神戸小学生惨殺事件の真相 その3 「A少年供述調書」の虚構 |
はじめに
神戸児童連続殺傷事件の疑惑をあばきだし全社会的に訴えつづけてきた私たちのたたかいは、いま決定的な局面をむかえています。
かの『文藝春秋」3月号によるA少年の「検事調書」なるものの掲載、それが少年法の改悪にむけて一気にはずみをつけようという意図のもとに、A少年の「異常さ」と「残虐さ」を印象づけることを狙ってなされたのはあまりにも明白です。私たちは、この『文藝春秋』の暴挙にたいして---その片棒をかついだ立花隆氏にたいしてとともに---怒りをおさえることができません。
けれども同時に、この「検事調書」なるものは、それ自体において、またこれまでのマスコミ報道=警察発表とのあいだで、あらゆるところに矛盾を露出させているしろものにほかなりません。まさにそれは、リークした者たちの意図とは逆に、神戸事件とA少年逮捕にかんして私たちと多くの心ある人々が訴えつづけてきた疑問の正当性をこそ鮮やかにうきぼりにしているではありませんか。じっさい、私たちのもとにはいま、全国津々浦々から「『文藝春秋」を読んだけど、あれは作り話ですね」とか、「検事が誘導したことがよく分かった」とかという声が続々と寄せられているのです。
もちろん私たちはひとときも忘れてはいないし、また忘れてはなりません。A少年が今なお東京府中の関東医療少年院において、「一人部屋」という名の“独房”に幽閉されつづけていることを。弁護団が不当きわまりない「家裁決定」に何ひとつとして異議をとなえることもなく抗告も放棄してしまったことのゆえに、彼は一生を台なしにされようとしているのです。またご両親をはじめとする関係者のみなさんはいいようのない苦しみを味あわされているのです。
すべてのみなさん! そうであるからこそ、いまこそ私たちは「検事調書」に露出している神戸事件の黒い影を徹底的にあばきだし、その真相を白日のもとに明らかにするためにさらにさらに奮闘しようではありませんか。その願いをこめて私たちはここに、パンフレット第3集を発行しお届けします。
すべてのみなさん! 心をひとつにして頑張りましょう。
神戸事件の真相を究明する会
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『文藝春秋』に掲載された「検事調書」の虚構を暴く一一
二月十日に発売された月刊『文藝春秋』三月号に、神戸事件の犯人とされ関東医療少年院に送りこまれているA少年の「供述調書」なるものが、掲載されました。門外不出のはずの検事調書七通が、「少年A犯罪の全貌」(『文藝春秋』のタイトル)などと銘うって、突如として公表されたのです。
このことに、私たちはまず驚きました。そして、この驚きは、やがてこみあげる怒りへと変わっていきました。なぜなら、この検事調書は「少年自身の言葉で表現された犯行の事実」(『文藝春秋』のまえがき、「編集部から」)をあきらかにするものであるなどとおし出されているだけでなく、「A少年はサイコパス(異常人格者)かもしれない」「『懲役13年』にいう『絶対零度の狂気』とは少年の冷血性を表現する言葉かもしれない」(立花隆氏)などという宣伝が、大々的に流されはじめたからです。
調書の公表をきっかけとして、「神戸事件はサイコパスによる猟奇的快楽殺人事件だ」といった大宣伝がくりひろげられつつあることを、私たちは黙って見すごすことはできません。それはあきらかに、国家権力が、A少年を医療少年院に送りこんでもなお広く静かに日本全国に浸透しつつある「真相究明」の声をなんとしてでもおし潰し、少年法の改悪への道をはき清めていくために流しているキャンペーンにほかならないのです。権力はいつでも、自らの都合のよい時に、自らに都合のよいことだけを、国民の間に洪水のように流しこむのです。そしてマスコミは、あいもかわらず、「国民の知る権利」「言論の自由」の美辞麗句のもとに、この権力の意を汲んだ広報活動にいそしんでいるのです。
だがしかし、透徹した理性をもってこの一連の調書とあい対するならば、じつにこの「供述調書」は、一これを流布するものの意図とは全く逆に--検事のでっちあげた虚構でしかないことが、鮮やかに浮かびあがってくるのです。およそ非現実的なことを書き殴ったバーチャル・リアリティの世界。色もなく音もなく匂いもない、モノクロームの世界。・・・
実際、私たちのパンフレットを読んで下さった多くの人々、そして「A少年=犯人」説に少しでも疑問を持っている人々は、この調書の虚構を見抜いています。既に当会には、こんな手紙や電話が続々と届いているのです。
「調書はおかしいことだらけ・・・一番おかしいのは、首を持って歩いて『重い』という言葉が、最後にひとことしか出てこないこと。私は看護婦だから良くわかる。頭はとても重いのです。ビニール袋だって、伸びて破れてしまうはず。絶対におかしい」
「通常なら目を覆いたくなるような『残虐』シーンのはずなのに、ドロドロしたものが浮かんできません。普通なら、首を取り出してみたものの、腐臭に気分が悪くなるとか、ツメの間に血がはまりこんでいくら洗ってもにおいや色がとれず困ったとか、現実的描写(記憶)が鮮明に残るはずだと思うのですが・・・」
調書に書かれていることを即「少年自身の言葉で表現された犯行の事実」などと信じこむ愚をおかすことなく、自分自身の職業上・生活上の体験をも想起しつつ、かつ想像力をも遅しくしつつ、調書に書かれていることがはたして真実なのかどうかを見抜いてゆくことが、何よりも大切だと思うのです。
ところで、「A少年の供述調書」の具体的な検討に入る前に、あらかじめ次の三点を指摘しておきたいと思います。
まず第一は、『文藝春秋』に掲載されている「A少年の供述調書」は全部で七通ですが、これはすべて検事調書であること、しかもその全部ではなく主要部分であり、かつ付属資料は除かれていることです。昨九七年十月十七日の家裁決定で証拠から排除された警察調書は、ここには一通も含まれていないのです。
第二は、「供述調書」と名づけられ、「僕は・・・しました」というような表現をとっているとしても、それは決して、A少年の話したことをそのまま記録したものではない、ということです。このことは、一般に容疑者が大人の刑事事件の場合でも同様であり、「供述調書」というものは、検事あるいは警察が容疑者を尋問した内容を後から「本人の供述」という形式にまとめて文章化し、これに署名・捺印させてつくるものにすぎないのです。したがって、検事あるいは警察の言うことに、たとえば本人がうなずいただけでも、それは「私は・・・しました」という表現で調書に書かれてしまうのです。
第三は、この取り調べは、外界から遮断された密室の中で行われることから、容疑者は特異な精神状況に追いこまれがちであること、とくに少年の場合はそうだということです。『文藝春秋』の調書掲載に寄せて元最高検検事である永野義一氏が書いている「少年の供述書」という一文を掲げます。これを読むと、このことがよくわかります。
それでは、七通の検事調書の内容に沿って、以下具体的にその虚構性を暴きだしていきましょう。
供述の概要 5月24日、J君をタンク山に誘い出し、アンテナ基地入口前で靴紐で絞殺。 いったん山を降り、糸ノコと南京錠を万引きし、再び山に戻って 遺体を基地内の局舎床下に運び入れた。 その後、友人たちとの待ち合わせ場所へ行った。
タンク山のケーブルテレビアンテナ施設の入口前でのJ君殺害の場面が、本人にしかわからない細かな事実をちりばめて、いかにもリアルに描写されているかのようです。だが、本当にそうでしょうか?
『文藝春秋』3月号に掲載された7通の検事調書の概要
まず決定的なことは、これでは、J君の死亡推定時刻と全く合わないことです。
検事調書が語るあの長い格闘劇を再現したら、おそらくは一時間くらいにはなるはずです。ところが、J君が祖父の家へ行くために自宅を出たのは、J君の母が証言し当時の全ての新聞が報じているように、午後1時30分から35分です。そしてJ君の死亡推定時刻は、午後1時40分頃なのです。J君の遺体を司法解剖した龍野嘉紹教授(神戸大学医学部法医学教室)は、昨年十月九日と十月十四日に、神戸大学生でもある「真相を究明する会」会員に、次のように語ってくれたのです。
「殺されたJ君の胃の中には、昼食べたものがほとんどそのまま残っていた。胃の中のものは時間が経つと十二指腸に行ってしまうのだが、ほとんど消化されずに残っているということは、J君が家から出たのが1時半だから、そのあとすぐ殺されているということだ。1時40分ごろだ」(十月九日)
「私は警察がJ君の家族から聞いてきた昼食の中身と解剖したものを比べて、それが一致した。カレーだけでなく、他のもの、たとえば菜の花とか……。だから出かけてすぐに殺されたと判断したのだ」(十月十四日)
J君が自宅を出てから殺害されるまで、五分から十分しか時間はありません(ということは、おそらくはJ君は、ワゴン車のようなものにひきずりこまれて、直ちに殺害されたにちがいないのです)。
調書を読んでいるさなかに、先の龍野教授の言葉を思いおこし、私たちは唖然としました。実に検事は、殺害場面を描き出すにあたり、いかにもリアリズムを装おうとして、とんだ馬脚をあらわしてしまったのです。龍野教授が、すでにこの調書を読まれているとしたら、一体どんな感想を抱かれたのでしょうか。
ところで、殺害当日の五月二十四日午後は、雨が降っていました。アンテナ施設の入口前が雨の日にどんな状態になるかは、カラー口絵で見たとおりです。この場所でこれだけ長時間格闘すれば、当然衣服も靴も泥まみれになるはずです。
私たちはA少年のお母さんに、「五月二十四日、着ているものは泥で汚れていましたか?」と聞いてみました。するとお母さんは、「洗濯は毎日するが、衣服や靴が泥んこになっていて洗濯したという記憶はありません。五月二十四日、泥はなかったです。そうなんです。おかしいんです。私は前から、警察にも弁護士にも言っているんです。でも、取り上げてくれない」と、はっきり言われたのです。
なお付け加えておけば、調書では、A少年がJ君を連れてタンク山のアンテナ基地へ向かったルートは、「タンクの下付近を廻りながら、山頂へ向かう獣道を歩いて行きました」となっています。しかし、A少年の逮捕直後の、警察のリーク情報にもとづくマスコミ報道では、タンク横から基地へむかう直登ルートを登ったとされていたのでした。この直登ルートを登れば泥だらけになること必定であり、このことは当時の新聞でも書かれていました。だからこそ、調書では、左回りの獣道を行ったことに変えたにちがいないのです。
【掲載者注 アンテナ基地写真の中の手書きの図にある「粘土質の斜面」が、この「直登ルート」にあたる。粘土質の地肌が剥き出しの急斜面なので滑りやすい】
「タンク山」の土付着せず
淳君 車内で殺害か
さらに検事調書のいう格闘劇が事実だとするならば、当然にもJ君の遺体には首を絞めた手の指の跡だけでなく、靴紐の跡が何本もつくはずです。そういう事実はあるのでしょうか。
龍野教授は言っています。「ごく細い索状痕、細い線ですよ、ほんとうに細い線が一本だけついていた。そして首の切り口は、ほぼこの線に沿って切られていた」、と。
この索状痕は、運動靴の紐などによるそれではないのです。たぶんそれは細くて丈夫なロープのようなものであり、犯人どもはJ君を拉致したその直後にこれを用いて彼を絞殺したにちがいありません。そして、まさにこのような一本の細い索状痕が遺体に残っており、そのうえでA少年を犯人にしたてあげなければならなかったからこそ、検事は、靴紐を使っての絞殺という物語を作らざるをえなかったにちがいないのです。
しかし、いきなり靴紐で絞殺したというのではあまりにも唐突なので、検事は、まず手で・次にはナイフで・さらに石で・そして最終的には靴紐で、という長い長い格闘の物語をひねりだしたのにちがいありません。けれどもこの物語は、至るところで馬脚をあらわすことになっているのです。
そもそも、誰かを殺すという目的だけが明瞭で、何を用いて殺すのかを全く考えていないこと自体が、きわめて奇妙なのです。手では殺せないので「ナイフで殺そうと思い、ジーパンのポケットを探して」「初めてナイフを持ってきていなかったことに気づいた」などというのは、あきらかに作り話というものです。A少年が持っていたといわれている「龍馬のナイフ」は、さやも含めると二五・五センチもの長さがあります。これが体にぴったりするジーパンのポケットに入っているかどうかは、探すまでもないはずです。
それだけではありません。午後4時25分頃にビデオショップ「ビブロス」でA少年と会った複数の友人が、次のように語ったといわれているのです。「……話している最中、〔A少年は〕二十五センチほどの白木のさやに収まった刃物を手にしていた。『ヤクザ映画に出てくるような刃物』だったが、血や泥がついているようには見えなかった」と(「朝日新聞」7月2日付)。
ところでさらに、この靴紐についての供述には、検事の誘導尋問の“痕跡”が歴然としています。
靴紐をフェンスまたは桟のどちらに結んだのかも(フェンスはゆがむはずだ!)、またいつこの紐を靴につけたのかも、何も覚えていないが、「今示されて」「気付く」「ことから考えると」「……と思います」一これは、検事から言われてA少年がやってもいない犯行を無理矢理「供述」させられていることの、端的な表現なのではないでしょうか?
さらにこの五月二十四日の「J君殺害」物語には、次のように矛盾が山ほどあるのです。
1 J君が自宅を出たのは午後1時30-35分(母の証言)、A少年がビブロスにあらわれるのが午後4時25-30分(友人の証言)一このかん三時間弱しかない。J君殺害に至るあの格闘だけで一時間かかったとすれば、<J君の誘い出し → 殺害 → 山を降りてコープリビングセンターで「糸ノコ」(金ノコ?)と南京錠二つを万引き → 山に戻り施設入口の南京錠を切断 → 古いアンテナを移動しJ君を局舎床下に運び入れて隠す → 山を降り友人と落ち合う>という全行動をとるのは、私たちの実地検証では時間的に全く無理だということ。
2 このかん、A少年を目撃した者が誰一人としていないこと。
3 一時間も格闘している間に、J君がどんな抵抗をしたかなどは全く触れられず、彼の服装さえ「覚えていない」こと。
4 「右利き」で「無器用な」A少年が、右手でJ君の首を絞めながら、左手で、手袋(内側にゴムのついた黄緑色の軍手のようなもの)をはめたままで靴紐を解き、地面の上で輪っかを作り、さらにフェンスか桟に縛るなどということができるのかということ。
5 土曜日の人目の多い店内で手提げ袋ひとつ持たず、トレーナー・ジーパン姿であったはずのA少年が、どうやって47センチもある金ノコを万引きできたのか、一言も触れていないこと。
6 施設入口の南京錠を「糸ノコ(=金ノコ)」で一分位で切った」というだけで、切れば出るはずの彪大な真鍮の粉についてさえ全く言及していないこと。
7 「体力のない」A少年が四十二キロあるJ君の遺体を施設内の狭い局舎裏にひきずり運んだだけでなく、局舎の床下60センチに「蹴りこむ」などということは、容易ではないこと。等々……。
検事調書が三流小説以下的な下手な作文でしかないということは、もはやあきらかというべきではないでしょうか。
「うつ伏せになった」J君に「馬乗りになり」「靴紐を力一杯両手で引いて持ち上げるように」した
「仰向け」になったJ君の「腹の上に馬乗り」になりJ君の首に巻き付けた靴紐を「両手で力一杯」引っぱった
調書のいうように、上のような動きをしたのが事実だとするならば、3ヵ所にヒモ跡がつくはずなのだ。
「左」側の靴紐の「端をケーブルテレビアンテナ施設入口のフェンス」か「桟」かに「結びつけ」J君の「首を絞め付け」た
J君の遺体のヒモの跡は、45度の角度で「1本だけ」上のようについていたのだ。(司法解剖をおこなった神戸大龍野教授)
45度の角度のヒモ跡はJ君よりはるかに大きな人間がつり下げるように絞めないとできないのだ。
靴紐を輪っかにして頭を通すのは無理!
2「糸ノコ」で遺体を切断
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