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夜明けの曳航

銀行総合職一期生、外交官配偶者等を経て現在地方の法科大学院の教員(ニューヨーク州弁護士でもある)の私の単身赴任生活。







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2007年10月31日 21時46分26秒 /  profession

焚書坑儒

「古畑任三郎」の第一回。


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2007年10月29日 06時44分00秒 /  profession

そういう言い訳が通じるのか

私はスポーツはやるのも見るのもまったく縁がないのだが、いつも見ているニュース番組がこの問題にずいぶん時間を割くので否応なく目に入ってしまったのだが、fairであることを絶対的な条件とするスポーツの試合で反則という卑劣な非違行為をしたスポーツ選手とそれを煽ったトレーナー兼父親の問題は、目と耳が腐りそうな問題である。

「勝つしかない」とかいって、わが故郷葛飾区の住人になっているのも不愉快。

初めて彼らのことを知ったのは、ビストロスマップにゲストで3兄弟が出た時、その後ニュースなどで目にする言動はボクサー以外の特定の職業と共通するもので、「こういうものを面白がって助長するマスコミはいかがなものか」と思っていた。

自分が非違行為をしたのに、「こういう性格だから却ってまずい」といって、記者会見に出てこず、息子に弁明させる父親は卑劣という言葉では足りないし、反則した当人も「精神的に参っているので」といって同情を買おうとする。

自分が悪いことをして、非難されると、精神的な疾病になったと言って逃げることは、朝青龍が始めて(協会で病状を説明したという医師は、私が勤めていた会社の産業医だった。カウンセリングを受けたことがあるが、精神科医としての資質は全く信用できないものだった)、安倍首相などもまねしているが、いつからそんな身勝手なことが通るようになったのか?

私だって、彼らが許されるなら、今の状況からすると、講義などできないといってひきこもっても十分許されるだろう。

どんな目に遭っているか、いずれ発表するので、それを知ればだれもが納得すると思う。早く洗いざらい発表できる立場になりたいもんだ。

このブログも多いときは一日3千件以上のアクセスがある。

ありがたいことに、ブログを読んでくれた複数の出版社の編集者から法律書の出版のオファーがあった。いずれも、法律専門ではないが、良書の出版で有名、うち一社は、金井美恵子の小説に「○●の本を抱えて歩いているようなインテリ」という表現があるような、私も憧れていた出版社である。

早く卑劣な奴らからの嫌がらせを解決して、執筆の方にももっと注力したい。


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2007年10月28日 06時19分31秒 /  profession

公平でありたい

夫には「自分で自分の首を絞めている」といわれるが、ある事情で、キャンパスを多くの学生が歩いている昼休みや休み時間は、キャンパス内を歩かないようにしている。

そのために、昼食も自分で作った弁当を保温容器に入れて持参して研究室で食べている。

その事情とは、どの学生に対しても平等、公平であることが教員の義務だと考えているからだ。(給料の査定権をもっている組織の長なのにあからさまな差別やエコひいきをして恥じない人もいるけど)

大学の分煙ポリシーで、喫煙所以外の喫煙や、歩きたばこは禁止されているのに、これを守らない学生が結構いるのだ。

分煙ポリシーは、大学が、健康増進法に基づく、公共の場所の管理者として、利用者の受動喫煙を防止する義務を履行するに際し、役職員はその履行補助者となるので法的にも義務付けられるし、教育者として当然注意すべきだと思うので、目撃するたびに注意している。

そして、いったんそれを始めた以上、目についた学生は全員注意しないと、注意された学生からみて不公平だと考えてしまい、強迫観念のようなものがあって、自分の用事で急いでいても注意しないわけにはいかないのだ。

他学部の有名な嫌煙家の教員は「一日一人だけ注意することにしている」とブログに書いているが、それははっきりいって、学生に対する平等取り扱い義務の違反だと思う。

他には注意する教員がほとんどいないので、注意するとはっきりいって、不愉快なことが多い。刑法上の犯罪に当たるようないやがらせをされたこともある。(そして本当に本人は警察を経て検事にまで呼ばれた)
先日も、喫煙場所でないところで喫煙していた学生を注意して、(全学部の一年生がこのキャンパスにいるので)生年月日を聞いたら未成年だったので、所属学部の学務係に連れて行こうとしたら、「きちがい」と罵られた。

はっきりいって、もう注意するのはやめたい!!!

でも、いったん注意した以上、過去に注意された学生からみて不公平ができない、見た以上注意する義務がある、ならば、目撃する機会自体を減らそう=学生がいそうな時間に出歩かない、ということになるのである。

馬鹿みたいかもしれないが、私はそういう不器用な人間なのである。



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2007年10月27日 19時43分27秒 /  profession

いっそのこと…

上手に流せばいいのに、つい四つにがっぷり組んで自分の方が傷だらけになっていしまう。

人生の大先輩として尊敬している人に相談したら、似たようなケースで、相手に暴力を振われた例があるから、ほどほどにした方がいいと心配された。

いやー、いっそ物理的な暴力振るってもらった方が、たとえ半身不随になっても警察沙汰にできるから、こんな卑劣な嫌がらせをされるよりは一万倍ましだと思ってしまった。

それくらい、「神様、私が何をしましたか」という悪夢の状況。

今回だけはまわりも100%相手が悪いと言っている。
ただ、私の性格じゃなければこれほど傷つくこともないだろうとも言われている。


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2007年10月25日 07時54分06秒 /  読書

反転 −闇社会の守護神と呼ばれてー

田中森一の標題の著書を読んだ。

まず、バブル前後の政財界をめぐる事件の真相や裏側が赤裸々に描かれているのが、臨場感があって大変面白かった。
1987年にバブルの恩恵を最大限に受けた信託銀行に入社した私も、渦中で経験していたことだったので。

また、特捜検事の仕事のノウハウが、裏をかくことにより、そのまま裏社会の依頼人のために使えるということも非常に面白かった。しかし、人間である以上、価値判断に従って動くべきで、その法知識を、どちらのために使うかということは重大な問題である。

実は、田中氏をモデルにしたかのようなドラマ「ある日、嵐のように」を2001年にNHKでやっていて(マキノノゾミ脚本)、佐藤浩市が、辣腕特捜検事から裏社会の代理人弁護士に転じるという設定だったし、香川照之(前はこんな役ばっかりだったのよね)が、転落するIT社長を演じていて、ホリエモン事件を予言していてすごいなと最近の再放送を見て思ったのだが。

ヤクザと警察は紙一重というが、実際、その論理は、寄って立つ基盤が法かそうでないかだけで、大して違いはないのかもしれない。

とくに、組織の論理が絶対で、仁義をきるとか、筋を通すとか、裏切り者は許さないとか、そういうことは共通している。

田中氏が弁護士になってからしたことは、もちろん非難に値することもあるだろうが、摘発されたのが、検察出身でありながら検察の裏をかき、妨害することへのっ見せしめという要素があるならば、それは、正義よりも組織の論理を優先することになり、(どこかの大学みたいが)やはり、法の番人として、あるべき姿ではないと思う。

上告審の行方を注視したい。


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2007年10月23日 19時07分14秒 /  profession

Reunion

今月末にHarvard Law SchoolでReunionがあるので、毎週のように誘いと寄付のお願いが郵便で届く。
(もちろん、講義があるので出席できるわけがない)

プチ同窓会なら、海外の同級生が東京に来た時食事したり、今年もモンゴルやインドネシアに出張に行った際に、弁護士や中央銀行勤めの同級生と15年ぶりに再会したり、やっているから。

ニュースレターや寄付のお願いは前からしょっちゅう来ているが、申し訳ないが、一度も寄付したことがない。

Harvard の同窓会(Harvard Square近くのビルに専用の事務所まである)から年に一回プロフィールを更新する用紙が来るのだが、該当欄にチェックを入れるようになっている年収レンジを見ると、「10万ドル以下」が一番下のレンジになっているので、寄付なんておこがましくて、という感じである。


OxfordからもUniversity とCollegeの両方から頻繁にくるが、こちらはすごく手作り感が強くて、とくにCollegeの同窓会誌は、近況を書くと載せてくれる。
恩師の訃報を知らせてくれたのもこのCollegeのネットワークだったな。

香港大学は同窓会誌は1年にいっぺんくらいだが、メールでシンポジウムや講演会のお知らせなどはしょっちゅう来る。昨年は、依頼されて私自身も講演した。

東大も、法人化してからはやはり随分熱心に同窓会誌やら寄付のお願いやらを送ってくる。11月10日は、何回目かのホームカミングデイという公開大規模同窓会をやるらしい。

別の国立大学の教員になって初めて、予算、設備等あらゆる面で東大がどんなに特別扱いされているか思い知った。卒業生の中では確実に貧乏な方に入る私などに寄付を頼まなくてもいいだろう、と思う。


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2007年10月21日 08時13分53秒 /  profession

外気より寒い心

大学のある街での暮らしは本当に厳しいものがある。

物価が高いとか、冬の酷寒とか、そういう外形的なものだけじゃなくて、精神的に凍えるのだ。

私は、70カ国以上旅行して、どんな不便で衛生状態の悪い国に行ってもこれほど嫌だと思ったことはない。

私は、団体旅行でさえ、ちょっとでも時間があれば、現地語の辞書を片手に街に行って片言でもいいから現地の人と話をするというタイプの人間である。アンコールワットにいったときも、暑いので、観光は早朝と夕方、日中はみな昼寝しているのに、バイクタクシーを雇ってホテルから市場へ行き、カンボジア語の辞書を片手に「この菓子は何日もつのか」というのが通じず、眠る動作を繰り返してそばにいた子供たちに大笑いされたこともある。

しかし、この街でだけは、人と触れ合えば触れ合うほど傷つく。

生活も大変不便である。
たとえば、スーパーマーケットにも行けない。
なぜかというと、醜悪なものを見るから。

歩いて5分の距離でも車を使うほどの車社会、スーパーには必ず巨大な駐車場があり、入口に近いところの何箇所かが身障者用になっている。
そして、行くたびに、普通の駐車場ががらがらなのに、身障者用のところに車が停まっている。たまたま、その車から出入りする人を見て、身障者がいないと、「ここは身障者用の駐車スペースですので、お手伝いします。どちらに体の不自由な方はいますか?」ときくと、いないのである。
そして、「他がいくらでも空いているのに、どうして身障者用の所にとめるのですか」ときくと、「だってほんのちょっとの時間じゃないか」とかいって強く言い返すのである。

毎回毎回そういう経験をするうちに、スーパーに行くこと自体に恐怖を感じるようになった。
そこで、小規模店舗で身障者用駐車場のない99ショップを使っていたのだが、最近撤退してしまい、生活に困っている。

ニューカレドニアにいったとき、万事いい加減な国で、路上駐車もひどかったが、観光地の教会の駐車場は、満車でも身障者スペースだけはちゃんとあいていたぞ。
こういう人間は人間として何か重要なものが欠落しているのではないか。

日本円も使えるし、日本語も通じるのに、私にとってはどこよりも外国なのだ。

また、市内にいい温泉地があるのだが、ここにも言語道断なことがある。
江戸時代から続いている源泉のある共同浴場が250円で入れるのでよく通っていたのだが、実に非常識な利用者がいるのだ。

共同浴場といっても、洗い場は4人で満員になるほど小さいところなのに、毎日、2時間くらい入っていて、しかも、自分流の体操とかをして迷惑な人がいる。出たり入ったり、繰り返しながら、そんな狭いところで腕を振り回して体操したり、また、タオルを冷水に浸したもので勢いよく背中をぴしゃぴしゃ叩いたりするので、一緒に入浴していると迷惑この上ない。
しかも、老人割引(毎日のはた迷惑なエクササイズのおかげで60過ぎには見えない体型であるが)で一か月3000円で入り放題なのだ。

温泉組合が経営しているらしく、私が利用する前からたくさんの利用者から苦情がきているのに、「本人が、私は何も迷惑かけてない。私もここに入りに来る権利があるんだからといって、組合の役員が言い負かされた」といって、それ以上対処してくれない。もちろん、本人も全く改めない。
普通、迷惑だと言われたら少しは改めるんじゃないのか?

だから、私もそうだが、他の利用者は、入口で番台の人に「例の人来てます?」ときいて、いると別の所にいくので、本人は独り占めできてますます好都合である。

また、先日は、その人とは別の40代くらいの女性が、なんと、「湯船の中で」歯磨きをしていた。(湯船は2畳分くらいしかない)さすがに注意したら、嫌がらせされた。
というのは、その日、私が入浴を終え、脱衣場に行ったら、それを待っていたかのようにすぐ上がってきて、「あなただって、規則違反しているじゃないですか」というのである。「はあ?」というと、「ほら、あそこに体を良く拭いてから上がってください、ってかいてあるでしょ?あなたの体の拭き方は不十分でした」というのである。(断わっておくが、私は脱衣場に行く前に一通り手拭いで体を拭っている)歯磨きを注意されたことに仕返しする機会をずっと狙っていたのである。もう、目が点である。

税金の無駄遣いの不必要に豪華な市民芸術館が建てられる前は、世界的に活躍する指揮者が毎年コンサートをやっていた体育館の前の道路工事で、誘導員が煙草を吸いながら誘導しているので注意したら、警備会社の常務が拒否しても拒否しても事務を通じて大学に何度も逆切れ脅迫電話をしてきた。

病院の医師や技師も含め、女子供とみるとため口をきく。
1年に1回くらいしか乗らないが、タクシーで運転手にため口をきかれたので、「客だからとは言いませんが、こちらが丁寧語でしゃべっているのに、そんな言葉づかいは失礼ではありませんか」と注意したら、「降りて話をつけよう」と脅迫された。夜間で女一人だったのでマジで怖かったので、県のタクシー協会に苦情のメールをし、「教育体制がどうなっているのか、再発防止措置をどうするか書面がほしい」といったら、私が東京に出張している間に大学にアポなしで訪ねてきて、たまたま応対した同僚に事情を話したりした。その同僚が例の不祥事で処分を受けた人間なので悪口として流布された。

ほかの件でも、大学の中でさえそういうことがあるが、こちらは、再発防止のための措置を文書でもらって、二度と被害者が出ないようにしたいというだけなのに、どうして田舎の人って、「話せばわかる」といってすぐ面会を強要してくるのか。

ポイ捨てはもちろん、歩きたばこ禁止条例があるのに、執行されたことはないし、バス内は法令で禁煙なのに、街を支配しているといってもいい企業グループの経営する路線バスのターミナルがターミナル駅前の大きなスーパーと同じ建物にあるのだが、駅前目抜き通りに停めた時間調整中のバスで、そんな目立つ所なのに、運転手がいつもバスのステップの上で喫煙しているのである。

同じ団地に住む大学事務員が片手に煙草をもってバイク通勤しているのを注意し、その上司にいっても、全く何の対処もしない。学長にいってもである。
そうですか、条例違反の職員を放置するということは、もちろん、もっと違法性の低いことで職員に不利益処分を科せないことは覚悟の上なんでしょうね。

自転車がパンクしたので修理してもらったら、自転車屋(ベテランらしい老人)は、修理の間中、「スーパーで買ったような自転車はタイヤが中国製だからだめなんだ」とか、あげくは自分の身内の自慢話をさんざんし、東京の1.5倍の料金をふんだくっておいて、修理がいい加減なので数日後にだめになった。

交通マナーも悪くて、横断歩道を渡っているときに、強引に左折右折してくる車に轢かれそうになったことは数限りない。

東京から車で遊びにきた友人が、「片側一車線の狭い道路で、信号青だけど右折しようとして対向車の直進が終わるのを待っていたら、後ろから2台もの車が歩道に乗り上げながら追い越して行って本当にびっくりした。福島に長く住んだこともあるけど、こんなこと一度もなかったよ」といっていた。

父が来たときに電話で料理屋の予約をしたら、本店が宴会で貸切なので、店長に姉妹店を案内され、「○○アン」というので、「どういう字ですか?」と聞いたら、最後の「庵」という漢字が説明できず、逆切れして「もういいです。来ていただかなくても」という。「え、客に対してそういう態度ですか」といったら、「来ていただいて初めてお客さんですから」。

とにかく、私は単身赴任で、ここにいる間はとにかく忙しく、あまり町中に出かけないのに、この街の人間とかかわればかかわるほど、いやな思いをするので、もう、大学と官舎と市立図書館の三か所しかいかないようにしていたら、図書館の雑誌コーナーで、雑誌を元の場所に戻さない、一度に3冊以上の新刊雑誌をそばにおいて読んでいるなど、やっぱり腹が立つことがある。

ここに30年以上住んでいる大学の同僚が、「ここの人は首から上と下が違う」というくらい、理屈っぽいし、自分たちの文化度は高いと勘違いしていることと、実際に取る行動の民度の低さのギャップに、嘔吐をこらえられない人外魔境ぶりである。

ああもう他にもいっぱいあるんだけど、politically correctnessに配慮してこのくらいにしておく。


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2007年10月21日 06時23分39秒 /  profession

錦の御旗

このブログでも取り上げた、大学教員が女子大学院生と性的関係をもち、妊娠・中絶に至ったことを理由にセクハラとして諭旨解雇された事件で、本人が処分取消を求めて提訴した事件(既に口頭弁論も開かれている)について、今更だが言及しておく。

原告は合意の有無のほか、懲戒手続が、学内規程に反して、本人に直接事情聴取すらしない(書面ですませたらしい)手続違反であると主張しているらしい。

実体法面、合意の有無については、まず、undergraduateの学生と異なり、文系大学院がニート製造工場とすらいわれ、教員が生殺与奪の権限をもっている現状では、文系大学院生と教員の間の「合意」の有無は、通常の男女関係と同列には論じられないし、仮にそのようなごく狭い意味での「合意」があったとしても、大学教員が教え子と性的関係をもち、しかも出産できないにもかかわらず避妊せず妊娠・中絶に至るということは、それ自体、不適切といわざるをえない。

しかし、そのことと、手続法上の問題は別である。

およそ、法の支配、人権擁護が徹底されている国ならば、人に不利益処分を科すためには、適正手続が必要である。刑事訴訟法では、違法収集証拠排除法則というのがあって、たとえ有罪でも、違法に収集した証拠が使えない結果、裁判では無罪ということもある。

一般の会社員や公務員などが、刑事事件を起こしても、実名が出るとは限らないが、大学教員が懲戒処分になると、実名が出たり、そうでなくても特定は容易で、社会的ダメージは、刑事事件より大きいのに、学内手続は、本件のようにいい加減であることが多く、本当に法の支配のある国なのか、と絶望的になる。

しかも、大学にとって不都合な人間は、事実無根なことまで無理やり認定され、罪刑法定主義まで無視され、そのくせ権力者に近い人間が訴えられた場合は、調査委員会ができても、調査自体が何年も放置されたりする。まるで特高警察である。

大学は「学生はお客様だから、大事な預かりものだから」ということを錦の御旗にして正当化しようとするが、いい加減な手続や、政治的意図の下で手続をして、本件のように処分取消訴訟を起こされたら、どうなるか?

当然、法の支配とdue processの徹底している裁判手続であるから、事実認定のために、「被害者の」学生も公開の法廷で証人として証言を求められるわけである。学生にだっていいたくないことや、世間に知られたくないことがあるだろう。本件のような性的関係が絡む場合だけでなく、たとえば、学生指導をめぐる問題、本件と同じ大学でもあった、ゼミに出席しないのに就職が決まったから単位を認定せよと強要する学生を教員が殴った事例のように、不正行為や卑劣な行為をした学生への更生指導が行き過ぎた、なんて場合、学生は裁判で証言をさせられることにより、不正行為をしたという秘密になっていることを初めて天下国家に知らされることになるのだ。それなのに、そんなことを公開の場で言わされる苦痛は、いかばかりのものか。

そのことによって、大学が学生から不法行為で訴えられるということだって十分ありうる。

大学がそのような偏向した手続をしたために、実は一番苦しむのは学生であり、大学が掲げている錦の御旗が嘘っぱちであり、政治的目的で処分を行っていることを糊塗するための方便にすぎない、むしろ大学側の都合で学生を利用していることを物語っているのである。

酸鼻を極める醜悪な世界である。


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2007年10月17日 18時10分10秒 /  profession

韓信の股くぐり

「何の罰でこんな屈辱を受けなければならないのか、もういっそ死んでしまいたい」と思っていたところ、

恩師から
「そんなつまらないことで、大事な時にあなたの大事な人生をこれ以上邪魔されるのはもったいない。ここは筋を通すことにこだわらず、そいつともうこれ以上かかわらないようにする道を選択すべきだ。あなたの心の中から追放して、とにかく接触を避けるということを第一義に考えればいい。そいつが内心勝ったと思うなら思わせておきなさい。どうせそういう人間は最終的には失敗するんだから。正義感が強いのはいいが、時にはそうした割り切りをしないと、今後も人間のくずみたいな奴に人生を妨害されることから逃れられない。それではあまりにももったいない。あなたの性格では、自分が傷つかないために筋を通さないという選択は難しいだろうけど」といわれ、少し、気が楽になった。

しばらくは、呪文のように、「韓信の股くぐり」、「韓信の股くぐり」と唱えることにしよう。

向うも私とは合わせる顔がないだろうから、物理的接触だけは避けられるかと予想していたのだが、最低限の恥の感覚も持ち合わせていないらしく、どうも避けられないらしい。顔を見ただけで反吐が出そうになるが、その分相手も徒労というコストを支払っているわけで、そう思って耐え忍ぶしかない。


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2007年10月17日 02時27分18秒 /  profession

英米と比較した日本の法学教育・新司法試験制度について

去年雑誌に発表して、複数の弁護士の方から反響をいただいた論考だが、自分もその片棒を担いでいる制度について批判することになるので、掲載をためらっていた。しかし、そろそろこちらでも発表しようと思う。

裁判員について書いたおととしのエントリーもここにもう一度貼っておく。
http://blog.goo.ne.jp/admin.php?fid=editentry&eid=2c281cde9768e584ea315a5ff12b3efd


一、はじめに
司法制度改革の目玉として、2004年4月にスタートした法科大学院は、この春、2度目の卒業生を送り出したところである。
私は、地方の国立大学の法科大学院で民法、英米法等を教えている者であり、現場の教員として思うところはたくさんあるが、本稿では、ニューヨーク州弁護士資格をもち、10年以上の企業法務経験を有し、日本だけでなく、米国、英国、香港で法学を勉強した経験から、それらと比較して、この新法曹養成制度をどのように評価すべきかについて考えてみることにする。

二、法学教育
まず、法学教育については、甲:学部(Undergraduate level)型と乙:大学院(Graduate School)型に分けることができる。
1.米国
米国は完全な乙型であり、学部レベルには法学部がない。医学も同様である。法学も医学も、4年生大学を卒業し、学士号(Bachelor)を取得した者が、Professional SchoolであるLaw School やMedical Schoolに進学して初めて学ぶことになっている。
加えて、米国の学部教育は、日本の教養学部に近いものである。というのも、取得できる学士号の名称も、文系がBA(Bachelor of Arts)、理系が BS(Bachelor of Science)という大雑把なもので、そもそも、大学には経済学部や理学部等の学部があるが、それは、あくまで教職員の属する組織に過ぎず、学生がどこか特定の学部に所属するということはない。ただ、それぞれの専攻により、卒業するための必要単位が決まっているので、その必要単位を取ればいいことになる。たまに、「double majorで、歴史学と心理学を専攻しました」という人がいるのも、歴史学と心理学それぞれに必要な単位を全部取ったという意味である。日本語で肩書きを表すとき「Harvard大学経済学部卒」等とやむなく表記するが、その人が経済学部に所属していたわけではない。

そして、法曹を目指す学士がロー・スクールに入学するわけだが、一般的には3年間の課程で、卒業するとJD(Juris Doctor)という称号を得ることになる。日本の法務博士はこのJDの直訳と思われるが、そのおかしい点については後述する。
ちなみに、JDの上の課程として、修士課程に当たるLL.M.(Master of Laws)がある。日本人が留学するのはほとんどこのコースであり、1年間の課程である。実は、LL.M.コースを持っているロー・スクール自体がそんなに多くないが、Harvardのように、LL.M.コースが一つしかないロー・スクールと、NYU(New York University)のように、LL.M. in Taxation, LL.M. in Corporate Finance等、特化したLL.M.コースをもっているロー・スクールがある。後者の専門的なLL.M.コースには米国人学生(といっても弁護士が主)が多数いるが、前者の一般的なLL.M.コースの学生はほとんど外国人である。
LL.M.の上には、博士課程にあたるS.J.D.コースがあるが、この課程の学生もほとんど外国人である。
つまり、英国や日本と違って、米国人向け研究者養成コースというものが、法律学についてはないということになる。実際に、ロー・スクールで教鞭をとる教授の90%以上が、JDの学位しかもっていず、LL.M.やS.J.D.をもっているのは、法哲学や外国法の専門家が多い。そのかわり、教授のほとんどが、法曹実務の経験を有するだけでなく、教鞭をとりながら弁護士として活動している例も珍しくなかった。私がHarvard Law Schoolに留学していた頃は、ある有名教授が弁護士として扱った事件を元に書いた小説がハリウッドで映画化され、休講にすると「ハリウッドに行っているのでは」とjokeをいわれていたし、私が会社法を教わった教授は、国際仲裁人として度々海外出張しておられた。

2.英国
これに対して、英国は、甲型であり、学部レベルに法学部がある。法学専攻の学生は法学部に所属することになる。米国と反対に、早くから専門教育が進んでおり、高校卒業資格を得るための試験をAレベルというが、このAレベルの段階で既に、受験する大学に要求される課目しか受験しないし、高校でもその課目中心にしか勉強しない。そして、その試験の成績によってどの大学に進学できるかが決まるのである。日本の大学の一般教養が高校から始まっているのに近い。そのため、法学部ははじめから法学教育しか行わず、3年間の課程である。
その上にある修士課程、博士課程は、もちろん、英国人が多数を占める研究者養成機関であり、法学部の教授の多くは、修士以上の学位を持った人がほとんどである。

3.日本
日本は、米国のロースクールをモデルにした法科大学院制度を作りながら、法学部を残したので、甲型と乙型の折衷形態といえるであろう。

三、法曹資格取得制度
法曹資格取得制度には、大きく分けて、A:一発試験型(原則的に一定の試験に合格すればよい)、B:修了型(一定の法学教育課程を修了すればよい)、C:混合型(AとBを組み合わせたもの)の3種類がある。

1.日本の旧制度
日本の旧司法試験制度は、Aタイプである。
択一試験は実は二次試験であり、大学で一定の単位をとると、一次試験が免除されるというだけである。一次試験から受けるなら、大学を卒業する必要すらない。(ドラマ『Hero』の木村拓哉演じた高校中退の検事は、一次試験から受験したという設定だろうと推測する)

2.英国
英国では、法学士を取得した者が出願してLPC(law Professional Course)という法律専門学校(全英で数校しかない。ちなみに、法学部のある大学が運営するアカデミックな機関でなく、まさに専門学校という位置づけである)に入学(合否は主に法学士取得時の成績で判断される)し、1年間の課程(夜間だと2年間)を無事修了すると自動的に見習弁護士になり、(ここでは、法廷弁護士であるバリスタでなく、事務弁護士であるソリシタを取り上げる)2年間いずれかの法律事務所で見習をすれば弁護士資格が取得できるので、典型的なBタイプといえるであろう。
ちなみに、法学部出身でない者にも道は開かれており、法学士号(LL.B.)は夜間コースや遠隔地教育でも取得できる。遠隔地教育とは、香港やシンガポールで行われているもので、ロンドン大学等の教授が替わりばんこに集中講義に来てくれ、夜間に開講されているので、働きながら、何年かかかって必要な単位(英国の資格のためには憲法、刑法、契約法、不法行為法、信託法、EU法、香港の資格の場合、EU法の替わりに会社法)をそろえてLL.B.を取得し、その成績がよければLPC(香港ではCPLLという)コースに進学できる。さらに、CPE(Common Professional Course)という、LL.B.よりも簡単な課程の修了によっても成績次第ではLPCに進学できる。
私の香港大学大学院時代の同級生の弁護士テレサは、元会計士で、働きながらCPEをとって弁護士になった。また、友人の香港人の高校の生物教師のケンは、CPEを終了して働きながらCPLLに通っている。

3.米国
そして、米国の制度は、4年制大学を卒業した者が、専門職大学院であるロー・スクールの3年間の課程(J.D.コース)を卒業すると各州の司法試験の受験資格ができ、さらにその司法試験に合格しなければならないので、Cタイプといえる。

4.日本の新制度
日本の新法曹養成制度は、この米国型に倣ったCタイプに分類できる。
しかし、私は、この制度が、日本の特殊性を軽視して米国の制度を直輸入したための弊害の目立つ制度に思えてならないので、以下にそれを検証する。

第一に、司法試験の合格率の違いである。
ある課程の修了と試験の合格を両方要件として課すならば、試験の合格率が高くないと、どうしても受験に合格することが第一目的になり、せっかく作った課程自体に学生の身が入らない。その点、米国の場合、ニューヨーク州の2005年2月の試験を例に取ると、合格率は48%(うち初回受験者の合格率は63%)と、高いので、学生はロー・スクールに在学中は受験を気にしないで安心して、実務を意識した専門的な勉強に打ち込むことができる。実際、ロー・スクールの勉強と受験勉強は全く異質のものであるが、後者は、卒業後2ヶ月ほど予備校で集中的に勉強すれば合格はさして困難ではない。
つまり、ロースクールの勉強が、後述するように、規範を発見する過程を身につけるものであるのに対して、受験勉強は、大量の規範の丸暗記である。それに第一、米国の司法試験は州ごとに実施されるから、学生は自分がpracticeするつもりの州の試験をうけるのだが、ロースクールでは特定の州の法律を勉強することはまずない。
日本の場合、来年度以降の合格率は2−3割といわれており、そのため、学生が受験のことしか考えられないという弊害を生み出しており、その要望に応えるためには、教員は、受験対策を意識した授業を行うことになるが、それは、受験教育を厳禁した文部科学省の法科大学院教育の理念に反する、というジレンマに陥る。実際、筆者を含め、多くの法科大学院教員が、「学部で教える方がずっとアカデミックな内容ができてやりがいがある」ともらしている。
予備校教育の弊害を除去するために作った制度なのに、実は、膨大な人的・物的資源を投入した法科大学院自体が予備校化せざるをえないという構造的な矛盾を内包するのである。

第二に、司法研修所の有無である。米国には司法研修所にあたるものがないので、きわめて実務的なロー・クリニックや、ドキュメンテーション技術の授業、模擬裁判などが、ロー・スクールで取り入れられている。
古い資料で恐縮だが、私が在学していた当時の1991年度のHarvard Law Schoolのカタログを見ると、2,3年生の受講する選択科目が極めて多種多様である。
行政法関係が24科目、ビジネス・ファイナンス関係が23科目、商法関係が7科目、比較法関係が25科目、国際法関係が31科目、憲法関係が31科目、刑法関係が10科目、家族法関係が9科目、連邦法関係が10科目、法哲学関係が18科目、法と文学、エイズと法等の隣接展開科目は22、法史学関係が9科目、法実践科目がクリニカルコースを入れて50あまり、専門家教育関係は12科目、地方自治体関係は10科目、財産権関係は、7科目、税法関係は18科目である。クリニカルコースだけでも、30余りあり、細分化されている。たとえば、私も選択していた隣接展開科目のDisability and Lawは、同じタイトル同じ教員のクリニカルコースが併設されており、講義で学んだことを、障害者の施設に行って即実践することができるようになっているのである。
日本では、司法研修所を残してしまったので、法科大学院での教育は中途半端なものにならざるを得ない。また、70%が法曹になれないのに、法曹になってからしか役立たないことを受験勉強より熱心にやるインセンティブを学生に求めるのは無理がある。

第三に、学部レベルの法学教育の有無である。米国には学部レベルに法学教育がないので、ロー・スクールの卒業生しか法的知識はないことになるので、法曹になる以外にも、ロー・スクールの卒業生の活躍する場はいろいろあるが、日本では、法学部を残してしまった。法科大学院卒業後5年以内に3回しか受験できない日本の新制度において、米国ほど労働市場の流動性が高くないこととあいまって、いわゆる「三振」した者の身の振り方が問題視されている。企業法務という声もあるが、企業法務を10年以上経験した筆者は、企業で法務部員としてほしい人材は、法科大学院を卒業して三振した者でなく、法学部の新卒者であると断言できる。私がときどき講師を務める企業法務家向けのセミナーで出席者の何名かに意見を聞いても同様の答えであった。企業法務において必要な法的知識はその企業ごとに違うので法学の基礎さえ身に着けておれば、あとはOJTの方が重要である。また、日本企業には儒教的ともいえる年齢と上下関係の逆転への違和感や、すべてを入社年次で区別する等の年功序列制度が色濃く残っているので、歳だけはくっている「三振」者の処遇には正直困るであろう。
そうすると、法科大学院の学生は、大学卒業後も尚、膨大な時間と資金を投資して法科大学院に行っても、70%の者が、その投資額に見合った職業に就けないということになり、きわめて危険な人生の賭けを強いることになる。さらに、それが可能な恵まれた者しか法曹になれないという危険性も生ずる。
この点も、米国では、学生向けの低金利の教育ローンが普及しているから、日本とは大きく異なる。米国ではロースクールに入学すればほとんど法曹にはなれるので、銀行も安心して貸してくれるし、名門大学ほど金利が低いという話も聞く。
そのようなファイナンス制度の整備されていない日本では、法科大学院在学中とその後の受験期間計5-6年を勉強だけに充てられるというのは、一部の恵まれた人たちだけではないだろうか。その後必ず法曹になれるとは限らないというopportunity costを含む様々なリスクを受け容れられるとなれば尚更である。そのように恵まれた立場の者しか法曹にならないというのも、社会の底辺にいる当事者を扱うこともあり、その人生を左右する仕事に就くについて適当かどうか疑問である。(たとえば、私の家庭の事情では、法科大学院への進学は不可能だった。)

第四に、法体系の違いがある。米国のロー・スクールで取られている教育方法であるソクラテス・メソッドを文部科学省は日本の法科大学院にも導入するよう奨励しているが、ソクラテス・メソッドは、英米法には適した学習方法であっても、日本法の属する大陸法には必ずしも最適な方法ではない。というのも、英米法は、複数の類似のケースについての判例を検討することによって、そこに定立されている規範を「発見」するものであり、実際、ロー・スクールの1年生の必修科目(契約法、不法行為法、財産法、憲法、刑法、証拠法について、特定の州法でなく、全米に共通する判例法を学ぶ。この6科目はそのまま、ほとんどの州の司法試験で課される全米共通試験科目である。ちなみに、ニューヨーク州の司法試験は、その他に、ニューヨーク州法約20科目の試験を課される)では、教員と学生、あるいは学生同士の対話を通して、この規範を「発見」する訓練を徹底的にやらされる。だから、英語で判旨のことを、Findingといったりする。そのことによって、学生たちは、「法律的なものの考え方=think like a lawyerあるいはリーガル・マインド」を体で覚えるのである。
しかし、大陸法は、基本的に条文中心であり、判例はその文言の解釈を補うものである。規範は初めからそこに書いてあり、あとはそれをどう解釈するかだけの問題であるので、必ずしも対話が効率的な方法ではない。それどころか、記憶すべき規範の量の多い大陸法では、却って非効率な方法かもしれないのである。

第五に、瑣末なことになるが、法科大学院を卒業すると授与される「法務博士」という学位についても問題がある。これは、おそらく、米国のロー・スクールのJD(Juris Doctor)の直訳であろうが、このDoctorは、そもそも「博士」という意味ではない。米国のこの3年間の課程を卒業しても、それは法律に関する最初の学位なので、かつてはLLB(法学士)しか授与されなかった。現在のロー・スクールの教授も、ある年齢以上の人のタイトルがJDでなくLLBになっているのはそのためである。しかし、米国では何かというと比べられ、お互いに仮想敵扱いしている医師の免許取得も、学部レベルに医学部がないので、専門職大学院であるMedical Schoolの卒業が要件となるが、彼らが、その課程を修了すると、MD(Medical Doctor)という称号が与えられるのに、自分たちがBachelor(学士)では不公平だ、と弁護士団体が苦情をいったため、途中からMedicalのMを法律を意味するJurisのJに変えただけのJDという称号が用いられるようになったという経緯があり、まさに、「政治的美称」に過ぎない。

第六に、新法曹養成制度導入の正当化事由として、よくとりあげられる、日本の法曹人口の少なさについても疑問がある。
2003年の統計によると、法曹一人当たりに対する人口は、米国が277人、英国が574人、ドイツが631人なのに対して、日本は5510人にも上る。
しかし、ここで無視してはならないのは、米国にはない法曹以外のさまざまな法律専門職が日本にはあるということだ。米国には、日本で言う、弁理士、司法書士、行政書士、社会保険労務士、税理士にあたる資格がないので、弁護士がそれらの仕事をしている。それらの日本での人数は、それぞれ4064人(2005年)、17306人(2005年)、38871人(2006年)、30450人(2006年)、66674人(2003年)であり、それらを加えると、日本の法曹人口一人あたりに対する人口は720人になり、決して少なすぎるとはいえない。
そして、安易に法曹人口を増加させることは、日本の「法の支配」を覆すことにもつながりかねないという危惧を私は抱いている。
法曹人口が少ないからこそ、法律家は”Nobles Oblige”を意識して、儲けを度外視した仕事も引き受ける。刑事裁判の9割が、国選弁護人によって弁護されているが、弁護料は経費込みで一件10万円にも満たないから、まじめにやればやるほど赤字になるのだが、殆どの弁護士は手抜きをせずに弁護人の務めを果たしている(米国ではそれが期待できないので、Public Defender Officeという、公選弁護専門の弁護士を雇用する州政府および連邦政府の機関がある)。さらに、多くの地方自治体では、法律知識のある職員の不足を、地元の弁護士が各種審議会や委員会の委員になることで、ボランティア的にカバーしていることを、私は地方で暮らして初めて認識した。いわば、この”Nobles Oblige”意識が、日本の「法の支配」を下支えしているという一面を否定できないのである。
また、数が増えて、競争が厳しくなり、法曹が必ずしも高収入・高ステイタスを保証された職業でないようになれば、時間と資金を大量に投資する法科大学院に優秀な人材が集まらなくなり、結果、法曹の質が大幅に低下するという問題も出てこよう。
以上のように、米国の制度を形だけ導入した新法曹制度には見直すべき点が多々あることを、現場の教員として日々この矛盾に耐えながら教育に当たっている者として、提言させていただくものである。




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2007年10月16日 20時55分02秒 /  演劇

夢の(離れた)2ショット

本当は科研費の申請とか仕事が山積みなんだけど、今までの加害者とは全く別の人間がらみで改めて人間不信になるようなことがあったりして(まあ、どこまで腐っているのかと反吐が出そうだ。頼むから、姑息・卑劣な方法で自分だけが利益を得る行為を正当化するために他人の人権を侵害するのはやめてほしい。社会的にも大きな問題だと思うのでいずれ実名で公表する)、やる気が出ず、つい逃避したくなる。

私の大、大、大好きな役者である堤さんと上川君は、どちらも役者馬鹿タイプで、バラエティ番組にはあまりでない。

二人とも、科白ならいえるけど、素でしゃべるのは本当に苦手らしい。

その二人が、先日のフジテレヴィの新番組対抗の生番組に出た!!
堤さんは{SP]というドラマで岡田准一とダブル主役だし、上川君は、「スワンの馬鹿」で、民放ドラマ単独初主演というから、断るわけにはいかなかったのだろう。

けして一緒に並びはしなかったけど、夢のような絵だった!!

でもやっぱり堤さんは、司会の中居君に、「堤さん、生放送の時はいつも唇乾いてますね」といわれて、ひきつっていた。

スリッパ卓球の時もさんざんだった。

上川君は、そつのないユーモアある受け答えだった。実は、キャラメルボックスの前説では、劇団一鋭い突込みをするのである。(もうすぐ何年ぶりかでキャラメルの芝居にも出るのよね。チケットが取れるか心配)
劇団員からは「上川君は、ただの銃器おたくの癖にかっこいいなんていわれてずるい」とかいわれている。

卓球もうまかったが、劇団ひとりが足を引っ張って負け。

上川君といえば、最近WOWOWで主演してドラマ化されたので、横山秀夫『震度0』を読んだ。
未曾有の大災害と同時進行で起こる、一警察官の失踪をめぐる地方の警察内部での醜い権力争い。本人の安否はもちろん、国民の安全や正義などまるで眼中になく、ひたすら自分の出世や退職後の天下り先のことだけを計算して動く人間たちは、自分の職場のことを思い出させた。
そして、そんな醜悪な論理とはまったく異質の、人間らしい感情でキーパーソンが動いていたことから訪れる意外な結末。
大掛かりなトリックなどなくても、十分読ませるミステリーを開拓した作者の、今のところ、最も好きな作品である。『影の季節』(上川君が主演した2時間ドラマがシリーズ化されている)、『半落ち』よりも良かった。そもそも、やたら評価されていた『クライマーズ・ハイ』はどこがいいのかさっぱりわからなかった。


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2007年10月16日 19時56分08秒 /  演劇

はなまるマーケット

話題があちこち飛ぶが、昨年10周年を迎えたというこの番組について。

私も、香港から戻ってきて職探しをしている短い間、本当の意味での専業主婦だったので(香港では、外交官の配偶者も外交団の一員として外交官用パスポートが支給され、公務があり、結構な額の手当ても出る=生活費は夫もちだったので、可処分所得は国立大学の准教授になっても、山の手線内に180平米という分不相応なマンションのローンを抱える今より多いくらいだったので、専業主婦とはちょっと違う)、この番組を見ていた。

今は、もし家にいるとしても、「特ダネ」の方を見ている。

この番組では、ほうれん草はゆでなくても、茎に十文字に包丁を入れて、水にさらしておくと灰汁が抜けますよ(これは今でも使っている)、とか、そういう情報をやっているのである。

夫から渡された生活費は食費、消耗品込みで一月4万円だったのでやりくりが大変だったのである。(ちなみに小遣いとしては6万円をもらっていたが、これでは、服も買えないし、旅行にも芝居にも行けない。自分で稼がなければ人間らしい生活はできないと思い、必死で就職活動をしたのである。東大の同級生も夫の海外転勤から帰国後はほとんど専業主婦になっており、40過ぎてブランクのあるおばさんの再就職は半端なく大変だった)

また、女性の家庭料理の先生がよく出てくるのだが、気づいたら、ほとんどみんな、母子二代、場合によっては祖母から三代同業なのである。
しかし、みな結婚しているのに、母親のブランドを引き継ぐため苗字は母親と同じ、ということは、二代目からは仕事上夫婦別姓ということ。家庭料理という、極めて主婦的な仕事で夫婦別姓というのがなんとも皮肉で面白い。

はじめは、どうして割とやんちゃなキャラクターのやっくんが主婦に受けるのかなあ、と不思議だった。

でも、見ているうちに、主婦は自分の旦那とやっくんを重ね合わせているのだなあとわかってきた。

彼は、けしてそつのないタイプではない。ゲストに対して決してお世辞をいわないし、紹介される食べ物も、おいしくないときには、口には出さないが、見ているほうにはそれとわかるリアクションをする。でも、立場上それを表立っては出さないように必死に苦労しているところが、主婦から見ると、「うちの旦那も、私たちを養うために、会社ではきっと同じような苦労しているんだろうな、でも、私にだけは本音を見せてくれるのよね」と親近感を持つのである。

でも、彼のような性格だと、NG発言のできない、しかも下品なこともいえない朝の生番組は相当プレッシャーなのか、番組内で上手にストレス解消していることもある。

たとえば、高橋克典が、吹雪ジュン(堤さんがプチブレークした1996年の『ピュア』では叔母甥関係だったのに)と相愛になる『年下の男』(内館牧子脚本)の番宣のために出演したとき、「高橋さん、個人的にはずっと年上の女性というのはいかがですか?」(このときまだ未婚)と聞いたのには、心底「意地悪だなあ」と思った。
高橋が下積み時代、吉田日出子と長く同棲していたことは、オフィシャルファンサイトにも出ているほど、公知の事実、やっくんも知らないはずはない。高橋も困っていた。

もっとも、ゲスト自身が、上手に意趣返しに使っていたこともあったなあ。
やはり、渡辺淳一原作のドラマの番宣で、緒形拳が出たとき、ちょうど、共演者のトヨエツが中山美穂らしい相手との恋愛を書いた本を出したばかりで、緒形拳は、にこにこしながら、「豊川さんはとってもいい人で、僕にこの本をサイン入りでくれたんですよ」と、そのサインの箇所を示すと、「緒方拳さま 豊川悦司」と書いてある。
大先輩の俳優の名前を間違えるなんてこれほど失礼なことはない。
緒形は本当は、トヨエツは失礼な奴だといいたかったのだろう。しかし、こんな形でうれしそうにいえば、建前上は悪意があるとはいえない、実にうまい意趣返しの仕方であり、将来、参考にしたいと思った。

それにしても、司会者二人の無知ぶりもご愛嬌を越えている。

やっくんは、吉本多香美がゲストの時、「小さい頃からスポーツにはコンプレックスがあって」といったら、「すみません、コンプレックスってどういう意味ですか」と聞いていた(知ったかぶりしないところは評価すべきなのだが)。

また、岡江久美子は、前にドラマ『七人の女弁護士』(最近釈由美子でリメイクした)で弁護士役をやっていたくせに、クイズコーナーで、「弁護士バッジは何の花を模しているでしょう」という問題が解けなかった。

まあ、その辺が主婦を安心させるのでしょうけど。


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2007年10月16日 19時20分45秒 /  読書

品格とは

ベストセラーになっているので一応、『女性の品格』を読んだ。

72ページに、

「流行を取り入れた服は質がよくて長く着れそうでも、デザインは必ず古くなって十年二十年と着ることはできません。」

まちがいなく、ら抜き言葉は品格がない。
他人に「品格」を説く本にこういう間違いがあること自体が、胡散臭さをよく表している。

大体、フェミニスト的には「女性の」と区別すること自体が噴飯ものである。

男性ならよくて女性なら品格がないなどということを認めること自体、一応ジェンダーに携わっている人間のくせに到底許しがたいことである。

著者はこんな人だと思わなかったので正直ショックだった。

前の前の内閣で「男女共同参画・少子化」問題担当大臣に猪口邦子がなったときも、不適格だと思った(もうやめたからいいけど)。
というのも、あの人は、夫のことを公的な文章で「主人」と抵抗なく書くし、ジェンダーバイアスに基づいた役割分担をしていることを平気で日経新聞のコラムに書いていたからだ。

いわく、「子供が小さいうちは、自分は外での交際を諦め、専ら家で主人の内外からの客をもてなすことに専念していた。しかし、子供が大きくなって、主人が『邦子もそろそろ外に出たら』といってくれたので、国連軍縮大使を引き受けたのである」

女性の中でもキャリアを持って活躍している人が、ジェンダーバイアスに鈍感であることを、日経新聞の夕刊という媒体で堂々と示すことが、どれだけ有害かわからないのか、と憤った。そんな人に男女共同参画などできるわけないのである。



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2007年10月16日 19時08分12秒 /  profession

学力低下

藤木直人が好きなので、おしゃれイズムという番組をよく見るのだが、先日、須賀健太という子役がゲストのとき、のけぞるほど驚くことがあった。

ゲストのかばんの中身拝見ということで、かばんから漢字ドリルが出てきた。
上田が「ちょっと泉ちゃんやってみてよ。藤木君、問題出してあげて」といい、森泉(森英恵の孫でモデル)にある漢字の読みの問題を藤木君が出した。(藤木君は性格がいいので、易しいのを選んでいた)
しかし、森泉は、その漢字=「妥協」が読めなかったのである。

「あんきょう?」とかいうのである。

彼女は確かに母親がアメリカ人だが、日本生まれ日本育ちで母国語はもちろん日本語、大体「妥協」のようによく使う漢字が読めないということは、番組の進行表なども読めないし、新聞だって読めないということではないのか?

それで曲がりなりにも社会人が務まるのか?

それよりも驚いたのは、この番組はかなり編集でカットされる部分が多いはずなのに、このシーンがカットされていないということだ。
つまり、「妥協」という字が読めない司会者でも恥でもなんでもないということなのだ、その認識の方が恐ろしい。

内田樹(この名前って、読み方は違うけど今でも多数の香港人を小樽観光に駆り立てている映画『ラブレター』の主人公と同じだ)の『下流志向』にも、学生の学力低下のことが描かれていたが、私が深くうなずいたのは、教員と学生の関係について。

昨今、大学と学生、教員と学生の関係は、教育というサービスを提供する契約であるという考え方が非常に意識されており、民法学界でも、とくに前納授業料返還をめぐる一連の裁判例で「裁判所は『在学契約』という新しい類型の契約を樹立した」なんていわれている。

しかし、契約だからといって、お客様は神様であり、なんでもお客様である学生が主観的に望むとおりにしなければならない、という結論になるのはおかしい、とかねがね思っていた。

そのことについて、内田氏は、「普通の契約なら消費者がその商品の品質を評価する能力をもっているが、教育の場合は、その時点で学生が契約によって提供されるサービスの品質を適正に評価する能力を持っているとは限らない。むしろ、だからこそ教師が教え導くのだ。教育の内容を適正に評価できるほどはじめから学生に能力があるならそもそも教える必要などない」というようなことをいっている。

私は、これに英米法上の信認関係の法理を付け加えたい。
信認関係については、「学界など」というエントリーで触れたが、大陸法的な契約ドグマでは実質的に適切な解決ができない問題に有用な概念である。
はじめから対等でない契約関係のいくつかの類型を信認関係として規律するのである。Englandの判例では、大学教員と学生の関係は信認関係であるとしている。

信認関係ははじめから対等ではない。私が教えている学生のことはここに書かないと自戒しているのはそのためである。しかし、と同時に、信認関係ということは、専門家に信じて任せるという要素を含んでいる。パターナリスティックな要素もある。つまり、「主観的に」学生が喜ぶことが、必ずしも教育的に効果があるわけではないということが、法的にも正当化できるのである。


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2007年10月12日 01時12分20秒 /  profession

ショックのあまり禁を破る

私は立場上、勤務先の大学の問題は告発しても、直接教えている学生の問題は、どんなに社会に問いたい問題があっても、ここでは絶対に書かないようにしようと自戒してきた。(いずれ立場が変われば別の媒体には書く予定だけど)

同じように、よそのロースクールの学生のこともとやかくいうのはやめようと思っていたのだけれど、あまりにもショックを受け、まさかこれが一般的なロースクールの学生の姿ではないですよね(もし、そうだったら世も末だ)、と確認したいがために、禁を破る。

某(うちではない)ロースクールを卒業して、残念ながら今年の新司法試験には不合格だった人のブログに、こんなくだりがあった。

「実務にもし出られたら、みんなに追いつけるよう、また私が実務に出られなかったために苦しんでいる多くの方々のために、そして自分のためにも人より何倍も働かなければならないのですから。」

「私が実務に出られなかったために苦しんでいる多くの方々」って何???

現在は、弁護士の数が増えて、修習生も就職難、量的な過疎化の問題はほぼ解消し、わが県でも、「量より質をどうするか」ということが弁護士会の課題になっているくらいだし、法テラスもあれば、ネット相談もあるという時代、事件を依頼したいのに弁護士がいないということなありえない。

ここでいう「事件」というのは、弁護士が依頼を受けること自体が「着手金目立て」と非難されるような、法的に全く成り立たない議論で訴訟しようとする依頼人による、勝ち目のない事件はもちろん除く。こういう事件を引き受けることは却って弁護士倫理に抵触するから。
また、もし、法律論として全くナンセンスな事件や、法律や判例に照らして絶対に勝てっこない事件を受任したりしたら、裁判官や検事から能力を疑われ(法律どころか社会科学そのものがわかっていないようなとんちんかんな理論では、弁護の引き受け手などないのが当たり前)、とくに法曹が全員顔見知りの地方都市や田舎では、事件の依頼が来なくなる。

もっとも、弁護士が増えて競争が厳しくなると、着手金だけでもほしいからといってこうした無理な事件を引き受け、依頼人に無用な期待を抱かせたり無駄な金を使わせたりするのではないか、という危惧がある。

つまり、このブロガーがいいたいのは、俺様は現在弁護士をしている誰よりも優秀だから、この俺様が不合格になったために弁護してやれず、替わりにできの悪い弁護士に依頼しているから苦しんでいる人がたくさんいるってことになる。

この傲慢さはちょっと尋常ではない。

私も大学在学中は、法曹を目指していた。
ご多分に漏れず、社会正義を実現したいと思っていた。

しかし、留年しても論文試験に合格しなかった時、こう思ったのである。

本当に困っている人を助けたいなら、ほかにいくらでも仕事がある。
現に人権派の弁護士として活躍している人の助手になってもいいし、NPOだってたくさんある。

それなのに、「自分が」弁護士になることにこだわるのは、勉強の得意な自分こそその職業にふさわしいという傲慢さと、ステイタスへのこだわりがあるからではないか、実は、自分の能力にふさわしい知的で偉そうに見える職業に就くということが真の目的で、社会正義云々はただの偽善的な正当化じゃないかと。

その偽善に気づきながら司法浪人はきつい(実際親の援助は在学中すらなかった=学費も本代も全部バイトで賄った)なと思い、就職したのである。
(初めて受けた論文の成績は総合Bだった。就職したが、上司である法務部長に理解があって、受験を続けることを認めてくれた。入社してから留学させてもらうまで、毎年短答には合格したのだが。全部で14年の銀行員生活では、法務部等で弁護士を使う立場で、使う弁護士は同業の中でも成功している者ばかりだったが、弁護士という仕事のいい面も悪い面も見つくした気がする。)

司法試験のように,社会に貢献したいといいながら、機会コストがかかる資格の場合は、そのコスト(とくに、受験勉強の間社会に貢献できない)を正当化するのが難しい。

たとえば、役者を目指して長く下積みをする場合にはそんな偽善的な矛盾はないのだが。

もし、困っている人を助けるために弁護士になりたいというのが本当なら、ありていにいって、受験に要する時間、NPOなどで働いて社会に貢献するよりも、その時間を勉強だけに使っても、弁護士になった方が社会全体から見たら有用だ、と客観的にいえるほど、優秀で正義感にもあふれた人でないと正当化できないのではないか。

旧試験の時代のように学部在学中合格することもできる制度ならともかく、大学を卒業したあと、そうした困っている人を助ける仕事に就く機会を放棄してまで、大学院でさらに勉強しなければならない現在の制度では、「困っている人を助けるために」法曹を目指すということは、自分がそういう、よっぽど価値のある人間だと自負しないとできないことなのではないか。

自分こそがその値打ちがあると思う人間であることと、社会的弱者のために身を粉にして働くということが両立するとは思えないのだが。

もっと端的に「悪い奴に適正な刑罰を与えたい」とか「人を裁きたい」とか「法律を適用して問題を解決するという仕事をしたい」とかいえば、「それなら法曹になるしかないですね」ということで、わかるんですけどね。




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