平安時代中頃、末法思想が貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行していました。三千院往生極楽院(1048)が建立されたのもこの頃。平等院は、998年(長徳4)に時の関白藤原道長が左大臣源重信の婦人から譲り受けた別業「宇治殿」、1027年(万寿4)道長没後その子頼通が伝領する。 1052年(永承7)3月、仏寺に改め大日如来を本尊とする五間四面の本堂を建立して平等院と号する。その翌年の1053年(天喜元)には 平等院の阿弥陀堂が落成し、堂内には平安時代の最高の仏師定朝によって作成された丈六の阿弥陀如来坐像が安置されて極楽浄土を再現。阿弥陀如来坐像は定朝の作成したものとして現存する唯一のもの。 1056年(天喜4)法華堂、1061年(康平4)多宝塔、1063年ごろ経蔵、1066年(治暦2)五大堂、1073年(延久5)不動堂。 頼道により寄進された9箇所の荘園により経済的にも支えられ、鎌倉時代を通じて藤原氏一門の子弟の中から平等院執印が任じられ、藤原氏氏寺として大伽藍が整備され興隆を極めるも、その後三度の大きな戦乱に巻き込まれことになる。 1180年(治承4)源平の争乱。源頼政父子が宇治川の合戦で平家に敗れ、頼政は平等院境内の扇芝で自害。その子仲綱も阿弥陀堂内で切腹する。1336年 (建武3)の楠正成と畠山高國の宇治合戦 のおり楠勢により放火されほとんどが焼失、阿弥陀堂、鐘楼、北大門だけが残ったと「太平記」にある。1486年(文明18)応仁文明の乱の余波を受けた山城の国一揆にあい寺運は衰える。中世を通じて天台宗寺門派の影響を強く受けていた平等院に、明応年間(1492〜1501)浄土宗僧侶の登蓮社、城誉栄久がはいり浄土院を開いて復興に努めた。江戸時代以降は、天台宗系の最勝院と浄土宗系の浄土院が輪番で平等院の管理にあたっている。現在残っているのは鳳凰堂、観音堂、鐘楼のみ。阿弥陀堂は、建物の屋根に鳳凰が飾られていることと、 建物自体が羽根を広げた鳳凰の姿に似ているところから鳳凰堂と呼ばれている。棟飾りの鳳凰や梵鐘(国宝)の本物は、大気汚染による錆害を防ぐため宝物館にあり、間近くで見ることができる。
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国宝 平等院鳳凰堂(中堂・両翼廊・尾廊)四棟 |
〒611-0021 京都府宇治市宇治蓮華116 3月〜11月 午前8:30〜午後5:30 12月〜2月 午前9:00〜午後4:30 鳳凰堂 5月3日〜5日は拝観停止 |