どこか特定の宗教が嫌い、というのではなく、「宗教」そのものが嫌いだ。
特に「組織」を持つ宗教は、嫌いだ。
宗教、というある目的に沿った「組織」を作ると、その構成員は、いやがおうでも、その団体の利益のために自分を犠牲にしなければならなくなる。
反対に、その団体の益を損ねてまで、その団体が人を救う、ということはまずありえない。人がじぶんを犠牲にして、人を救うこともあるし、人が自分を犠牲にして、組織を救うこともあるけれど、組織がその組織を犠牲にして、人を救うことはまずありえない。
ゆえに、宗教でもなんでも、組織は人に冷たく、組織は人に犠牲を強いる。奪うことはあっても、施すことはまずない。宗教組織はそこで「愛」ということばを使って、その組織の冷たさを隠そうとする。火のないところに煙は立たない。本当に「愛」があるのであれば、わざわざ「愛」などという言葉を使ったりしなくても、それは感じ取れる。ないからこそ、わざわざ「愛」という言葉を使うのだ。
組織と個人は人類永遠の対立概念である。
特に宗教組織は企業組織のように明確な「目標」が無いから、あるいは、その目標を隠していることが多いから、なぜ犠牲にされる人間が、犠牲にならなければならないか、という説明原理が、犠牲者に示されないか、それがウソで作ってある。企業組織であれば、それは組織として個人に犠牲を強いることはするものの、そこのところにウソはないし、いい加減でもない。もちろん、冷酷ではあるけれども。
しかし、宗教組織はそこに本当に意味での説明原理はない。「説明原理らしきもの」しかないのだ。宗教では、それを認めない、ということになってしまえば、説明原理そのものが崩壊するからだ。
人類の歴史において、人がよりよく生きていくために作られた「組織」は、宗教に利用され、宗教組織ができた。宗教はそのとき、本来の宗教の意味を失った。
人は悲しい動物だ。
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