日本の官僚はきわめて優秀だ。しかし同時に、きわめて愚劣な人たちもいる。それが前の防衛事務次官とはいわないが、それにしてもあきれることは多い。
日本のような官僚の登用システムをメリット・システムという。日本語では「資格任用制」。国家公務員試験を受け、合格することによって官僚に採用される資格を得ることができるというものだ。
このシステムは、官僚を中立な立場に置くことができるシステムとして評価されている。確かに、日本では内閣に属しているとはいえ、中立的立場が保障されている人事院によって試験が行われ、その任用に政治的介入ができないようになっている。
行政学の教科書では、よくスポイルズ・システムと比較される制度だ。「猟官制」ともいわれるこの制度は、早い話、政権を取った政党が、官僚ポストを文字通り獲物のように奪い取ってしまう制度だ。
19世紀中旬のアメリカで特に盛んになった。こと、ジャクソニア・デモクラシーという現象を起こした第7代大統領、アンドリュー・ジャクソンの時代には郵便局長まで猟官制の対象になるほどだった。非難の声も上がったが、行政を民主的に統制する手段として正当化された。
しかし、というよりはもちろん、この慣習は無能な行政官を大量に生むことになった。やがてこのシステムは見直されるようになった。先行してイギリスでも、政治的な情実任用(パトロネーゼ)が見直され、任用の中立化が進められていた。その影響を受けて、アメリカでもペンドルトン法という、資格任用制のしくみを定めた法律が誕生した。1883年のことだ。
日本はどうだったか。明治維新後、しばらく藩閥政府が続いたが、政党勢力が進出してくると、山県有朋を中心とする官僚閥は政党勢力の浸透を防ぐため、1899年に文官任用令を発し、資格任用制を敷いた。高級官僚になるための高等文官試験や、いわゆるノンキャリ官僚をめざす普通文官試験が作られ、公開競争試験に基づいたメリットシステムが完成した。
その試験は現在国家1種・2種と名前は変わっているが、だいたい同じように存在している。太平洋戦争終結後、GHQは日本の官僚制をむしろ温存、利用しながら日本を統治したということが背景にあるだろう。日本の官僚制の連続性を説く人は多く、軍部と結びついた官僚が戦後を作ったという「1940年体制」を主張する学者もいる。
さて、この山県有朋が作ったメリットシステムだが、しかし果たして本当に「中立」なものなのか。答えはノーだ。山県は政党勢力を排除し、官僚制に民主主義を持ち込まないためのシステムを作った。その動機自体が中立ではない。
こうして日本の官僚制は独立王国になった。戦前から各省庁のセクショナリズムが跋扈(ばっこ)し、政党ぞなにするものぞ、法律は中立であるわれわれが作るのだという傲慢で勘違いな使命感を持った官僚たちであふれかえった。政党がそこそこ力を持つようになると、まさに面従腹背で、うまく政治家に取り入りながらも肝心な権力の源泉、つまり情報はしっかりと握って、省益などというものを追求してきた(私益ばかりを追求した不埒な連中もいた)。
そろそろ、このしくみを見直さなければならない。
自民党の間では、省庁別の採用をやめて、官邸が一括採用し、省庁に派遣するという案も考えているようだ。それもいいだろう。しかし、ここらでもうちょっとラディカルに、猟官制の導入も考えてもいい。
つまり、事務次官や審議官、官房長くらいは政権が変われば去ってもらい、政権による政治任用が行われてもいいのではないか。そうしないと、日本の根深い官僚王国は、そう簡単には崩れないと思うのだ。
猟官制が是正されたと言っても、今のアメリカでも数百のポストがいまでも猟官制的な任用制をとっている。官僚の身分保障は? アメリカの高級官僚は優秀なので、クビになってもどこかで食っていける。大学、シンクタンク、企業、引く手あまただ。
逆にいうと、そうして一般社会を経験した人が、政権交代でまた官僚になって、力を発揮したりもできる。民間に雇用の流動性を説いているのだ。官僚の雇用も流動性を持つべきではないか。事務次官じゃなくちゃ食べていけない人なんて、はっきりいっていらない。
問題は、官僚雇用の流動性が、逆に官僚と財界などとの癒着を深めないか、という点にある。アメリカでもそのような傾向がないとはいえないし、これは心配な点ではある。
しかし、そのような癒着も政権交代が起これば効果がなくなる。とにかく官僚王国に風穴をあけることがきわめて重要なわけで、私の猟官制の提案はそのための一つの案にすぎない。議論が待たれるところだ。
(記者:辻 雅之)
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