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2007-10-10 (Wed.)  「信徒の賛同」「日本教会」

先日10月7日の日記に、鹿児島教区長であられる郡山司教様のことを少し書かせて頂いたが、司教様ご自身、ブログで、カトリック新聞で披瀝されたご自身のお考えに対して一部の人達から好意的な反応があったことを書いておられる。

昨日8日。久しぶりに会ったMEの仲間が席に着くなり、「読んだわよ。あたしもそう思う。」 ダンナも、続ける。「しかも、神の父だもんね。考えてみるとヒドイ話だね。」...

2007/10/09 「いるいる賛同者」 http://sdemo.net/pken/Blog/archives/2007/10/9

ここで言われている「ヒドイ話」とは何かと言うと、カトリック教会の司牧者が信徒によって「神父様」と呼ばれていることである。郡山司教様と司教様のお仲間の方々にとっては、「神父様」という呼称は、それ自体「非福音」的なものらしいのだ。

私は思う。第一にこう思う。-----「そんな大袈裟な話っすか?」 笑っちゃう。
司教様、見て下さい。私自身、司教様のことを「司教様」とお呼びしながら、事実、このように自由にものを言わせてもらっています(笑) ですから、まずまず、この「神父様」という呼び方は、そんなに大袈裟に問題にするようなことではありません。日本の教会がこの単語を使ってもう長いこと経つでしょう。私の感覚では、今、この単語は、私達の意識の中でひとつのじゅうぶんに定型的なものになっていて、しかもちょうど良い具合に収まって、落ち着いているのではないかと思います。すなわち、基本的には、この単語は、特に尊いお働きをなさっている人達の「お役割」に対して、私達の意識を「敬い」に、自然な形で導きます(私だって、基本的には敬っていますとも!...(^^;ゞ )。しかし、そうでありながら、その呼称は、私達の意識を「封建的」な段階には、全然戻しません。今の私達は、司教様を司教「様」、神父様を「神父様」とお呼び申し上げていても、もし、司教様や司祭の方々が、いつも教会の権威ある建物のどこかにお隠れになって、「信者となど簡単に接触するべきではない。そんな必要はない」などという、それこそ悪い意味で「権威的」な御姿勢をお取りになって、本当に必要な時にも信徒の心に「応える」ことを全然して下さらなければ、その時、立腹することにためらいを感じません(笑)
だから、「神父様」は「神父様」でいいんじゃないでしょうか。

チッとも、「ヒドイ話」ではないのではないでしょうか。お仲間の言った「しかも、神の父だもんね」という言葉の「神の父」とは、いったいどのような意味で言われたものでしょうか。聖マリアが「神の母」であるように、ちょうどそのような意味で神父様方が「神の父」であるということを、その呼称は指し示しているというのでしょうか。いったい信徒の誰が、そんなことを思っているのですか。私にとってはその単語は、ただ「神から委託された聖なるお仕事をこの地上で果たされている尊敬すべき方々であり、私達信徒がこの地上で天の御父の反映として慕って良い方々」というほどの意味、イメージです。誰が郡山司教様のことを「神の父」「主イエズスの父親」と思うでしょうか!

郡山司教様。それともう一つ、気になることがあります。この10月9日のブログの記事に、司教様は「いるいる賛同者」という表題を付けていらっしゃいます。そして本文ではこう書いていらっしゃいます-----「『あるある非福音』と題したアンケートをとると面白いかもしれない」。
司教様、教会の指導者の方々はいつから「信徒の賛同」をそんなに気にするようになったのですか。教会はいつからそんなに民主主義みたいになったのでしょう。-----アンケート!
そりゃ、信徒の声に耳傾けることは大事なことです。でも、それはあくまで信徒を正しい信仰に導く為です。そして「正しい信仰」とは、本来、「信徒の賛同があろうがなかろうが」の世界にある筈のものです。信徒の声を聞き、現代の様々な状況の中に生きる信徒達の心を正しい信仰に導く為に、色々な「司牧的な配慮(アレンジ、適応)」をすることは可能です。でも、そのようなことを司教様がお心に留めつつお仕事をなさる中で、信徒の「賛同」などという言葉を使うというのは不適当なことです。司教様は、信徒をよく信仰に導く為に信徒の声を懇ろに聞くことがあっても、それを信徒の「賛同」とか「反対」とかいう形で取り上げてはなりません。そのような言葉、表現が自然に口をついて出て来るようなご心境であってはなりません。司教様は第一に「神の声」を聞かなければならないお役目のお方、指導者です。単なる「座長」(意見の取りまとめ役)ではありません。有権者の顔色を気にする選挙候補者でもありません。司教様は神に選ばれたのです。形の上ではたとえ人に選ばれたように見えても、「教会」の中でいったんその位置に置かれた以上は、恵みも、そして責任も、事実、今、天から付与されているのです。(て... 私は司教様に何を「教えて」いるのでしょうか... (^^;;; 大汗  いや、ただ、私は、自分の中でこのようなことに全く疑問を感じないからというので、このような断定的な表現をしているに過ぎません。)


それから、最後に・・。
前日の10月8日の記事に、こうお書きになっています。

公会議後に誕生した新しい教会の命。日本教会に、信者の家庭に本当の活力をもたらしてほしい。

http://sdemo.net/pken/Blog/archives/2007/10/8

どうか司教様、こういう時は「日本の教会」と、「の」を入れて下さい(意識的なものか、無意識的なものか知らないけれども)。一、聖、公、使徒継承のカトリック教会の中に「日本教会」などと呼ばれるべきものは存在していません。(参照:2006年11月10日の日記 ....(^^;;; )


本格的に小教区教会に復帰しようとしている時に、早くもフラストレーション(笑)
でも、堪えなきゃならないのだな...

結局、愛そう。
郡山司教様、私はあなたを愛します。
生意気言って、ごめんなさい。


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