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2007-01-26 (Fri.) 本田哲郎神父様のこと

わかっている人はわかっている。だから、以下、書かなくてもいいような、読んで頂かなくてもいいような話。

本田哲郎神父様に関する記事を二、三読んでみた。

悪い人じゃないと思う。正直な人だ。
でも、宗教者としては、あまりにご自分の実感的なもの、体験的なもの、体感的なものに密着し過ぎだと思う。則を越えて密着し過ぎだ。

神父には、自分の人間としての実感や体験や体感に則して自分の人生やその歩み方を作っていく権利は、ないのか? ------- 否、そんなことはない。でも、「人間の経験には色々なレベルがある」ということを、分かっていて頂かないといけない。簡単に言えば、肉体的なレベル、心理的なレベル、霊的なレベル。

本田神父様は正直に告白している。

私は宗教者でありながら、祈りや瞑想によっても解放や救いの手応えが得られないという忸怩たる思いがありました。

そうしてある日釜ヶ崎を訪れて、何かが変わる。神父様にある種の心理的解放がもたらされる。「神は一番貧しく小さくされた仲間たちを選んで、その人たちを通して救いの力をすべての人に伝えようとなさる方だ」と思ったりもする。

神父様。私は、神父様のご体験にケチを付けるつもりはありません。その真実性は他者が推し量れるようなものではありません。このようなご体験自体は、神父様ご自身にとっては幸運なことだったのかも知れません。広い意味で言えば、これも神のお導きだったのかも知れません。しかし、同時に、神父様はこう思うべきだったのではないでしょうか。

これは心理的な体験だ。確かに幸いであった。私個人にとっては間違いなく大きな体験であった。でも、すべてではない。

神父様には当初、「祈っても実感が湧かない」というご苦悩と、神父様にその子供の頃から「良い子」を演じさせる心理的抑圧のようなものがありました()。そうして次に、釜ヶ崎で、その二つ共に解消されるような体験をなさいました。そして最後に、次のような地点にまで、神父様は行ってしまわれます。

私は、痛み、苦しみ、さびしさ、悔しさ、怒りを身をもって知る人はみな、本物の洗礼を受けていると考えています。

http://www.chugainippoh.co.jp/NEWWEB/n-interviews/Nint/n-d060909.htm

本田神父は野宿のおっちゃんが「洗礼を受けようかと思う」と相談すると、「やめとき」と答えるそうだ。「人間が小さくなるから」と。

http://blog.goo.ne.jp/kanayame_47/m/200605

なんじゃ、こりゃ.... (_ _;)

神父様。信仰とは、ある面確かに、「目に見えない神秘な世界に探りを入れること」です。人間にはなかなか分からない世界なので、確かに苦しいですよ。でも分からないからと言って、「実感」の点で乏しいからと言って、簡単に「洗礼なんか」と思っちゃいけませんよ....

例えば、飢餓やエイズに苦しむアフリカの人々のために、と日本で讃美歌を歌ってお祈りをしても、現実的な結果や効果はないわけですね。

つまり、「ただ祈ったって何になるか」ということですよね。神父様、これに確信がおありなのですか? 普通に言えば神父様、神父様のこのご発言は唯物論者のセリフですよ.... (_ _;;)

だから、オランダでいわれる信仰とか神の啓示とかは、第二バティカン会議のいう信仰とか啓示とはまったく別のものなのだ。「バティカン会議の精神」を掲げつつ、実は会議でいわれたのとは異なる教会と信仰が生まれてくるのである。啓示とは人間が歴史の中で積み重ねる体験、考えで、その表現は常に変化する。啓示は今も起り続けている経過である。だから聖書や聖書についての教会の解釈、伝承は信仰の規範ではない。それはわれわれの信仰体験を表現するときの参考以上のものではない。

澤田昭夫著『カトリシズム荒廃の教訓』

本田神父様の中で起こっていることは、これそのものですよ。神父様にとって「啓示」とは、神父様が釜ヶ崎で得た「体験」のことなのです。そして教会の教える「洗礼」についての教え(啓示)は、神父様の中で平気で脇に押しやられてしまいます。

神秘について、目に見えない次元の事柄について、神父様はもっと謙虚にならなければなりません。「神秘的な事柄についてあまりよく感じられないのは、私の霊魂のせいかも知れない」と思う謙虚さです。

人間的には、私は神父様のお気持ちがよく分かるのですよ。いえ、分かる気がするのです。だから、私が司祭だったら(あり得ないけど仮定の話として)、たとえばここに何か重度の心理的な抑圧とか外傷とかを背負った人が来たとします。すると私はその人が何とか楽になる道はないかと思って、信仰よりもカウンセリングとかその他臨床的な心理療法の方を勧めてしまうかも知れません(現に今、一部の神父様達が「癒し」などと言って、心理学に傾いています。私にはよく分かる気がするのです)。また、生活がニッチもサッチも行かなくなった人が来たとします。そしたら私は、「空の鳥を見なさい」と言うよりも、「市役所に行きなさい」と言うかも知れません。そして実際、そのようにすることの方が、信仰を勧めるよりも、目前の差し迫った問題を解決するには手っ取り早いかも知れません。しかし神父様、そうであっても飽く迄「これはこれ、それはそれ」であります。神秘の次元はまだ全くの手つかずです。

信仰はオカルトではありません。しかし、間違いなく「神秘」を扱うものです。そうでないとどうして言えるのでしょう。
神父様のお考えですと、「会衆の一人も参加しない御ミサなど、何の意味があるのか」ということに、きっとなるのでしょう。あるいは、この世界に溢れている罪を犯しまくりの人達のために(私自身その一人ですが)、「私は今日、好きなものを食べるのを我慢して、それを犠牲として天主様に捧げよう」と思うとします。本田神父様にとって、このような発想には何の意味があるのですか。無意味、自己満足、荒唐無稽の世迷い言、ですか。それでいいんですか、神父様。

人間は実感を、実効性を、目に見える結果を、手にしたいのです。しかも即時のそれを。祈りの結果が10年後にひっそりと出るのでは、かなわないのです。どうしても因果関係をはっきりと見たいのです。それは分かります。でも、信仰とは始めからかなりの程度、「見ずに信ずる者は幸いである」の世界であります。また、「目のある者は見るがよい、耳のある者は聞くがよい」の世界でもあります。だから、私達には、私達自身の霊的感受力の如何が極めて大きく問われているのです。

ですから、あまり目に見える結果に引かれて、心理学とか、行動とかに行かないで下さい。何とか霊的な視覚、センスを磨いて、「秘跡それ自体の価値」を見出して下さい。私達がそれを「計り知れない賜物」と実感できないのは、一重に私達が「鈍い」からかも知れないのです(聖人方を見て下さい。彼らが言うことを聞いて下さい)。そう思うのが、神父様、確かに一つの神の御前での謙虚さではありませんか。

それとも、あなたはすべてを知っているのですか?


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