ミャンマーよ、民衆のこと、キン・ニュン第一書記のこと

No.315 平成19年10月21日(日)

 今朝の産経新聞に、シンガポール支局長の藤本欣也氏が「日本はミャンマーに怒れ」という論説を書いている。
 その中の、ミャンマー中部のメイクテーラにおける戦没日本兵の慰霊の情景と「かつて特別な関係にあった日本も、軍政との間に太いパイプをもたないのが実情だ」という記述に促され、ミャンマーについて思ってきたことを書いておきたい。

 先ず、長井健司さんが、九月二七日に射殺された。まことに気の毒で無念であった。
 後になってみれば、何でも言えるのだが、映像で見る限り、カメラを構えた長井さんのあの位置は、日本のデモに際して、日本の機動隊がデモを規制しているという前提での位置だ。
 しかし、現実には、引き金に指をかけて銃を水平に構えてた軍隊がデモを制圧しており、長井さんはその兵隊の直前でなおもカメラを構えていた。
 実戦行動中の軍隊において、兵士が銃を水平にかまえていれば、まさに「撃つ」ためだということをあらためて肝に銘じておくべきである。
 デモ隊が制圧部隊から潮が引くように逃げるなかで、カメラを構えた長井さんが逃げずに取り残されて迫る兵隊の前面に出てしまったようだが、痛恨の場面である。心より、ご冥福を祈る。
 
 なお、テレビで紛争地などの情景が報道され、兵隊や銃を持った人々の姿が放映されるときがある。その時私は、彼らが銃のトリガー(引き金)に指を入れているか入れていないかをみるようにしている。規律のある軍隊は、人差し指を真っ直ぐに伸ばして銃を持っており、平素トリガーに指を入れていない。入れるのは命令により現実に撃つときだけである。これが銃を扱う原則である。反対に、トリガーに指を入れて騒いでいるような集団が放映されることがあるが、これらの集団には規律がないとみてよい。時々、暴発によって死傷者が出ているはずだ。

 さて、「日本も今や軍政との間に太いパイプをもたない」という。これははっきり言うが、日本外交の怠慢である。日本外交が戦略眼をもたず、漫然とアメリカさんやスーチー女史になびいていたから、パイプがなくなったのである。つまり、東京の戦略なき怠慢が、ミャンマーを中国側に追いやり、現地でのパイプをなくしたといってよい。
 ミャンマーは心温まる親日国で、軍事政権も一貫して日本に熱いまなざしを向け、援助を期待していた。しかし日本は、「民主化」を要求して援助を打ち切って放置した。そして、援助再開の動きも、その都度アメリカ国務省のご意向に従って封印された。
 その間、日本は、正真正銘の軍事政権である北朝鮮や天安門事件以降の中国に対しては、巨額の援助を続けていたのである。

 なお、一口に「軍事政権」というが、北朝鮮や中国とミャンマーを一緒にできない。前者は民衆の生活よりも独裁者と共産党が核やミサイルを保有し巨大な軍隊を維持するための軍事政権である。これに対して、ミャンマーは、貧しさの中からの国造りのための軍事政権である。丁度日本の明治維新から自由民権運動と国会開設までの政権の雰囲気と思えばいいのではないか。
 また、治安は日本より良い。貧しいけれども、市場で働く子供が札束を持って歩いていても盗られない。仏教の穏やかな教えと喜捨の精神が生きている。親の子殺しも子の親殺しもない。

 日本は、援助を打ち切っていた。それで、ミャンマーの首都ヤンゴンのミンガラドン空港は、長年工事が中断したままであった。管制塔の建物だけが建っているが窓もなく廃墟のようであった。これは、日本の援助で始まった工事を日本が中断したからである。私は平成六年に初めてミャンマーを訪問し平成十七年まで度々訪れたが、その間ずっと管制塔は廃墟のままであった。
 我が国で言えば、首都の羽田空港の管制塔が廃墟のまま十年以上放置されているのと同じである。
 ある時、空港脇の資材置き場に行ったが、日本の資材が山と積んであリ、重機や工事車両が整然と並んでいた。管理人もいないのに荒らされた形跡はなく重機も痛んでいなかった。ミャンマー政府は十年以上の間、日本による工事再開をひたすら待っていたのである。なお、ミンガラドン空港は、帝国陸軍の加藤隼戦闘隊の基地であった。

 とはいえ、日本政府はミャンマーへの援助を全面的に止めたのではなく、人道援助は遠慮がちに続けていた。しかし、スーチー女史は、日本の人道援助も軍事政権を喜ばすだけだと激しく非難していた。
(だいたい、こういう非難が出来ること自体、ミャンマーの「軍事政権」が、中国や北朝鮮と違い自由があるという証拠である)
 そこで十年ほど前に、私は、日本のポリオ生ワクチン援助が如何に行われているかミャンマーの田舎に見に行った。
 そこでは、若いお母さんが幼児を抱えて続々と集まってきていた。そして皆笑顔で我が子にワクチンを飲ませていた。その横では、お祭りのように人々が笛や太鼓で踊っていた。本当に、我が国は隣人に喜ばれるよい援助をしているものだと実感した。
 しかし、この援助をスーチー女史は非難していたのだ。そして、日本政府は遠慮がちに援助していたのである。
 なお、スーチー女史は、ヤンゴン以外のミャンマーを知らない。つまり、彼女はビルマ人の顔をしている英国人である。顔はビルマ、心は英国。実は、イギリスの植民地政策というものは、被支配地の上流階級をこのように作り上げるものなのだ。

 私は、ミャンマー軍事政権のキン・ニュン第一書記とは、訪問するたびに会った。会うたびに心が通い合った。
 平成六年に初めてキン・ニュン第一書記にあったとき、私は、「ミャンマーの各地を訪れてきた。各地に日本軍将兵の慰霊碑があった。その慰霊碑の世話をしてくれているのは貴国の国民であった。この貴国の大地で、十九万人の日本軍将兵が亡くなった。十九万人の日本人が貴国の土になった。この日本兵を慰霊してくれている貴国に感謝する」と言った。
 それから、話が弾んで時間がどんどん過ぎていった。帰国のフライト時間が迫ってきた。同行の寺井さんが、飛行機に乗る時間ですといった。すると、第一書記が、大丈夫、真悟が乗るまで飛行機は飛ばさない、と言った。
 私が帰国後、キン・ニュンは、「真悟は軍人だろう」と側近に尋ねたと聞いた。

 ある時、キン・ニュンに、「我が国での情報によると、ミャンマーはインド洋のアンダマン海に中国のレーダー基地建設を許可したというが、本当か」と訊いた。
 それに対して彼は、「そんなことはない。我々は中国と国境を接している。従って近所付き合いはする。しかし、中国の弟になるようなことは絶対にない」と答えた。
 またある時、キン・ニュンとアウンサン・スーチー女史の話になった。その時彼は、次のように言った。
「彼女は、アウンサン将軍の娘だ。だから我々は、妹のように思って接している。しかし、彼女は夫も子供もイギリス人でイギリスに家を持っている。しかし、我々四千五百万ミャンマー国民は、この大地で生まれこの大地で死ぬんだ」

 平成十四年十一月、キン・ニュン第一書記と別れるとき、出口に向かった私をいつになく彼が呼び止めた。振り向くと、彼は下を向いて右足でパンと床を踏み、私をみて言った。
「真悟、また来てくれ、今度は私が国境地帯を案内する」
 これが彼をみた最後になった。その後、彼は政変で失脚し、今は監禁状態にあると聞いている。
 
 そして、今や中国がミャンマーを飲み込み始めている。また、キン・ニュン第一書記が、警護も付けずに礼拝のために裸足であるいた首都のシュエダゴンパゴダには、軍隊が入りサンダル履きで歩き回っている。
 現政権は、武装した軍隊を僧侶制圧のためにパゴダに入れた。これはミャンマーでは考えられないことだ。仏教を敵視したことになるからだ。民衆のもっとも素朴な心情を踏みにじった政権に未来はない。
 
 キン・ニュン第一書記は、日本で教育を受けたビルマ独立の英雄アウンサン将軍の部下という意識をもち、日本に熱い期待を持ちながら国家統合という大きな職責の重圧を支えていた。私は、明治維新の大久保利通の雰囲気とはこのようなものだったのではないかと思ったものだ。
 日本外交は、国家戦略としてキン・ニュン第一書記の期待に応えるべきであった。それを、自分勝手で独善的なアメリカ国務省のオルブライト長官等のスーチー好きの意向に盲従し、機を失してしまったのである。まことに、戦略なき外交である。豪勢な大使公邸を造り、キャリア外交官を大使として送り込んでいるだけであった。

 さて、ミャンマーの民衆であるが、敬虔な仏教徒で極めて親日的だ。今朝の産経の論説にあるとおりの人々が、今も日本軍戦没者を慰霊してくれている。それ故、ヤンゴン郊外の日本人墓地にはミャンマーの人々に向け、生き残った兵隊達によって次のように書かれてた石がある。
「あなた達は、我々が勝っているときも負けているときも、等しく親切に接してくれた・・・ありがとう・・・」

 ところで、キン・ニュン第一書記失脚後の平成十七年に、ミャンマーを訪ねた。多くの仲間と、小学生に筆記用具を渡し、ぼろぼろになったある小学校の校舎を建て替えるためだった。
 その時、キン・ニュン時代の閣僚であったエーベル将軍に会った。彼は、現政権の閣僚とも会った方がいいと言ってくれたが、会わなかった。日本に期待していたキン・ニュンを放置しておきながら、彼が失脚したからといって、いそいそと新政権に会う気はしなかった。
 なお、我々が訪ねた小学校であるが、今は田園の中の新しい清楚な木造校舎の中で、子供達が笑顔で学んでいる。

 追記、22日朝。
 このミャンマーに関して、国際社会では現在アメリカと中国が鞘当てをしているようだが、我が国としては、「アセアンに任せろ」という立場に立つべきである。ミャンマーはアセアンの一員であり、アセアンは、今やまとまりのある地域として成熟しつつあるからだ。
 そもそもこの地域における「内紛」には、
中国の南下(かつては共産ゲリラ、今や経済的攻勢と不道徳の輸出)と華僑の経済支配、そして、アメリカの自由主義の押しつけ、
が絡んできたのである。
 よって、我が国は、アメリカでもなく中国でもなく、アセアン側に立って「アセアンに任せろ」という立場を明確にするべきである。

 



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