M君が亡くなった。会社の一期後輩、というより気が置けない親友だった。
もう三十年以上も前になる。お互い駆け出しの玉野支社時代。なぜか気が合い、親交を深めるようになった。
軽いフットワーク。正義感が強く、竹を割ったような性格。そのくせ短気で「そりゃあ、違おう、本多さん!!」が口癖かのように“反抗”してきたよなあ。
文章もうまかった。当時、共産党では県内初の副議長となった市議会議員の横顔紹介は、新人記者としては出色だった。
根っからの新聞記者のような大先輩であるY新聞のSさんから、取材のイロハや記事の書き方を二人して教わったこともあったな。仕事だけでなく、早朝野球、テニス。酒もよく飲んだ。一番楽しい記者時代を共有できた、と思う。
何年後かに内勤の整理部で机を並べた。「早く取材現場に戻りたい」と、レイアウトを教えようとする私をてこずらせたものだった。見出しの勉強をするよりも、記事内容を吟味、読書量もすごかった。一線に戻る日に備えていたのだろう。
心根が優しく、後輩の面倒見もよかった。「新聞記者はまず現場」「生涯一記者」が信条だった。彼の記者魂は、きっと後輩に受け継がれていくに違いない。
「退職後は大好きな犬を飼って、のんびりしたい」といっていた―。せめて夢の中に出てきてくれよ。ビールでも飲みながら新聞談議をもう一度したいものだ。
享年五十七歳。早すぎる死だった。
(広島支社・本多薫)