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「感情労働」時代の過酷

(AERA:2007年06月04日号)

 体を使う肉体労働。

 頭を悩ませる頭脳労働。

 そして、感情を切り売りするが如き感情労働の時代が来た。

 教育も医療もまるでサービス産業だ。

 時にクレーマーと化すひと相手の仕事に灰にならずに、やりがいを達成する道はあるのか。

 (AERA編集部・浜田奈美)

    ◇ ◇ ◇

 いきなりワタクシゴトで恐縮だが、私は数年前、上司からこう言われたことがある。

 「ハマダくん、もう少し楽しそうに仕事してくれないと、僕も困るんだがなあ」

 記者なんて会社の中でどんな顔して働こうが勝手でしょう、と言いたいところを我慢して、

 「仕事はきちんとやってますよ」

 と仏頂面で答えたら、上司は渋面と苦笑いの中間ぐらいの表情で沈黙していた。

 しかしいま思えばそんな強気な回答も、こんな無粋な業界だから許されただけのことかも知れない。なぜならいま世間では、あらゆる職種に「コミュニケーション能力」が求められ、模範的な「接遇力」が要求されているようである。

 例えば、こういう事例がある。

 2002年、札幌市内の病院で、患者の世話をする介護員として4年余り勤務していた20代の女性契約職員が、「笑顔がない」「不満そうなオーラがでている」ことを理由に、病院側から契約更新を拒否された。その後、病院側の対応を不服として、札幌地裁に病院を訴え、一審で勝訴。控訴審判決でも、勝訴している。

 06年4月には、東急東横線渋谷駅で、30代の男性駅員が、切符を出さずに改札を通り過ぎた男性を呼びとめて事情を聴こうとしたところ、男性から暴言を浴びせられつばをはきかけられた。駅員は怒りのあまり男性を殴ってしまい、諭旨解雇処分になっている。

 分別ある労働者たるもの、いかなる状況下でも、適切な表情で倫理的にふるまうことが、アタリマエと目されている。

 でも、それって本当に「アタリマエ」なんだろうか――。

●患者様へのサービス

 神奈川県内の大学病院で働く看護師のケイコさん(28)は、自分は看護師に向いていないと、思い悩む日々を送っている。

 病院も生き残りをかけて利潤追求に精を出す時代だ。検査につぐ検査、手術につぐ手術、そして患者さんや家族に詳細な説明をしなければならず、本来業務であるはずの看護もままならない。同僚は次々とやめ、コスト削減に伴う人減らしで、1人当たりの夜勤も月に10回近くになる。そのうえ患者や家族に対する「接遇サービス」まで、マニュアル化されている。

 そういう心身ともギリギリの状態で頑張っているのに、たまに見舞いに来ては患者の世話もせずに帰ったり、見舞いに来るなり「きちんと体を洗え」などと文句を並べたてる家族たちをみると、ケイコさんはいらだちを隠せない。

 最近はこんなことがあった。朝から手術が重なり大忙しの日に、いつもケイコさんにトイレ介助を任せる男性患者が執拗にナースコールを鳴らし続けた。病室に走っていくと、ナースコールを押し続けていたのは患者ではなく、その妻だった。在宅療法も可能な患者だが、この妻が「世話をし切れない」と言うので入院している。妻はケイコさんの顔を見ると面倒くさそうに、

 「看護婦さん、この人がおしっこおしっこって、うるさいのよ」

 ケイコさんの怒りは爆発。

 「今日は忙しいから介助は無理だと申し上げたはずです!」

 そして後で冷静に考えて、「自分の未熟さ」を猛省したそうだ。

 ケイコさんは本当に「未熟」なのだろうか。

 看護の領域などで知られる、「感情労働」という言葉がある。

 「肉体労働」「頭脳労働」と並ぶ言葉で、人間を相手とするために高度な感情コントロールが必要とされる仕事をさすものだ。1980年代に、アメリカの社会学者が、当時の航空会社の客室乗務員の労働実態を、典型的な「感情労働」であり、「感情の搾取」にあたると指摘。まず、社会学の用語として広まった。

 平たく言えば、働き手が表情や声や態度でその場に適正な感情を演出することが職務として求められており、本来の感情を押し殺さなくてはやりぬけない仕事のことだ。

●不特定多数を相手に

 そしてここにきて、この「感情労働」があらゆる職種に広がり始めている。『感情と看護――人とのかかわりを職業とすることの意味』(2001年、医学書院)などの著書で、看護の現場に感情労働の概念を伝えた武井麻子・日本赤十字看護大教授は、近著『ひと相手の仕事はなぜ疲れるのか』で、看護や介護職、接客業や電話相談業、クレーム処理など、様々な職業で過酷な感情労働が求められている現状を指摘した。大手書店ではビジネスの書棚にも置かれ、出版元の大和書房には、サービス業や銀行員など、様々な業種の読者から反響が寄せられた。

 武井教授はこう語る。

 「ひと相手の仕事は昔からあっただろうと、働く側の問題点を指摘する声もありますが、一概にそうではないと考えます。以前は、顧客が常連や顔なじみであることが多く、ある程度の親密さや信頼感がありましたが、今は気質も好みも分からない不特定多数の人を相手にしなければなりません。しかも瞬間芸的なスピードで、感情労働が求められています」

 不特定多数に対する、瞬間芸的な感情労働。元電器量販店店員の青木詠一さん(42)が日々、売り場で直面した苦情の嵐は、まさしくそれだった。

 10年以上前に買ったテレビが故障し、「欠陥商品だ」と怒鳴り散らす客。保証書を自分が紛失しておきながら、「無料で修理に応じろ」と詰め寄る客。入荷待ち商品の「お客様控え」の渡し方が気に食わなかったと言ってパート店員を罵倒し続ける客。帰省中に買った商品を帰りの新幹線で使おうとして部品が足りないことに気づき、「すぐもってこい」と車内から電話をしてきた若い男性……。

●お客様は神様?

 青木さんがクレームの数々をブログにつづったところ反響は大きく、04年、その内容が『それでもお客様は神様ですか?』(大和書房)という1冊の本にまとめられた。こう振り返る。

 「異動までの15年ほどを苦情処理に費やしましたが、苦情の質は徐々に変わってきました。来店ではなく、携帯電話やメールなどによる間接的な形が増えたためか言葉が暴走し、陰湿化しています」

 感情労働の過酷さの背景に浮かび上がる、消費者サイドの「変貌」。いまもっともその変化が大きく、どんどん「感情労働化」している職業は、教師だろう。

 首都圏の高校教員のケンジさん(47)が数年前まで勤務していた高校は、いわゆる「底辺校」。暴力事件も日常茶飯事で、教師への暴力も珍しくなかった。例えば掃除をさぼっていた男子生徒をケンジさんが呼びとめたところ、生徒はいきなりつかみかかり、

 「ぶっころされてえのか?」

 ケンジさんはとっさに腕を後ろに組み、殴られることを覚悟しながら冷静になるよう説得した。殴られても、あくまでひるまず冷静に。それが、経験上の「対処策」だ。一方で、問題行動の多い生徒も進級できるよう、学力の問題などについて本人や親に働きかけたが、砂漠に水をまくような作業だった、という。

●自分を責める教師

 ある日、教頭から、いきなり辞職願を出した後輩教員の説得を任された。理由を言わないという。ケンジさんと2人きりになって後輩はようやく、自分が長い間、生徒たちにいじめを受けていたことを告白した。掃除用具用ロッカーに閉じこめられたり、大型のゴミ箱に放り込まれたり。それでも「自分の指導力不足」と自責していた。ケンジさんが教頭に報告し、対応を迫ると、教頭はこう言った。

 「まあ、指導力不足でしょう」

 後輩はそのまま辞職した。

 大阪大学大学院人間科学研究科の小野田正利教授は、学校などでの保護者対応の難しさについて研究している。題して「いちゃもん学」だ。

 教授は05年、関西の888の小・中・高校、幼稚園、養護学校の管理職を対象に、「保護者対応の現状に関する調査」アンケートを実施。約6割にあたる507施設から回答が寄せられた=下のグラフ。

 「大いに難しさを感じる」と答えたのは小学校の43%を最高に平均で4割近く、「少し難しさを感じる」と合計すると、難しさを感じている管理職は、小学校で9割、中学、高校で8割超と、軒並みハイスコアを記録した。

 給食の準備で忙しい時間帯、担任教員に「急ぎの電話」を入れ、

 「うちの子、風邪ぎみだから薬をちゃんと飲ませてよね」

 と命令する母親。運動会前日、

 「明日の天気は雨のようだが、なぜ雨の確率の低い日に設定しなかったのか?」

 と電話で詰問する親。運動会の場所とりで前夜から門前に並び、近隣住民から注意を受けると「学校の対応が悪い」とキレる親。

●「いちゃもん化」社会

 小野田教授は、学校に対する保護者や近隣住民の要求が刻々と「いちゃもん化」する底流にあるものは、現代ニッポンの「コンビニ・ファミレス文化」と考える。

 「例えばコンビニでは立ち読みだけして出ていく客にも、店員が『ありがとうございます』と言いますし、ファミレスでは小さな子供が1人で来ても『いらっしゃいませ』『何になさいますか』と声をかける。本来なら『立ち読みやめんかい』『キミ1人で来たらあかんで』でしょう。こういう奇怪なコミュニケーションの積み重ねが、消費者サイドに間違った権利意識を植え付けてしまっている」

 確かにコンビニやファミリーレストランが社会に定着する以前の「店」と「客」の関係性は、今よりずっと人間的で直接的であり、画一的にマニュアル化されてはいなかった。その分、客の側も緊張感があった。つまり小野田教授の言う「権利意識」とは、何であれ「消費者」は丁寧に扱われることがサービスの最低基準だという、ある種ゆがんだ意識である。

 精神科医の和田秀樹氏は、「超消費社会」がキーワードだと指摘する。

 「生産が消費に追いつかなかった時代はモノを作った側が強かったけれど、モノがあふれて消費不況が慢性化した今ではサービス合戦しかない。その構図から『お客様』の側にものすごい甘えが許される環境ができて、月並みなサービスでは満足できない消費者たちがたくさん育っちゃった」

 現代の「安全神話」の弊害もある。緩和ケア、そして神経科病棟の現場で看護師長を務めながら、エッセイストとしても活躍する宮子あずささんは、「緩和ケア」や「心のケア」という言葉のもたらす安心感に、違和感を感じてきた。

 「緩和ケア病棟で接するご家族の中に、親御さんが末期がんだというのに『落ち込んでいるので、前向きにしてやってください』などと言う方もいます。確かに医療は発達しましたし、緩和ケアも充実しつつあります。それでも、いつの世も病は苦しく、死は恐ろしいもののはずなんですが」

●つらさを多角的に見る

 超消費社会と、消費者意識の変容が生み出す、おびただしい量の過酷な感情労働。この流れを変える手立ては、ないのだろうか。

 和田氏は、まず「振り子」を適正位置に引き戻すことだと考える。

 「学校と生徒、企業と消費者という関係性は、かつては立場がまったく逆だった。例えばヒ素ミルク事件で会社はつぶれなかった。そういう不適切な過去の力関係から、振り子が逆サイドに振れて、大きく振れ過ぎた。そろそろ振り子を適当な場所に戻して、『そこを超えるとただのクレーマーだぜ』ってラインを確立しないと、どんどんおかしなことになる」

 さきの宮子さんは、感情労働のつらさの「形」を、働き手が認識できるしくみづくりが大切だと言う。

 「個人の精神的な訓練も必要ですが、精神論では対処できないケースにも多く直面します。ですからつらい局面で、環境や感情を多角的に見る力がつけば、精神的に少し楽になれる。私の場合、それは言語化することでした」

 武井教授は月1回、全国の看護師や保健所の保健師による「事例研究会」を開催するほか、看護師同士のセルフヘルプグループ的な活動を続けている。いずれも、事例研究という本来の目的に加え、体験を発表し、出席者と共有することがストレスマネジメントにつながるという考えだ。

 全国に33のコールセンターを抱える「ベルシステム24」では、06年2月から全社的なメンタルヘルス対策を充実させた。社内に「ゆとり推進チーム」を発足。心理学をベースにした自己認識を促す研修を、これまでに50回以上開催し、1000人近くが参加した。担当の秋山司人材マネジメント局長はこう語る。

 「ポイントは、ストレスを内にためずに周囲に語れるシステムづくりです。そのためにはまず自分自身の傾向や状態を分析する力をつけ、職場内でストレスを吐き出せる環境整備が必要と考えました」

 研修の骨組みは、労働省(現・厚生労働省)が00年に示した労働者のメンタルヘルス対策「事業場における労働者の心の健康づくりのための指針」を受けたもの。指針は四つのケアを求めている。

 (1)セルフケア

 (2)管理監督者によるラインケア

 (3)職場・会社全体の「事業場内ケア」

 (4)社外の専門家との連携など「事業場外ケア」

 同社では今後、徐々に(2)から(4)の研修を充実させていくという。

●自分をたっぷり満たす

 では個々の感情労働者は、どうしたら燃え尽きずに済むだろう。

 独居老人の後見などを請け負う都内の福祉事務所を運営する女性(48)は、契約しているソーシャルワーカーたちに「定時終業」と「オフの充実」を徹底させる。

 「時間内にやるべきことをしっかりやったら定時できっぱり仕事から離れ、後は趣味などで自分を満たすように言います。24時間、仕事に引きずられないための切り替えの訓練になりますし、他人の気持ちや不幸を受け止めるには、充実していないと続きません」

 近著『日本人はなぜ劣化したか』(講談社現代新書)で、日本人の共感力やモラルが劣化していると指摘した精神科医の香山リカさんは、医師として、ある防御策を学んだという。

 「ポイントは『当事者として巻き込まれないこと』です。患者からの感情的な意見や怒りを受け止める時、私個人ではなく、医師としての立ち位置を大事にしています。いわゆるメタの視点ですね」

 とはいえ、個人ではどうにも対処できないケースはやはりある。女性向けコミュニティーサイトの運営などを手がける「イー・ウーマン」の佐々木かをり社長は、自社と取引先の双方が勝者になれる「win・win」のコミュニケーション方法を心がけている。しかしそれでも「残念なケース」はある、と語る。

 「相手によかれと思って施すことが、まったく伝わらないリスクは常にあります。自分がしたことが直接の相手と違う人から返ってくるなど、うれしいことがあるからこそ、施し続けることができる。でも、どうしても立ちゆかない相手とは、交渉の場からきっぱり立ち去る潔さも、覚悟しておかなくてはなりません」

 (文中カタカナ名は仮名)

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