(^3^)-☆chu!! ☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・  

2007年 11月 02日

オハヨ!!!(◎・(エ)・◎)ノ―――――――◎)ノ+o+)ノ グシャ
またまたコメ欄が賑わってますなぁ~。。。
昨日の夜は、携帯からここ見ていたので、寄せられたコメントは、全部拝見できたんで良かったですが。。´^ิ ౪ ^ิ)ニヤ
一番最初にコメしてくれた「くだものさん」は、ご自分で消してしまったようで。。(>ω<、)
ベリー☆は前から公言してる通り、削除やアク禁はしない主義なんで
まぁ~人様のブログにコメントするなら、思いつきではなく、最後まで責任持ってほしいですね、
「くだもの」さん ㋵✿㋺✿㋛✿㋗✿㋧✿(◡‿◡*)❤
それで、ブログのコメント機能というのは、自分自身で「くだもの」さんのように、消されてしまうので、今回は、こちらにコピペさせていただきます(・∀・)チゴイネ
☆「花子さん」のコメント☆
あかべことしてアネッテサイトにマルチポスト⇒すみれ購入、電車にそのまま乗せて持ち帰り写真をばらまく⇒マルチポスト加速⇒なぜか2ちゃんねるにアネッテスレが立つ⇒牛うぜえな流れ⇒心優しき方々がblogでやってくれと遠回しに誘導⇒牛blog開始するが依然としてマルチポスト⇒ネチケ勉強しろと諭すが逆効果⇒野外撮影スレを牛が立て世界平和を主張⇒炎上、袋叩き⇒牛blogも炎上⇒さらに回転寿司画像うp⇒騒動が大きくなり、ほぼ全てのアネッテサイトがヲチ対象になってしまって閉鎖を余儀なくされたサイト多数⇒…
⇒牛、殊勝に謝るが3時間後には逆切れを何度も繰り返し⇒図々しくもひな祭りを牛だけ楽しみ大ヒンシュク⇒アネッテ友全員に絶縁され⇒牛楽天blogを閉鎖⇒すぐ復帰⇒ヲチ復活⇒牛に反省の色無し⇒他のブログ叩きや暴言の吐き貯めサイト<いまここ

他にもみれを破損させ
他blogでは迷惑発言、日常の非常識行動と発言…あげていったらきりがないよ

復帰できてないサイトも沢山あるし、この人が原因で沢山の人が不愉快な思いをしてるんだよ
何がリサーチしろだ?
こっちは始めから事の始終を全部見てるんですけど。
面と向かって同じ事言えるかだと?
言えるに決まってるだろ
あんたこそ度胸なくて遭遇が怖いんじゃないの?w
自分のやってることに自信があるなら、街頭演説くらいはしてみろよ
味方がどれだけいるかよくわかるんじゃないのw

メタボもなにやってんだよ
こいつからネットと人形取り上げろよ

みつきさん

あかべこがあわよくば 過去の悪さををなかった事にしようと仕向けてる節があったので あ え て みなさんが読めるように鍵はつけなかったんですけど?

みつきさんにはわからなかったんですかね?まああなたにとっては私なんてゴキブリ以下ですから、害虫の日本語は理解できないのかも知れませんね。
反面、あなたはさぞや高等生物なのでしょうね。知的生命体にしてはスルースキルが引くそうですけど。


一度やったことは取り返しがつかないんだよベリーたん
ログも取ってる人たくさんいるし、なのに厚かましくも被害者気取りしたら反感買うのはあたりまえじゃん。泣く位ならこんなことやめたら?


以上が「花子さん」のコメントでした( ◎ Д ◎ )ホヘー


前のブログって(あかべ子日記)楽天じゃなくて、はてなだよ(`・Θ・´)ムッ
そんなことどうでもいいのか。。。o.゚。(・ェ・。`人)。o.゚。


まあ~なんじゃかんじゃ言ってベリー☆のブログに毎日きてくれて
こんなすごいコメも書いてくれて
(o^o^o)あ(o^-^o)り(o^o^o) が(o^O^o)と(o^.^o)う


 「嫌い嫌いも好きのうち」なんて言葉があります。

 私個人としては、「嫌いなものは嫌い」と思うほうですが、でも「嫌い」という感情ってどうして湧き起こるのか掘り下げて考えてみました。

 例えば「好き」という気持ち。これはその人と一緒にいたいとか、その人と一緒にいると楽しいとか、なんだか元気が出てくるとか、一気に、ジワジワと感情の高ぶりに差こそありますが、非常に主観的な感情だと思うのです。

 では、「何だか分らないけれど気になる」というのは「好き」ということなのでしょうか? それとも「嫌い」ということなのでしょうか?

 好きな人のことは確かに気になりますし、離れていても「どうしているかしら?」とか、相手に対してどんどん興味が湧きますから、気になって当然。ですが、逆に、「嫌いでたまらないヤツがいて、相手の行動がイチイチ気になってムカつく」などと、嫌悪感を持っているのに、何故だか分らないけれど相手のことが気になってしまう場合があります。

 そういう私もそうです。

 「あんたなんか嫌いだ」と面と向かって言われたことはありますし、逆に「あの人大嫌い」と思ったこともあります。時には、親しい人に愚痴ってみたり、または逆に友人のそういった愚痴を聞いてみたり。

 「むかしは好きだったけれど、いまは嫌いになった」ということも言われましたが、それってどういう意味なんでしょう? 「むかしは嫌いだったけれど、いまは好き」なんて逆のケースもあるぐらいです。

 相手が変わって嫌いになる場合もありますし、相手は変わらず、自分が変わってしまったことによって嫌いになることもあるでしょう。環境がそうさせてしまうこともあります。そういったものに目を向けさせずにあくまでも主観が全てで「好き嫌い」を判断するのだとしたら、「好き」とか「嫌い」という気持ちは根拠も理由もないで湧き起こるものなのかもしれません。

 子供の頃はそういった自分の気持ちを素直に表現しますが、社会と関わるようになり、人はそれらの素直な気持ちを理性で抑え、「嫌いだ!」と吐き出さなくても済むように対処できるようになります。

 大部分の人は、「なにこの人?」などと嫌悪感を抱いたとき、相手の存在をストレスに感じた段階で距離をとったりして自分を守っていると思います。

 でも、不思議に思いませんか?

 「好きな人」「嫌いな人」だけではなく、「気にもならない人」という人たちが存在しますよね。通りすがりで親しくもなんともない人が何かしていたとしても、「なんかやってるよ」ぐらいしか気にも留めずにそのまま忘れ去られてしまう存在。

 もしくは、顔を合わせるものの、別にその人がどうしたとかこうしたとか関心がないとか。いわゆる「眼中ない人」とでもいいますか。

 「好き」「嫌い」「無関心」というものが存在しているならば、相手が自分が不快になる行動ととったとして、自分の相手にとるべき態度が変わってくるは思いませんか?

 「どうしてあんなことしたの?」と親しい友人に対して本音を聞いてみたり、「あいつ最低!あんなことしてホントにムカつく。大嫌い!」と嫌悪感を抱いてストレス溜めたり、「あー、またやってるよ。関わらないようにしよう」と無関心を装ったり。

 無関心になることに理由はありませんし、好きになるのも理屈ではありませんし、その気持ちを抑え込むことももできません。でも、嫌いになることには、何かしら「理由」みたいなものというよりも、自分の心の中に何かしらの葛藤が渦巻いていると思うんですよね。

 例えば、私は母親が嫌いです。

 理由は詳しくは述べるつもりはありませんが、母のような全てを他人に責任転嫁して、自分は間違ってない、正しい、周りが悪いと自分の殻に閉じこもっているだけではなく、他人の幸せを妬むような、「私はこれだけ大変なんだから」と、相手を傷つけても当然と思っているところが嫌いなのです。

 ただし、この「嫌い」という言葉の裏には、「期待」とか「恐れ」も隠れていることに気がつきました。 「期待」とは、母親がこれまでの自分の行いを客観的に見れるようになったとして、「自分も間違っていたんだ。悪かったんだ」と反省。その後よい方向に変わってくれるならば、私も母と関係を修復したいし母のことを応援したいと思う気持ち。

 「恐れ」とは、私も母親から影響を受けていて、母親のような部分が私の中にもあるのではないか。母親の行動の中にどこか私と似通っている部分があるのではないか。今後、母親との関係でまた自分が傷つくことになるのでないか....。

 要するに、よくも悪くも「自分にとって影響力のある人」が母親であって、彼女が変わることで私も何かしら影響を受けてしまうと思っているのでしょうね。だから、母親のことを「怖い」と思っていたし、嫌悪感を抱いて「嫌い」という表現を全面に出していたのかなぁと。

 正直いまは以前ほど「嫌い」とか思わないです。

 母の人生は母のもの。母が誰かを傷つけて、その報いをあとで受けたとしてもそれは母の責任。母は母の人生を生きているし、私は私の人生を生きている。いまの私には干渉されても変わることのない信念といいますか、ポリシーみたいなものが芽生えつつある。それが母親に否定されようとも変わることはない。

 逆に、「母はそういう人なんだ」と割り切ってしまうことで「嫌い」という感情が薄れて、意地悪な言い方ですが「無関心」に近い状態に変化しつつあります。 「お母さんもお母さんの責任で自分の人生を生きてね。」と。

 という、自分の気持ちの変化から考えると、ときどきあからさまに「アンタのことが嫌いだ!」と、名指しで相手を批判。自分の感情をあらわにしている人を見ると、まるで「自分にとって都合よく動いてくれるなら、自分の望む人間になってくれるならアンタのことは好きになれる」、「自分が影響されそうで怖いんだよ、あんたのことが」と言っているように聞こえてしまうのです。

 ....だからやっぱり「嫌い嫌いも好きのうち」なのかしら???。

 ただし、「変わるのは相手だけではない。自分も変わる。」というのが大事。これを念頭に入れておくと、「あの人嫌い」だからと他人に言われても、その言葉だけで「あの人」を判断することはないですし、自分の目で確かめようとしますから。

 そう思うと、「みんなから好かれる方法」なんて説いている自己啓発本など読む気にもなくなってしまうのですけど。というか、何を持って「相手から好かれている」と自覚できるのか、その辺に突っ込みたいという気持ちが最近強いですね。

 「相性」だけで片付けられてしまうのが「好き嫌い」という感情。それを大々的に多くの人間にアピールする心理というのは、今回はちょっとまだ掘り下げられませんでしたが、どうなんでしょう? 自分の存在意義を自分が確かめたいとか、自分を正当化したいとかいう気持ちが強いのかしら?

 私の場合は、溜まっていた怒りに潰されかけていて、湧き出してくる「怒り」の感情が「嫌い」という感情に化けていたという感じでした。あとは自分に対する甘え、「これだけされていただから相手を嫌って当然」という自分を正当化して周囲から共感を得たかったとか。でも、それらにしがみ付いて自分が変化することを避けていたとも思えます。

 ....いまは、その頃の自分を恥かしく思います。甘ちゃんだったし、そういうことしても自分のためにならなかったと。そして何より、自分で自分が幸せになろうとする階段を踏み外していたんだなぁと。

 自己反省みたいになってしまいましたが、そうやって周囲に訴える、アピールするということには何かしらの理由はあるのだということなのでしょうね。もしかしたら、大事なのは訴えている内容ではなく、「訴えているという行為そのもの」なのかもしれませんね(本人も混乱している場合が多いですから)。

(ある、ブログからの抜粋)(*⌒ヮ⌒*)ゞ ゴメンチャイ


とにかくいまベリー☆が言いたいことは、ワールドワイドに向けて
皆さんに。。☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・

     (^3^)-☆chu!!



(σ・∀・)σ {バイセコゥ~☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆






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