれよというまに国民的な政党に押し上げ、ファッシズムへの道を歩んだ。

 アメリカの赤狩りもしかり、スターリン、ムソリーニ、あらゆる独裁者はこの国民の怒りを他のものにシフトさせ成功をおさめた。
 ひるがえって亀田問題の直前まで私たちが国民規模で怒りをためていた問題とは何かということは火を見るより明らかだろう。

 年金問題である。
 舛添要一厚生労働大臣は、その国民の怒りを見越して「盗っ人は一人残らず牢屋に入ってもらう」というようないかにもタレント上がりらしい、大衆ウケのよい見栄を切って、半ば国民の怒りの溜飲を下げさせつつあった。問題はチンケな盗みを働いた者にお縄をかけるというような抹消的なことで解決するものではないということは誰の目にも明らかなわけだが、このご時世、国民の怒りの代弁者が必要であったということだろう。

 そこに鬱積した国民の怒りを一手に引き受ける格好のターゲットが現れたというわけだ。あまりにもタイミングがよすぎる。怒りは一機に亀田一家になだれ込んだ。
 たかが大阪の小さな町の零細事業者ではないか。
 年金問題で鬱積した国民の怒りの津波が一点集中したらひとたまりもない。そして立派にお縄にかかり、舛添が名指しした者のようにあたかも身代わりのごとく”国民”の前で謝り、怒りのガスぬきをしたわけだ。

 そして今、どうだ、亀田問題の前に燃え盛っていた年金問題は一体どこに行った。
 他愛ないものだ。
 この問題を解決しなければならない、一国の首相が亀田問題に言及するの図は皮肉である。
 
 振り上げたこぶしの下げどころを失っていた舛添や、年金問題を引き継いだはずの福田首相は亀田一家に救われた感があるからだ。

 本当は批評ではなく、菓子折を持ってお礼参りをしなければならないところだ。
 

     

 

2007/10/17(Wed)

敵は本能寺にアリ

先ほどの亀田家の謝罪記者会見を見て痛々しい思いを禁じえない。
スジが違うだろうと思うのである。

亀田家をヒール役として演出し、
公器でありながら子飼いのタレントの行き過ぎた言動を抑えることなく、
東南アジアあたりからピークを過ぎた当て馬選手を呼んできて勝ち星を積み重ねさせ、
番組では幾らゲンナマを積んでいるのか知らないが、歴代の世界チャンピョンにゴマをすらせ、
まだ世界チャンピヨンに挑戦する力量のない10代の若い選手をけしかけ、せっかくの才能を潰す。
あげくの果てがボクシングという神聖なスポーツを場末の見せ物に変えてしまった。

この一連の虚構に満ちた興業を主催し莫大な利益を上げようとしたのはTBSだろうが。
亀田家はその1被害者とみなすことも出来るのである。

まず謝るべきはこの一連の演出を行ったTBSの担当プロディユーサーである。
そしてさらに一国の首相すら発言するまでに事が大きくなったこの現状ではTBSの社長の説明責任が発生していると言わねばならない。

そういった論調がマスコミの間から出ないというのは不思議である。
同業だからか?
特に他のテレビ局はそういった論調を作りにくい立場にあるだろうが、テレビ以外のメディアでは可能なはずだ。
というより魔女狩りのように亀田憎しの感情が先に立って肝心な本筋に思いが及ばないのかも知れない。
昨今のメディアスクラムの中で熱狂する若いマスコミ人にありがちなことだ。

このブログは多くのマスコミ人が読んでいることがわかっている。
今からでもそういうことを書いてほしい。

     

 

2007/10/16(Tue)

反則に”若さ”がない!

 マイク・タイソンがホリフィールドの耳を衆目の前で堂々と食いちぎった(ホリフィールドがタイソンのパンチを恐れ、打ち合いをせずに終始頭をつけてきたのにキレたタイソンが耳の一部を食いちぎった試合)反則にくらべ(レフリーの見えないところでジクジクと目潰し行為を繰り返した)亀田大毅の反則には”若さがない”よね。

 昨日会った大竹伸朗君の発言には笑ってしまった。

 そう言えば内藤も「若いのになぜこんなに上手いんだ」って言ってたな。

 

     

 

2007/10/15(Mon)

この道はいつか来た道

亀田大毅と戦って一躍時の人となってテレビに引っ張りだこの内藤大助にビルマで亡くなったジャーナリスト長井健司の姿が妙にダブる。

チャンピョンでありながら月収15万という信じられないほどの辛酸をなめていた彼の存在や名前すら私たちは知らなかった。
長井健司も同様だ。
それは彼らの存在や仕事をマスコミがそれまで無視していたということに他ならない。
それがかたや勝利者となり、かたや死者となった暁に、俄然マスコミはよってたかって我が事のように熱狂。

内藤大助のとなりで子供を抱えている奥さんのお顔にそこはかとなく疲れが滲んで見えるのは気のせいかな。

まあこの無節操な総雪崩現象というのが昨今のテレビの真骨頂と言えば言えるわけだが、なんか怖いよね。
このムード。

     

 

2007/10/12(Fri)

愛の賛歌

エディット・ピアフに「愛の賛歌」。

知っている人は知っているが知らない人はぜんぜん知らない。
とくに若い人は多分知らないんじゃないかな。
ピアフの歌は好きだったから、映画のコメント書きに応じた。

ピアフ役のコティヤールの演技が抜群。
当初私は配給会社から送られてきたDVDを12インチのノートパソコンで見た。
小さな画面ながらその演技の迫力が伝わってきて、めったに書かないコメントを書いたわけだ。
ところが昨日、実際に映画館で見ると印象が変わっていた。
大画面の16チャンネルの大音響の中で見ると、その迫力が加算され、少し演技過剰に見えてしまうのだ。
いや演技は相変わらずいい。
だがその激しく熱い人生が今の醒めた時代には妙に浮いて見える。

12インチの音量の小さな世界で見たときは、その激しさが相殺されてころあいになっていたのである。
いい映画には違いないが、映画館の大画面と音ではちょっと若い人には「暑苦しい」と言われそうだ。
今はさまざまなシーンで映画を見ることが出来る時代だが、どのようなメディアで見たかによって、その内容まで異なって見えるというのは小さな発見だった。

     

 

2007/10/11(Thu)

晩節を汚す

 つい最近、あの硬派のジャーナリストでならす鳥越俊太郎が自分の癌にかかった時のドキュメント映像を垂れ流しながらアメリカの生命保険会社「アフラック(American Famirly Life Assurance Company of columbus)」のCMに出ているのを見て度肝を抜かれた。
 彼が癌にかかったのはおそらく2,3年前のことだと思うが彼は癌で死んだ私の兄とほぼ同じ年齢であったことから人ごとながら、がんばって欲しいという思いがあった。
 この彼が手術前にオペレーションルームに運ばれる映像はコマーシャル用に撮られたのかどうかは不明だが、その映像がコマーシャルに転用されるのを見て、癌すら商業主義に売り渡されるその光景を兄の死と重ね合わせながら忸怩(じくじ)たる思いを抱いたのである。
 
 彼がCM出演しているアフラック(AFLAC)と言えば間抜けなアヒルキャラクターで安心感を演出している契約数ナンバーワンをうたう外資系の生命保険会社だ。
 だが内情は金融庁の出した保険金不払い報告命令を受けた国内38社の内、最上位にあたる4位の19億円もの”不払い実績”(4月期の途中経過であり増える可能性大)を”誇る”いかがわしい保険会社なのである。
 私はアフラックと双璧を成す外資系の生命保険会社アリコ(保険金不払い7億3千400万)に関わる人間(日本の保険会社から引き抜かれた中間管理職)にじかに話を聞いたことがあるが、その販売促進会議の模様は異様だと言う。日本のそれのようにお茶のみ話などのウームアップ時間は一切なく、いきなり数字が飛び出し、いかなる人間的な余韻もなく終始数字で終わるというのだ。

 「まるで数字のサイボーグがテーブルを囲んで会議をしているようで最初に出たときは外資とはこういうものかと思いましたよ」

 苦笑いしながらそのように言う彼は確かに給料は上がったが味気ない日々を過ごしているらしい。
 またその外資の保険会社は人間の営業というものを一切しないのが日本の保険会社との大きな違いという。
 あらゆるタレントを起用して絨毯爆撃のようにコマーシャルの投網を打ち、それに引っかかってくる魚(保険加入者)をただ待つのである。したがって会議では精密詳細にその投網と魚の関係や効率の検討がなされる。
 このように顧客をただの数字に換算する外資系というものがいかに日本の経済風土を破壊してきたかということは、例えばたとえ目の前の利益がなくとも長い目で暖かく中小企業を支え、日本の発展の底支えをしてきた長銀が外資系金融機関によって破綻に追いやられたことを見ればわかることだ。
 そして今日の貧富の格差社会や一層の競争社会化を推進したのも元はといえば外資とそのシステムの流入が大いにかかわっていることは私たちは知らねばならない。六本木ヒルズの最上階を借り切り、まさに日本の頂上に君臨し、そこに行くには専用のエレベーターを使わなければならない特別待遇を受けている”最強外資”の異名を持つ投資銀行ゴールドマン・サックスなどはまさにその象徴だろう。

 話を保険会社に戻すならアフラックに限らず国内38社のうち保険金不払いのない社がたった1社(カーディフ生命保険。ただしこれは個人加入保険ではない)というふうに私はもともと生命保険会社というのはおしなべていかがわしいと思っている。金を取っておきながら正常な支払いを履行しないというのはこれは立派な業務上の詐欺である。逮捕者が出ないのがおかしい。 
 そういった、しかも外資(アメリカ)の生命保険会社のCMにイラク取材でアメリカの欺瞞に言及し「イエスの箱舟事件」や「桶川女子大生ストーカー事件」などで果断な反権力的取材をこなしてきたジャーナリストである鳥越がなぜ醜態を曝してまで出て保険加入を勧誘しているのか。
 これは七不思議のひとつである。

                  ●

 私が鳥越の行動を軽率と誹るのは癌にまつわる個人的な思いがあってのみのことではない。また犯罪に近い違反を犯している企業のコマーシャルにジャーナリストが出るという理不尽を思ってのみのことでもない。
 ひょっとすると今の若い人にはこの心情はわからないのではないかと思うが、かつて私たち団塊の世代より上(私は団塊の世代ではなく上だが)の、公権力にたてついた世代というものには企業のコマーシャルに出るようなやからは最低という意識があったのだ。
 私は学生運動に参加したわけではなくただの一匹狼で世界をうろついていただけの話だが、日本に帰ってきてそれなりの注目を浴びると当然のコースのように大枚を積まれてコマーシャル出演の依頼を受けた。だがそこの一線は守るべきだということくらい分かっていた。アサヒドライビールやウイスキー、服飾メーカー、西武デパートなどおそらくこれまで10本の指を数えるくらい断ってきているがバブルのころには不動産会社の年間契約で数千万というのもあったから今では笑える話しである。終わったわけでもなく今でもカメラ関係やプリンター関係の依頼があるが断っている。誰しも金が欲しくないという者はいないと思うし、若い人はそんな自己規制はくだらないと思うかも知れないが、私たちの世代にあってはそれは人が持つべきあたりまえの矜持というものなのである。
 ネットで鳥越と検索をするとあるブログではおそらく若い人であろうが「アフラックのコマーシャルで鳥越俊一郎が癌と戦っていることを知った。やはりすごい人だと思う」というようなうすら寒い寝言を書くような人間がいたりして時代意識の変容に呆然とするのだ。
 言っておくが企業のコマーシャルに出て消費をあおるような行動をよしとするのは日本人くらいのもので、日本以外の国、たとえばアメリカにしろヨーロッパにしろ下種と考えられていることを知っている人は少ない。たまにアメリカの俳優が日本のコマーシャルに出ると、契約時にそのことを決して本国においてはバラさないようにと但し書きがつくくらい彼らはコマーシャルに出ることを恥と考えている。それは私たちの世代も同様である。

 当然、私より4歳年上の鳥越は私たちの世代の意識を十分共有しているはずであり、ましてやジャーナリストである。2,30代なら若気の至りということで許されもしょうが、社会の木鐸となるべき70歳に手が届こうとする人間のやることではない。紙媒体から民放テレビ媒体へとくら替えしたジャーナリストの末路を見る思いがして残念という他はない。










     

 

2007/10/02(Tue)

軍事政権と民主主義の間

ふたたびビルマ問題について。

誤解を恐れずに言えば軍事政権というのは痛し痒しというところがある。

民主主義に程遠く、また海外の情報をシャットアウトしているために、今日のような情報の画一化(アメリカ化)世界の中で、昔ながらの風景や習俗などが生きながらえているという不思議な現象がある。

七十年代に訪れた韓国がそうだった。
当時は日本人が一人でぶらぶらとうろつくというような世界ではなかったから、旅館に入るなり行く先々で秘密警察が部屋にやってきて詳細な取調べを受けなければならなかった。
北のスパイ、もしくは赤軍派の分子ではないかとう疑われるわけである。

インチョンのホテルでは夜中に拷問を受けているようなうめき声が聞こえ、下手をするとああなりかねないとゾッとしたものだ。
テレビなどは終了時に国旗がなびき、軍歌が流れて終わる。

そういった締め付けの厳しい中、風景は夢のように美しかった。
人々のたたずまいもかつての世界というものはこうではなかったかと他国人でありながら郷愁を覚えるほど美しかった。
若者の姿にも頑強なものがあり、今の韓国映画の俳優に見るようなやさやさしい者はいなかった。

それが朴大統領が暗殺され、ノテウ大統領に政権が移ると、民主主義の波が押し寄せる。
ノテウのキャッチフレーズは「普通の人」だった。
この普通という言葉には、人々の心を安心に導くような響きがある。
普通という言葉とともに民主主義が始まったのだ。

だがそれから7年後に当地を訪れた私は唖然とする。
かつてのあの韓国の風景や人々の美しさは失われ、文字通り「普通」になっていたからである。

オリンピックが開催された後の韓国はさらに普通になった。
その普通の産物のひとつがまるでエステサロンから抜け出たような韓国男優ということだろう。
オリンピックというものは世界各国を4年ごとめぐりながらその国独特の文化を平準でつまらないものにしていくという恐ろしいところがある。
いま北京で昔からの下町が強制的に次々と壊されているのはその典型的な例で、こうして見るとオリンピックはまるでローラーで地面を填圧するように未来永劫に世界を平坦にして行くわけだ。


ビルマにしても同じことで現在の軍事政権下では(それを肯定するというわけではなく)「風景」が残っているはずであり、この国に民主化の波が押し寄せると瞬く間にかつての韓国と同じような道を辿るだろう。

一方、ビルマの現在の軍事政権の権力者は民主の困窮を傍目にその生活が奢侈を極めるという報道がなされている。
また奥地の国境地帯の少数民族を迫害し、その文化を破壊しているという情報も伝わる。

アジアの先進国である日本は、ひとりのジャーナリストの死とその遺品にこだわるのも当然だが、それ以上に、そういった少数民族の破壊行為を許さないという立場での圧力をかけるべきだろう。

井の中の蛙という言葉があるが、ビルマはまるで日本で言えば財団法人日本相撲協会のように外の世界との交流のない閉鎖世界である。
私が訪れた時も官憲たちの冷酷な特権意識を持った目は今でも焼きついている。

おそらくジャーナリストが一人凶弾に倒れたことに対する日本人と彼らの意識の温度差は計り知れないものがあるはずである。




     

 

2007/10/01(Mon)

死んだときだけ騒ぐな。生きている時に何をしているかをフォローしろ

もうほとぼり冷め、どこ吹く風である。
ビルマ(ミャンマー)で死んだジャーナリスト長井健司さんのこと。

イラクで死んだ橋田信介さんの場合もそうだが、大メディア、とくに民放テレビはジャーナリストが戦場やデモの場で死んだときだけ、鐘や太鼓の大騒ぎでそれを美談に仕立て上げる。

戦場に行ったカメラマンやジャーナリストが死ぬというのは、あたりまえとは言わないまでも、そういったリスクを覚悟で仕事をしているわけだから運転交通事故と同じようなものであり、ただ訃報を流すだけでよい。

というより運転事故がそうであるように死んだということはそこになんらかの当事者の落ち度というものが往々にして介在しているものであり、むしろ冷静にそのことを検証しなければならない。

そう言う意味では、かつてベトナムで幾多の前線に出て最後まで死ななかった岡村昭彦のような者を褒め称えるべきであり、「ライカでグッドバイ」の沢田教一のように、グッドバイしてはならない。その意味でキャパも同様。死んだカメラマンやジャーナリストを賛美するという風潮は情緒先行の日本人の悪い癖である。


さらに苦々しいのは、大メディアはジャーナリストが死んだときにだけまるで食い物のように大々的に番組作りをし、彼らにとってふだんこういった地道な苦労をしている者の仕事のプライオリティというのは無きに等しいことだ。それが証拠に死んでからはじめて長井健司さんや橋田信介さんのような人が世の中にいたのかということを皆知るわけだ。

私の近くにもそういった仕事をしているものがいるが、生活は窮々としており、食うや食わずである。死んだら打ち上げ花火のように一躍3日間は有名になるだろう。一銭金にもならないがね(笑)。そういった反面たとえばタモリのようにいい歳をしてただウダウダと若者に擦り寄ってご機嫌を取り、無意味に生きのびているようなやからが莫大な資産を成すわけだから富める者はさらに富み、窮する者はさらに窮するという大貧民の構図。

民放テレビ他は長井健司さんの屍をメシの種にして十分稼いだわけだから、せめてその屍の出演料をご遺族に支払うべきである。

     

 

2007/09/27(Thu)

軽佻なはったり男の麻生、根拠なき権威臭の福田

麻生と福田のどちらがよいかという質問を受ける。

麻生は博多中州のキャバクラの店長。

福田は丸の内にある新日鉄の経理か総務部長。

あたりがふさわしいと答えておいた。


     

 

2007/09/26(Wed)

名月の下の貧相ども

愁謬たる風の中。

切れ込むような中秋の名月をゆっくりとよぎる夜の秋雲を見ている。


雲煙過眼。


目の前を過ぎるこの世すべて雲煙のごとく夢まぼろし。

中秋にはいつもそんな思いが過ぎる。


屍を踏み台に、生臭い政争たけなわのこの一日。



     

 

2007/09/23(Sun)

子供に顔向けできない立派な大人の所業

今は飛行機の中。
携帯小説現象に対する藤原のまなざしというNHKの番組の取材で小倉に向かっている最中。昨日は群馬での実話小説。恋人が中年男にレイプされ自殺したという悲惨な物語。
傷癒されぬ彼との対話。
今回は携帯のノートパソコンを持って出た。

ブログの更新がずっとなされてないので心配するメールがいろいろと寄せられているが、こちらいたって元気。
体に悪いところはひとつもないし、みんなには悪いがストレスがないせいか、疲れというものを知らない。
先日「朝青龍問題(親方と弟子の関係)」にからんで”怒ることのできない今の大人”というテーマでの経済新聞の取材があった。戦争と、そして原爆を落とされた日本という国の特殊事情に暴力否定のトラウマが発生しており、それが身体的行為を否定するというところまで敷衍している、というようなことも述べたが、大人の金属疲労も上げねばなるまい。
やはり疲れていると人に怒るというエネルギーも出なくなる。

その取材の中で最近怒ったことがあるか、と訊かれて、つい3日前のことが頭に浮かぶというのはまだ私が元気な証拠かも知れない。

JRの長い下りのエスカレーターに乗っていると私の数メートル前に乗っていた中年の男(会社の部長クラスのような身なりと風貌)が両手でなにかごそごそやっていたかと思うと、上りと下りのエスカレーターの間の3メートル幅の緩衝地帯にとつぜんモミクシャにしたティッシュのようなものを2つ投げ捨てたのである。
あっけにとられた。
子供でもこんなことやらない。

「こら!なにやっちょるんじゃ!このどアホが!!」

条件反射的に叱咤していた。

こういった場合、若いときに荒くれた生活をしていた素性が出てしまってつい下品な口調になってしまうのだが、下品には下品で対応する以外何がある?
いや、コイツは下品を通り越して下種である。
畜生をコントロールするのに上品な言葉は通用しない。相対化するなら私の罵声の方が100倍も上品なのである。
 
男はとつぜんの背後からの駑馬にぎくりとして振り向く。やはり結構な企業の部長クラスの風貌。男はとつぜん卑屈な笑顔をつくり、頭を下げている。
いわゆる災難をなんとかすり抜けようとしている図だ。
会社員にありがちな卑屈な態度。
こんな野郎を相手にするのも馬鹿馬鹿しい。
一喝して黙した。

思うにこの世代の企業人がこの数年いかにごまかしをやってきたか三菱、不二家、雪印、等等あげつらうに枚挙に暇がない。
あのおやじの立ち居振る舞いと、日替わりでテレビで謝っている腐った管理職が二重映しになる今日この頃である。






     

 

2007/07/29(Sun)

訂正

昨日のトークに関連して、若者の労働環境をマニフェストに盛り込んでいる党が見あたらないと書いたが、複数名の方(党員ではないようだ)から共産党がこの問題を地道に取り上げているというメールが寄せられている。調べたところそれは事実であることが分かったので、ここに訂正しておく。

     

 

2007/07/28(Sat)

奴隷制度のような若者の労働環境に関与する1票

 月末の締め切りが重なって忙しいが投票日を前に書いておかなくてはならないことがある。
 各党が年金問題を照準にしていることは当然のことだが、なぜか若者の労働環境を取り上げているところが見あたらないということだ(私が見落としているのか)。私の周辺にも多くの若者がいるが実際見聞きする今日の若者の労働環境はひどいとしか言いようがない。これはもともと弱者切捨ての小泉政権時代の産物であり、地方を旅しても小泉政権の5年間がいかに地方というものを切り捨ててきたかが手に取るようにわかるわけだ。
 また身体障害者の職場にもこのことは及んでおり、すずめの涙のような労働賃金でさえ押さえ込まれ、働けば働くほど赤字になるのでついに働けなくなり、労働の喜びすら奪われている。
 つい最近のことだが、杉並区の公会堂の喫茶店で働いていた子がある日メールひとつで首になり(体が弱いので時に休むことがあるかもしれないと面接時に話しており、先方はそれを了解していたらしいが)メールひとつというのはあまりにも非人道的なので、乗り込んで話をつけるつもりでいた。だがその子が言うにはまだ職場に復帰する可能性がないわけではないらしいので、とりあえずは鉾を収めているが、メールを読むと実に丁寧な言葉で期待を持たせながら体よく首にしたという感じが濃厚であり、昨今の生真面目な若者の気持ちをもてあそぶのはチョロイということだろう。この件は様子を見て、メールで首を切ることがいかに人を傷つけるものか、その大人にわからせねばならないと思っている。

 これもまた最近の話だが、女優志望でその手の学校を出た子が学校推薦であるプロダクションに入った。3ヶ月で5キロもやせたというのでその理由を聞いてみると、綺麗な子ばかりが集まっているのでみなコンパニオン業のアルバイトをやらせられるそうだ。毎日毎日笑顔をふりまかねばならないような仕事で疲れ果て、それでも一抹の期待を胸に我慢を重ねている。だがこのプロダクションは一方で研修教室を持っており、その研修料という名目で稼いだ金を吸い上げる仕組みになっている。また驚くべきことに働いた賃金の支払いは3ヶ月後。要するに金を人質にとったていのよい派遣業にすぎない。それでもきまじめな若者は騙される。私はこんこんと話し、すぐにでもやめるように言った。もしヤクザなんかが絡んでいてこじれるようなら出て行かねばならないと思っている。

 このようにひとつひとつ若者の労働のことを聞いていて、この野郎!とずるがしこい大人にいちいち話をつけるのは身が持たないほど、昨今の若者の労働環境は退廃の一途をたどっているわけだ。本当にいいように扱われているのである。派遣社員、契約社員というと聞こえはいいがこれは昔で言うならタコ部屋だ。親方がいて人足を振り分け、ピンはねするわけだ。派遣された側の会社は程よいところで首を切ることが合法的に許されており、人間がモノのように使い捨て、使いまわしされている。このようなシステムも小泉政権の置きみあげであり、この政権がパフォーマンスの影に隠れ、いかに弱者をないがしろにしていきたか、今になってその結果が現れているということだろう。
 だいたい、週5日一生懸命に働いて生活できないというような国がどこにあるか。このような若者にとって年金月額の1万数千円というのは大変な額なのである。しかもその納めた金がどぶに捨てられるようになくなる。そこでも若者は生真面目だから、自分が収めないと困る人が出てくるという喧伝の文句を鵜呑みにして無理をするわけだ。

 まあそういうわけで今回の選挙の焦点のひとつは若者の労働環境にすべきだと思っているが、新党日本の有田芳生君あたりはそちらにも目を向けているらしいと聞く。当然のことである。
 思うにあの杉村大蔵とかいう青年は、自分はフリーターだったので若者の気持ちはよくわかるといって先の衆議院選で当選した。本当なら彼のような者が率先してこのうような問題に当たらねばならないわけだが、何もやっていないようだ。やはりただのお馬鹿さんに過ぎなかったということだろう。
 

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