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所在地及びアクセス 京都府宇治市宇治蓮華 |
京阪電鉄宇治線「宇治」駅下車。駅前広場の南側にある宇治橋を渡り、直ぐ左折すると平等院参道の標識があるので、それに従い土産物屋の並んでいる参道を道なりに進むと平等院の表門に着く。 京阪「宇治」駅から平等院まで徒歩約10分。 他のアクセス法として、JR奈良線「宇治」駅で下車し、東の方向へ徒歩約15分で平等院に着くことができるが、平等院までの道程がやや分かり難いので、京阪電鉄宇治線を利用する方が便利である。 平等院は宇治上神社に近いので、同じ日に両者の拝観、見学が可能である。 |
縁起 |
平等院は9世紀後半に造られた源融(みなもととおる)の別荘を長徳4年(998年)に藤原道長が譲り受け、後に、その子藤原頼通が受け継ぎ、宇治殿と称したことに端を発すると伝えられている。 頼通は永承7年(1052年)に宇治殿を天台宗の寺院「平等院」としたといわれており、天喜元年(1053年)には阿弥陀堂が建造され、阿弥陀堂には木造阿弥陀如来座像が安置されたという。 当時は非常に規模の大きな寺院だったらしいが、建武3年(1336年)に楠木正成によって建造物の大半が焼かれ、応仁の乱で更に衰退し、当時から残っているものは、阿弥陀堂(現在は「鳳凰堂」と呼ばれている)と鎌倉時代に再建された「観音堂」だけらしい。 |
境内概観 |
直下のコピー(平等院の拝観券より)は平等院の院内略図である。平等院は東向きの鳳凰堂を中心に各建物がその横と後方に配置されており、鳳凰堂の正面には石灯籠以外何も建てられていない。 |
表門 |
宇治橋の傍から平等院への参道が始まっており、この参道を道なりに進むと、平等院の「表門」(左の写真)に着く。「表門」の造りは思ったより簡素である。 表門の手前右側に受付があり、ここで拝観料(鳳凰堂内の拝観料は別途必要)を支払って内に入る。 |
鳳凰堂 「表門」をくぐり奥に進むと、池の傍に建てられている「鳳凰堂」(直下の写真)が見える。「鳳凰堂」は平等院の本堂に当たり、10円硬貨の図柄に採用されているのでお馴染みである。 |
現在、「鳳凰堂」と呼ばれている建物は、もとは「阿弥陀堂」と呼ばれていたとされているが、これが「鳳凰堂」と呼ばれるようになったのは江戸時代からといわれている。 「鳳凰堂」の名称の由来については中堂、左右の翼廊、尾廊が羽を広げた架空の鳥「鳳凰」に似てるためという説と、中堂の屋根の上両端に付けられた「鳳凰」の像(左の写真)に因んでいるという説の二説があるらしい。名前の由来のようなものは、通常、いろいろあるのが普通であるが、前者が正しいのではないかと思われる。 なお、後述するが現在屋根の上に付けられている「鳳凰」は「鳳凰堂」建立当初のものではなく、複製品のようである。 |
鳳凰堂前に広がる「阿字池」の対岸から「鳳凰堂」中堂中央正面の格子状障壁につけられた丸窓を通し本尊の「阿弥陀如来」の顔を拝観することができる(左の写真)。 これは推測であるが、かつて、一般庶民は鳳凰堂の中に入って阿弥陀如来を直接拝観することを許されておらず、池の対岸からこの丸窓を通し阿弥陀如来を拝んだのではなかろうか。 但し、後述するように2004年1月中旬から2005年8月末まで本尊の「阿弥陀如来坐像」は修理のため、鳳凰堂から搬出されており、拝観することは出来ない。また、鳳凰堂内部の拝観も中止されている。 |
かつて、人々は「阿字池」に映る「鳳凰堂」(左の写真)に西方浄土の阿弥陀仏の宮殿を見たという。尤も、左の写真でもわかるように鳳凰堂は池に綺麗に映っているとは言えないが・・・。ただ、かつては池も広く「鳳凰堂」の両翼は池の中につきだした形であったというから池に映った姿は現状とはかなり違ったように見えていたのであろう。 |
春、桜の季節には鳳凰堂対岸に植えられている枝垂れ桜が咲き、桜の花を通してみる鳳凰堂中堂も絵はがき的ではあるがなかなかの趣がある(左の写真)。 |
「鳳凰堂」内には本尊の「木造阿弥陀如来坐像」(左のコピー:平等院発行の案内パンフレットより)、「雲中供養菩薩像」などが安置されている。 本尊「木造阿弥陀如来坐像」は天喜元年(1053年)、仏師定朝の作とされている。仏像だけでも高さ約2.8mあるといわれ、これに高さ約1.8mといわれる台座が加わり、しかも、更に大きな光背が付けられているので傍で拝観すると、はるかに見上げなければならない大きさである。 全部で52体ある「雲中供養菩薩像」のうち、その半数が堂内壁面に付けられ、安置されている。 「鳳凰堂」をはじめ、鳳凰堂内に安置されている本尊の「木造阿弥陀如来坐像」、「雲中供養菩薩像」、本尊の頭上にある「天蓋」など、建物、仏像全てが国宝に指定されている。 |
「鳳凰堂」の壁面や柱に描かれている「壁画」は経年により、殆どの部分が剥落変色してしまっている。「扉絵」の方は近年模写されたもので、オリジナルのものは別に保存されているとのことである。「壁画」、「扉絵・還来迎図八面」は国宝に指定されている。 上述したように、「鳳凰堂」は国宝に指定されているが、中堂内部の拝観は可能である(但し、別途拝観料必要)。多くの寺社では国宝や重要文化財など拝観見学できないところが多いが、平等院はそれらの多くを公開している。文化財は広く一般に公開し、誰でもその素晴らしさを享受できるようにすべきと思われ、平等院の対応は評価できる。 2004年1月中旬から鳳凰堂内部の拝観が中止となった。これは鳳凰堂に安置されている本尊「阿弥陀如来坐像」が50年ぶりに修理されることになったためである。「阿弥陀如来坐像」は2004年2月17日に鳳凰堂から運び出され、平等院内の修理工房に搬入された。なお、本尊の修理後、天蓋の修復も行われるようである。天蓋の修復を含め大修理は2007年まで続けられるとのことであるが、平等院によると鳳凰堂の内部拝観中止期間は2005年8月末までという。 |
鳳翔館 |
「鳳凰堂」の南側で「阿字池」を隔てた場所に、平等院の文化財を保存展示している「鳳翔館」への入り口がある。 |
上述したように「雲中供養菩薩像」(左のコピーはその内の1体で北25号と名付けられている:平等院販売の絵はがきより)の内、半数は「鳳凰堂」に保存されているが、残りの半数は「鳳翔館」に移され展示されている。 「雲中供養菩薩像」には補修されたものもあるらしいが、殆ど当初の形を保っているといわれている。52体はそれぞれ踊ったり、楽器を奏でたりしている姿をしているが、これは極楽浄土の様を表現しているという。 52体の「雲中供養菩薩像」は1体を除き全て国宝に指定されている。 |
「鳳翔館」内にも鳳凰堂にあるような「扉絵」が展示されているが、彩色が鮮やかであり、これはオリジナルではなくCGによって複製されたもののようである。 また、「鳳翔館」内には「鳳凰」が展示されているが、これが「鳳凰堂」建立当初に造られたオリジナルの「鳳凰」ではないかと思われる。オリジナルの「鳳凰」は国宝に指定されている。 |
平等院の「梵鐘」は神護寺、三井寺と共に日本三銘鐘の一つに数えられ、形の美しさで有名である。鐘楼には「梵鐘」(左の写真)が吊られているが、これは複製品であり当初のもの(オリジナル)ではない。 オリジナルの「梵鐘」は「鳳翔館」に保存展示されており、国宝に指定されている。 鐘楼に吊られている「梵鐘」はオリジナルのものと比較し、形状は全く同じに作られているとされている。 |
観音堂(釣殿) |
鳳凰堂の北側にある「観音堂(釣殿)」(左の写真)は鎌倉時代初期に再建されたものといわれている。 堂内には藤原時代初期に造られたと考えられている「木造十一面観音立像」が安置されている。 |
「観音堂」は通常閉められているが、時期によっては公開され内部を直接拝観することができる。「観音堂」、「木造十一面観音立像」は重要文化財に指定されている。 |
扇の芝と源頼政 |
表門を入ってすぐ左手、「観音堂」の北側に「扇の芝」といわれる場所がある(左の写真)。 殆どの観光案内には出ていないが、ここは、治承4年(1180年)に源三位頼政が扇を敷いて自刃した場所とされている。「扇の芝」という名称はこれに由来しているものと思われる。 |
「扇の芝」と呼ばれている場所は正に扇を拡げたような形状をしているが、その扇の要にあたると思われる部分に左の写真に見られるような石が置かれている。真実は分からないであろうが、源頼政はこの石の置かれた位置で自刃したのかもしれない。 源頼政が自刃に際し、辞世の歌『うもれぎの花さくこともなかりしにみめなるはてぞ哀れなりける』を詠んだという。 それにしても、扇の芝は何となく不気味な雰囲気が漂っている不思議な場所である。 |
「鳳凰堂」の西側に「最勝院」が建っている。「最勝院」は承応3年(1654年)に創始された平等院の塔頭で、「最勝院」の境内南側にある不動堂の脇に「源頼政の墓」がある(左の写真)。 源頼政は鵺(ぬえ:頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎、声はトラツグミという伝説上の怪獣)を射落とした人とされており、世阿弥の名作である能「鵺」で鵺の霊が、源頼政に射落とされた身の悲劇を仕方話で物語っている。こんな事は平等院と関係ないか・・・?。 |
庭園と阿字池 |
1990年から8年間にわたって行われた発掘調査で、平安時代の庭園は地下0.5〜1mのところに発見された。当時の阿字池は今よりずっと大きかったようであり、対岸や山々を取り入れた借景庭園だったといわれている。この調査結果に基づき、平安時代の庭園の状態に復元する工事が1998年度から進められ完了している。 |
右の写真は「鳳凰堂」の北面であるが、「鳳凰堂」に渡るための阿字池にかけられた赤い欄干の二つの橋を最後に、復元工事が完了したようである。 鳳凰堂が現在の形になったとされている1100年頃は、中堂から伸びている両翼廊の端は池の中に突き出した形をしていたことがわかった。池に浮かぶ宮殿という趣があったといわれている。 |
鳳凰堂と鳳凰堂を囲んでいる阿字池を中心とした現在の庭園は平安時代の遺構であり、当時の庭園は地下に埋没し、形が変わってしまっているらしい。 「庭園」は国の史跡、名勝に指定されている。 |
阿字池の発掘調査中、平成9年(1997年)に池底の泥の中から椿の種子が出土し、これが奇跡的に発芽した。 栽培を続けた結果、平成15年(2003年)にはじめて開花し(左の写真)、4月に「室町椿」として一般公開された。 |
この「室町椿」(左の写真)は600年を経て開花したわけで、かつての平等院で咲いていたであろう椿を見ることができると共に、植物史上でも重要な事柄であるといわれている。 「室町椿」は花弁からみて中国種の信仰木としての樹木と日本のやぶ椿の交配であると想像されている。 |
2004年2月29日更新 |
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Yukiyoshi Morimoto