『森を壊さないで』

「うっく、えぐ。」
僕は森の中で一人泣いていた。
僕の手の中にあるものはぐしゃぐしゃに濡らされた教科書。
いじめ。
誰も助けてくれない。
死んじゃいたい。
「どうした。」
「え?」
声が掛けられた。
涙に濡れた顔を上げると全身があわ立った。
「おおか、み。」
処女雪のように真っ白な毛皮、黄金色に輝く両目、鋭い牙。
荘厳に満ち満ちた雰囲気。
「安心しろ。俺はお前を喰ったりはしない。人間を襲うと後々面倒だからな。それは何だ。」
狼が濡れた教科書を見詰める。
「学校の、教科書。」
ゆっくりとしゃべっていた。
「いじめ、られてるんだ。誰も僕の話を聞いてくれない。先生もお母さんもお父さんも、皆僕が悪いって言うんだ。いじめられる方が悪い・・・って。」
濡れそぼった教科書。
膝の上で握り締めた拳は行くあてもなく震えている。
狼が僕の頬を滑り落ちる涙をその暖かな舌で舐め取った。
「ならば俺がお前の話を聞いてやろう。俺はウォンだ。この森と共に生きている。」
その日から狼のウォンは僕のたった一人の友達になった。
僕は毎日森へと遊びに行く。
学校でどれだけいじめられても、辛くないといえば嘘になるけど、頑張れるようになった。
トイレの中に顔を突っ込まれても、蹴られても殴られても、耐えられる。
だって僕にはこの森があるから。
この森に来ればウォンがいるから。



ウォンと出会い、しばらくしてから僕はその森の美しさに気が付いた。
躍動感に満ち満ちた大木、何千年も不動に空を見上げ続ける大木に細い枝は支えられ日光を吸い取っていた。
幹に刻み込まれた数千年の年月の間に虫達が入り込み樹液を吸っている。
深い緑色をした葉は枝に腕を絡ませ地面に影を落としている。
背伸びをしたくなるほど爽やかな青。
それはありふれた空。
雲は限りなく白い。
微かな清涼な匂い。
白い小鳥が一羽雲を追いかけて飛んでいた。
森の外には茫漠とした街があった。
無機質な人間だけの街が。
ウォンは僕に森が狭くなって行っていると言った。
ある日、森に入った僕はウォンの顔色が悪い事に気が付いた。
そして森が小さくなっている事に。
木々がなぎ倒され、かわいらしく笑っていた花たちが焼き尽くされている。
「森は人間の手によって壊されているんだ。」
ウォンは言った。
「この森ももうすぐなくなるだろう。この森を焼き尽くして人間は新しい施設をここに作るらしい。」
地面の小石に光が反射し輝いていた。
湖は透き通りまるで水が張っていないかのように見える。
森に息づく小さな生命は懸命に生きていた。
「森がなくなれば俺達は生きてはいけない。俺の寿命も残りわずかだな。」
「森が、なくなる?」
「そうだ。人間がこの森は必要ないと判断した。だからこの森はなくなる。危険な野生動物である俺は殺されるだろう。人間に危害を加えないために。」
「ウォンが誰かを傷つけるなんてあるもんか!」
僕をいじめている人間達のように。
「もし誰かがウォンを殺したら神様が黙っちゃいない。」
神学の授業で教えられた神を思い出す。
「知らないのか。お前が信じている神は人間だけの神だと言う事を。」
ウォンが僕に顔を近づけ低く言った。



家まで走って帰ると僕は父さんに縋り付いた。
あの森を壊してショッピングモールを作ろうとしている人間の一人が僕の父さんだから。
「お父さん!森を壊すのを止めて!」
土木作業員の父さんに詰め寄る。
「何故だい。森林を破壊しそこに新しいショッピングモールを作る事になっているのは知っているだろう。そうすればもっと便利になって私たちは豊かな暮らしができるようになる。」
咽喉を枯らし、声を上げて必死に叫ぶ。
「豊かな暮らしなんていらない!今も十分豊かじゃないか!ショッピングモールなんていらな・・・。」
パァン。
頬が熱くなった。
父さんが惨く顔を歪めていく。
「我侭を言うんじゃない!」
怒鳴り声に僕の肩が跳ね上がった。
「そんな馬鹿なことばかり言っているからお前はいじめられるんだ!」
父さんの言葉が僕の心臓を深く抉った。
次の日、僕は学校に行かずに森へと走って行った。
森へとたどり着いた僕は膝から崩れ落ちた。
森は燃えていた。
悪魔のように巨大な炎。
何千年もの年月をその幹に刻み付けていた木が悪魔の舌先に焼き尽くされていく。
呆然としながらも僕は立ち上がり森へと入って行った。
「ウォンー、ウォンどこにいるの?」
大声を上げてウォンを探す。
どれほど探しただろう。
制服や顔がすすけ始めた頃、地面に転がる大きな狼を見つけた。
僕は駆け寄る。
「ウォ・・・ン。」
抱きかかえたウォンの腹は破れていた。
止め処なく泡立った血が溢れる。
血を止めようとすぐさま僕は着ていた制服を脱ぎ傷口に当てた。
血は止まらない。
「お前、か。」
ウォンが弱弱しい声を上げた。
「人、間が・・・森、を・・・壊し、た。」
掠れる声で僕に囁く。
僕の視界は霧がかかったようにぼやけていった。
大木が倒れる。
小鳥が地に落ちる。
湖は汚物に汚されている。
人間の住みやすい環境に作りかえられていく森。
全ての生き物のための森は人間の欲望に飲み干されてしまおうとしていた。
ウォンが弱弱しく言葉を紡ぐ。
「人間だけには、うまれかわりたく・・・ない。」
金色の目は濁らずにまっすぐな光をたたえている。
まるでそれが誇りだとでも言うように。
「人間じゃなくて・・・よかった。」
ウォンが目を閉じた。
「ウォン・・・?ウォン!」
ウォンは動かなかった。
僕の、人間の汚らしい手の中で硬直し冷たくなっていく。
森を焼く炎は互いに取っ組み合い、凄まじい勢いで木々をなぎ倒していく。
炎の頂上が千切れ飛び真っ赤な火の粉が降り注いだ。
まるで深紅の雨のように。



僕は学校の屋上にいる。
下を見れば遠くに地面がある。
風がやわらかく僕の頬を撫でて行った。
ここから飛び降りればいじめから逃れる事が出来る。
人間から逃れられる。
ウォンにも会いにいける。
待ってて、ウォン。
今から行くからね。
黎明の光が雲を突き破り始めた。



僕は飛んだ。


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