常設展示
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第150回常設展示
近代日本と「国語」
平成19年10月18日(木)〜12月18日(火)
於 国立国会図書館東京本館 本館2階第一閲覧室前
(利用時間・休館日をご確認ください)
目次
はじめに
日本新字
日本新字 / 小島一騰著 唐津町(佐賀県) :
新字会, 明治19(1886) 【YDM77283】[近デジ](資料15)より
「国語」とは何でしょうか。現在、私たちは日本語を話し、漢字や仮名文字を使って文章を書いています。使われる言葉には地域の違いがありますが共通語[注]であれば日本国内どこでも通用します。放送や出版物もほとんどが共通語によるものです。会話や文章で広く使われている共通語ですが、今日のように全国に通じる「国語」として普及するまでの道のりは、平坦なものではありませんでした。
全国民が使える「国語」の必要性が意識されたのは、明治時代のことです。江戸時代には地域や階層によって使われる言葉は異なり、話し言葉と書き言葉も大きく隔たっていました。維新政府が国民をまとめ近代化を成し遂げるには言葉の統一が不可欠だったのです。早い時期から知識人による種々の国語改革案が提示され、以来長きにわたって、「国語」をどうするべきか、さまざまな議論が繰り広げられてきました。第150回常設展示では、明治から第二次世界大戦後まで、「国語」が形成されてきた過程をたどります。
注)当初統制された規範的な言葉として「標準語」が制定されますが、現在ではそれにかわり、「全国どこでも通用する言葉」という規範性の和らいだ「共通語」という概念が多く使われています。
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第1章 「国語」の誕生
今日の日本に全国で通じる言葉として存在する共通語。明治時代以降に作り上げられ「国語」として定着してきた標準語がそもそもの始まりです。
国民を統合し近代国家となるための政策が次々と打ち立てられた明治時代、多くの方言が存在する言葉の整理と統一も重要課題でした。話し言葉は地域や階層ごとに異なり、出身が異なれば話が通じないといったこともありました。書き言葉はある程度統一されてはいましたが、知識階層の用いる漢文訓読体が最も有力で、話し言葉とはかけ離れており、全国民が簡単に習得できるものではありませんでした。
ここでは、明治時代を中心に、「国語」の制定をめぐるさまざまな動きを見ていきます。
■ 言葉の標準
現在では、「標準語」や「共通語」というと東京の言葉というイメージがありますが、中世から江戸中期頃までは、文化の中心は京都という認識から京言葉が標準の言葉であると捉えられていました。日本イエズス会の宣教師が著した『日本文典(通称日本大文典)』(慶長9〜13年(1604〜1608))には、都(京都)の言葉遣いが最も優れており、言葉も発音法もそれに倣うのがよいとあります。しかし18世紀も半ばを過ぎると変化が始まります。中心都市として大きな発展を遂げた江戸には、参勤交代をはじめ全国から人の往来があり、江戸言葉が次第に全国で通用する言葉として使用されるようになっていきました。
- ◆1.和英語林集成 / 平文編訳
- 横浜 , 明治5(1872)
- 【YDM83140】 近デジ
- ヘボン式ローマ字で知られるヘボン(Hepburn,James Curtis)が編集した和英辞典の第2版。INTRODUCTIONの「DIALECTS(方言)」の解説に、都で話される京言葉が標準かつ最も権威ある言葉で、その他に方言が多く存在するが、教養人の間では、江戸の言葉が全国どこでも通じるとある。明治20年(1887)の増訂3版【YDM310248】では、明治維新や遷都を経て、京言葉より東京の言葉が優位になったと記され、人々の認識の転換があったことがわかる。
- ◆2.標準語に就きて / 上田万年
- (帝国文学 1(1) 明治28.1 pp.14-23 複製版)
- 【Z13-2186】
-
国語学者の
上田万年 が、明治23年(1890)から4年間、言語学研究のため主にドイツとフランスに留学し帰国後まもなく著した論。「標準語とは一国内に模範として用ゐらるヽ言語をいふ」と定義し、重要な要素として「必らず何處かに現在話され居る」言葉で、「文章上の言語となること」の2点を挙げる。各国の標準語の成立について概観した上で、日本では、首都東京の教養層が使う「東京語」を洗練したものを標準語とするのがよいと主張した。この論は、後の国語調査委員会はじめ各方面に大きな影響を与え、上田は標準語を創設する中心的な人物の一人として活躍した。
- ◆3.Education in Japan; : a series of letters addressed by prominent Americans to Arinori Mori.
- New York : D.Appleton & Co., 1873
- 【YDM107996】
- 何を「国語」とするかについて論じるとき、「日本語=日本の国語」が暗黙の前提であったが、英語の導入を唱えたのがのちの初代文部大臣森有礼である。彼は、外交官としてアメリカに赴任中に著した本書の序文で、漢語漢文なしには成り立たない日本語の不完全さを嘆き、英語圏の人々が支配的な世界で国家を保つには、英語を公用語とすべきであると述べた。これに先立ち、アメリカの言語学者ホイットニー(Whitney, William Dwight)に送った書簡では、不規則性のある英語は習得困難なので、不規則性を取り除いた英語(簡易英語)を日本に導入し、英語圏でもその簡易英語を使用すればよいとする。展示資料に森の書簡は収録されていないが、ホイットニーの返信が収録されている。
■ 言文一致運動
言葉の統一には、乖離している話し言葉と書き言葉を近づけようという言文一致も欠かせないものでした。小学校の教科書では漢文から和文への転換が進められ、明治20年代、二葉亭四迷の『浮雲』(「ダ体」)や山田美妙の『胡蝶』(「デス体」)を契機として主に作家による言文一致運動が盛んになりました。口語体(言文一致体)の文章は当時の東京言葉に基づくもので、作品が読まれるにつれて全国に東京言葉での読み書きも広がっていきました。
明治30年代には小説以外でも運動が展開され、帝国教育会(教員を中心とする私立の教育団体)に設置された言文一致会は、国定教科書に口語体を採用させるという役割を果たしました。
国語教育を通じて口語体は浸透し、多くの文芸作品が創作される中で洗練され整っていきます。新聞では部分的に口語体が採用されるに留まっていましたが、大正10年(1921)ごろ、全紙面を口語文にする動きが相次ぎました。これにより一般の文章の言文一致化はほぼ完成をみます。ただし、冗長軟弱性があるとされた口語文は、論文や学術書、公用文ではすぐには採用されず、特に公用文は終戦まで文語体のままでした。
- ◆4.新編浮雲 第1編、第2編、第3編 / 二葉亭四迷著
- 東京 : 金港堂, 明治20-24(1887-1891)
- 【YDM92932】近デジ
- 言文一致体で書かれた最初の小説。著者は口語体で文章を書くにあたり、三遊亭円朝の落語を参考にした。口語体がうまく書けないときには、ロシア語で書いてから口語体の日本語に訳したという。明治20年(1887)の第1編ではぎこちなさが残るものの、話が進むにつれ口語体がこなれていく様がうかがえる。第3編は明治22年(1889)7、8月の『都新聞』に掲載されたが、表現方法の悩みや自身の才能への懐疑他さまざまな理由から、失敗作として中断された。
- ◆A.悔みの文 / 白鳥庫吉他
- (国民新聞 明治34.3.12 1面)
- 【YB-188】
- 言文一致会が言文一致体の模範文として発表したもの。この文案に対し、山田美妙は敬語の重複や接続詞「から」の使用方法などについて数回にわたる批判を同紙に寄せ、約3ヵ月後に『文例:言文一致 1』【YDM79603】近デジを刊行した。山田自身の「悔みの文(pp.41-42)」(B)も載せ、資料末尾には、先の批判を転載している。
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- ◆C.「華盛頓会議」より記事2件
- (東京朝日新聞 大正10.10.31、同11.1 朝刊 2面)
- 【YB-2】
- 文語体から口語体への過渡期の記事。大正10年(1921)10月31日の記事では文末表現が「なり」「べし」など文語体だが、翌日の記事では口語体の「た」が使われている。同じ2面の他の記事にも同様の変化が見られる。なお、文芸欄などではこれより以前から口語体が使われている。
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大正10.10.31の記事
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大正10.11.1の記事
■ 国語教育
標準語の選定や文体の整理はまだ先のことでしたが、学校ではある程度標準的な言葉での教育を早々に始める必要がありました。小学校では、明治5年(1872)に学制が公布された際、全国に通じる言葉を教える「会話(ことばづかい)」という科目が設けられ、そこでは東京の言葉が標準とされていました。明治33年(1900)に小学令が改正され、小学校の教科に「国語」が登場します。この時の施行規則では、漢字節減を目的に小学校で教える漢字約1200字を定め、棒引きを使用する表音式字音仮名遣い(漢語を発音通りに仮名文字で表記すること)を採用しました。当時の教科書は、文部省の検定を受けた各出版社のものを各府県が採用していましたが、採用をめぐって贈収賄が横行し、明治35年(1902)にその制度は廃止、明治37年(1904)以後は国定教科書が使用され、全国同一の教科書で学ぶことになります。国語教科書には、主に東京の中流社会で使用されている言葉が「国語の標準」として採用されました。
東京の言葉を標準語とする流れはすでに始まっていたといえます。
- ◆5.尋常小学読本 二 (第一期国定国語教科書) / 文部省
- (日本教科書大系. 近代編 第6巻 / 海後宗臣等編 東京 : 講談社, 1964)
- 【375.9-N685-K】
- 国語の第一期国定教科書、『尋常小学読本』(明治37年(1904))は、先の小学令施行規則に準じており、従来よりも口語体の文章が増加した。一年生用では、冒頭に訛音矯正をねらって、発音が混同されやすい「イ」と「エ」、「ス」と「シ」等が使用例を示す絵(D)と共に並べてある。字音(漢語)の「太郎」や「大層」は棒引きの表音式仮名遣いで「たろー」や「たいそー」、和語の「お父さん」や「お早う」は歴史的仮名遣いで「おとうさん」「おはやう」とされた。発音とは異なるつづりの歴史的仮名遣いを小学生に理解させるのは難しく、一部とはいえ仮名遣いが表音化されたことは教育界に歓迎された。しかし、字音と和語で仮名表記が異なるために混乱する児童もあり、上級の学校では表音式仮名遣いは使用されないなどの問題もあった。
- ◆E.家庭語の統一 授業語との連絡 / 保科孝一
- (読売新聞. [東京] 大正7.9.19 4面)
- 【YB-41】館電※讀賣新聞CD-ROMでもご覧いただけます。
- 標準語が選定された後、小学校の教室内で用いられる言葉が標準語に統一されていない状況を嘆き、「授業語」を整理すべきだとした論。家庭でも美しい言葉を使用し、国語教育と連携を図ることが大切だと説く。国語教育が目指した標準語の普及は、読み書きにおいて大いに達成されたが、話し言葉は容易には定着せず、標準語が音声的にも広まるのは、大正15年(1926)のラジオ放送を待たねばならなかった。
■ 仮名遣い
漢字で書いている語を漢字を使わずに表示するときどう書くかという仮名遣いについても、表音式仮名遣い、歴史的仮名遣い、その中間とさまざまな意見がありました。明治33年(1900)の小学校令で採用された棒引きの表音式字音仮名遣いはその中の一つです。第二期国定教科書では国語仮名遣い(和語を仮名文字で表記すること)も表音化するという「国語仮名遣改定案ノ修正案」(明治38年(1905)12月)が作成されますが、仮名遣いの表音化に反対する動きも現れ、貴族院からも反対意見が出されました。文部省は改定案の実施を一年延期することとし、明治41年(1908)5月に臨時仮名遣調査委員会を設置、仮名遣い問題を検討することになりました。
- ◆6.仮名遣意見 / 森鴎外
- (臨時仮名遣調査委員会議事速記録/ 文部大臣官房図書課編 [東京] : 文部大臣官房図書課, 明治42(1909))
- 【YDM77331】近デジ ※96ページ3行目から
- 臨時仮名遣調査委員会で文部省は、棒引きの仮名遣いを廃止し、新旧の仮名遣いを並行させ自然淘汰に任せるという譲歩した改定案を提示する(ただし、小学校に限定せず上級の学校にも適用するとした)。第四回委員会(6月26日)で委員の一人であった森鴎外(林太郎)は強硬な改定反対意見を述べた。賛成派と反対派の意見が折り合わないまま、9月7日に文部省は突如改定案を撤回、第二期国定教科書は旧来の歴史的仮名遣いに戻り、棒引きという表記方法も姿を消す。のみならず、習得漢字を1200字に制限した漢字表も撤回された。
文部省の措置に対し、「文相の妄断」(読売新聞. [東京] 明治41.9.9 1面 【YB-41】館電)というような痛烈な批判が寄せられ、教育者や国語学者からも多数の批判意見が出された。この後も、表音式仮名遣いを使用しようとする試みは繰り返されるが、著名人からの根強い反対にあい、昭和21年(1946)の「現代かなづかい」が実施されるまで大きな変化はないままだった。
◆コラム:仮名遣いの変化をめぐって◆
この仮名表記の変化を教わる側として経験した小学生に、のちの推理作家、江戸川乱歩がいました。乱歩は、この時の体験にこりて、戦後の新仮名遣いは5年間様子をみて旧に戻らないと確信してから使い始めたとある講演会で述べています(※)。
仮名遣いをめぐり、文部省や識者たちは試行錯誤を繰り返しましたが、それを受け止める側の児童も大変だったことがうかがえます。
※)江戸川乱歩「ひとつの世界、ひとつの文字」
(ことばの教育 21(7)(通号114)1959.7 pp.4-7 【YA-330】)
■ 国語調査委員会
日清戦争によるナショナリズムの高まりを背景に「国語」の統一を求める声が強まる中、明治35年(1902)に、国語調査委員会が文部省内に設置され、官主導による「国語」の制定が始まりました。会長加藤弘之、主事上田万年、他に前島密や大槻文彦らを構成員とする委員会は、国語・国字の統一を目的とする調査に意欲的に取り組み、『音韻調査報告書』(本編、附録)近デジや『仮名遣及仮名字体沿革資料』等、大正2年(1913)に廃止されるまでに数々の資料を作成しました。
- ◆F.国語調査委員会決議事項
- (官報 5699号 明治35年7月4日 複製)
- 【CZ-2-14】
- 委員会の調査方針。漢字を廃止し仮名文字やローマ字の使用を検討する、文章は言文一致を目標とする、方言を調査して標準語を制定するなどとある。漢字廃止、仮名もしくはローマ字表記を掲げていることが注目される。当時は全国民が文章を読み書きできるようにするには、仮名文字のみを使用すべきであるという仮名文字論や、ローマ字のみを使用すべきであるというローマ字論が盛んに議論されていた(第2章で詳述)。他には学校教育において解決が急がれる、使用漢字節減や文体の整理、仮名遣い問題に関する別途調査についても触れる。
- ◆7.口語法 / 国語調査委員会編
- 東京 : 国定教科書共同販売所, 大正5(1916)
- 【815-Ko5472k2】
- 委員会解散後の大正5年(1916)に発表された調査結果の一つで、当時の口語における法則を記述する。上田の意見をほぼそのまま受け、東京の言葉に準拠する標準語を採用すると明示した。俗語としてあまり取り上げられてこなかった口語を、体系的な文典にまとめた意義は大きいといえる。解説書に『口語法別記』(大正6年(1917))【815-Ko5472k】近デジがあり、口語の一つ一つについて、当時の各地方の差異と古事記以来の用法を挙げ、変遷を説明している。端書によると、東京の言葉を基準としたのは、東京には皇居や政府があり、全国の人が東京の言葉を真似るようになっているという理由からであった。また、植民地化した台湾や韓国の人々を同化するためにも日本語を教え込む必要があり、その点からも口語法の確立は重要であると説く。
第2章 侃侃諤諤 「国語国字問題」
「国語国字問題」とは、どういった言葉を「国語」とし、それをどのように表記するかという問題のことです。明治維新以後、模索されたあるべき「国語」の姿には当然、文字表記の問題が含まれていました。
国語国字問題のなかでもとりわけ強く主張されたのが、漢字の使用を廃止すべきだという漢字廃止論でした。西洋に追いつこうと教育の近代化が急務とされた時代、漢字は画数・字数が多く、全国民が習得するには負担が大きいと考えられたのです。漢字廃止論のなかには、日本語を表記する際に仮名文字の使用を提唱する仮名文字論、ローマ字を唱えるローマ字論、さらには仮名でもローマ字でもなく、まったく新しい字を提案する立場もありました。一方、そういった漢字廃止の動きに対して、旧来の立場から強く反対する意見もありました。
■ 漢字廃止論の登場
漢字廃止論に先鞭をつけたのは、郵便制度の創設で知られる前島密でした。前島は、明治維新より前の慶応2年(1866)「漢字御廃止之儀」を徳川慶喜に建白しています。そのほか、初期の漢字廃止論者には、福沢諭吉や
- ◆8.漢字御廃止之儀 / 前島密
- (国字国文改良建議書 / 前島密著, こにしのぶはち編 [東京] : [こにしのぶはち], 明治32(1899))
- 【YDM76910】近デジ
- 国民に教育を浸透させるためには、習得が困難な漢字の使用をやめ、仮名文字を使用すべきだと説く。ともに収録の「国文教育之議ニ付建議」(1869)「興国文廃漢字議」(1873)「学制御施行ニ先タチ国字改良相成度卑見内申書」(1873)でも繰り返し漢字廃止を提言している。前島は明治6年(1873)にすべてかな文字の『まいにち ひらがな しんぶんし』【WB43-181】を発行した。
■ 仮名文字論
前島密の建白は幕府に受け入れられなかったものの、仮名文字論は明治以降もさまざまな人々によって論じられました。明治18年(1885)には、「かなのとも」「いろはくわい」「いろはぶんくわい」の3団体が団結、『言海』編纂者の大槻文彦を中心とする「かなのくわい」が組織され、人々の関心を集めました。仮名文字論は当初、ひらがな使用が主流でしたが、大正期に至ってカタカナ採用の主張も登場しました。一時は運動として高まりを見せた仮名文字論でしたが、分かち書きや仮名遣いが課題となり、その勢力は徐々に衰えていきました。
- ◆G.カナノヒカリ 1号 大正11.2
- 【Z13-275】
- 大正9年(1920)、住友銀行幹部の山下芳太郎が設立した「仮名文字協会」(のちに「カナモジカイ」に改称)の機関誌。読みやすいカナ文字を模索し、独特の活字体(平尾式、猿橋式)を採用している。協会の評議員には、伊藤忠兵衛(伊藤忠商事初代社長)、山下亀三郎(山下汽船創立者)、森下博(森下仁丹創立者)ら関西の実業家が名を連ねた。
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- ◆11.カタミノコトバ / ヤマシタヨシタロー[著]
- 精道村(兵庫県) : ヤマシタフミオ, 大正13(1924)
- 【EB98-H914】
- カナモジカイ設立者の山下芳太郎は、カナ文字普及のために後半生を捧げることを決意。大正11年(1922)に職を退いた。しかし、その直後に胃ガンの罹患が判明。念願であったカナタイプライターの完成を見ずに52歳でこの世を去った。本書は、最後までカナ文字の普及に尽くした山下芳太郎が病床で語った言葉を記録したもの。
■ ローマ字論
26文字しかないというローマ字の簡便性が南部
長きにわたって正字法が定まらず、官庁の間でもバラバラに採用されていたローマ字表記は、昭和12年(1937)にようやく統一方式が決定します。このとき決定された、日本式を基にした表記方法は内閣訓令第三号で定められたため「訓令式」と呼ばれます。なお、昭和29年(1954)内閣告示第一号により、限定的ながらヘボン式の使用も認められるようになりました。また、国際規格(ISO)は平成元年(1989)に訓令式に統一されています。
- ◆12.Romaji nite Nihongo no kakikata
- 東京 : 羅馬字会, 明治19(1886)
- 【YDM77338】
- 羅馬字会は東京帝国大学教授外山正一、谷田部良吉らによって結成された。一時は隆盛をきわめたものの、表記方法などの論点で内部の意見統一ができず、明治25年(1892)に解散した。
- ◆H.ローマ字 1巻4号 明治39.1 p.1,12
- 【雑18-3】
- 明治38年(1905)、ローマ字専用論者の大同団結を企図して結成されたローマ字ひろめ会の機関誌。初代会頭には西園寺公望、初代名誉会頭には大隈重信が据えられた。当初、綴り方は各人各説であったが、明治41年(1908)ヘボン式を若干変更した「標準式」の採用を決定した。掲載広告にもローマ字が使われている。
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- ◆13.ローマ字綴り座談会 / 福永恭助著
- (日本ローマ字会パンフレツト. 第7冊 / 東京 : 日本ローマ字会, 昭和6(1931))
- 【14.5-405】
-
標準式を採用したローマ字ひろめ会に対して、日本ローマ字会は「日本式」を主張。資料は、日本式代表「
大和 正字 」、標準式代表「音眞似 平文 」、中立者「土槌 不搗 」が座談会を開いたという設定で書かれ、標準式側からの批判に対して、日本式代表の大和が反駁していく内容。架空の座談会は、土槌が日本式に賛成し、日本ローマ字会入会を決心したところでお開きとなる。
- ◆14.ローマ字国字論 / 田丸卓郎著
- 3版 東京 : 岩波書店, 昭和5(1930)
- 【350-468ロ】
- 初版は大正3年(1914)刊行【350-468】。物理学者である田丸卓郎は、「國字問題は國語學者の問題である」という声に対し、「國字は國民全體の日常使ふものであるから、實地それの使用者と云ふ點では、國語學者と否らざる人とに差別がない」と論じる。国語国字問題に関わった人物には、ビジネスや研究の中でアルファベットの簡便性やタイプライターの効率性に感銘を受けた実業家や学者など、国語学者以外の人も多かった。
■ 新字論
文献上では、明治18年(1885)平岩
- ◆15.日本新字 / 小島一騰著
- 唐津町(佐賀県) : 新字会, 明治19(1886)
- 【YDM77283】近デジ
- 漢字を廃止して、ローマ字を変形させた「日本新字」を使用することを提案。「日本新字」は全部で24文字だが、4種類の点を付すことにより、正音204、変音609、合計813音が表現でき、「内外人の言語はもとより凡そ天地の間のいかなる奇音妙聲たりとも」判然と記すことができるとする。
- ◆16.漢字に代はる新日本の文字と其の綴字法 : 附・日本の羅馬字と其綴字法. 上巻 / 稲留正吉著
- 駒沢村(東京府) : 文字の革命社, 大正8(1919)
- 【YD5-H-322-244】
- 「職業を抛ち、生計を顧ずして(中略)自から進んで國字の犠牲となり、命懸けで」国字問題に取り組んだという著者は、そのために妻帯も諦めたという。同音異義語の区別ができないという表音文字の欠点を克服するため、同音異義の普通名詞を陽性、陰性に分けて記号を付すなど、独自の規則を考案した。下巻が刊行されたかは不明。
- ◆17.哲学はどんな考へ方をするか / エフ・ビー・ジヱヴオンス著 ; 中村壮太郎訳
- 東京 : 現代文化社, 昭和10(1935)
- 【682-90】
- 本書は、Frank Byron Jevons “Philosophy : What is it?”の翻訳を「ひので字」によって表記したもの。訳者の中村壮太郎は、「何とかして日本國民を文字の負擔から解放したいと云う信念」から、新国字「ひので字」を創作した。実業家であったが、新国字に打ち込むために会社を辞めている。本文の途中までひらがなが併記されており、読者が徐々に「ひので字」に慣れるように工夫されている。巻末に「新国字研究に関する請願書写」を収録。
- ◆18.石原忍先生の生涯
- 東京 : 一新会, 1983
- 【GK62-58】
- 眼科医で視力検査表の開発者である石原忍の伝記。漢字が日本人に近視が多い原因のひとつになっていると考えた石原は、画数が少なく、字形の単純な新字を考案した。昭和14年(1939)、ローマ字やひので字を参考にした「石原東眼式新仮名文字」を発表。「東眼式」とは、「東京帝国大学眼科教室式」の意。昭和32年(1957)には、さらに改良した「石原式新カナ文字」を開発した。
■ 漢字不可廃論
明治期以降、興隆を見せた漢字廃止論ですが、一方で、漢字が廃止されると日本的な表現ができなくなるなどの懸念を持った人々から強い反発も起こりました。明治20年代後半頃からは、欧化主義への批判から日本の伝統を見直す気運が高まり、漢字廃止反対の主張をうながす背景となりました。こうした国語国字改良論への反対論には、「開化ノ度ニ因テ改文字ヲ発スベキノ論」(西村茂樹)や「漢字利導説」(三宅雪嶺)などがありました。
さらに、昭和6年(1931)の満州事変以降、社会の全体主義的傾向が強まっていくと国語国字運動は徐々に下火になり、漢字廃止を声高に主張する人は減っていきました。昭和10年代には、漢字擁護の立場から、大東文化協会の機関誌『大東文化』(昭和11年(1936)6月号)【雑56-60】で「漢字廃止説反撃」、同年7月『国学院雑誌』【Z22-162】で「漢字廃止論駁撃」という特集が組まれるなど、漢字廃止論を批判する論説が活発になっていきました。
- ◆I.漢字不可廃論 / 井上円了演述
- 東京 : 井上円了, 明治33(1900)
- 【YDM76852】近デジ
- 妖怪研究の先駆者としても著名な、仏教哲学者の井上円了による漢字廃止論に対する駁論。「漢字は老朽せる文字なりといふを駁す」、「漢字を用ふれは東亜の勢力を占むるの益あることを論す」など 23章から成る。最後は「漢字万歳、漢学万歳、漢字漢学万々歳」という言葉で締めくくられている。
◆コラム.ふりがな廃止論◆
昭和13年(1938)、山本有三は著書『戦争と二人の婦人』のあとがきでふりがな廃止論を唱えました。多くの本でふりがなが用いられていた当時にあって、『戦争と二人の婦人』は敢えてふりがなを使わずに書かれており、山本は同書のあとがきで「いつたい、立派な文明國でありながら、その國の文字を使つて書いた文章が、そのまゝではその國民の大多數のものには讀むことができないで、いつたん書いた文章の横に、も一つ別の文字を並べて書かなければならないといふことは、國語として名譽のことでせうか」と述べています。
このふりがな廃止論は、漢字制限や語句・文体の改善まで視野に入れたものであり、当時の代表的な文学者がこうした提案を行ったことは、大きな反響を呼びました。ふりがな廃止論に対する意見を1冊にまとめたものとして、後に『ふりがな廃止論とその批判』が刊行されましたが、寄稿者80数人のうち、反対は約1割に過ぎませんでした。
第3章 戦中・戦後の国語をめぐる議論
第3章では、戦中・戦後における国語をめぐる議論を取り上げます。明治以降、日本は植民地を拡大していきましたが、その過程で日本語を母語としない人々に日本語を教える必要が生じました。これまでの国語問題は主に日本語を母語にする人々の間で論じられており、「国語=日本語」であることは自明のことと思われがちでしたが、日本語を母語としない人々をも視野に入れる必要に迫られ、外国人への日本語教育と関連の深い「日本語学」が新たに注目を集めることとなりました。
終戦後は、国語の民主化が唱えられ、GHQによるローマ字採用論、志賀直哉によるフランス語導入論などさまざまな改革案が提唱されました。しかし、ローマ字採用論等は結果として退けられ、現在まで続く国語表記の基礎がこの時期に形成されました。
■ 日本語の簡略化
日本語を母語としない人々に対する日本語教育に際しては、漢字を用いず表記をカタカナで統一するなど、日本語を簡素化して教えるという動きが出ましたが、一方で安易に日本語を簡略化することへの批判も起こりました。
- ◆20.ハナシコトバ 上・中・下巻
- 東京 : 言語文化研究所, 1998
- 【KF141-G74】
- ◆21.日本語教科用ハナシコトバ學習指導書 上・中・下巻
- 東京 : 言語文化研究所, 1998
- 【KF141-G75】
- 日本語教育振興会から昭和16年(1941)に刊行された『ハナシコトバ』及び『日本語教科用ハナシコトバ學習指導書』の復刻版。これらは主に中国の人々を対象に日本語を教えるために編まれた教科書・指導書であり、「アナタワドーオモイマスカ」といったように、カタカナによる簡略な日本語が紹介されている(パネルJ・K)。
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- 22.国語の尊厳. 第1輯 / 日本国語会編
- 東京 : 国民評論社, 昭和18(1943)
- 【YD5-H-810.8-N77ウ】
- 国語の伝統を重んじる日本国語会が初めての事業として公にした単行本であり、当時既に行われていた外国人に対する日本語教育等を踏まえ、改めて国語について考察している。新村出、山田孝雄らによる5つの論文が収録されており、例えば新村出の論文「新東亜建設と日本語の問題」では、冒頭で「内に於ける國語問題、外に於ける日本語問題を討議する時に、根本の主義といふものを立てるについて第一に考へなければならぬことは、一時の便宜主義を排除することであります」と記し、日本語の安易な簡略化を批判している。
■ 終戦と国語民主化
終戦をきっかけにふたたび国字を見直そうという気運が高まり、国語教育も民主化の一環として取り上げられました。しかし、当時の国語の民主化は文体や表記法を合理化・簡素化して誰にでも分かりやすくすることにとどまり、「統一された国語を制定する必要がある」という戦前の国語学の延長線上にありました。GHQによるローマ字教育導入の試みや志賀直哉のフランス語国語化論、漢字廃止論など、国語の民主化に際して多くの議論・試行がなされたものの、国語学の論調には大幅な変化・転向等は見られず、国語民主化は戦前との連続性を色濃く残したまま行われました。
- ◆23.国語問題と国語教育 / 時枝誠記著
- 増訂版 東京 : 中教出版, 1961
- 【810.9-To396k-(th)】
- 国語学者時枝誠記の終戦以降の論文・随想をまとめた資料であり、主に昭和20年代、30年代のものを収録している。長野県軽井沢町追分第三小学校における談話(昭和21年(1946)5月)をまとめた「ある國語教師に答へて」では、国語廃止論やフランス語導入論など多様な国語改革論に揺れる終戦直後の社会不安の中で、「たとひ國語が一、二年の内にこの世界から全然姿を消してしまうということが決定されたとしても、皆さんの國語教育に対する熱意は、國語滅亡のその瞬間まで續けられてもいいのではないでせうか」と述べ、切実な激励を送っている。
- ◆24.国語の統制を強化せよ / 保科孝一
- (国語学 (1) 1948.10 pp.9-12)
- 【Z13-341】
- 現在の日本語学会の前身である国語学会が終戦後に発行した雑誌『国語学』の創刊号。冒頭で国語学会の成立とその使命を宣言する一方、戦前からの国語学の重鎮保科孝一が「國語の統制を強化せよ」という論文を投稿するなど、戦前との連続性もうかがい知ることができる。
<フランス語採用論>
- ◆25.国語問題 /志賀直哉
- (志賀直哉全集. 第7巻 / 東京 : 岩波書店, 1999)
- 【KH546-G6】
- 初出は昭和21年(1946)4月発行の『改造』27巻4号(【YA-42】)。不完全かつ不便な日本語を廃止し言語を取りかえることで「文化的」に転向しようとする論説。「そこで私は此際、日本は思ひ切つて世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとつて、その儘、國語に採用してはどうかと考へている。それにはフランス語が最もいいのではないかと思ふ」と述べ、文化先進国フランスのフランス語を採用するのがよいと唱えている。国語の切換えについては楽観的であり、「國語の切換へに就いて、技術的な面の事は私にはよくは分からないが、それ程困難はないと思つてゐる。教員の養成が出来た時に小學一年からそれに切換へればいいと思ふ。朝鮮語を日本語に切換へた時はどうしたのだらう」と記している。
<ローマ字教育論>
- ◆26.米国教育使節団報告書 / アメリカ合衆国教育使節団編 ; 渡辺彰訳
- 東京 : 目黒書店, 1947
- 【YD5-H-373-A442ウ】
- マッカーサーへ提出された米国教育使節団の報告書の訳文。日本の難解な国字が民主主義助成の妨げとなるとして、ローマ字採用勧告が行われた。「當使節団の判断するところでは、假名よりもローマ字に多くの長所がある。さらに、ローマ字は民主的公民の資格と國際的理解とを助長させるのに都合がよいであろう」と指摘し、「是が非でも或種のローマ字書きを日常の使用に採用すること」を提言している。
- ◆L.占領下日本の表記改革 : 忘れられたローマ字による教育実験 / J.マーシャル・アンガー著 ; 奥村睦世訳
- 東京 : 三元社, 2001
- 【KF32-H1】
- 終戦後、GHQにより行われたローマ字教育実験に関する資料。初等教育においてローマ字だけによる教育が実験的に行われた。本書は表記法改革へのGHQの介入やローマ字教育実験等について詳細に解説するほか、背景として終戦以前の読み書き能力や日本人自身による表記法改革についても分析している。パネルはGHQによるローマ字教育導入に対する教師・生徒・父兄の意見。生徒の7割以上が「ローマ字の学習は楽しい」と答えている。
<漢字廃止論>
- ◆M.「漢字を廃止せよ」
- (読売新聞. [東京] 1945.11.12 朝刊 1面)
- 【YB-41】館電※讀賣新聞CD-ROMでもご覧いただけます。
- 終戦直後の『読売新聞』の社説。戦後の民主化に際して漢字廃止論を唱え、「漢字を廃止するとき、われわれの脳中に存在する封建意識の掃蕩が促進され、あのてきぱきしたアメリカ式能率にはじめて追随しうるのである。文化國家の建設も民主政治の確立も漢字の廃止と簡単な音標文字(ローマ字)の採用に基く國民知的水準の昂揚によつて促進されねばならぬ」と述べている。
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■ 漢字かな交じり文へ
終戦後の国語改革ではさまざまな意見が出されましたが、紆余曲折を経て、漢字かな交じり文が公式な表記方法として定着していきます。これ以降も国語問題に関していろいろな動きがあったものの、第49回国語審議会(昭和37年(1962))および第53回国語審議会(昭和39年(1964))における吉田富三委員の提案を受けて表記方法としての漢字かな交じり文の地位が確立し、現代に至る国語表記の基礎が形成されました。
- ◆N.国語審議会報告書. 第6
- 東京 : 大蔵省印刷局, 1964
- 【810.6-Ko547k】
- 第49回国語審議会(昭和37年(1962))における吉田富三委員の提案。「国語は、漢字かなまじりをもつて、その表記の正則とする」ことを国語審議会として規定し、公表することを求めている。この提案はそのまま採択・公表とはならなかったが、第53回国語審議会(昭和39年(1964))で再度提出され、第8期国語審議会における中村梅吉文部大臣の挨拶の中で「当然のことながら国語の表記は漢字かなまじり文によることを前提とする」と言及されたことで事実上認められた。
主要参考文献
- 「国語」の近代史 : 帝国日本と国語学者たち / 安田敏郎著
- 東京 : 中央公論新社, 2006
- 【KF32-H28】
- 国語施策百年史 / 文化庁[著]
- [東京] : [文化庁], 2005
- 【KF32-H19】
- 明治を生きる群像 : 近代日本語の成立 / 飯田晴巳著
- 東京 : おうふう, 2002
- 【KF35-G97】
- 国語100年 : 20世紀、日本語はどのような道を歩んできたか / 倉島長正著
- 東京 : 小学館, 2002
- 【KF32-G27】
- 漢字と日本人 / 高島俊男著
- 東京 : 文藝春秋, 2001
- 【KF45-G117】
- 標準語の成立事情 : 日本人の共通ことばはいかにして生まれたか / 真田信治著
- 東京 : PHP研究所, 2001
- 【KF35-G82】
- 標準語 (特集 日本語のウチとソト--この百年) -- (日本語の百年) / 古田 東朔
- (国文学 : 解釈と鑑賞 65(7)2000.7 pp.22-35【Z13-333】)
- 「国語」という思想 : 近代日本の言語認識 / イ・ヨンスク著
- 東京 : 岩波書店, 1996
- 【KF32-G6】
- 日本語大博物館 : 悪魔の文字と闘った人々 / 紀田順一郎著
- 徳島 : ジャストシステム, 1994
- 【KF35-E65】
- 国語国字教育史料総覧
- 東京 : 国語教育研究会, 1969
- 【KF32-3】
- 国字国語問題文献目録 / 平岡伴一編
- 富山 : 平岡伴一, 1932
- 【810.9-H519k】
*排列は出版年の逆順
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