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平山譲のスポーツ百景〜インサイド・ストーリー〜 |
神さまがくれた少年(1) |
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倉田さんと談笑をする井川(左)
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茨城県大洗町にある製茶工場の一角に、5メートル四方ほどもあるブリキの看板を見つけた。そこには宣伝惹句がなく、青空に浮かぶ白い雲と、長椅子に腰掛けた3人の少年の絵が描かれているだけ。看板の中の少年たちは、野球のユニフォームを着て、羨ましげにグラウンドを眺めている。付けている背番号はいずれも2桁と大きく、試合に出られずにいる補欠選手であることがわかる。
「私はこんな子供たちが好きでね」と語るのは、国井屋製茶を営む倉田實さん。「なんとか補欠選手の背中をおしてやりたくて、頑張れよという気持ちから、こんな看板をこしらえてみたんです」。
倉田さんは40代だった昭和40年代初頭、地元に少年野球団を結成。それから30年以上も、大洗野球スポーツ少年団の監督、会長を歴任し、地域の青少年育成に貢献してきた。むろん活動はすべてボランティアで、冒頭の選手激励のために制作したブリキの看板も自費である。
昨年末の12月30日、72歳になった倉田さんがグラウンドに立った。彼が眼鏡の奥から細めた瞳で眺めているのは、大洗野球スポーツ少年団の卒業生で、この年末に実家へ帰省してきた26歳になる一人の青年である。
《お帰りなさい 郷土の誇り》
いつも少年団が練習しているグラウンドには、そんな横断幕が張られていた。
「ケイがプロ野球選手になると聞いて驚いたのなんの」と倉田さんは笑う。「だってプロといえば、自己中心的で勝ち気な、エースで四番というタイプの選手ばかりでしょう、ところがケイは、素直で、優しくて、思いやりがあって、ほんとうにいい子なんです、そんな子がプロでやっていけるのか不安になりましてね」
「ケイ」とは、阪神タイガースのエース、井川慶のことである。
倉田さんにとっての井川は、30余年間の指導者生活で初めて輩出できたプロ野球選手。しかも阪神のエースとして、最多勝、奪三振王、ノーヒットノーラン、沢村賞、MVPと、まばゆいばかりに活躍している。井川はオフに帰郷するたび、自らの後輩である大洗の小中学生相手に野球教室を開いている。この日も自主トレの合間に時間をつくり、少年たちとふれあった。
「左腕で投げる球が速くて、フォームも綺麗でね」と、小学3年生だった井川が少年団に入団してきたときの思い出を、倉田さんは昨日のことように話す。「誰に野球を教わっていたかと訊くと、誰にも教わったことないと答えるんです」。井川は自宅前にあるコンクリートの壁に的当てし、いつのまにか投げ方を覚えたのだという。
「野球未経験の井川選手を、自らが育てたという誇りがおありでしょうね」と私が水を向けると、倉田さんは幾度もかぶりを振った。「私は、なんも威張れるようなことはしていません、ケイは8歳の頃から才能豊かな選手で、技術的に教えたなことなんてなかったし、ケイがいたチームを優勝させてあげることもできなかったんですから」。聞けば井川がいた当時の少年団は、全国大会や県大会はおろか、地域の「ちびっ子杯」の3回戦で敗退。その試合、井川は2番手で登板し、何失点かしたという。「ただ私は」と倉田さんは続ける。「野球って楽しいぞ、頑張ればうまくなれるぞ、そんなあたりまえのことをしゃべっていただけなんです」。
倉田さんの指導法は徹底している。試合で選手を怒鳴りつけるようなことはしない。失敗した選手ではなく、上手に打てたり、守れたり、走れたりできた選手を呼び、思いきり抱きしめてやる。「いいど、いいど」と頭を撫でながら。昨年のちびっ子杯も、決勝戦で2対3と惜敗。そのときも結果を叱るのではなく、選手を集めていいプレーを褒めた。
「なにをしても勝てばいいというような野球は、私は大嫌い」と倉田さん。「人生だって、同じでしょう、勝つことより、大事なこともある、たとえば、うまくいかないときにどうするか、苦しいときも、なんとか自分と戦って、人生って、楽しいぞ、頑張っていれば、いいこともあるぞ、そう思えるかどうか」。
【つづく】
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