07年6月24日ブログ
小倉千加子さんの講演「これからどうなる女と男:恋愛の才能と結婚の条件」を聴いてきた。
面白くて何箇所かでは笑えた。鋭いところもあって楽しめた。参考になる分析もあった。でも、小倉さんは分析・批評・評論の人であって、社会を変革する熱意をもっていない人なのだなと改めて確認した。
彼女は、社会変革活動家ではない。その意味でのフェミニストではない。
講演の最後に「性教育バッシングをどうおもうか」と聞かれて、「バッシング?別にないです。 ああ、性教育に対してのね。それについては、性教育をする側にも問題がある。反発もわからないではない」との趣旨の発言をした。
性教育や社会運動にはダサいところとかうまく伝え切れていない面もあるだろう。でもそれを仲間として引き受け、そのマイナスを改善するようにかかわるのではない。外側から批評するだけなのだ。運動側の立場を引き受けない人なのだろう。
だからこれまでの著作物でも、現状の分析はするが、変革の方向などは示してこなかった。
彼女の立ち位置は、今の社会を切れ味鋭く面白く批評して、ある程度売れる本を書くというものだろう。いまの性差別社会に対抗する運動論の立場では書いていない。そのようなスタンスでは本も売れないし、メディア界でも重用されないから。
だから彼女はフェミを隠し味にして、煙に巻いている。
政治的にはもちろん保守系ではないだろうが、社民党や共産党や民主党やその他政治勢力にコミットメントするのではなく、政治に距離をおき、明確な変革フェミの立場も示さない。フェミを変革の提起として若い人に伝えないから、フェミ的な分析の一端は伝わるが、それだけだろう。
まあ小倉さんは、いろいろなことがよく見えていて、世間的なセンスのある人で、ストレートなダサさが嫌いだから、皮肉を書く、隠し味で書くというところがある。そこが面白いところだ。当然、いまの社会のおかしさも見えているから、直接的に社会変革を訴えなくても、彼女の著作や発言などを通じて、フェミニスト的な感覚の人が増えることに貢献している面があるとはいえるだろう。彼女のような人がいないよりは、いた方がよいのは明らかだ。
しかし、社会変革を求めるということの背景としての、被差別者への痛みの共感とか、支配側への怒りといった面は弱い人だろう。昔はあったのかもしれないが、いまは、何がいいたいのかわからないようなもので、「フェミでない普通の人」が楽しく読めるようなものを書いている。「結婚の条件」もその類のものだ。
「普通の学生」への共感はあるが、その人たちと同じレベルで生きていて、その人たちに、伝えたいスピリチュアルなものを何とか伝えようという情熱がない人なのだ。
そのスピリチュアルということの意味をここで一からは書かない。
「運動している人たちを仲間と思い、誇りに思う気持ち」とか「自分の〈たましい〉に恥じなく生きる」とか、「ダサくても運動側の立場を選ぶような覚悟」とか「冗談の裏に隠している、まっすぐな思い」とか「暴力加害者がのうのうとのさばっていることへの強い憤り」といったようなものだ。
若い人の現状を頭ごなしに否定するのではないが、その人たちに、伝えたいと思うものをどこまで必死に伝えようとするかというエネルギー。そうしたものを小倉さんのスタンスは取らない。だから若い人は、小倉さんの本や講義ではフェミニストにはならない(だろう。多分)。
私は、フェミニストを増やすようなことが大事な自分の役割だと思っている。そんなことをいうと、少しヘンに思われたり、気持ち悪がられたり、ダサいとか、自分が見えていないとか、その類に見られる。でも、日本のその感覚自体を変えたいという想いが、私のいうスピリチュアルな感覚だ。小倉さんは、もっと“高度”に伝えないとダメだというスタンスだろう。そこが私と小倉さんの違いだ。
例えば、小倉さんは、「結婚の意味は、人生に「家族を養うために働く」といった理由ができることだ。ひとりの人には生きる理由がない」というような面白いことをいう。学生は理想の結婚など手にはいらないことをわかっているとほめる。
でも、それは浅すぎる。
そんなのは僕にはどうでもいい。問題は、そうした表層的なレベルを超えて、自分の生きる質をとらえることだ。
私には生きる理由がある。私の〈つながり〉の感覚(=スピリチュアル感覚)は、結婚とか家族の枠を超える。それを伝えないフェミってなんなのだろうと、私はおもっている。
でもそのスピリチュアルな感覚である〈つながり〉を、いまの日本で伝えたいという切実さがないからこその、小倉さんのスタンスなのだと、今日は強く思った。
実際の運動は例えば次のようなものだ。
「現在の状況の率直で簡明な評価を行い、実際に効果を生みだすことができる戦略を練りあげることは反戦運動の絶対的な責任です。すべての真面目な組織で、特に最も大きな動員力を備えた組織は、受け身の姿勢でいることは許されず、評価をして、決定的な方法で政治的な展望を切り開く行動計画を構築しなければなりません。・・・最重要なこととして、状況を直ちに変えるために何ができるのか、と。」(米国の反戦運動での呼びかけ文より)
こうした〈率直さ・ストレートさ〉を、今の日本社会は嫌うが、私たちには、その率直さを取り戻し、それを説得的に伝えるような工夫・努力が求められているように思う。それは簡単でないから、皮肉るのは簡単だが、実際に運動側にたって、その進展の一翼を引き受けることは簡単ではない。
社会変革運動がめざしていることを、ヘンなことではなく、ステキな、スピリチュアルなことなんだと伝えるような努力が必要なのだ。このひどい世界にあって、少しでもまともなものを増やしていきたいというような〈率直さ〉が、日本社会で復権されることが必要である。
小倉さんは、その運動を進める側に立つのではなく、どこまでも現状の観察者になり、評論家になろうとしている。なぜなのだろうか。人生が暇だから、暇つぶしなのだろうか。ダサいのがいやだからか。じゃあ、ダサくないようにやればいいじゃないのか。
あ、それをやっているのか。
ま、そういうことです。私と小倉さんの違いということでした。
★★★
追記:
小倉さんと対照的なスタンスを取るシン・スゴさんたちの活動の情報
2007年6月24日 愛媛新聞
権力の暴走止める“悪あがき”続けて
松山で辛さん 「教科書裁判を支える会」激励
著書「悪あがきのすすめ」(岩波新書)を20日に出版した在日コリアン3世で人材育成コンサルタントの辛淑玉(しん・すご)さん(48)
を招いた「辛淑玉さんとの集い」が23日、松山市湊町7丁目の市総合
コミュニティセンターであった。
扶桑社版歴史教科書を採択した県教育委員会などを相手にさまざまな
裁判を起こしている「えひめ教科書裁判を支える会」のメンバーらでつ
くる実行委員会が主催。辛さんが支える会を取材し、同書の中で「愛媛
のオヤジパワー」「強大な権力と闘い続ける悪あがき」と紹介したのがきっかけ。
辛さんは教科書検定が沖縄戦で日本軍が住民に集団自決を強制したとの記述を削除させたことなどに触れ、「日本は自国の民の歴史を改ざん
し、自国の民に銃口を向けている」と痛烈に批判。メディアについても
「日本のメディアは権力になってしまっており、弱者の声は聞かない」と訴えた。
その上で「愛媛のオヤジたちは裁判の結果が出ても、教育基本法が変
えられてもあきらめない。いつまでたってもあがき続けることで、権力
の暴走を食い止めている。この活動が日本を変えていく」と支える会の
活動にエールを送った。
教科書裁判の原告代理人を務める生田暉雄弁護士も登壇し「日本には
政府や最高裁の方しか見ることができない裁判官が多い」と指摘。「裁
判では勝てなくても、扶桑社の教科書は広まっておらず、効果はある」
と語った。
集いでは、原告らが出演者となり教科書裁判を風刺した劇もあった。
【写真】「あがき続けることで権力の暴走を食い止めている」と教科書
裁判の意義を語る辛淑玉さん
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