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医局の窓の向こう側   


急病人です!! 3

2007年10月26日

 内科医師1名、歯科医師1名、看護師1名からなるエコノミー医療チームはビジネスクラスのリッチな紳士を助けるために、エコノミークラスからカーテンで仕切られたビジネスクラスへ向かった。おお! このカーテンの向こうは、このようなラグジュアリーな空間であったのか。ビジネスクラスの他の客は、みな興味なさそうな様子。

イラスト

イラスト:木村りょうこ

 男性のこめかみのハンカチが血液で赤く染まっていて、吸いきれなかった分が肩に落ちている。「どうなさったんですか?」。「お手洗いに立とうと思った時に転んだんです。それでね、メガネが落ちて、壊れたメガネで切ったようなんです。血が、血が止まらないんです!!」。傍らには壊れたメガネが拾い集めてあった。

外傷ってことですね。まぁ、すぐに死んじゃうような容体でないからあわてる必要はないものの、この出血量、縫合が必要だったらどうするんだよう!「縫うの、得意ですか?」。不安になった私は歯科医の先生に耳打ちした。歯科っていったら一応、分類は外科系なわけだし。「いや、僕、硬い物(歯?)が専門なんで、削ったり抜いたりするのは得意ですが、縫うのはちょっと」。どうかたいしたことありませんように。

 私と歯科医師はゆっくりハンカチをどけた。じゅわわぁぁああと血液が出てきた。反射的に再びピタ! とハンカチを戻す。肩口にタオルを引き、清潔なガーゼを用意して、生食(滅菌ガーゼと生食500mLくらいは飛行機の中に用意してありました)で傷口を洗いながら、再び傷口を確認した。傷口はぱっくりと……ではなくて、ざざざざっと広い面積での擦過傷。出血量が多いのは酒に酔っているからと、この傷が顔面だからで、いつまでも出血が止まらないのは、このご婦人が「もう止まったか? もう止まったか?」と何度もハンカチを取ってしまうからだと思われる。キャビンアテンダントに聞くと、縫合セットはないという。まぁ、ここはがっつりと「圧迫止血」ってことでしょうか。

 幸い、本人にはビジネスクラス高級ワインによる麻酔が効いていて、あまり痛みを感じていないご様子。真っ白な麻のジャケットが汚れるのがいやそうな歯科医先生と、立派なスーツが汚れるのがいやそうな看護師君と、Tシャツ・ジーンズの私は顔を見合わせた。

「あ、じゃあ、私、押さえときますんで」。私が残り、歯科医先生と看護士さんはお席に戻っていただいた。

 さて、通路側で立ちっぱなしで男性のこめかみを圧迫していると、斜め後ろの男性客がアエラを読むふりをしながら私を見ている。視線を感じてそちらに目をやると、雑誌で顔下半分を隠したお方と目があった。アエラをするすると下におろして、顔を私に見せると、その男性の口が大きく「ばぁか」と動いた。

 な! な! はあ!? うちの病院の外科部長じゃないですか!! 声を出そうとすると、にやりと笑って「そのまま、そのまま」と合図を送って、再びアエラに目を落とす。

 圧迫止血は気長に、もう大丈夫ってところまでガーゼを取らないで押さえ続けないと、元の木阿弥になってしまう。すぐそこで優雅に雑誌を読んでいる外科部長が憎々しい。思わず押さえの手に力が入ったところ、「ちょっと痛いんだけど、もうちょっと優しく押さえてよ!」とケガ人からクレームが。「そうよ! 出血がひどくなったらどうするの?!」。ケンケンと奥様もおっしゃる。さすがにむっとすると、外科部長のアエラを持つ手がぷるぷると震えている。笑っているのだ。再びこちらを向いて「がんばれ」と口だけを動かされる。ひぃん? なんだかけが人と奥様は横柄だし、手はだるくなるし、外科部長は笑ってるし、がんばれ!私。この続きは来月。

筆者プロフィール

真田 歩(さなだ・あゆむ)
 医学博士。内科医。比較的大きな街中の公立病院で勤務中。診療、研究、教育と戦いの日々。開業する程の度胸はなく(貯金もなく)、教授に反発するほどの肝はなく、トップ研究者になれる程の頭もない。サイエンスを忘れない心と患者さんの笑顔を糧に、怒濤の日々を犬かきで泳いでいる。
 心優しき同僚の日常を、朝日新聞社刊医療従事者向け月刊誌で暴露中。アサヒ・コムにまで載っちゃって、少し背中に冷たい汗が・・・。

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