2007年10月31日
「緑色の坂の道」vol.3832
踵について 3.
■ ベルトを買ったときだった。
黒いナイロンのハーフコートがあり、それを羽織らせてもらう。
襟は立っていて、裏に革が張ってある。
英国と独逸、そして伊太利亜が合体したようなデザインなのだが、ま、それが今の欧州の現実かも知れない。
妙齢本格派の店員が、上着を貸してくれた。
これを着てサイズを確認しようということである。
■ とても軽いのでふと値札を見ると、紺のブレザーが10の後半である。
私は少しだけ色のついた眼鏡をしていた。
その日は曇っていたからである。
■ あざとくないですか。
鏡に映る姿を見ると、実にそうなのである。
お客様、背丈おありになるから。
接客のプロとはこうしたもので、非常に危なかったのである。
2007年10月30日
「緑色の坂の道」vol.3828
「緑色の坂の道」vol.3823
ガラスの秋 4.
■ まだ30代半ばの頃、読売新聞社が運営していたパソコン通信、YOMINETで随分と遊んだ。
いや、遊ばせていただいたというのが正味である。
ある時、なんとか君事件といういうものがあり、なんらかの理由で読売関係者が解雇されたとかいう話があった。
ある社がそれを記事にしたのである。
■ 関係者というのは便利な言葉だった。
自転車に乗って配っていてもまたそう呼ばれる。
当時私は、いささか途方に暮れた中年前期を送っていたので、ここぞとばかりに運営陣を批判した。
新聞倫理綱領だったかを引用して、あれこれやったこともある。
■ けっ、屋上でキンタマの陰干ししてやらあ。
とか、運営に対するボードで書いた後、何故かは知らぬがDosベースのPCが壊れアクセスができなくなった。
数日考えた後、事務局に電話する。
えーと、IDがこれこれの北澤ですが。
電話口で大笑いされ、いやあコーイチさん、とりあえず金玉というのは公の場では口にしないで欲しいですねと諭された。
2007年10月22日
「緑色の坂の道」vol.3819
マンハッタンの130 3.
■ 湾岸のパーキングに入る。
長いコンテナの影に、34のGT-Rが停まっていた。
その暫く先にS130のZがいて、アイドルをしている。
色はボンネットが銀の、マンハッタンカラーである。
■ こういう情景は嫌いじゃない。
彼らは獲物を待っているのである。
獲物というのは絶対的な速さではなく、そのカテゴリー内での優劣である。
LならLで。
26ならまたその世界で。
あのRは多分500馬力はあったかも知れない。Lメカチューンの倍だ。
男が独り座っている。
仕上げるに、そうね、結婚式二回分くらいはかかっていたかも知れない。
「緑色の坂の道」vol.3817
マンハッタンの130.
■ 風の強い夜である。
2時の方向に半分の月があった。
スタッフを近場で降ろし、ふらりと首都高に昇る。
薄紫の看板の辺りで30程に落とし、10メートル過ぎた辺りから床まで踏む。
このところ、廻していなかったのである。
■ なんともいえずC1を一周する。
北の丸トンネル辺りで古いホンダに抜かれた。
とてもかなう訳はない。初期型のCR-Xである。
後ろがアルファのように切り落とされたテンロク。
今時分走っているのだからテクノ世代だろうか。ブッシュを固め、フロントにスタビも入っているに違いない。
考えてみれば週末である。
練馬や足立や習志野辺りから、青春後期や中年前期を車に賭けた缶コーヒーが集まる。
馬鹿だよな。
バカなんだけどさ。
「緑色の坂の道」vol.3816
毎日がオトシマエ 4.
■ まだ20代の頃だったと思う。
第三京浜を横浜から戻って、等々力あたりで一服をした。
屋台のラーメン屋があって少し硬い麺をすする。
そこの親父がいうには、手前にあるジムに高倉健さんがよく通ってくるという。
藤竜也さんもでかいベンツでくるよ。
■ その頃目黒通りは闇が多く、休日の夜ともなるとほとんど人影はなかった。
ベンツ、と言ってもSクラスの6.9とかが法外な値段を付けていた頃である。
私はと言えば、国産の2リッターセダンの足を硬め、シビエのハロゲンを付けてナルディのウッドで廻していた。タイアはピレリである。
乏しい財布の中から、精一杯背伸びをしていた訳だ。
■ そんなことはどうでもいい。
その頃私は高倉さんを特別格好がいいとは思っていなかった。
が、妙に思い出されるのである。
どう老けるかというのは、40を過ぎた辺りからじたじたと実感される事柄である。
そして男の場合、半分は救いがないのである。
2007年10月19日
「緑色の坂の道」vol.3814
2007年10月18日