創作用の雑記ブログです。
私が自作品+αについて色々と無駄に語る場所です。別名・落書き帳。 あとは、妄想とか構想とか短編の後書きとかどうでもいいトークとかを書いていく予定です。まぁ後々書きたいネタのメモ帳っていうか。 一応妄想とか構想は自分の為……遅筆な自分への戒めということで。人目に触れる場所に置いてあれば嫌でも書くだろう、と。 ついでにご大層な御託を並べている時は大抵言い訳です、言い訳。屁理屈とも言います。 構想やら妄想はともかく解説や後書きはネタバレありです。長編の場合、先の展開についてのネタバレ……もあったりするかもしれません。その通りに話が進むとも限りませんけどv 歴史もの長編はがっつりネタバレありです。多分最初から最後をばらしているかと……
[ 創作に関する与太話 ]
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バッドEDな悲恋です。ついでに首ちょんぱなのでお子様お断りなお話です。どうせお子様お断りなので、アレやコレやも入れました。ビバ、乱脈なる日本の性文化!!
えっと、この話は袈裟御前と遠藤盛遠です。文覚上人の過去話と言った方が有名かも知れません。割と有名、かな? 源平盛衰記&文覚の生年から察するに舞台は1555年(『源平盛衰記』ではかの事件が起こったのは遠藤盛遠が17歳の時としています。で、盛遠こと文覚上人の生年は1339年、数え年で17歳と言うと1555年となります)なので、この翌年にかの「保元の乱」が勃発です。実は義経の時代に近いんですよv と言うか文覚が頼朝さん関係者なのです。 最初は袈裟を年上の女性にしようかと思いましたが、『源平盛衰記』によると袈裟御前は享年16歳で17歳の盛遠より一歳下。正直『源平盛衰記』は『平家物語』並に色々アテにならないのですが、ばっちり年齢が残っていることですし、使わせて貰うことにしました。そして、盛遠はヤンデレ君のメンヘル…… 年齢を下げた所為で渡・盛遠との三角関係も微妙に変わりました。17歳と16歳と21歳ですからね。16歳の袈裟はまだ若いので、大人で優しい渡を夫として愛しつつ、一途で情熱的な盛遠に心が揺れることもありな感じ。 渡については色々補完出来たので個人的には満足しています。この話を知った時から、ずっと渡について興味があったので。 袈裟の真意については読んだ人次第で。以下は私の解釈ですが、作中の袈裟とは微妙に違います。 『貞女の鏡』と言わている袈裟ですが、私としてはそれほど立派な女性ではなかったように思えます。 盛遠の強引さに翻弄されて心惹かれることがなかったとは言い切れないけど、それでも夫の渡のことも常に頭にあって、二人から寄せられる感情が真摯であるからこそ惑ってしまう。どちらを取ることも出来ず――どちらを取ってももう片方に心を残してしまう。更に夫以外に抱かれてしまった己が罪深く、許せなかった。 そんな自分の許容量を超えた事態に対処出来なくなって、元凶の自分が消えてしまえばそれで終わる、思い詰めてしまったんではないかな~と。死でもって不貞を償おうと思いもしたでしょう。悪い言い方をすれば自分とも盛遠とも渡とも向き合うことなく逃げてしまったとも言えます。 自分を殺すことで盛遠が一生袈裟を引き摺り、自分を庇って妻を殺された渡も袈裟を一生引き摺り――自らの死でもって二人の男の心を手に入れた悪女でもなく(……ってそう言う悪女――ネガティブだけどアクティブな袈裟でも良かったかも)、ましてや貞女でもなく、臆病で悲しい女性ではないかと思います ってこれは悲恋なのか? 原典読んだ時から盛遠→袈裟は確かに悲恋だけど、孝心と貞節の間で揺れた袈裟にしてみればはた迷惑なだけな気がしますことよ。いや、袈裟→盛遠がどんな感じかにもよりますけど、渡と三年ものお付き合いでラブラブと書かれてますし。ふらりとよろめいた不倫未満で、相手がメンヘル入っていたから痴情の縺れによる殺傷事件になりました、って感じ? 芥川では両想いになっていましたけど。 ものの本によっては袈裟は最初遊びで盛遠を誘ったりしてたりもしますが……そんな尻軽女は孝心と貞節の狭間じゃ悩まんだろ、無理心中されそうではあるけど。 さて、文覚と袈裟の話で、“盛遠が上西門院に仕える北面武士”or“袈裟が上西門院付き女房”とされていたりしますが、1555年と言う舞台設定を考えれば明らかなる間違い。 何故なら1555年に上西門院統子内親王は存在しません!から。 と言うよりも、上西門院こと統子内親王は、この時点ではまだ女院ではないのです。鳥羽院の皇女にして元斎院と言う認識(院号宣下され女院となるのは1559年)です。 まぁこの統子内親王様がものすっっっっごい美女だったのは確かですけどv この人も含めてその母である待賢門院様とそのお子様'Sは色々妄想しがいのある方々です。 タイトルにある孤悲は恋のことです。万葉集時代だっけな、こう書いていたようで……独りで悲しみに耐えるから孤悲、日本人って感性が素晴らしいというかロマンチストですね。 愛が“相手の心を受け止める(思い遣る)心”=一人では成立しない感情なら、恋は一人だけでも充分に成立する感情。そう言えば、恋の古文字の戀も読んで字の如く(いとしい、いとしいと言う心)なのですよね。やっぱり恋と言うのは相手を顧みない一方通行なものなのかも。 相手を思い遣るより自分の欲望やエゴを優先させた時点でそれは愛ではなくなるとすれば、「愛」を口にしながらも袈裟を思い遣るよりも自分の想いを遂げることを優先させてしまう盛遠の袈裟への感情はやはり恋なのでしょうね。
[ 後書き~短編::歴史 ]
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当サイトの歴史もの、時代考証としては、あからさまにおかしいのがちらほら見受けられます。自分で書いておいてなんですが、男子の一人称「僕」なんて最たるものですよ。
一人称としての「僕」なんて新しいんですよねぇ……幕末あたりからだっけかな。「やつがれ」とか我と言う意味での「あ」と読むことは古代よりありましたが、「ぼく」と呼び始めたのはつい最近です。えっと幕末なんて200年も経ってないんだからつい最近ですよね、フランス革命だってつい220年前の最近の出来事ですもん。 中国ものだと男性一人称は基本的に「某(それがし)」「我」になります。「儂」とか「私」でもなく「某」。皇帝あたりだと「余(豫は×)」「朕」もありですかね。まぁ中国は広いですから、地方によっては一人称「俺」もあるみたいですが。 なので『狂煉』における奚斉公子の「僕」は本来ならおかしいつーか……そもそも一人称として存在していないわけで。まぁそれを言えば、幼児と言う表現もね、豎子とすべきなんですよね。個人的には項羽の所為で豎子には侮りのイメージがあるのと字面的に微妙なので使いませんけど。 西洋? あっちは本当に一つしかないから……日本が多彩過ぎるんですよ、そもそも。 …………だから、時代考証は自分的拘りに則ってやっているのですよ。分かっていてスルーしたり、わざと変えているところも当然ありますよって。 余談。 一人称ではないけど、王族等の呼びについて。 王国だったら王子、王女、王の世継ぎは王太子 帝国or皇国だったら皇子・親王、皇女・内親王、皇太子 公国だったら、公子、公女、『狂煉』の晋は公国(と言うのか……)なので、詭諸は公、その子供達は公子です。「公」太子という表現があるのかは微妙。なので申生はただの「太子」です。 中国の皇帝の娘だと公主と言うのもあります。公主の前に付くのは名前ではなく、与えられたと地名or雅号です。個人的には公主よりも宋代に使われたという帝姫(ていき)が好み。 と言っても日本のマスコミは王国でもなんでも皇太子ですけど(例:イギリスのチャールズ皇太子)。 あと日本の親王&内親王。今は天皇家に生を受けると自動的に宣下されますが、明治以前は例え天皇の子供であっても母親の地位やら身分によっては宣下されませんでした。で、その場合は○○王or女王となります。王のままだと大変なので(親王だったら国から扶持されるけど、王だとそれが微妙)、源氏姓を賜ったりしました(皇族の血を引く臣下と言うことで出世が期待出来るので)。源氏物語の光源氏がいい例。 もうちっと追加。姫の呼称に付いて。王女や皇女は地位ですが、姫は敬称です。王(皇)族であれば殿下も敬称ですが、姫はもう少し砕けた感じかな。
[ 創作に関する与太話 ]
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閑話休題と言うか後々の伏線もといフラグ立てと言うか……二組の兄弟(姉妹)の話。
割と健全な申生と奚斉兄弟です。歳の差が三十もあるので、申生にしてみれば弟よりも甥みたいなものですね。この時代は母親の元=宮で育てられるので、母親同士が親しくないと異母兄弟は関わりが薄いです。申生と重耳&夷吾は、重耳&夷吾兄弟の母である狐姫姉妹の父・狐突が申生に仕えている関係で異母兄弟と言っても子供の頃から関わりが深いのですけどね。 嫣と妍は相変わらず。この二人は基本的にべったりひったりくっついている姉妹です。微妙に隙間風が吹いてますけど……互いに見ない振り見ない振り。 蓮は別に『春の雪』繋がりではありません。別に巻丹でも月季でも何でも良かったり……妍のイメージ的には百合(天香百合(ヤマユリ)とか巻丹(オニユリ)よりは渥丹(ヒメユリ)かな?)でしょうが、夜には咲かず朝日と共に咲く蓮はある意味申生と妍の関係とは逆なので良いかなぁ~とね。 実は昼メロ第二弾が入る予定でしたが、思ったよりも長くなったので次回持ち越しです……なんでこうグダグ長くなる一方なんだろ。自分の構成能力のなさに泣けてきます。
[ 後書き~歴史::狂煉 ]
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昼メロ第一弾
夷吾と怜こと賈姫については一応記録にも残っているので、捏造ではなかったりします。ただあの時点でそう言う関係だったのかは不明……そこらへんは妄想込みの捏造です。むしろ賈姫が驪姫よりも更に歳下の で、史書にも記されている二人のその後については、驪姫の死後のことなので番外編で書くと思われます。 ついでに夷吾についてですが、兄公子ともども優れた公子と言われていたりします。と言うか、詭諸の息子は奚斉君(&まだ生まれていない弟)を除いて八人いますが、その中で公子と認められているのは申生、重耳、夷吾の三人のみ(生母の身分などもったのでしょうけど)で、その優秀さには定評があったようです。夷吾のその後は……きっと色々あって荒んだんですよ。恵公時代がアレだからって公子時代までそうだは限りませんし。 しかし、兄嫁と義弟だの、父の後妻と前妻の長男だの、まさに昼メロ……
[ 後書き~歴史::狂煉 ]
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