成功と失敗の行き違い テコンVは、70代末までで、都合3編が製作された。しかし、1弾の成功に自信感を得て、精根込めて作った2弾は、1弾ほどの反応はえられず、キムさんは製作費節減と興行のために少しずつ商業主義の製作者に変身するようになった。
『ロボットテコンV』の後に続くのが『トリ将軍』シリーズ。金剛山に住んでいたトリが、動物たちと洞窟を掘り、大韓民国に南下するという童話のようなストーリーのこの作品は、当時のトンネル事件のブームに便乗して、一時期は人気をあつめた。「企画」が生んだ商業的成功だった。科学物、金属性から動画的キャラクラーに移っていったが、彼の成功は、しかし、それほど長くはなかった。80年初頭に公開されたトリ将軍シリーズ中『ちび御使トリ』は、TVのカラー放送がはじまると、興行惨敗を記録した。映画館に向かう観客の好奇心と欲求が、家の中に登場したカラーテレビに向けられたせいだ。『ちび御使トリ』は、それまのキムさんの作品中、最下位の興行成績を記録したまま、幕をおろした。
社会変化のせいもあるが、企画面で、まだわが国に伝えられた童話が受け入れられる時ではないという結論を出した彼は、しばらくわが国の童話には手を付けなかった。しかし、その後ふたたび作品製作に没頭しつつ作り上げた『恐龍百万年トリ』は、ちび御使トリで被った損害を挽回し、アニメ市場に恐龍時代を将来した。おまけに、テコンVの別のバージョン『スーパーテコンV』が孝行息子の役割をした。
ここに、アニメと実写を合成した『ウレメ』シリーズ(12編まで製作)のヒットも加勢した。順風満帆の時期だった。この時稼いだお金で、彼は「ソウル動画」という名前の独自映画製作会社まで設立するほどになった。勝率でいえば8割代でした。80年代の7、8年間は特に一年に必ず2作品づつ夏休みと冬休みに公開してたが、3作作れば2つは損害を被ることはなく、お金をかせいでいましたから。「ウレメ」(87公開)は世宗文化会館虹劇場などいくつかの小映画館で同時公開されたが、大韓映画館でかかっていたスピルバーグの『グーニース』を完全に圧倒しました。外国作品は、完成度は高いが、韓国の観客には、韓国独自の情緒があること、その情緒に合うようにうまく作れば、観客は入るようになるということを、彼はこの時悟ったという。それまでに集めたお金で、80年末に、スピルバーグのように完成度の高いSF物に挑戦するつもりで、五山にスタジオの敷地を買いました。映画館の悲しみをあまりに受けて、アニメ専用映画館に使おうと蚕室の附近に小映画館も作り、月刊『ウレメ』というアニメ専門雑誌も発刊しました。アニメファンの幅広く愛された雑誌『ウレメ』は、反応がよかったにもかかわらず、広告採算が合わず、2年だけで90年2月に廃刊された。ウレメの廃刊後遺症で胸の病をわずらっていた頃、普通の場合とは逆さまに、彼の場合、泣きっ面に蜂的に、88年、蚕室に3億ウォンをかけて作った3百席規模のオルムピア小映画館も、時まさしく吹き寄せて来た映画館景気不況とかみ合わさって、1億8千万ウォンの損害を被ったまま、保証金だけ引き上げて、やはり2年だけで門を閉じた。普通の場合とは逆に、彼の場合、『映画で稼いだお金を他のところですっかり食いつぶしてしまった』のだ。
このころ、度重なる失敗の中で、彼はは作品活動を事実上中断することになる。そして、途方もない借金といっしょに失意に沈んだ。
雪上加霜、本業である映画製作も不振を免れなかった。オリンピック以後、家庭用ビデオが急速に拡散し、『ウレメ』と似た日本の『プレスメン』がビデオ市場に、毎週1編ずつ出て、それに耐え切れずに看板をおろしていた。『前が見えなかった、本当に静かで寂しい時節』だと、彼はこの時期を回顧した。 アニメ監督としてはもう終わったという絶望に落ち込み、従兄弟のキム・ツゥンボムさんの名義で「ボムプロダクション」というビデオ映画社を設立し、安物エロ映画を撮りながら、忠武路の界隈を転々としていた彼に『ひょっとしたら最後になるかもしれない』という機会が来た。
当時『モトル導師』シリーズで面白い作品を見せてくれていたシンウォン動画が、後続作の興行失敗で機資材と一部製作パートを譲渡したのだ。彼は当時これらを買い入れ、バンベ洞新月ビルディング二階に入居し、「キム・チョンギフィルム」という名前で、もう一度アニメ製作に首を突っ込んだ。
しかし、その年の冬に意欲的に製作した再起作『帰って来たウレメ』は、特別出演した 天下壮士イ・ボンゴルをスターにしただけで、興行には惨敗した。90年代に入って、すでに『人魚姫』のようなハリウッドメジャー製作会社の大作アニメを目の当たりにした観客が、これ以上「古ぼけた」アニメに関心をみせなくなったからだ。急速に変わってしまった観客の嗜好と、先進テクノロジー、ハリウゥッド大資本という巨大恐龍とのひと勝負に押し出されて落ち込んでしまった彼は、91年以後、劇場用アニメ製作から完全に手を引いた。
公式席上から彼は消え去り、この界隈の人からは、「往年はひとかどのことをした」人物として、忘れ去られていった。借金に耐えられず潜伏したとか、事故で失踪したとか、アニメに対する絶望で悲観自殺しただとかいう、確認できない噂だけがあれこれ流れた。消え去った彼の背中に、外国作品を模倣したデザインで劇場アニメの水準を落しただとか、薄利多売式の低級作品を量産する商業作家だとか、公開される作品ごとに拙作だとかいう、悪声デマと汚名が、無責任に広まりもした。百年後にも愛されるアニメを作る場
――どう見ても、あまりに劇的で浮沈の甚だしい歳月を生き抜いてこられてますが、七顛八起の力はどこから出てくるのですか?私の年齢は、もう58歳になるが、感性年齢は40代初めくらいに止まっている感じです。初等学校4、5学年程度の感性の部分もある。今も作業する時間が一番し合わせです。雑念もないし…。
アニメの本来の意味もそうなんですが、絵を手で描き動かすのは、生命を注ぎ込むのと同じことですから。原画ひとつひとつを描き、ここに色をつけて装飾し、音をかぶせて、音楽を着せて、声優の声を敷き詰めて…。
こんな過程ひとつひとつに快楽を感じます。このため、30年以上たっても、まだ、仕事に対する懐疑というものは感じたことがありません。事がこじれて失敗に終わると、別の考え方をするようにもなりますが、それが私の人生にストップをかけるようなことにはなりません。「百年後でも見る価値のある」動的な映画を作りたいと言う。その面で、SFは限界があるので、『イム・コッチョン』が終わったら『深青伝』のような、長い間伝えられて来た童話のなかで、美しい素材を粘り強く発掘していくのだという。
――『アラディン』の高感度アドベンチャーや『人魚姫』の絢爛たるテクニック、『ライオンキング』の壮大な叙事構造になじんでしまった観客の嗜好に、韓国に降るから伝わる童話がアピールすることができるでしょうか?
『劇展開だとかキャラクターの色感効果を、韓国固有の情緒体系で溶かして作った作品は、観客が映画館に座って観る時、絶対に生硬さを観じさせない』と言う。ピザに慣れてしまった味覚では、しっかりと味の染み込んだドンチミ(大根のキムチ)の味が、やや退屈に感じられるかもしれないが、これをカバーする高品位な技術力の確保が、残された課題だとか。韓国固有の童話、だいたいが陳腐だとは思うが、それを面白く作り替えるのが技術でありハイテクでしょう。雄壮なスケール、華麗なスペクタクル、末梢的技巧が氾濫する漫画市場のわずかな隙間を、味噌の味がする韓国のもので打って出ようかと思います。勝算はありますよ。
このごろの国産アニメを観ると、全部がとても絢爛でカラフルです。土と藁で作った家に似合う、そんな韓国固有の、格好はいま一つの、藁葺き小屋のようなものも、地面からぽんと浮かび上がった感じがするでしょう。韓国の情緒に触れてみるより、セットの上に座って作られたような堅苦しい感じですが、こういうものをそのまま消化してしまう研究が必要です。こんなキムさんの考えによって「ストーンベル」構成員は、ここ、マダンモクで作業を始めて以来「感覚を最大限排除する」訓練をしている途中だ。遺跡踏査や韓国文化に対する共同研究もプロシジェクト進行日程に入っている。
手作業に対するキムさんの愛着を、全て理解するのは難しいが、今はこのようなシステムに安らぎを感じている。世紀商社で仕事をしていた当時の職場で会った夫人は、未来が不透明な創作アニメにこだわる彼を激励するように、いまもこのマダンモク・ストーンベル・キャンプで大家族の食事を作りながら彼の仕事を手伝っている。末の子たちも、やはり「動画ライン」に混ざって仕事をしながら、アニメーターとしての基本技を着き固めているところだ。線ひとつも100%手で描きます。みながコンピュータ作業をするとき、我々はとても伝統的に進みます。言葉そのままに、最も韓国的なものが、世界的なものだということを具体的に具現することで、差別性、韓国だけの競争力を確保しようというのです。韓国のものに対する感覚が、手と心になじまなければ、韓国人の魂をそのまま盛り込むことはできないと思います。甕なら、その線や質感を知らねばならないし、藁屋も藁だけを載せるだけれはなく、韓国の土俗色感がどうなっているんだということを知らねばなりません。画面に再現された草鞋ひとつだけでも「あ、韓国の昔からの草鞋は、こんな模様だったんだぁ」と、心で感じることができるようにしたいと思います。
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