追憶・菓子に託した平和への願い
「五十二萬石如水庵」先代森正美・文絵夫妻の"絆"物語

株式会社如水庵

「五十二萬石如水庵」は、博多一の老舗菓子舗だ。その十四代目で、十六代目森恍次郎現社長の父、森正美は大正七年生まれ。生来、豪放磊落、いつも虚心坦懐で、明るく陽気な人情味あふれる人柄であった。「人の不幸の上に自分の幸福を築いてはいけない」と口癖のように言っていたという。

一方、正美の二度目の結婚相手で、恍次郎の母、十五代目の文絵は大正十四年生まれ。真面目で芯の強い、しっかりした人柄で、きつい仕事でも弱音をはかなかった。

陽気な正美だったが、文絵との結婚の前に二つ悲しい経験をしている。一つは、兵役で多くの戦友を喪ったこと。もう一つは、戦時中に最初の妻子を亡くしたことだ。それでも、正美の陽気さは変わらず、よく戦友を家に招いては明るく語り合っていた。

しかし、家族が寝静まると、戦友たちと亡くなった友を偲んでは、悲しみに沈んでいたという。その心に、戦争の悲惨さ、人を殺す辛さは、深く刻み込まれていた。そのせいか正美は、「いかに血を流さずに勝つか」に人生を捧げた、黒田如水こと、黒田官兵衛孝高の生き様に惚れ込む。

ヒューマニストとしての天才軍師、如水の素晴らしさを、息子恍次郎にしばしば語っていたという。戦後の新商品、最中「黒田五十二萬石」にちなんで、社名を「森栄松堂」から「五十二萬石本舗」に変えたのも正美だ。その黒田好きは、自ら文献を調査した上で、福岡城天守閣復元の設計図を建築士に描かせ、当時の阿部源蔵市長に度々持っていった程だ。熊本城よりはるかに雄大な福岡城を、観光都市福岡の象徴にすべきだと強く主張していた。

また、人情派で人の不幸を黙って見ていられない正美は、高校に行けない子供たちを住み込みで夜間高校に行かせ、高校卒業後の就職先の世話をしていた。働き手になってくれればという思いがあったにせよ、戦後の余裕の無い中では、なかなかできることではなかっただろう。

ところが、その人付き合いの良さが行き過ぎて、正美はなかなか家に帰ってこない。しかも、賭け事大好き。文字通り身ぐるみはがされて、下着で帰ってきたこともある。妻の文絵は家計のやりくり、会社の切り盛りと大変だった。会社が倒れなかったのも、妻あればこそだ。しかし、とことん陽気な正美は、言い訳も堂々としたもの。しばらく帰ってこなかったときに、「釣りをしていたら、李承晩ラインで捕まって韓国に抑留されて。いやぁ、まいったまいった」と言い張っていた程だ。仕事も社長ながら、五箇条の御誓文を引用しては、「広く会議を起こし、万機公論に決すべし」という主義。
そんな中、よき人柄ながら、よき夫ではなかった正美に、とうとう文絵は愛想をつかして別居することになってしまう。

別居から八年後、正美は胃癌で倒れる。その時、看病したのは、やはり妻の文絵だった。最期の半年、癌は末期になり、病状は重くなる。正美はもはや、寝ていても座っていても、痛くて、痛くて耐えられなくなった。それを見て、どんな辛いときでも涙を見せなかった文絵が、ぽろぽろと涙をこぼす。そんな文絵に、普段優しい言葉をかけたこともなかった正美が、紙と鉛筆を持ってこさせる。そして、震える手で、だがしっかりと「貴婦人に涙は禁物」と書く。それが、正美からの最後のメッセージになった。享年五十二才の若さであった。

「あれは、父なりの"ありがとう"の言葉だったんでしょう」と息子恍次郎は振り返る。今でも、その紙は残っている。正美亡き後、文絵が代表取締役になり、恍次郎と会社を発展させていく。生前、仲が良かったとは言い難い正美と文絵だが、正美の思い出を話す文絵はいつも大笑いだったという。
そんな文絵は亡くなるとき、「私の人生は唯、森家のためだったね」という言葉を遺した。夫の死から二十二年後のことだった。

十六代目を継いだ恍次郎は、「父から、明るく陽気であること、母からは、誠心誠意、一生懸命であることを教えられました」と話す。そして、恍次郎も正美が好きだった、黒田如水の血を流さないヒューマニズムに惚れ込み、屋号を「五十二萬石如水庵」とすることを母文絵に提案、文絵は快諾した。

「平和のため、人のため、そんな父母の思いを生涯伝え、その夢を実現したいといつも思っています」と森恍次郎社長は語る。(文中敬称略)

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