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【文芸時評】11月号 早稲田大学教授・石原千秋 「誤配」される面白さ
久しぶりにフランスの哲学者ジャック・デリダの「真実の配達人」を読み返した。ごく乱暴に要約してしまえば、メッセージはそれを受け取ってもらいたいと思っていなかったところへ届いたときにこそ意味を持つという逆説的なことを言っているようだ。このことを、デリダは郵便物になぞらえて、「誤配」という言葉で呼んでいる。
今月の文芸誌では「新人賞」がいくつか発表された。たとえ荒削りで欠点だらけであっても、既成作家のちんまりまとまった小説を読むよりは、楽しい。そもそも、もしそうでなければ、選考委員もこれらの小説に「新人賞」を出す気にはならなかっただろう。皮肉ではなく、「新人賞」を支えているのは、既成作家の小説なのである。
その中で、これは「誤配」が起きれば面白い意味を持つだろうと思えたのは、墨谷渉「パワー系181」(すばる)だ。181センチを超える背の高い女性リカが、マンションの一室でセックスはしない奇妙な風俗を始める。そこへ奇妙な男たちが来て、たとえば2人の体のサイズを徹底的に測っていくだけのような奇妙な行為を行っていく。そこへ背が低いことにコンプレックスを持っている男が来てちょっとした騒動が起きるところで終わりを迎える。
この小説の意外性は、ただ単に女性の背が高いという設定だけで、男性の性的なコンプレックスをみごとにえぐり出してしまったところにある。しかも、背の低い瀬川という男性の視点から書かれる場面もあって、テーマがより一層際だっている。男女の性差が、背の高さの差という物理的な要因によってのみ支えられているかのような錯覚さえ覚える。この趣向はみごとだ。この小説は、女性に届いても、男性に届いてもどこか居心地が悪く、だからこそ「誤配」の意味を持つと思った。
高橋文樹「アウレリャーノがやってくる」(新潮)は、「白い煙が抱いてほしいとまとわりついてくる夜だった」と、いかにも古風な文体ではじまる。この一文で、もう小説の結構がピシッと決まったかのような感想を持つ。ところが、その後に展開されるのは、神話的な名前を持った登場人物の「代理詩人」をめぐる出来事が、これといった意味のなさそうな日常を書くような文体で書かれる。最後に、彼が「アウレリャーノがやってくる」というタイトルの長い詩を書くところで終わる。
最後にちょっとした構成上の工夫があるが、これ自体はごくありふれたものだ。浅田彰が選評で「デビュー作のみに許された一度限りのトリック」と言っているのは、まったく正しい。僕も、この人が「作家」であり続けるのは難しいという率直な感想を持った。ただ、文体の壊し方には興味を持った。ありふれたトリックよりも、文体にこそ構成力があるということに、早く気づいてほしいと思う。
評論は大沢信亮「宮澤賢治の暴力」(新潮)が「新人賞」となっている。「雨にも負けず」の人生詩人のように思われている宮澤賢治が、国柱会という右翼的な思想を持った新興仏教団体に深い関心を持っていた観点から論じている。しかし、これ自体文学研究ではもはや常識で、なぜいまさらという感がある。それに、生活者としての賢治も、創作者としての賢治も一つの論理で論じられるところに、論理の自己目的化と、むしろ「古さ」を感じた。それが評論だといわれればそれまでだが、「机の上の賢治」にどれほどの意味があるのだろう。