1694年三尺庁舍壮漢上が鬱陵島の 300余里近くに鬱陵島の 3分の 1 大きさの島を見つけた記録を淡は <壮漢上鬱陵道士適期>を発行した. これは韓国文献に出る鬱陵と傘(独島) の地名は皆鬱陵島を示す言葉という日本の主張に対して鬱陵島とその近所にあった独島を私たちが 17世紀にもう分かっていたという事実をありありと立証するのだ. 18世紀に出たゾングサングイックの <東国地図>に至っては鬱陵島と傘島の位置と大きさが正確に表示されたし, 朝鮮後期のジドチォブには通例鬱陵島の隣に傘もまたは資産島を表記している. 日本自らも独島を韓国地だと認めた資料が並ぶ
江原道蔚珍県に属していた独島を 1900年高宗皇帝の勅令 41条によって独島を鬱陵邑の一付属島嶼として公式的に江原道に編入したという事実だ. これは日本が独島を 1905年島根県に編入させたと主張するより 5年先に進んだことで日本の独島領有権主張事実を覆すことができる貴重な発見に評価される.'独島'という名前は 1906年鬱陵軍需シムフングテックによって初めて使われたし, 1914年行政区域改編で慶尚北道に編入されたし, 2000年 4月 7日を基点で行政区域上住所を慶尚北道鬱陵邑独島里住んだ1‾山37で決めた./P>
北朝鮮労動新聞は去る 1日論評を通じて独島領有権を国際法と歴史史料, 文献たちを根拠で簡単ながらも明瞭に明らかにした. この論評は最近日本外務省が `2000年外交青書'で独島領有権を主張したのに対した反駁で, "独島は名実共に我が国の固有領土"という点を重ねて強調しながら日本側主張は "途方もないの"で一蹴した.
次はこの論評が提示した独島領有権の法律的歴史的根拠だ.
△日本は独島を私たちより 1千年後に発見 = 我が国と日本の歴史史料たちと文献たちによればうちの先祖たちは紀元 500年以前時期に独島を見つけてあの時からこちらを漁業拠点で利用して来た. 一方に日本は 16世紀末に至ってからこそ朝鮮東海に独島があるというのをアルゲドエッダ. これは日本が我が国より 1千年以後に独島を見つけたということを実証してくれる.
△日本は私たちより 1千400年遅く帰属措置 = 法的見地で見る時にも我が国は紀元 512年新羅ジズングワングの時の独島を江原道蔚珍県に所属させる `国家的措置'を取った. ところで日本は 1905年島根県考試 40号としてこの島を自分勝手に島根県に所属させる `ローカル措置'をツィヘッダイゴッは日本が我が国より 1千400年も遅く独島を彼らの物だと主張したということを見せてくれている.
△サンフランシスコ講和條約と関係 = 日本は朝鮮の本土と済州島, 巨文島, 鬱陵島(独島含み)に対する日本のすべての権利, 請求権を剥奪するとおおよそ 1951年サンフランシスコ講和條約に署名こんにちはだった. サンフランシスコ強化(講和)条約は第2次世界大戦の終了のために連合国がイルボングァメッは平和条約で 1951年 9月 8日米サンフランシスコで調印されて 52年 4月 8日発效した.
アメリカは去る 47年 7月から対日強化のための予備会談を申し入れたが会議方式に対するアメリカとソ連の対立で実現することができない 1950年 6.25戦争をきっかけでまた推進されて締結された.
△指導相議表記 = 領土の法的所属を直観的に見せてくれるかも表記を見ても独島は我が国ののだ. 16世紀末以後に我が国と違う国々で発刊したすべての朝鮮指導たちには独島がはっきりと朝鮮の島で表記している. 日本の朝鮮強点以前時期に出た日本指導たちにも独島は日本の島で表記していなかった.
日製は我が国を軍事的に強点した後(植民地で作った後) 独島を強盗的に彼らの物で作ったが当時日本で発刊された一部地図たちにも島が朝鮮の物でお互いに違うように表記した./P>