カンペールの街のパンフレット (2005年)

 フランス語ではイギリスのことを「アングルテール」とも「グランド・ブルターニュ」ともいう。

 「アングルテール」には、「アングル」と「テール」という二語が組み合わさっている。「アングル」はアングロ=サクソンのアングル、つまり厳密には5世紀からイギリスに侵入し、やがてイギリスの過半を征服したゲルマン人たちの内のアングル人を意味するが、実際にはイギリスに侵入したゲルマン人全体を総称して使っている。一方、「テール」とは大地・土地を意味し、ひいてはその土地に建てられた国を指している。したがって、「アングルテール」は、「イングランド」(イングル=アングル人のランド)と同様、<アングル人の国>という意味になる。

 410年ローマ帝国の軍が撤退すると、イギリスにはアングル人、サクソン人、ジュート人のゲルマン部族が大規模な侵入を始めた。その結果、イギリスでは300年以上も戦乱状態が続くことになるが、そのとき、ローマ化したケルト人、つまりブリトン人の中からアーサー王伝説のもとになる英雄が現れ、ゲルマン人と果敢に戦ったと推定されている。だが、そのとき同時に、一部のブルトン人たちは、故郷を捨て、海を渡り、いわば難民となってブルターニュにやって来た。ブルターニュBretagneとは、こうしてフランスにやってきたブルトンbretonから由来した名称である。したがって、彼らがもともと住んでいたところは、大ブルターニュGrande Bretagne (つまりグレイト・ブリテン=英国)となるわけである。

 ブルターニュには、いまでもブルトン語という島嶼ケルト語のひとつが生きている。ブルトン語は、ウェールズ語、コンウォール語と非常に近い関係にあるらしく、これら3つの言語は、一般に、アイルランド語、スコットランド語、マン島語(マンクス語)の「ゲール語系」に対して、「ブリタニック諸語系」と呼ばれている。ブリタニック諸語の地理的位置関係を考えると、5世紀から8世紀の間、もっとも過酷にゲルマン人たちの圧迫を受けた人々の言語であることが推察される。

 それにしても、ヨーロッパ大陸に広く居住していたケルト人たちが、ことごとく自分たちの言葉を失ってしまったにもかかわらず(「大陸ケルト語」は消滅している)、唯一大陸の果てのブルターニュ半島に、イギリスから流れついた<島のケルト語>が生きている、というのは、いかにも歴史のドラマを感じさせないだろうか。

 カンペールはそのブルトン語にとって重要な都市である。というのも、ブルトン語を話す人々が50パーセント以上を占めるのは、ブルターニュ半島でも西半分だけであり、その西半分の大半を占めるフィニステール県の県庁所在地が古都カンペールだからである。上の写真は、カンペールの観光案内所でもらった案内冊子である。白い文字のフランス語と、ベージュ色の文字のブルトン語で、中央に「カンペール」と書かれている。また、中の文章もすべて二つの言語で記されている。さらに、街に出れば、公の建造物にはすべて両言語が併記されている。国民国家思想が全盛であった時代には肩身の狭かった少数言語ブルトン語も、その思想がアジアアフリカの植民地独立によって歴史的役割を終え、今やむしろ弊害を生み出すことの方が多くなった現代では、逆にケルトの文化を伝える生きた貴重な人類遺産と捉えなおされるようになった。統一よりも、多様性を認め尊重する時代の流れを象徴しているといいうるかもしれない。

 

 カンペールはかつて「カンペール・コランタン」といったそうである。コランタンはキリスト教の聖人、聖コランタンで、13世紀に町の中心にその教会が建てられた。だが、私のようなバルザッシアンには、コランタンといえば、すぐ『浮かれ女盛衰記(娼婦の栄光と悲惨)』が思い浮かぶ。大学2年の夏に初めて読んだときワクワクするほど面白かった。そのワクワクを盛り立てくれた登場人物がコランタンなのである。

 聖コランタン教会は、正面左の鐘楼部分を大掛かりに修復している最中であった。足場が組み立てられて外観が見えぬばかりか、建築工事にともなうさまざまな機械や石材やシートがところせましと置かれていて風情がないので、背後から撮影した。

 教会の城壁をくぐると、このような洒落た模様の鉄柵に出会った。ちょっとケルトなアールヌーボーという感じか。実にすぐれたデザインだと思う。

 

 カンペールの中心街には、優に2百年はたっていると推定される建物があちこちに残っている。

 壁面にスレートが使われている珍しい建物

 建物が一部傾いている。歴史の味わいを感じるが、日本のような地震国では危なくてとても住めたものではない。

 そういえば、学生時代、ある教授が授業中の雑談でこんな話しをしていた。新潟沖地震で、液状化のため鉄筋アパートがドミノ倒しのように傾いた写真がフランス・ソワール紙(夕刊紙)に載ったとき、フランス人は、妙な反応をした。「日本の建物はこんなに傾いても崩れないとは、実に立派なことだ」って。うれしい気持ちがしつつも、「顔が赤らんだよ」と。怪我の功名というか、馬鹿な失敗を逆にほめられた居心地の悪さというか、ともかく、風土が違うとそういう視点もありうるわけである。

 川の上に迫り出した商店。店の前には橋がある。橋はかつて最も人が通るところであり、商売には最高のロケーションだった。

 カンペールの劇場。かつて芝居がいかに重要な娯楽であり文化であったか、地方で立派な劇場を見るたびに思う。

 カンペールの劇場と川を挟んでその斜向かいにあったレストランである。雰囲気もよく、大変おいしい料理が、パリの三割安くらいで食べられる。